注)記事の日付は太陰暦を用いております

2013年09月04日

なんじゃもんじゃ

文月廿九日 晴れ時々雨

 なんじゃもんじゃと過ぎ行く夏。何かよくわからない時に、よく娘と二人で「なんじゃもんじゃだねえ」と話すのが口癖になってきた。

 8月は、茹だりながらも、賑やかに、行きつ戻りつし、毎日を起きて食べて動いて寝ていたら9月になっていた。この3月から5ヶ月ほど、包み隠さずに話せば娘と妻との暮らしが始まり、わが人生にとって最良の激変が起こっている。いやあ、36年(正確に言えば高校を卒業してから18年)、自分勝手に気ままにマイペースで、いわゆる風評荒波世間体あたりも人並み以下に気にしないでやってきたつもりだったが、その暮らしが、ついに面舵をきることになった。なにせ、子供は偉大ですわ。自分の全存在よりもはるかに世間体も風評も荒波も気にせずに生きていこうとしてるんだもの、そりゃあ偉大です。そこを35年の浅知恵で、自分の舵に押さえつけようとしたってそれは全く「自然農」的ではない。とはいえ、子供が生きる世の中は(自分ら親も含めて)どうあったって世間なわけで、自然農さながら、そのまま手付かずで放置したって子供が健やかに育つとも思えない。(このあたりは自然農法の福岡正信氏ならどう考えるだろうか。)掌の上でコントロールしようとするのではなく、子供が自ずから育とうとする生命力に沿ってその時点で自分(もちろん夫婦や周囲)が出来るかぎりのサポートをしていけるか。もちろん自然農の田畑のように、種から芽を出しさえすれば(つまり命が営みを始めたならば)自然環境が生育を後押ししてくれるわけはなく、毎日の衣食住を、自分たちが土壌と太陽と水の肩代わりをして育まなくてはならない。いやあこんな当たり前のことも知らずに、少し前までは「自然農と育児って共通点が多いですよね」などとしたり顔で口にしていた自分が恥ずかしくなってくる。そしてご察しの通り、田畑同様に、それどころか全くもってそれ以上に、我が子の育つ様に程よく手を差し伸べられているかどうかなんてもはや全くわからないのであります。毎日がなんじゃもんじゃで、泣き顔に泣き、イヤイヤ顔に苛立ち、時には(あるいはしばしば)底意地が露呈する悪意の対応をさらした自分にまた凹み、笑顔に笑い、成長に驚き、といってる間に時は過ぎていく。いやはや、毎日が自然農どころではない、半年を送っているのであります。幸運なことにねえ。
 

 こうしてる間も、保育所(預かり施設)から帰ってきた娘からの、横に後ろに上に下に迫る「遊ぼう攻撃」を、外注仕事で外にでている妻の代わりに、受けつかわしつ、久方ぶりのBlog作業にトライしている。この瞬間、120%、仕事と育児が両立(というか乱立?)している。仕事場に専従して人生を送るという選択は小生の人生では選ばれず、偶然か必然の結果として、娘も妻も私生活も仕事も入り乱れて人生を過ごすという羽目になりました。

 その途中経過として、夏休みにサマーキャンプを開いたことも含めて、生活も趣味も仕事も育児も、全部をひっくるめて生きていってみる。数年来の友人たちが、この夏に仕事でもプライベートでも会いにきてくれた。飲み会での再会も最高に楽しければ、こうした再会もまた最高に楽しい。いや実際、家計は大火事の車なんだけどね。

 うーん、全然筆が進まない!PC机の横に張り込んで、ままごとの食事を提供してくれるわオリジナルの工作デスクトップPCで架空のメール送信をするわ、お医者さんごっこで腕に注射をするわ、のべつまくなしに話したてるわ、匂いをかぐわの大騒ぎ。これを非効率ととるか邪魔ととるか、仕方ねえととるか、まあ楽しんでやるかととるか、すべては自分次第(あとは現実の生活費様ね)なのである。


 正直、田んぼは草に埋もれ、大豆は予定の4分の1も種蒔きできず、自然農の野良仕事は過去最小にとどまったこの春夏。誰がなんと言ってもそれはただの言い訳なんだけど、仕事と暮らしを一緒にしてきた自分にとっては現実的に激変であり、それにしてはよくやってんじゃねえかなと思うんだよね。まるで胸を張ってはいられない現状だとしても。



 観る、待つ、手を添える、楽しむ。悩む、考える、観る、待つ。喜ぶ、泣く、苦しむ、慰めあう。このところ、こうしたシンプルな行動しかとれないことに気がついた。世界は広い。新聞もテレビもなく、シリア情勢も、経済政策も、県知事選挙も、日常の中では我が家族の周囲とは離れて存在している。しかし自分が自分の周りの喜びのために生きられるようになれる人間が増えることこそが、すべての社会問題の解決の萌芽につながっている。娘の笑顔に寄り添えずに、国民の笑顔に寄り添えるだろうか。娘の理不尽さを見つめきらずに、社会の理不尽さを見つめきれるだろうか。現代の仕事社会の中で、さもすればブラックホールのようにすっぽりと消えてしまう「頭と全身の感覚をフル稼働させて生きる」という状態を取り戻すきっかけを、何も持たずに(同時に完全なるものを備えて)生まれてきた子供たちは、我々に与えてくれているのだと思う。堕落に染まり切って生きてきて煩悩から抜け出せないような自分にどんどん似てくる娘に微妙に恐怖を覚えながらも、なんでもいいからどんな社会でも生きていける魂を育てていってほしいとだけ願う。それは同時に自分も、妻も、そうありたいと願っているにほかならない。

 ああ、こんなこと書きながらも、後ろで「折り紙パーティーするから早く仕事終わってー」とどうにかして自分の遊びに取り込もうとする娘が攻勢をかけてくる。もはや自分の家では、娘が与党なのか野党なのかわからない。どっちだっていいや。わが家という国政が幸福に過せるのならば。今日はこの辺で仕事を済ませて、娘のパーティーに参与してくるのであります。


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家族での散歩道。白と黒の雲。9月。

 
posted by 学 at 18:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 新しき出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする