霜月三日 曇り時々雨
第六十二候:大雪次項
【熊蟄穴(くまあなにこもる)】
=熊が冬眠のために穴に隠れる=
(新暦12月12日頃〜12月16日頃)
第46回衆議院議員総選挙の投票日を明日に控えた土曜日、
話す・聴く・気づきのワークショップを開催した。 さて、明日は投票日。
このところのSNSや掲示板サイトなどで時折、「○○政策なんてありえない。誰もそんなものは望んでないのにどうして?」といったような言葉を目にすることがある。原発や、TPP、憲法改正や消費税など、その議題に関わらず、あるいは賛成派反対派に関わらず、自身の考えを前提にして他方をそうした言葉で形容することをどことなく見かけることがある。概して中立派からこうした言葉が聞かれることは少なく、立場や意見を鮮明にしている方に多く見受けられるように思われる。例えば憲法改正について、改憲を公約に掲げる政党があり、一方で憲法9条は守らなければならないとする政党がある。それらは政策として対立し、それを支持するかしないかによってその政党に一票を投じるかどうかという判断基準となる。選挙の結果、今の日本国では獲得票数に応じて議席が確保され、それが結果として国の政治の方向へと繋がっていく。その過程においても結果においても、どうしても、異なる意見、思想、立場は存在し、その多様性の存在を昇華する手段のひとつとして、日本は民主主義を選択してきた。それは国政に関わらず、地方自治にも、おそらく多くの会社組織やその他団体の中でも、最も有効性の高い意思決定手段の一つとして採用されている。
しかしその根底に忘れてはならない事実がある。それは民主主義によってある施策が選択されようとする時、それと異なる意見は決して存在していないのではなく、選択されなかっただけという事実だ。つまり、選挙結果や多数決の結果として決定された政策は、唯一の正しい答えでもなければ、集団がその意思一色に染められなければならない訳ではない。しかし上述したような「○○などありえない、誰も望んでいない」という発想に、おそらくは無意識的にではあるがそうした多様性を否定する性質が潜んでしまうことがある。自身の望む政策の正しさを要望するあまり、もしくは社会の方向性を正義感として強く憂うがあまり、対立する選択を取ろうとする人たちを「ありえない」とついつい断じてしまう瞬間において。しかし、それは決して「ありえない」のではない。現実に、対立する意見を持つ人々が存在するが故に、政党として存在しかつ公約として掲げられている。一方からみれば「ありえない」ような政策は、大いに正しい政策として信じて掲げられ、それはただ、異なる意見として実際に存在しているにすぎない。
ここで我々が立ち返らなければならないのは、そうした真反対の意見が並立するという現実においてしか、この国の方向性を選んでいくことはできないのが現状だという認識ではないだろうか。「原発反対、TPP反対、憲法改正反対、ザッツオール。これ以外の考えなんてありえなくない? 賛成のやつ頭おかしいって。賛成とか言ってるのは一部政治家だけで国民全員はそんなの望んでないよ。」というスタンスがあるとしたら、それはもうそこで思考がストップしてしまってはいないだろうか。現実には、原発もTPPも憲法改正も、国を二分(割合はどうでもよいのだが)するほどに各政策ごと支持不支持が存在し、それらは互いに目を背けてしまって良いはずがなく、対立しているのはどの点か、なぜ一方は賛成で一方は反対なのかに目を向けなければならない。そして民主主義で選択された政策の背後には反対者の声もある、ということを踏まえた上での一つ一つを対立を乗り越えてたどり着いた先に、集団社会の進むべき将来があるのではないかと思う。であるなら、「○○政策も××党もありえない」と言い放ってしまう、その一歩手前で立ち止まり、実際に存在する目の前にいるかもしれない対立意見に耳を傾け、その対立意見がなぜ起こっているか(もしくはそもそも自分がなぜ自身の意見を持つに至ったのか)を一人一人が熟考できるような社会になるしか、本当の意味での多様性が認められその上で民主主義が機能する世の中にはなりえないのではないだろうか。
未来から振り返ってみたらこれしかありえなかった、という政策が例えあったとしても、しかし今現在は現にそうではない意見が存在するのであれば、それは「ありえない」と排除や切り捨てや蔑視するのではなく、乗り越えていかなくてはならない現実として存在しているのだ。いわゆる価値相対主義に与しない、多様性からなる社会というものがあるとするならば、こうした意識的な対立意見への向き合い方こそが、我々に必要なスタンスなのではないだろうか。
瑣末な話かもしれないが、今日のワークショップの最後に、参加者が一日の感想を話す時間があった。答えや成果を手にするような時間ではないが、それぞれに数時間を過ごしたあとの、そのときの気持ちを出し合った。そこには、同じあるテーマについての一つの意見と、一方でそのテーマに対して真反対の印象を抱いた方が存在した。しかしそこでは一方を「ありえない」とする態度は存在せず、その違いを発見として認識して、さらに自分の意見をより深掘りする機会にもなりえていた。小さな小さなワークショップでの感想の言い合いと国政選挙の政策論争が同じ土俵であると言うつもりはないが、ついついヒートアップして反対意見の選択自由を無意識に排除してしまうムードのようなものが目にとまるたび、幾ばくかの違和感を覚え、そしてその先にあって欲しい民主主義の熟成を期待してしまうのだ。
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意見を述べることによってのみコミュニケーションが存在するのではなく、また意見を述べることによってのみ自己が存在するわけでもない。同時に、異なる意見であろうと同質の意見であろうとそれはそれぞれに個々が存在し、同レベルでコミュニケーションがはかられる。人間にとって、「話す」とは何か。「聴く」とは何か。コミュニケーションとは何か。国政選挙のシーズンを迎え、ことさらに意見を表現することがクローズアップされる時期だからこそ、その彼岸にあるような時間へと想いが広がる。
1月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」はテーマをずばり「聴く・話す」に据えて開催いたします。
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第7回 話す・聴く・気づきのワークショップ =1月13日(日) 開催= 今回のテーマは【聴く・話す(対話・コミュニケーション)】です。
参加者募集しております♪
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