注)記事の日付は太陰暦を用いております

2012年05月28日

ワンダー

卯月八日 晴れ時々通り雨

第二十三候:小満次候
【紅花栄(べにばなさかう)】
=紅花が盛んに咲く=
 (新暦5月26日頃〜5月30日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


 「特別な存在だから特別なのではなく、どこにでもあるありふれた存在だからこそ特別なんだ」、などというありふれた記事を書いていて、これはいい記事になったと鼻の下を伸ばしきってご満悦にひたっていたら、足元のコード類が悪そうな笑みを浮かべながら右足にからまってパソコンの電源が落ち、1時間かけたテキストデータが消し飛んだ。

 「過去に起こった大事に見えることに執着なんかしないで、今起こっているそのままの足元の出来事にこそワンダーが詰まっている」などと、奇麗ごと言ってんじゃねえよというような記事を書いていたら、画面がプツリと消え、うおおおと叫び、やっちまったーと、その1時間を嘆いてみたりしそうになった。

 しかし自分がキーボードを叩いていた1時間ちょっとの考察は、電気信号としては消え、形にはならなかったけど、そして稚拙すぎるその文章は幸運なことに他人の目に触れることなく済んだのだし、また二度と同じ文章や構成や語彙は訪れないのだけど、それは確かに存在したし、消えたようにみえてもおそらく自分のどこかに沈んでいったはずである。体内でもあり、脳内でもあり、過去でもあり、もしかしたら未来に。


 このところの大豆の豆蒔きゴールデン月間のさなかに、気休めの楽しみで仕込んできたどぶろっくん。その折、瓶詰めをした濁り酒の副産物として酒粕が手元に残った。その生きた酒粕を一部活用し、全粒粉を混ぜてパン用の種麹(酵母)を作ってみていた。昨晩思い立ち、その酵母とキッチンに残っていた小麦粉、ふすま粉、食塩を混ぜて、生まれて初めてのパン生地作りをやってみた。酵母を冷蔵庫に入れていたせいか醗酵がなかなか進まず、台所に放置しておいての今日の午後、ムチっとしまっていたパン生地は見事に粘りのある生地に変わり、とりもとりあえず聞きかじりのまま陶器とオーブンレンジに放り込み、生まれて初めてのパン焼きを体験した。峠の釜飯の空いた陶器に、そば粉をまぶしたパン生地を丸めて投入し、オーブンレンジも使い方分からずに「ケーキ」のボタンをとりあえず押して40分。適当に、思いつきで、片手間に、なんとなしに始めたパンの調理。そうしてできた自家製パンの味と体験の末にでた答えは、世界はワンダーに満ち溢れている、ワンダフルであるということだった。

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陶器の土鍋が良いとのこと。鍋がオーブンに入らないので峠の釜飯にて。

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膨らんだ!焼けた!そしてなにより、むっちゃ美味い!!


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 金環日食や、筑波実験植物園で開花した「ショクダイオオコンニャク」がこのところ話題を集めている。数年に一度、数十年に一度の自然現象は無条件に人の耳目を集め、その頻度が少なければ少ないほど、その間隔が長ければ長いほど、人は興味関心を寄せ、好奇心と注意を向け、心を動かす。

 ところで、金環食のあった日が、月の動きで言えば新月(月齢0〜1)であったことに日ごろから気がついている人がどれほどいただろうか。当然のことであるが、月と太陽が重なると日とは、地球から見た時にその二つの天文体が同時に空に上がっているということである。毎月(正確に言えば約29日周期)繰り返されている月の満ち欠けのうちの、新月にあたる日であり、かつ太陽光線を月が遮るコースに入るというまれに起こる日に、日食として観測されるのである。今更であるけど。一方満月とは、太陽と月が地球を挟んで正対し、太陽光を月の球体全体で反射しているために見られる、約29日に一度の天体現象である。つまり満月の日は太陽が沈む頃に東から月が昇り、朝日が昇ると月が西に沈むことを意味している。言うまでもないことだが、満月の日に金環食が起こることは絶対にない。そのことは、当然過ぎて誰も触れないのだが、その「当たり前」のことに普段から気にとめていて日食を観察した人はどれだけいたのだろうか。

 数年に一度しか開花せず、悪臭でも世界有数と言われる植物と、毎日毎日の朝に咲く無数の花や、庭先で触れるたびに独特の臭気をもたらすありふれたドクダミ草との間に、いったいどれほどの存在の差があると言えるだろうか。

 日常のセンスオブワンダーを働かせる時間がなく毎日を過ごす人にとって、稀少な自然現象に関心を寄せたり興味を向けたりすることは、自然や環境への好奇心の入り口になりえるし、日常を彩る特別な出来事となりうる。しかし世界では、一瞬一瞬の何気ない光景や足元の自然に、日食や珍しい植物の奇跡に一歩も引けをとらないような「ありふれた奇跡」の毎日が隠れている。全ての現象は、その植物、動物、天体、無機物らにとって奇跡の一瞬であり、二度と同じことが起こることはない。物理学的に言ってもあるいは哲学的に言っても、今ここにある森羅万象は全て常に移り変わりと変化を繰り返しながら、同じ状態は一度としてなく実体として保ち続けて存在している。細胞レベルでも、粒子レベルでも。

 大げさに言えば、自然農とは、その一瞬の奇跡と、それでいながら重なり続ける複雑系の生態系の営みの狭間に生き続ける、人間と自然現象の関係のことである。もちろん自然農だけに当てはまる話ではない。世の中に普通のこととして存在する日常の、全ての事柄にセンスを発動させ、そこから発見や感動や安らぎを得ることができるのならば、世界はまるでワンダーランドである。言い切ってしまえば、それに気づきさえすれば、人は幸せへの切符を手にしたも同然なのだ。特別な出来事としてのワンダーを求めた結果、例えば日食レンズを買い忘れて後悔したり、あるいは植物園に渋滞してイライラしたりすることもある。もちろん、そうした特別な奇跡も楽しみつつ、同時に、いつもと同じように見える「ありふれた奇跡」があることに目を向けてみよう。そうすれば世界は常に生まれ、消え、更新され、しかも存続し続ける、そんな驚きのワンダーランドに包まれているのだから。

 特別なことだからオンリーワンで素晴らしいのではなく、ありふれた日常が実は一瞬一瞬のごく普通の奇跡の積み重ねであり、だからこそ特別なのではないか。パソコンのデータが消し飛んでしまって全然違う構成の記事になってしまったとしても、結果として残るこの気持ちはほとんど同じであり、と言うことは心配していたようにこの恐ろしく冗長になった文章が不幸にも他人の目に触れてしまうことを意味する。
 しかし、こうしたありふれた内容の文章だからこそ特別なのだと、自分に対して言い訳が見つかったところで、足元の電源コードに気をつけながらキーボードを打ち終えるのである。たかだか麹種を作って自分でパンを焼いたからって、何をほざいてるんだと。そうかもしれないし、そうであってもいい。その小さな日常のワンダーこそが、一人一人の幸せの種になりうるのだと信じて。



posted by 学 at 23:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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