江南での生活も残り一ヶ月となりました。最近デスクワークの日々が続き、作物の影が見えない田畑へは足が遠のくばかり。そんな土の上に冬の雨が落ちる。身を切るような冷たさの雨ではなく、寒さの峠を和らげるようなそんな雨が落ちる。育てるもののない畑、見知らぬ草に覆われはじめる畑、他の土を選ぶことによって、またこの土を雑草たちのもとに返すこととなる。からからに乾いた1月の土よりも雨に和らぐ2月の土が、心なしかいとおしく見えた。
注)記事の日付は太陰暦を用いております
2006年02月01日
2月の雨
睦月四日 雨
江南での生活も残り一ヶ月となりました。最近デスクワークの日々が続き、作物の影が見えない田畑へは足が遠のくばかり。そんな土の上に冬の雨が落ちる。身を切るような冷たさの雨ではなく、寒さの峠を和らげるようなそんな雨が落ちる。育てるもののない畑、見知らぬ草に覆われはじめる畑、他の土を選ぶことによって、またこの土を雑草たちのもとに返すこととなる。からからに乾いた1月の土よりも雨に和らぐ2月の土が、心なしかいとおしく見えた。
江南での生活も残り一ヶ月となりました。最近デスクワークの日々が続き、作物の影が見えない田畑へは足が遠のくばかり。そんな土の上に冬の雨が落ちる。身を切るような冷たさの雨ではなく、寒さの峠を和らげるようなそんな雨が落ちる。育てるもののない畑、見知らぬ草に覆われはじめる畑、他の土を選ぶことによって、またこの土を雑草たちのもとに返すこととなる。からからに乾いた1月の土よりも雨に和らぐ2月の土が、心なしかいとおしく見えた。
2006年02月03日
心の鬼
睦月六日 晴れ
節分。ぽかんと晴れた午前。散歩の時間を作って畑に足を伸ばす。春が生まれる前日のこの日の畑は、息吹きの可能性が雑草の下に隠れて満ち満ちているようだ。

収穫し忘れて取り残されている冬菜やラッキョウの少し目立つ緑色の周りに、薄茶色の雑草に覆われた亡き骸の層。陽気に誘われてその層をめくり、土に手をさしのばす。草は冷たいのに、土はほんのり温かく、ほこほこに柔らかい。その感覚に指先の記憶が敏感に反応する。あああ、しゃがんで草をさわり、土の柔らかさを確かめるこの姿勢を、なぜ僕は忘れていたのだろうか。何がしたくて今の生活をしているのか。この、自然農の、あまりに直感的な感覚に、魅了されたからこそではないのか。それは、ふるさとへ帰ったとき以上に心の中に安心感を与えてくれる優しい時間なのだ。
鬼は外、福は内、と一人で儀式をする必要はない。自分の心に潜む鬼は、怠け心と慣れ心なのかもしれない。帰り道、廃屋の板穴から首を出す野良猫に睨まれた。お前最近見かけなかったけどサボってたんじゃないの?と見透かされた気がした。

鬼を追い出して、初心を思い出してみる。
自然農の土が、草が、太陽の匂いが、大好きなんだということ。
節分。ぽかんと晴れた午前。散歩の時間を作って畑に足を伸ばす。春が生まれる前日のこの日の畑は、息吹きの可能性が雑草の下に隠れて満ち満ちているようだ。


収穫し忘れて取り残されている冬菜やラッキョウの少し目立つ緑色の周りに、薄茶色の雑草に覆われた亡き骸の層。陽気に誘われてその層をめくり、土に手をさしのばす。草は冷たいのに、土はほんのり温かく、ほこほこに柔らかい。その感覚に指先の記憶が敏感に反応する。あああ、しゃがんで草をさわり、土の柔らかさを確かめるこの姿勢を、なぜ僕は忘れていたのだろうか。何がしたくて今の生活をしているのか。この、自然農の、あまりに直感的な感覚に、魅了されたからこそではないのか。それは、ふるさとへ帰ったとき以上に心の中に安心感を与えてくれる優しい時間なのだ。
鬼は外、福は内、と一人で儀式をする必要はない。自分の心に潜む鬼は、怠け心と慣れ心なのかもしれない。帰り道、廃屋の板穴から首を出す野良猫に睨まれた。お前最近見かけなかったけどサボってたんじゃないの?と見透かされた気がした。

