卯月十七日 曇り時々晴れ
第二十三候: 小満 次候
【紅花栄(べにばなさかう)
=紅花が盛んに咲く=
(新暦5月26日頃〜5月31日頃)
一ヶ月ほど前のつぶやきの記事をなぜか今頃。
知らないことを知っていると振舞うとき、いったいどれほど多くの気づきを失ってしまっているのかということに、鈍感になってはいけない。
普段から、自然農や興味をかけている物事に限らず、「知る」もしくは「体験する」ことに触れる機会は少なくない。それはネイティブアメリカン(インディアン)の教えに触れるワークショップであったり、古武術の体の使い方を習う稽古会であったり、自然農を実践される方との雑談であったり、はたまた子育てについての四方山話であったり。
例えば昨年の、インディアンの教えに触れるプログラムへの参加では、3日間を山の中で、火をおこし、寝場所を確保し、野草を食べるという体験に触れた。そこで小生は、主催者であるKさんや一緒に参加された方達との話の折のついついしてしまう行為として、「ああそれは知っている」という態度や反応を、条件反射的にしてしまったことがある。
プログラム内では、キャンプ地付近の山林で食べられる野草を探すという時間があった。ついつい、「Kさんの次に知っているのは自分である」と言わんばかりに、外側は普段どおりに落ち着いたようなそぶりを見せながらも、内心は嬉々として「あれも食べられるこれも食べられる」と行動している自分がそこにいた。また、火をおこすという時間でも、「一度体験したことがあるから大体は知っている」とどこかで周囲に表現したかったらしく、Kさんのエッセンスを受け取ろうとするスタンスになりきることが出来なかったことを思い出す。そこで小生が「まだ知らないことはたくさんある」という姿勢を保つことができていたならば、おそらくもっと多くの事象に触れ、新しい気づきへと繋げることができたかもしれない。しかしその時は確かに、どこかの誰かに(もしかしたら自分自身に)、その時点での自分を一所懸命に表明しようとして、気づきを増やす貴重な機会を失ってしまっていた。
自分が興味を持ちその真髄に触れたいと思い、先人の智慧に習おうとするときに、このような小さな自我の表明ほど、その真髄から自ら遠ざかってしまうような行為はないように思う。「まだ知らない。まだまだ知らない。」だからこそ、その智慧や自分自身の気づきに対して今現在の瞬間で全力に向き合いたい、という動機が生じる。知っている、聞いたことがある、考えたことがある、それなら解っている、と思った瞬間に、教えは教えでなくなり、最も重要な、エッセンスも香りも空気感も立ち消えてしまう。結果、本で読んだような知識とそれほど大差のない、「それを知っている自分」という肩書きをただ上塗りすることになっているのに気がつかず、絶えず似たような経験を繰り返すことになる。ついつい。それどころか、むしろ「気持ち良い」行為として。
小生は、自然農や、話すこと聴くことにフォーカスするワークショップや、古武術的体の動かし方や、シュタイナー的な教育や、ウィパッサナー瞑想のような心の整え方や、パーマカルチャー的な自然環境への接し方などに、興味を覚え、自分の時間を費やし、職業として取り組んでいこうとしている。その中で、おそらくは「自分は知っている」と表明しなければ商売として成立しにくい機会は数多くあるだろう。金銭のやり取りが発生する際に、客サイドから「知らない人物に教えてもらいたくない」、「知っている人だからお金を払える」と思われることなど山ほどあろう。であるならばこうした場で「知らない」と書くことはただのアホらしい表明なのかもしれない。しかしだからこそ、そうした場面であっても、できうるかぎり「まだ知らないことまでも知っているように振舞ってしまう」欲求から解放される自由を持ちえていたい。と思うのは、やはりアホなのだろうか。
インディアンの教え。まだまだ感覚したいことが多すぎる。
コミュニケーションとしてのワークショップ。常に新鮮なことばかり。
古武術的な体の操作。未熟にも経験不足にもほどがある。
シュタイナーのアプローチ。深遠すぎてたどり着けない。
ヴィパッサー瞑想の導き。実践できずにいいとこどりばかり。
環境問題への関心の寄せ方。日常にはまだまだ程遠い。
そして自然農。
まだまだ肉体化できず、実践として会得できていないこともままある。だからこそ、上記を含むあらゆることに対して、現在進行形で触れ続けていくのみなのだ。
実際には、既に知っている(と自覚してしてはいる)ことは多々あり、それを経験や糧として次なる事象にあたっていくことは、当然の行為であり、そこに疑問の余地はない。しかしその「既知の事実」のような物事の中であっても、必ず新たな気づきは潜んでいる。もしくは同じように見える物事が起こった時でさえも、過去の状況と完全に一致する場面など本来は存在しない以上、知っているような気がしているだけで実は「知っていない状況」になっているかもしれない。その時に、いかに「知っている病」から自由になり、感覚と智慧をめぐらせてその状況に臨むことができるか、というのが自分に課す問いかけであり、と同時に、それに取り組む姿勢は、人生を終えるまで尽きることが無い最高の趣味・スパイスになりうるのだ。
人も、自然も、科学技術も、社会も、全てが移ろい、変化し、一つ一つ積み上げながら一つ一つ変わり続けている。私達が知ることができる唯一の確かな経験は、「現時点では知っている」ということにすぎない。自分が惹かれて片足両足突っ込みかけている事について、まだまだ「知らない」からこそ、より多くの人(そして自分に相応しい程度の人数)を巻き込んで場を提供していきたいと思う。自分も知り続けながら、その知る途上にある喜びを分かち合っていきたい。
科学をもって、経験をもって、テクノロジーをもって、世の中を「知っている」としてしまいがちな、自分を含めた現代社会へのアンチテーゼを心の灯火として生きていこう。WEBでの情報、TVでの知識、活字での経験、で知ったつもりになる監獄から脱出しよう。面白きこともなき世の中で、確かに存在する面白きこととは、その人自身の内なる魂にすでに宿っている。幸せの種を、常に自分の内に抱いていこう。蔓延する、「知っている」症候群から半歩でも一歩でも自由になり続けよう。
稲の苗代に、畑の作物の成育にわくわくし、同時に自分の作業の遅れぶりには辟易もする。そんな、毎日が自然農。傍らには、妻と、娘。そして自分。
上の写真(4月撮影)のタンポポは、すでに綿毛を飛ばし、その姿はない。そして元あったその場所には、違う草花が花を咲かせている。
日々の発見を日常に。日常を発見の日々に。朝起きるたびに、毎日が始まる。

朝焼けと粟子となつ(3月から借りている雄山羊)