神無月五日 曇りのち雨
食べ物を自分で作る。
自然の中で時間を過ごす。
自己満足に浸る。
こうした目的の他に、「自然農」だからこそ時間を費やせる理由がある。小生が「自然農」に惹かれ、人生の多くを費やしてもよいかなと思えているのはその理由があるからだと思っている。
今後、いつかどこかで自分をきっかけに「自然農」に触れる機会があった人に、そのことをしっかりと伝えたい、伝えることはきっと意味があるはずだと思い、今現在の自分の理由を考えてみることにした。
ひとつは、「食料問題について考えるきっかけを与えてくれる」こと。 食糧増産、安定供給、人口保持を旗印に当然のように使用されている「化学肥料」と「農薬」、そして「動力機械」。それはそれで歴史的、科学的に正しい。しかし、化学肥料、農薬は何からできているのか、原料、燃料の石油、鉱物は無限に存在するのか。商社が未来永劫、地球の裏側から(もしくはこの日本のすぐそばかもしれないけど)供給してくれるのか。もしくは科学技術が解決してくれるのか。石油、鉱物資源に変わる再生産可能な夢のような技術を提供してくれるのか。
「育てて、食べる」という、最も人間の原始的な「活動」が実はどんなに難しく、人類の叡智がいかに注ぎ込まれて来たか、私達はほとんど知る機会を失っている。しかし今までの農業の改善や進展(特に産業革命以降)の前提は、有り余る天然資源に依存することで成り立ってきた。その前提が今、成り立たなくなるかもしれない。(もちろん科学技術が解決してくれるかもしれない。)そこに、化学肥料、農薬、動力機械がなくても可能な農法はあるだろうか、という疑問が生まれる。そして、その答えのひとつが小生の出会った「自然農」なのであった。
自然農は、食料増産、安定供給、人口保持を解決してくれる答えではないだろう。しかしその根本的な存在基盤が危うい今、求めるモノが間違っているのではないだろうか、という疑問を与えてくれる。その先にある危機を考えるきっかけを、きっと与えてくれるはずだ。
ふたつめは、「マクロな地球環境をミクロな田畑で感じることができる」こと。 自然農の田畑は、ここの写真をみていただくまでもなく、他の草、虫(概観すれば生物達)といかに共存しながら目的の植物を育てるかというテーマにあふれている。畑にしゃがめば蜘蛛や虫たちが生存競争に明け暮れ、雑草は太陽エネルギーや空気中の炭素、微量元素を取り込みその体に貯め、そして刈った草は長い時間をかけて土に還り栄養となり、化学物質の残らない土には想像をはるかに超える多くの微生物群が存在する。その姿はまさしく、熱帯のジャングルであり、ユーラシアの大森林であり、日本の里山そのもののミニチュアであるとさえ言える。
人間にとっての自然はもちろん大自然そのままではないから、「栽培」という形をとる「自然農」が存在することにつながる。できるだけの自然環境を尊重しながらできるだけたくさん収穫物を得る方法を試行錯誤する。しかし目的は「収穫」のみにあらず、「共存」も同等に重んじてみる。そこで感じる思いや、感覚、知恵は、地球環境問題という目が眩みそうなマクロな問題を「直感」できるに違いない。
もっともっとあるはずでもあり、もっともっとシンプルな言葉にもしたい。伝える、伝わるのは簡単な事ではない。
今日のひとりごとのきっかけをくれた
友人に感謝。