鬼を追い出して、初心を思い出してみる。
自然農の土が、草が、太陽の匂いが、大好きなんだということ。
2006年02月07日
積み重ね
睦月十日 雪のち曇り
前日、大家さんと談笑し、春が遅いことに気づく。昨年の今ごろは、梅が花をつけていた。今年の梅には、ひとまず雪の花が咲いた。

梅の花が気になりだす頃になると、いつもは鼻のあたりがムズムズしだすことをふと思い出す。飛散量が少ないと言われる今年のスギ花粉であるが、花粉が飛び始める時期も例年より遅いと言われている。その遅さはやはり、梅の花の遅さと関係しているのだろう。
先日TVで見た情報に面白い話があった。スギ花粉の飛散開始には気温という条件が必要であるのは感覚的にも知覚的にもわかっていたが、その気温を杉は「積算」していることは知らなかった。
ネットで見つけた情報によれば、『最高気温積算値とは、1月1日からの最高気温(℃)を毎日加算した値のことで、この合計が300℃を超えるとスギ花粉が飛散を始めます。400℃を超えたら要注意、500℃になったら危険です。』とのこと。つまり杉の木は、毎日の気温を体内に記憶し、その気温の積み重ねから春の「量」を計って自らをコントロールしているのだと推測できる。
今まで、植物の持つ季節認識能力に対して「漠然と」感じていると思っていたのだが、実は緻密な体内での「記憶」から導き出しているのかと想像すると、どことなく敬意のようなモノすら覚えてくる。もちろん、杉の木が「1月1日」がいつかなどということがわかる筈はないので、上記の説明はあくまでも人間サイドの科学的計算式であり、杉には杉の積算方法があるのだろう。こうした植物の「気温積算」という性質は、成長の速度に関わるためか他の農作物の分野でも研究されているようで、杉に限ったものではないことは言うまでもない。
もちろん、梅もしかり、桜もしかり、そして我が友の雑草達も、その体に備わった神秘の能力をもって春を知るのであろう。今年は、少しのんびりのようだね。
※今春のスギ・ヒノキ科花粉飛散予測:東京都公式HPより
・・・今年も、もちろんやってくるのだよね。
前日、大家さんと談笑し、春が遅いことに気づく。昨年の今ごろは、梅が花をつけていた。今年の梅には、ひとまず雪の花が咲いた。

