注)記事の日付は太陰暦を用いております

2012年02月11日

たぬき

睦月廿日 晴れ

第二候:立春時候
【黄鶯睍v(こうおうけんかんす)】
=鶯が山里で鳴き始める頃=
(新暦2月9日頃〜2月13日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


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紀元節にて 一ノ矢八坂神社の隆々たる杉の近影



 朝、山羊の粟子を家裏の笹の茂みに結わえて食事をさせ、集合日の準備を進める。2012年度のつくし農園が今日からスタート、試み新たにする進行への緊張や、今年もご参加くださるプレーヤーの方々への緊張や、昨日の就寝前の少々の残り酒などが混ざっての、霜柱がキンと立つ気持ちよい朝を迎えた。

 年度始め恒例の、プレーヤー皆さんとの9時50分からの一ノ矢八坂神社への参詣の時間が近づき、作業荷物をまとめ、笹薮から山羊を小屋へ連れ戻す。その時、主のいない小屋の裏あたりから、ざざざと木陰に逃げ走る淡い黒の塊が通り過ぎた。猫より大、犬に近く、ずんぐりむくりと茶黒に濁るその後姿は、この地域で始めて目にした野生の狸であった。なんと、狸ですよ。思えば数日前の夜、帰宅した際に車のヘッドライトを横切った野ウサギといい、昨日の昼は家隣りの杉の木を叩く啄木鳥といい、なにやら最近、野生づいている。

 サインでも、兆候でもなんでもないのだろうが、野生の動物は何かしらのそれら自身の感覚でシンパシーのようなものをアンテナの一つとしながら生活圏を広げ、そして狭めて行動しているはずである。それであるのなら、なにかしらの共通感覚が最近の目の前に現れる友人たちとの間に築かれつつあるのだろうか。あるいは、自分の中のアンテナが、少しでも彼らに近づいているような変化があるのだろうか。体の動かし方(大げさに言えば身体の操作方法)、感覚(イメージ)の広げ方、そういったことへの自分なりの傾倒、自然へのシンパシーが、少しでも彼らの感覚へ千尋の一滴ほども近づけているのだとしたら。5年もここに住んでいて、啄木鳥も、野ウサギも、ましてや狸の存在に気付く事無く暮らしてきただけに、ついつい目線が甘くなる。そして、何気なくまだ逞しく存在する野生にもまた心強く、そして嬉しくなる。

 良く動き、良く話した集合日。昨年一年で崩れ始めた田んぼの畦道は、皆さんとの共同作業でまた、堅牢を取り戻した。これが人工の美しさでもあり。だからこそ自然の美しさもまた素晴らしい。

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 所々崩れ、草に覆われた畦
   ↓↓
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 まずは今月、畦道二本の内一つが修復を終えた


 と、美談はそれくらいであり、集合日の実習畑では昨日まで無事であったキャベツの生き残りの株が、野鳥(おそらくキジであろうか)に無残に食い荒らされていたという現実。さらには作業後のこの筋肉痛。体の動かし方などと嘯いていながら、まったく使えていないこの無知さ。
 
 人間と、自然と、共存など手安く実現などしないからこそ得がたく、失いがたく、問い続けなければいけないテーマであり、人生のエッセンスなのであると信じる。
posted by 学 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 友と共に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする