葉月六日 雨
畑で鍬を降って土を動かす時、田んぼで草を刈る時、当然のことながら自分の体を使って腕を動かし、腰を動かし、作業を進めていく。数年前からであるが、そのときの「身体の動かし方」について、古武術的な身体操作という漠然としたテーマを常に頭の片隅に置きながら作業に取り組むようになった。少しずつ、本当に少しずつであるが、腰を曲げる時の姿勢が楽になったり、草刈りする時の腕の疲労が減ってきたり、自分の身体の使い方を、より効果的に、より本来の動きに、より力を使わないで済むようにと、変わり始めてきているように思う。
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我々は、常に身体を動かすことで生活を営んでいる。運動、スポーツ、トレーニングなど、それを目的とする動きに限らず、毎日の生活の中で、歩く、走る、手を上げる、腰を曲げる、首を回すなど、身体の部位を動かす行為はもちろんのこと、座る、立つ、横になるといった姿勢を維持するという行為も、自分の身体をコントロールするという点では、身体を動かすという行為と言えるだろう。当たり前だが、生きること即ち身体を動かすことであり、身体的な事情や病状によって運動能力を失われた方を除いては、それを否定することはできない。命が続く限り、我々は身体を動かす(姿勢を維持する)ことに関わることを運命づけられている。
また我々には、身体を動かすという行為をそれこそ一日中絶え間なく行っている一方で、それと同時に、常に休むことなく働かせている機能がある。それが脳の働きだ。とはいえ、意識的にせよ無意識的にせよ身体を動かすという行為については視覚的に認識することが可能だが、脳の働きは多分に非認識的である。なかなか意識的に「脳が今動いているな」などと認識できることはない。脳の働きを大まかに考えるとすれば、ひとつは、内臓や細胞活動のような生命維持に携わる機能であり、もうひとつは、見る、聞くなどの五感といわれる感覚機能を認識する機能であり、そしてもうひとつは、考えたり想像したりする行為をつかさどる「思考」などに関する機能だといえるだろう。それらひとつひとつがとても重要な意味があり、それぞれが独立して機能しているようでもあり、同時に機能しているようにもみえるところも、脳が唯一無二の器官として存在する所以でもある。また当たり前のことでもあるがそうした脳の働きは、身体の働きと同様、おそらくはそれ以上に、人が生きる限り永続的に営み続けている。
上で述べてきたように、人は生きる前提として、身体を動かし、脳を働かせることを余儀なくされている。つまり人間は、身体と脳を自分の命と切り離すことができない。言い換えれば、自分自身とは、身体の動きと脳の働きによって成り立っているといっても決して言い過ぎではない。
ところが、この「身体」と「脳」だけでは人間は完成するわけではない。それすなわち「心」である。自分自身を何よりも強く認識させているのは「心」にほかならない。心の在り方こそが、自分を自分たらしめ、他者や社会との関係を築かせ、毎日を送る手立てとなっているからである。視覚的な「身体の動き」や非認識的な「脳の働き」に加えて、(もちろん脳以上に認識的にはあやふやなのだが)「心」こそが「身体」や「脳」以上に、明らかに自分自身と切り離すことができないという点は、おそらく実感としてはむしろ普通のことと言えるのではないだろうか。
さて、これらの三つの「身体」と「脳」と「心」はどんな相関関係にあると言えるのだろうか。脳の働きが心と深く結びついているだろうことは、多くの方が容易にイメージできることかもしれない。そもそも頭で考えていると思い込んでいる場所自体が、それは脳なのか心なのかと問い詰められたら、はっきりと「どちらです」と言える人の方が少ないかもしれないのだ。器官としての脳の存在は多分に肉体的ではあるものの、思考的な機能については、脳と心は分かちがたく存在している。肉体器官としての脳と、思考装置としての脳が果たして一緒かどうかは議論が別になってしまうが、頭蓋骨の中の「脳みそ」として人が認識する上ではひとつであるとみている脳と、心は非常に関係が深い。
一方、身体の動きが心と深く結びついていることに関心を寄せる人は、まだまだ多いとは言えないだろう。近年のヨガブームや、瞑想的なワークにも関心を持つ方が増えていることで、体を整えることと心を整えることが同様のフィールドとしてフォーカスされてきていることは間違いないし、昔からも修練として「心身を鍛える」という言葉があるように、心と体を一つのものとして考えられてきたことも事実であるが、日常的な意識として、普段の体の使い方が心の作用に影響を与えるかもしれないと考える人はそう多くはないであろう。
ところが、身体の動きがすなわち脳の指令や反応と不可分であることは明確であり、すなわち、身体≒(ニアリーイコール)脳であるということは決して言い過ぎではない。さらに、身体≒脳≒心、とその式を延ばしてみてはどうだろう。体が動いているということはつまり脳が働いているということであり、脳が働いているということはつまり心が作用している、とは言えないだろうか。だとすれば、身体の動かし方が心のあり方と密接にリンクしているのというのは、方程式としてはYesである。であるなら、自分自身がどのように身体を動かし、どのように身体をコントロールするかということが、自分の心にどのような影響をもたらしているか、それはとても関係が深いはずである。そして、このようなことに想いを巡らすことは、とても大切なことである気がするのだ。
自分とは、「身体の動き」と「脳の働き」と「心のあり方」であり、それらは強く結びつき、常に互いに作用しあって自分を自分たらしめている。
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鎌の動かし方が心にどう作用しているかはわからないが、より自然な身体の使い方やストレスの少ない体のあり方を身に着けること、肉体の動きに今よりも耳を傾けて観察しようとする行為が、心にポジティブな影響を与えることは想像に難くない。より面白く、より心地よく、自分がそうありたいために、逆に感性としては慎重に真剣に肉体感覚に意識を向けていくというアプローチをとり、自然農の作業や普段の身体使いの中でそれらが鍛えられていくとしたら、それは一石二鳥であり、なんともお得な趣味嗜好なのである。スポーツジムで身体を鍛えるよりもずっと地味で、日常的で、華のない作業ではあるのだが、おそらく小生にはこちらのほうが向いているのだろう。西洋的な肉体美とはひょっとしたら縁のない、なで肩で、股が離れて、ひと昔前の東洋人体型のような身体になってしまうのかもしれないけれど。
知人に熊のようだと揶揄される小生には、まだまだ遠い道のりであるのが実態のところだけどね。

これはこれで見事な身体美♪