梅の花が気になりだす頃になると、いつもは鼻のあたりがムズムズしだすことをふと思い出す。飛散量が少ないと言われる今年のスギ花粉であるが、花粉が飛び始める時期も例年より遅いと言われている。その遅さはやはり、梅の花の遅さと関係しているのだろう。
先日TVで見た情報に面白い話があった。スギ花粉の飛散開始には気温という条件が必要であるのは感覚的にも知覚的にもわかっていたが、その気温を杉は「積算」していることは知らなかった。
ネットで見つけた情報によれば、『最高気温積算値とは、1月1日からの最高気温(℃)を毎日加算した値のことで、この合計が300℃を超えるとスギ花粉が飛散を始めます。400℃を超えたら要注意、500℃になったら危険です。』とのこと。つまり杉の木は、毎日の気温を体内に記憶し、その気温の積み重ねから春の「量」を計って自らをコントロールしているのだと推測できる。
今まで、植物の持つ季節認識能力に対して「漠然と」感じていると思っていたのだが、実は緻密な体内での「記憶」から導き出しているのかと想像すると、どことなく敬意のようなモノすら覚えてくる。もちろん、杉の木が「1月1日」がいつかなどということがわかる筈はないので、上記の説明はあくまでも人間サイドの科学的計算式であり、杉には杉の積算方法があるのだろう。こうした植物の「気温積算」という性質は、成長の速度に関わるためか他の農作物の分野でも研究されているようで、杉に限ったものではないことは言うまでもない。
もちろん、梅もしかり、桜もしかり、そして我が友の雑草達も、その体に備わった神秘の能力をもって春を知るのであろう。今年は、少しのんびりのようだね。
※今春のスギ・ヒノキ科花粉飛散予測:東京都公式HPより
・・・今年も、もちろんやってくるのだよね。
2006年02月15日
喝
睦月十八日 晴れ
お昼が暖かい。いやがおうにも心が浮ついてしまう。焦る気持ちの一方で、今の自分の足元につまづく毎日。
自分の本来の居場所とは違うことでのトラブルというのも、生きていれば必ずあり、しかし突き詰めれば自分の問題でもあるとわかりながらも、「逃げ」と「勝負」のはざまでなんとなくくすぶってしまう。くすぶりは、こうした愚痴のような文章となり、3月からの新しい試みの停滞にも表れてしまっている。
自然農を中心においた生活を、自分の本来の居場所として定めることは容易くないことなのはわかっている。しかしその選択をすることで、自分の人生に責任をもって生きることができるのだとしたらそれは何物にも換え難い選択である。
誠意が人より足りないと思われる自分は、範囲と量を限定して、誠意を伝える生き方を選びたい。その一つが、今後の取り組みであることを願う。
勝負せんかい!インチキ野郎!!
と、今日は自分に一喝。
お昼が暖かい。いやがおうにも心が浮ついてしまう。焦る気持ちの一方で、今の自分の足元につまづく毎日。
自分の本来の居場所とは違うことでのトラブルというのも、生きていれば必ずあり、しかし突き詰めれば自分の問題でもあるとわかりながらも、「逃げ」と「勝負」のはざまでなんとなくくすぶってしまう。くすぶりは、こうした愚痴のような文章となり、3月からの新しい試みの停滞にも表れてしまっている。
自然農を中心においた生活を、自分の本来の居場所として定めることは容易くないことなのはわかっている。しかしその選択をすることで、自分の人生に責任をもって生きることができるのだとしたらそれは何物にも換え難い選択である。
誠意が人より足りないと思われる自分は、範囲と量を限定して、誠意を伝える生き方を選びたい。その一つが、今後の取り組みであることを願う。
勝負せんかい!インチキ野郎!!
と、今日は自分に一喝。
2006年02月19日
溶け行く
睦月二十二日【雨水】 曇り
朝起きて、軽バンのフロントガラスが霜に覆われることはほとんどなくなった。凍る季節から、溶ける季節へ。気づけば3月まであと十日となった。
暦は雨水(うすい)。生命の雨水(あまみず)が、今年も我々を育む。
【雨水】…陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也(暦便覧)
雨水とは「雪散じて水と為る也」(「暦林問答集」)とあるように、
今まで降った雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降るという
意味である。この頃、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽のきざし
が見えてくる。昔より、農耕の準備などは、この雨水を目安として始
めるとされてきた。
※読み:ウスイ
<参考:【室礼】和のこよみ>

朝起きて、軽バンのフロントガラスが霜に覆われることはほとんどなくなった。凍る季節から、溶ける季節へ。気づけば3月まであと十日となった。
暦は雨水(うすい)。生命の雨水(あまみず)が、今年も我々を育む。
【雨水】…陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也(暦便覧)
雨水とは「雪散じて水と為る也」(「暦林問答集」)とあるように、
今まで降った雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降るという
意味である。この頃、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽のきざし
が見えてくる。昔より、農耕の準備などは、この雨水を目安として始
めるとされてきた。
※読み:ウスイ
<参考:【室礼】和のこよみ>
先日訪れたつくばの新天地の概観を一枚。

育む土地へ、まもなく。
2006年02月20日
憎い奴
睦月二十四日 曇りのち晴れ
ぐっと冷え、ほっと温(ぬく)もる。そんな数日が続いている内に、懐かしい顔にちらほらと出会うようになった。
うれしい顔の代表は、家の裏の白梅。艶やかな赤黒いほどの精気が詰まった蕾を張らせて潜んでいたかと思うと、お先にお先に、と人を置いていくように花を開かせてゆく。その顔がたまらなく美しい。
憎たらしい顔の代表は、言わずもがな、日本中の老若男女を惑わすスギ花粉。いつ来るかいつ来るかと、もはや自分の花粉アンテナが恨めしいほどに敏感になっていた先週、東京の地でついにレーダーは反応してしまった。東京行きの電車に揺られて駅の扉を降りたその瞬間、9ヶ月間ご無沙汰していた憎いアンチクショウが、人より少しだけ大きい鼻の穴に飛び込んできた。そして悲しい生体反応が鼻腔内で激しくスパークし、3ヶ月続く鼻水の嵐が幕を開けることになったのだった。
大都会の花粉症の皆様、スギ花粉は、アスファルトやコンクリートの上では決して消えることなく雨に流されて排水溝に去っていくまでずっと滞留し、風によって常に舞い上がっています。また、花粉症の症状は排気ガスやスモッグなどの化学物質の吸引を伴うことで症状が強くなるとも言われております。杉の林が並ぶ田舎では、田んぼや畑に花粉が落ちると湿気とともに腰をおろしてしまって都会に比べて相対的な花粉量はむしろ少ないとも考えられます。もちろん、排気ガスなど比べるまでもありません。とりわけ自然農の田畑は植物が土を覆っているために常に湿り気があり、花粉の落ち着き度は他の農法の畑に比べても高いと言えると思われます。(…かなりの我田引水かな。)
そんな訳で、自然農って花粉症の人のちょっとした気休めにもなるんだー、というまるきしインチキな宣伝記事でした。
ここから本音
ぐっと冷え、ほっと温(ぬく)もる。そんな数日が続いている内に、懐かしい顔にちらほらと出会うようになった。
うれしい顔の代表は、家の裏の白梅。艶やかな赤黒いほどの精気が詰まった蕾を張らせて潜んでいたかと思うと、お先にお先に、と人を置いていくように花を開かせてゆく。その顔がたまらなく美しい。
憎たらしい顔の代表は、言わずもがな、日本中の老若男女を惑わすスギ花粉。いつ来るかいつ来るかと、もはや自分の花粉アンテナが恨めしいほどに敏感になっていた先週、東京の地でついにレーダーは反応してしまった。東京行きの電車に揺られて駅の扉を降りたその瞬間、9ヶ月間ご無沙汰していた憎いアンチクショウが、人より少しだけ大きい鼻の穴に飛び込んできた。そして悲しい生体反応が鼻腔内で激しくスパークし、3ヶ月続く鼻水の嵐が幕を開けることになったのだった。
大都会の花粉症の皆様、スギ花粉は、アスファルトやコンクリートの上では決して消えることなく雨に流されて排水溝に去っていくまでずっと滞留し、風によって常に舞い上がっています。また、花粉症の症状は排気ガスやスモッグなどの化学物質の吸引を伴うことで症状が強くなるとも言われております。杉の林が並ぶ田舎では、田んぼや畑に花粉が落ちると湿気とともに腰をおろしてしまって都会に比べて相対的な花粉量はむしろ少ないとも考えられます。もちろん、排気ガスなど比べるまでもありません。とりわけ自然農の田畑は植物が土を覆っているために常に湿り気があり、花粉の落ち着き度は他の農法の畑に比べても高いと言えると思われます。(…かなりの我田引水かな。)
そんな訳で、自然農って花粉症の人のちょっとした気休めにもなるんだー、というまるきしインチキな宣伝記事でした。
ここから本音
2006年02月23日
三度目
睦月二十六日 晴れ
あたりを歩くと、乾いた水田の土に鮮やかに緑の若葉が整列している風景が並ぶようになった。小麦の葉がいよいよ春を彩り始めている。一方、武蔵野自然農園の畑にも「農」ではない春が彩り始める。

ここに移ってから三度目の、ホトケノザと、オオイヌノフグリの息吹き。目線を足元から畑全体に移す。区画をした通り道も、米ぬかを補い続けた痩せ地も、もう少しでお別れ。我が子とまではいかないものの、また荒れ地に戻るかもしれないこやつの行く末に、ものさびしさとやり残した気分が交錯してしまう。
どなたか、江南のこの地で、自然農をされる方いないかなあ。と、ボソボソボソリ。
あたりを歩くと、乾いた水田の土に鮮やかに緑の若葉が整列している風景が並ぶようになった。小麦の葉がいよいよ春を彩り始めている。一方、武蔵野自然農園の畑にも「農」ではない春が彩り始める。

ここに移ってから三度目の、ホトケノザと、オオイヌノフグリの息吹き。目線を足元から畑全体に移す。区画をした通り道も、米ぬかを補い続けた痩せ地も、もう少しでお別れ。我が子とまではいかないものの、また荒れ地に戻るかもしれないこやつの行く末に、ものさびしさとやり残した気分が交錯してしまう。
どなたか、江南のこの地で、自然農をされる方いないかなあ。と、ボソボソボソリ。