葉月三日 曇り時々雨
盆にふるさとのいわきへ帰り、祖父母の墓参りと重ねていわきの被災地へ足を運んだ。帰省から半月ほど経ってしまっているが、なるべく私情を挟まず、訪れた地をその日の時系列のままに写真とともに記載することとする。(写真は全て、クリックすると拡大表示されます。)

出発前。父がアルバイトで相馬市での現場仕事に就いているため、我が家に放射線カウンターが備えられていた。中国製のその機械は、居間の食器棚の上に置かれ、0.23μSv/hを示している。目まぐるしく数秒ごとに数値は動いていたが、この数値がこの時間帯ではほぼ最大値であった。庭もほぼ、変わらぬ数値であることが確認された。
家のある小名浜から北上し、小中学生時代に海遊びに出かけた、永崎、江名、豊間を海岸線に沿って車を走らせた。港町に印された被害の爪あとを目に焼きつけるしか術はなく、浮かぶ言葉が見つからぬまま、美空ひばりの碑で名が知られている塩屋崎灯台にほど近い海沿いの集落に車を停めた。津波によって破壊された家や既に取り壊されて基礎のみが残された跡地が、茂る夏草の中に並んでいる。

道路からの光景。家の向こうは海。通りから見える家の壁には、「解体撤去」の意向を伝える記述がある。

戸窓を失った家屋の中には、生活の名残りをそのままにした食器類や家具類が床板の上に散乱している。奥は砂浜。堤防が破壊され、黒い袋の土嚢が応急の防波堤として並べられていた。

土塁の防波堤を越えると海岸線が広がっている。小生が子供の頃に訪れた海水浴の風景は今年は見られない。岬の上には塩屋崎灯台が臨む。
灯台を過ぎ、薄磯地区へ。海に面したこの地区は、津波によって町のほとんどの家屋が壊されていた。豊間中学校の校庭に山積みに築かれた瓦礫の岡は、屋外プールにまで迫っている。生徒の姿はもちろん、住民の生活する様子はほとんど想像できない。瓦礫屑のあまりの存在には、撤去という言葉すらまだまだ現実的に考えることが難しそうに思われてしまう。

瓦礫の奥に見える校舎の時計は、17時25分のあたりで止まっているようだった。津波のせいなのか、停電のせいなのか、もしくは単なる電池切れなのかは、小生にはわかるよしもない。
北上を続ける途中の県道に、セブンイレブンが営業していた。恐らく津波によって四方の壁を流され、店舗としてほぼ機能不全であるにも関わらず、移動販売のトラックの中には冷蔵・冷凍商品が並べられ、店舗の中には野菜や雑貨類が手販売で陳列されている。

普段のコンビニとは縁遠い、生鮮野菜がダンボール箱で売られている。がらんどうの天井には、「がんばっぺ とよま」の掛け幕が下げられていた。

タバコも、おにぎりも、サンドイッチも、アイスも、店主の意気とセブンイレブンの協力体制によって街道の往来客へ用意されている。外壁が失われた店内の中で笑顔で迎えてくれた店員さんの制服姿が、鮮烈に印象に残っている。
誰が置き、描き始めたのかはわからないが、傷跡の残る公衆電話の横に立つ「がんぱっぺ いわき」と書かれた石のようなオブジェ。その奥の店舗の中には、写真やメッセージが並べられた寄せ書きのダンボール紙が立て掛けられていた。
同じように痛みが残る街道沿いを走らせながらいわき市をさらに北に抜け、国道6号線で行けるところまで車を進めてみた。東京電力広野火力発電所のある広野町と、その北の楢葉町との町境にある「Jヴィレッジ」の入り口で、警備員の方たちによって国道は封鎖されていた。福島第一原発までおよそ20kmのところで、車を引き返すことになった。
持参した放射線カウンターを数分ほど手元で確認すると、最低で0.24μSv/h、最高値は0.71μSv/hを示した。
Uターンして、市内を国道6号に沿って南下する。津波の後に火災が広がった久ノ浜駅周辺を過ぎ、四倉へ。震災以前は国道沿いの道の駅としていわきの新鮮な山海の幸を扱っていた
「道の駅 よつくら港」。

港に面したこのエリアには、津波で打ち上げられた漁船が空き地にまとめて並べられ、海に戻ることなく風雨に晒されている。漁船の並ぶ隣の空き地には、恐らく同様に津波によって破損した乗用車がむごたらしい姿で集められている。
道の駅では復興を願って屋台、フリーマーケットのテントが並び、多くの市民で賑わっていた。店舗の中には残念ながらいわき産の新鮮な海の幸は並べられていないが、野菜や果物、加工品を扱う人々の顔は明るく、売り子の声が高らかに響いていた。

店舗の前の催事スペースに、震災犠牲者の方々に手向ける碑が祀られている。主催者からの呼びかけで菊の花が手渡され、訪れた市民が顕花とともに祈りを捧げていた。
いわき市の中心地の平地区から南に下り、住宅地として拓かれた中央台へ入る。震災後、もともと開発予定地とされていた地区に、避難者用の仮設住宅が用意されたという。プレハブ式のモノではなく、地元の住宅会社の意向によってらしく、木材を使用した仮設住宅が広大に建てられていた。
仮設住宅での被災した方たちの生活を想像することは易しくはないが、外観として木材の住居が与えてくれた、存外の暖かみに小さな感動を覚えた。
中央台を離れ、結果いわき市北部の海沿いを一周して、小名浜へ戻った。港湾都市として栄えた時期ははるかに過ぎ、漁港と水族館の町としてこの20数年を迎えていた故郷。シンボルとしての水族館
「アクアマリンふくしま」は津波により大きな打撃を受けたものの、7月15日に再オープンを実現させた。周辺の魚市場、物産店も大きな被害を被り、従来の観光客がまだまだ望めない状況は厳しいものの、それでも少しずつの歩みを止めずに前を向いて進んでいる。
周囲の土産物店舗では「11月完全再オープン」の表示が掲げられていた。漁港の水揚げは、つい先日に遠洋漁業としてカツオの初揚げがされたばかりの小名浜港。福島第一原発の影響による規制がいつあけるかは誰も予断はできないが、地元の人々は、いわきでとれる海の幸を心待ちにしている。
実家の自家用車に張られたステッカー。故郷の全ての人たちの思い。
その夕、送り火を祖母の家の前で焚き、今年の盆に里帰りされた人々をせめてもの気持ちでお送りした。明日から9月。気がつけば震災から、半年を迎えようとしている。