第三十五候:大暑次候
【土潤溽暑(つちうるおいてむしあつし)】
=土が湿って蒸し暑くなる=
(新暦7月28日頃〜8月1日頃)
【土潤溽暑(つちうるおいてむしあつし)】
=土が湿って蒸し暑くなる=
(新暦7月28日頃〜8月1日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※
自身が三十路を越えたころから、周囲に身体の調子を崩される方が増えてきた。ごくごく親しい人も、久しぶりに顔を合わせる人も、そしてなにより自分も重ねて。
今年の3月、両親、姉と家族4人で福島の温泉地へ一泊二日のドライブ旅行に出かけた。それこそ数年来することもなかった、家族水入らずの旅であった。桃はまだ開かず、桜の開花はいよいよ見ごろかという頃の穏やかな旅行であったのだが、道中の夕食で、母が突然倒れた。持病はそれなりに年相応にあり、更年期も程よく付き合い、とはいえ目立った大病も無く過ごしてきた母であったが、和やかな夕餉の途中、うっっ、とうつむきみぞおちを押さえ苦しみだした。しばしの間様子みてからフロアスタッフを呼び、車椅子に乗せて部屋へ戻り、いつでも救急車を呼べる体制を整える。父と姉と共に数時間、驚くほどの低体温と顔色の悪化を心配しつつ、とにかく看病に努めた。幸い腹痛も収まり体温も戻ったためにその夜は部屋で過ごすことで事なきを得た。翌朝家族で顔を合わせて、はて原因は。もしや昨夜の会食にて、我が家の家計から少々背伸びした夕食価格を冗談交じりに母が尋ねた直後だったので、はては価格に驚いて卒倒しかけたのではないかと笑いあえたのだが、それは幸いにも、その後大事に至らなかったからである。
その折、友人知人、医者に医院にと夜分の迷惑をかえりみず手当たり次第に電話をかけ、改めて医療に対する自分の見識のなさを痛感したのは記憶に新しい。母の例は一端であり、本当にこのところ、周囲の同世代の友人達にも、重さの程度はあれど病を患う知らせを耳にする。その度に、ただ耳にするだけで何も力になれない自分の無力さに、今更ながら呆れるのである。他人の病に深くかかわることはできなくとも、せめて近しい近親家族に対して自分が向けられる術はないものかと考えていたところ、先日、医師の友人と電話で談笑しながら、一つのヒントを授けてもらえることになった。彼は受話器の奥で、「今の患者さんの多くが、本来自分の身体とは自分のものだという当たり前の感覚を忘れてしまっているようにみえる」と嘆いていた。それはあたかも、車の車検をディーラーにあずけて済ませるような感覚で、病院に行き、医者に診せ、「さあ金は払うから後はまかせた。しっかり直して体を返してね。」と言っているかのような印象を受けるのだという。
友人の気づきとは、自分で全てをできる必要はないが、あまりにも自分の体に対しての認識が薄いのではないかというものであった。体のサインや兆候、人間が本来持つ自己治癒力、体と心のバランスの取り方、そして病や死についての向き合い方、それらいずれかもしくは全てにおいて、まるで日常生活には必要の無い情報として捨て去っているかのように生きている人がいる。そしてその無意識に他人任せにし、体への認識を大切にせずに暮らしてきた末に、病を医療に預けきってしまうことになる。
恐らく、それでも良いのであろう。何も、不都合なことは無いのかもしれない。現代社会は大自然の中の生活ではなく、健康保険制度の下、最新医療の恩恵に包まれて医者に任せて自分の人生を送ることにどこに問題があるのだろう。しかし。自分の体を自分のものとし、不調や病を自分で診て、緩やかに改善し、そしてそうした個性を受け入れながらライフワークバランスや食事やアクティビティを取り入れ、自身で健康に導く生き方も存在する。薬や医療や健康情報に任せすぎず、己の生命が発するシグナルに適度に耳を傾け、整え、治癒させていく。単なる民間療法という意味ではなく、もう少しだけ自分ごととして、自分の身体を手に入れるようなそんな感覚。それはきっと難しいことなんかではなく、時間や経済に過度に追い立てられることから少しだけ自由になることで、静かに聞こえてくるような気がするのだ。もしかしたらそれはヨガのようなものであったり、もしくは瞑想のようなものであったり、食事に気を配ることだったり、あるいは東洋医学に理解ある医師と適度に関係を築くことだったりするのだろう。もちろん最新医療との関係も、適度に必要とすれば良い。
自分の身体をよく観ることなく肉体を不適度に使ったために腰を痛めたり。夏に冷たい飲み物をがぶ飲みしてばかりで、陰の気が高まり体調を損ねたり。適性に向かぬ仕事に傾きが大きくなって、ストレス性の頭痛を抱えてみたり。相変わらずそんなことばかりなのである。それでも少しずつ、「自分で診る」という友人のヒントを身に沁みこませながら、自分が、そして近しい人たちが、緩やかな健康を手にすることができるようにと願っている。それは小生にとって自然農と同じように、自然に沿いながら生きていくことと同義のプロセスであるはずだ。

庭でもいだトマトを井戸水で冷やし、日中の作業で上気した身体を冷やして整える。ただそれだけのこと。それでもこうやって自分の身体は見事に維持されている。大げさかもしれないけど、でもその積み重ねで人間は生きている。
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※第2回 話す・聴く・気づきのワークショップ =8月19日(日) 開催=
今回のテーマは【生命(健康・病・自分で診る)】です。
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