注)記事の日付は太陰暦を用いております

2009年08月14日

自戒

水無月廿四日 晴れ

 立春を心身的な年の始まりとして感じるようにしてみると、8月の立秋を迎えるとようやくひと年も折り返しに差し掛かった気持ちになる。昼はヒグラシの声が目立ち始め、夜には初秋の虫の声が鳴き始める。

 今年もまたひとつ歳を重ね、少ない知人からありがたいお祝いをいくつか戴いた。子供の頃から夏休みと重なっていたためにこの季の誕生日を恨めしく思っていたことも懐かしいが、今となって立秋と自身の節目が重なることを意識するようになったことをとても喜ばしく感じてしまう。

 梅雨のことであったり、日照不足のニュースであったり、なんたらかんたらと様々に農の現場からの「嘆き」を期待するような声が聞こえるが、自身の農へのスタンスはそんな一喜一憂に踊らされたくもないし踊るつもりもない。それが自然農というものであろう。自然農の畑にはじめて足を踏み入れてからこの夏でまる七年が過ぎようとしている。もう七年が過ぎ、そしてまだ七年しか経験できておらず、それ以上もそれ以下でもない。自分は何かやってこられたようにも思え、これまでにも出来る事以上の何かをしようとしてきたのであるが、この夏を迎えて改めて思うことは、自分自身の姿をそれ以上に見せる必要も見る必要もないのではないかという思いである。

 できることしかしないのではなく、できることをできるぶんだけ、おのれをまっとうすること。その微妙なバランスから外れるたびに、後悔と、自己否定と、疲労を抱える事になる。やりたいことはたくさん出てくるが、焦る必要もない。行動の際に、自己に鍛えてきた力が備わっていればそのあとには消極的な経験は訪れない。成功や失敗という結果を超えて、積極的な経験という果実が待っている。自分の力を誇張して取り組んだ行動は、結果も経験も、ひとまずは自分を落ち込ませるものになる。

 雑草屋やつくし農園という名前を背負ってなんとなく自分が少し大きくなったかのように思い、自分の行動範囲を過大評価してしまっていたようなこの半年。いま一度初心と自身を見つめなおして頭と心をクールダウンしてみたいと思う。それは具体的な生活でもあり商売でもあり、朝起きて夜寝るまでの一日一日でもある。


 どんな社会も通念も暮らしも将来も、自分自身の一歩と身の回りの一日からしか産まれない。日本が、世界が、穏やかにと願う全く同等に、自分のごく近しい幸せを第一に願うことをよしとしたい。明日の8月15日を粛々と過ごし、この日本の在りし連綿の歴史に感謝と敬意を。そのなかにあって大自然の見事な摂理を表現する自然農の田の見事な成育に畏怖と希望を。

 誰に向けてでもなく、自分に向けて。隣にいる大事な命に向けて。 



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 〜雨風の 青人草に降りたるを 盛夏の日にぞ 喜ばしける〜

posted by 学 at 21:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月22日

過ぎる

文月三日 晴れ時々曇り

 空が暗くなる前に家に戻り、水シャワーを浴び、麦茶を飲む。薄暗さが庭を包む、酉の刻、暮れ六つ。時計を見ると18時半である。随分と日が縮んだなと、暦を見ると明日から処暑を迎える頃になっていた。夏至の頃には20時近くにようやく暮れていたものだが、いつのまにか秋分が近くまで来ているのだ。

 土曜日は畑が農園仲間で賑わう。午前に二人、午後に五人、三々五々に帰来する。夏はまだまだ手強いもので、正午からは昼寝をきめて涼気を待つ。パラソルの影が動いて寝顔に陽が当たり始めたらそろそろ作業どき。朝夕の作業、昼のシエスタ、だんだんその間隔が狭まってきたな。夏が、過ぎているのだな。


 プレーヤーの方のメールに、「風に稲が揺れて」との一行。分蘗した株が、過ぎる夏の風に揺れるのだ。この季節の風物詩なのだ。遠くに花火大会の音がこだましている。明日は旧友たちと花火遊び。東京はまだ暑苦しいのかな。そわそわ。



江戸時代の時間
 …正午、おやつの由来など、昔の時間について簡略明解に解説。
posted by 学 at 19:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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