第三十候:夏至末候
【半夏生(はんげしょうず)】
=烏柄杓(からすびしゃく)が生える=
(新暦7月1日頃〜7月6日頃)
【半夏生(はんげしょうず)】
=烏柄杓(からすびしゃく)が生える=
(新暦7月1日頃〜7月6日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※
七夕は本来は旧暦文月の夜、梅雨が明けて夏の入道雲がたなびく夕べが暮れ、漆黒に掛かる天の川を愛でて眺める夜の風物詩。梅雨の明けきれないこの時期では、曇天に邪魔されて彦星と織姫は出会えないのはいたしかたないもの。季節と暦がつむいでいた見事な帳尻を、無茶苦茶に新暦に組み込んでしまったがゆえの現代人の矛盾が最も顕著に現れる、新暦の七夕を明日に控えて。本来ベガとアルタイルがミルキーウェイを挟んでデートできるのは、それに相応しいタイミングであるからこそ。相応しい時期に、その時出会うべく綾が重なるのは、なにも天空の物語だけではない。
いったいどんな方たちと時間を過ごすことができるのか楽しみでしかたのない、7月から始める「話す・聴く・気づきのワークショップ」。誰も来ないのかもしれないし、少しは興味を引くのかもしれないし、定員を超えてしまうのかもしれないし、果たしていったいどうなることやら。もちろん、楽観しながら、ドキドキもしている。
つくばに腰を据えて以来の友人であるsayaさんに、今回ワークショップに平行してのプログラムとして、「もりのがっこう」をお願いすることになった。子供がいる方にも是非、ワークショップの扉が軽くなって欲しいという気持ちがあり、しかし日曜の4時間を小さな子供をほったらかしてワークショップなどに参加するのも難しいのかな、ということで色々考えていた。そんな折に、マクドナルドでコーヒーの飲みながらの談笑にて、快くそんなイシューを共有してくれたのがsayaさんである。「もりのがっこう」は曰く「おとな、こどもを問わず 学びの場」であるそうだけど、今回は、ワークショップに併設してそれに参加してくださる親御さんのこどもたち向けの時間。ワークショップの各テーマにほんのりとあわせた「なにかしらの時間」を子供たちも過ごすような、そんな試み。
自分ひとりではできなかったことも、いつからかは分からないけれどもいつのまにか織り成していた綾に包まれ、その中で小さなことから実現していくことがある。小生はまだ子供向けのプログラムの風呂敷を広げるには至っていないが、いつかはそれに携わる日が来るのだろう。
人は誰しも、その時、その周りにいる方たちと共に、何かの仕事をする。そんなごくごく当たり前過ぎてついつい忘れてしまうこと、会社や組織にいると周囲に人が関わることが当然過ぎてしまうことも、一人で動いていることで鮮やかに目の前に輝くこともあるのだと、今更ながら気がついた。いや、本来ならそれはどこに所属していようとも、誰もが気がついていることなのだろう。
ふと、文脈とはおよそ関係はないのだが、15年前の南米放浪中に持ち歩いていた「武士道(新渡戸稲造著)」の最後の一節がなぜか思い出された。書籍を締めくくる結びの言葉として著者が、あるクエーカー教徒の詩人の言葉を引用している。武士道を表した新渡戸が憂えた、明治以降の日本人の気質の変遷に対して、その詩を通して込めた彼の想いと小生の雑感はあまりにも異にするものであるが、このところの人との繋がりの中で心に顕れるのは、まさにこの詩に出てくる旅人のような想いなのかもしれないと、十数年ぶりに暗誦してしまうほどに実感するのだ。この詩の情感がどこかしら身に沁み、情景を思い浮かべて自分がその景色に重なる様を思い描き、そしてまた、ふとした時にそのような気持ちを持てるように生きていきたいと願っているのだと、改めて思い出したのだった。
いずこよりか知らねど近き香気に、
感謝の心を旅人は抱き、
歩みを停め、帽を脱りて、
空よりの祝福を受ける。
感謝の心を旅人は抱き、
歩みを停め、帽を脱りて、
空よりの祝福を受ける。