注)記事の日付は太陰暦を用いております

2008年07月26日

剛毛 vs 無毛

水無月二十四日 曇り

 昨晩の雷雨が嬉しくて寝坊にも負けずに朝から田んぼと畑をぐるぐると見回った。一時しのぎの通り雨ではあったが、寝起きの草達は、沁み込むように水飲みをしているように思えた。田んぼも、畑も。

 自然農の畑に草がある。これは当たり前の風景である。田んぼにも、畑にも、作物があり、そして隣り合いながら雑草が生えている。言い方を変えれば、生きている。生き方や住む場所が千差万別なのは人間も動物も植物も同じであり、それは田んぼも畑も千差万別であることを意味する。そして草の生え方、育ち方、つまりは土の様子や性格も千差万別を数える。

 この地の田畑に移って半年以上が過ぎ、しかしまだ一巡りも過ぎてはおらず、初めての田畑には幾度となく驚き、悩み、喜び、あきらめ、そして、ひたすらと時間が過ぎていく。そのなかで、自分があれこれ手を加えることと、自然にただ任せることが、相反することではなく同義であるなんだという思いが備わってくるようになってきた。初めての場所、個性ある土と草を目の前にすると、あれやこれやと手を出して、自分の思うような田畑に変えていきたいと欲張り、そしてすべからく空回りして呆然とする。一方で、もうやってられるか、と自然農の放任主義を都合よく解釈して草の生えるに任せていると、やがて諭されるかのように、取り返しがつかないほどの大繁茂の雑草たちに愕然とする。

 自然農の肝要は、もしあるのだとしたら、それは「土と草を見る」ことなのではないかと思う。土も見ず、草も見ずに、自然農のテキストや耳学問の作法をこなしてみても、それはただ自然農の真似事をしているだけであり、自然でもなければ、農でもない。一番奥底に隠されている秘宝には決して触れられずに、自然のもつ通り一遍な厳しさを、もしくは運良くお手軽な収穫体験を体験できるだけで、それで終わってしまう。それに甘んじたくないのだとしたら、その先の入り口は、いつも目の前にある、「土と草を見る」ことにあるのではないかと思う。

 今自分の対面している畑は、極端に言えば二つの極相に分かれている。数年間、雑草抑制の為のトラクター耕運を繰り返されて、雑草の命が極端に少ない「無毛の畑」。そしてその隣には、芝畑の放棄地にセイタカアワダチソウやススキが犇いて土中にその根が絶望的に伸張している「剛毛の畑」。


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 無毛の畑には、草が圧倒的に少ない。野菜の種を播く際も、被せる草もはるかに少ない。草がない土は、乾燥が速く、乾燥してゆく土は次第に固く締められてゆく。作物は苦しそうに窮屈に育ち、さらに栄養分も少ないためか、成長は心もとない。固さをほどくためには、また人為的に耕起するか、もしくは粘り強く移り住み始める雑草たちの根が耕すのを待つかの選択だろう。そのプロセスに待ちきれずに耕起をすれば、それは終わりのない人為的耕運のスパイラルを続けることになる。数年の間、草を生やすことができなかった土は、そこに住み交う虫も微生物も圧倒的に少ない。なぜなら、そこに住処も食べ物もないから。しかし、ある種は生き残り、ある種はいずこより飛来し、草が生え、根づいてゆく。いつしか土は和らぎ、虫が住み、微生物が根に宿る。枯れ葉は土に落ちて優しい布団を被せ、その亡骸が次の命の力に繋がってゆく。その繰り返しが、畑を小宇宙に近づけてゆく。愚農ができることは、雑草が増えてくれることを待つこと。時には隣の雑草畑の刈り草を入れ、収穫後の残渣を入れ、米糠を振り、急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、待つこと以外にない。




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 剛毛の畑には、作物が育つ隙間がない。超絶に地中に張り巡らされたススキ、セイタカアワダチソウ、芝の根は、アレロパシーという武器で作物を襲う。アレロパシー(多感作用)とは、【植物が成長の場を確保するために、根や葉などから他の植物の生長を抑制する物質を分泌する現象】とされ、根に隣接する植物に強い影響を与える。事実、作物は伸び伸びと生育を謳歌することなく小さく留まるか、もしくは息切れしたかのようにいつの間にか姿を消してしまう。アレロパシーの性格を持つ雑草たちに負けない畑にするには、どうすればよいか。一つは、耕起して彼らの根を裁断し枯れさせ、時には焼却し、根絶やしにすることもできる。そんな衝動と行動はたしかに魅力的である。もしくは別の手段があるとすれば、それは根気を絶やさずに草を刈り続けることである。彼ら強勢力の草達は、押しなべて「宿根草」という性格を持っている。つまり、土の上に繁茂すると同時に土中にその根を伸ばし、さらにその根を来年の為の貯蔵庫としてさらなる繁殖の基地を築くのである。この時、自然農の最大の友であるはずの「根っこ」が、作物にとって最大の敵となるのだ。しかし相手は無敵ではない。宿根草はその根を根城に発芽し、その後地上に出た後は光合成で大きくなるプロセスを踏む。であれば、こまめに執念深く、伸びては刈り、伸びては刈りを続けることで、根城の栄養素は次第に枯渇し、かつ光合成によって次世代の新根を伸ばすという隙をあたえず、いつしかかの宿根草たちも勢いを失ってゆくのだ。その間に逞しき他の無限の雑草達がいつの間にか住処を増やし、草の種類の増えた土は生命が豊かになり、作物もその中で育ってくれる畑に近づいてゆく。愚農ができることは、宿根草の根がギブアップするまで草を刈り続けること。時には鍬を振って耕起しつつ、堪忍袋が切れて焼き畑だってしてみながら、宿根草の減退を急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、刈り続ける以外にない。


 土と草を見て、語られている姿に目を凝らし、少しだけ自然のプロセスを勉強して、何をすべきか考える。その千差万別にあわせて自分と自然の間に立つ面白さが、自然農のとてつもない魅力であり、原点でもある。 時には裏切られ、時には褒美をいただき、翻弄と着実が同居する営み。自然と人間の交わる真理を容赦なく突きつける、自然農の醍醐味がそこにある。





 閑話休題。本日配布の常陽リビングに、雑草屋を扱った記事が掲載されました。記者のEさん、素敵な文章ありがとうございます。そういえば今年のテーマは「着根」でした。宿根草とまではいきたくないけど、根っこを伸ばして少しずつ。そんな思いを新たにして。
posted by 学 at 14:21| Comment(7) | TrackBack(0) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする