立春を心身的な年の始まりとして感じるようにしてみると、8月の立秋を迎えるとようやくひと年も折り返しに差し掛かった気持ちになる。昼はヒグラシの声が目立ち始め、夜には初秋の虫の声が鳴き始める。
今年もまたひとつ歳を重ね、少ない知人からありがたいお祝いをいくつか戴いた。子供の頃から夏休みと重なっていたためにこの季の誕生日を恨めしく思っていたことも懐かしいが、今となって立秋と自身の節目が重なることを意識するようになったことをとても喜ばしく感じてしまう。
梅雨のことであったり、日照不足のニュースであったり、なんたらかんたらと様々に農の現場からの「嘆き」を期待するような声が聞こえるが、自身の農へのスタンスはそんな一喜一憂に踊らされたくもないし踊るつもりもない。それが自然農というものであろう。自然農の畑にはじめて足を踏み入れてからこの夏でまる七年が過ぎようとしている。もう七年が過ぎ、そしてまだ七年しか経験できておらず、それ以上もそれ以下でもない。自分は何かやってこられたようにも思え、これまでにも出来る事以上の何かをしようとしてきたのであるが、この夏を迎えて改めて思うことは、自分自身の姿をそれ以上に見せる必要も見る必要もないのではないかという思いである。
できることしかしないのではなく、できることをできるぶんだけ、おのれをまっとうすること。その微妙なバランスから外れるたびに、後悔と、自己否定と、疲労を抱える事になる。やりたいことはたくさん出てくるが、焦る必要もない。行動の際に、自己に鍛えてきた力が備わっていればそのあとには消極的な経験は訪れない。成功や失敗という結果を超えて、積極的な経験という果実が待っている。自分の力を誇張して取り組んだ行動は、結果も経験も、ひとまずは自分を落ち込ませるものになる。
雑草屋やつくし農園という名前を背負ってなんとなく自分が少し大きくなったかのように思い、自分の行動範囲を過大評価してしまっていたようなこの半年。いま一度初心と自身を見つめなおして頭と心をクールダウンしてみたいと思う。それは具体的な生活でもあり商売でもあり、朝起きて夜寝るまでの一日一日でもある。
どんな社会も通念も暮らしも将来も、自分自身の一歩と身の回りの一日からしか産まれない。日本が、世界が、穏やかにと願う全く同等に、自分のごく近しい幸せを第一に願うことをよしとしたい。明日の8月15日を粛々と過ごし、この日本の在りし連綿の歴史に感謝と敬意を。そのなかにあって大自然の見事な摂理を表現する自然農の田の見事な成育に畏怖と希望を。
誰に向けてでもなく、自分に向けて。隣にいる大事な命に向けて。

〜雨風の 青人草に降りたるを 盛夏の日にぞ 喜ばしける〜