葉月一日 曇り
短いようで長かった文月が過ぎ、今日から葉月。
少しばかり、畑から足が遠のき、田んぼの稲は任せるままにし、遠のくことで、また想いを新たに。畑で何が起こっているか。土はいまどんな状態なのか。虫は、微生物は、生きているか。草は、今なにが生えているか。野菜は、何故育たないのか、そして何故育つのか。考えず、見る。見て、手を動かす。動かして、待つ。待って、感じる。感じれば、ひとつ、体に染み込む。それをすることを忘れて、スピードと、効率と、目の前の結果と、何か「形あるもの」に目を奪われて、そして足踏みしていた。田畑から足が遠のいてしまうほどに。
自然農の田畑では、その足踏みの最中でも草と虫が絶えず生き巡っている。常に動的平衡を保つ生命活動と同様に、人間や山羊や、その他のあらゆる生命と同様に、動き続けている。その中での安定を、野菜の収穫を、文明生活とのバランスを、築いていこうという試みが自然農である。
見ること。心が揺れる試行錯誤を受け入れて何事もやってみること。田畑に足を運ぶこと。感性と実践とあと少々の読書で、己を潤せ。
〜秋の野に 朱色を灯す 石勺柏(アスパラガス)〜
なにしようかな。枯れ草堆肥も入れてみようか。ちょっとは耕す部分も試そうか。自分には何を投入しようか。家にある本全部読みたい。でも、少しずつ。でも、全部やりたい。もう一度、再スタート。こうした独り言は、時に必要なのだ。
注)記事の日付は太陰暦を用いております