注)記事の日付は太陰暦を用いております

2013年10月05日

右脳的に

長月一日 雨時々曇り

 昨日のことや一週間前に自分が話したことを忘れては、「どうしてそんなに覚えてないの?」と目を丸くして人を呆れさせることが、しばしばある。自分がその時に確かに感じ、考え、導き出して口を通じて相手の耳へ届いた言葉は、相手の記憶に刻印されて引き出しにしまわれているというのに、当の本人は忘れてしまっている。とはいえ、そのことを話してもらうことによってまたみずみずしく記憶はよみがえり、そのとき話したような、または頭に思い描いたような感情をもって改めて考え直してみたり、また同じ内容を繰り返し話しては、楽しんでいる。人は小生を「忘れっぽい」と評する。

 それとは逆に、心象を揺さぶられ、五感六感を研ぎ澄ませて体験したことは、脳の収納箱以外のどこかに記録され、時間や場所の正確さとは異なる、まざまざとした具体的な身体まるごとの記憶として残されている。言葉以上のなにかによって、確かに、深々と、ありありと。日常での、鍵の置き場所、冷蔵庫の具材、家族の好きな洗濯物の畳み方などは、すぐに忘れてしまうのに、最初に出会ったある自然農の畑の鮮やかな景色や、改心の身体さばきで滑降できた時のスキーのゲレンデ、楽しすぎて時間を忘れて話し込んだ親友たちとの夕食会の匂いなどは、今も目の前にくっきりと浮かび上がる。そんなときは、自然と、己の記憶に感謝している自分がいる。

 そんな小生に対してパートナーからは、「象の時間を生きているから仕方がない」とうまい具合にたしなめられ、本人はいい気にさせられているのだが、その一方で彼女の持つ、幼少時のころからの微細にわたる記憶の鮮明さにはいつも驚かされる。自分にとって少年時代といえば、小学生、もっと言えば中学生の頃の記憶ですら、モザイク状につぎはぎで、果たして本当に自分の経験に根ざした記憶なのか、写真や家族の証言などで上塗りされた記憶なのか、自分にはもはや確かめるすべはない。対して彼女はといえば、幼稚園、小学生の頃の過ごした思い出をひもとくこともしばしば。さらには、生まれて間もない頃の親戚の顔合わせで、本人がどんな気持ちでその集まりの時間を過ごしていたか、といったことまで、仔細にわたって話してくれることもある。

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 来月開催予定の、第13回「話す・聴く・気づきのワークショップ」のテーマは、「記憶」。 テーマを決めてから数日たった今日、幸運にも、非常に衝撃的な印象的な動画に出会えた。脳卒中を体験した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の講演である(TEDより)。

 詳細は動画を是非ご覧いただきたい。博士によれば、我々人間は、感覚に彩られながら「現在」「この瞬間」を生きる右脳と、情報の整理や理知をつかさどり「過去」と「未来」に生きる左脳を、明確に持ち分けている。しかし現在を生きる私たちの多くは右脳の世界から離れ、その時間のほとんどを、左脳に従って生きているように思える。博士の言葉を借りれば、右脳が観る世界は、全てが一つとしてつながっており、美しく平和に満ちている。それと対比するように、左脳は、そうした感覚世界の繋がりから我々を個人として切り離し、別個のものとして認識させる機能を果たしている。そしてだからこそ私たちは「存在」し、社会を生きることが可能なのだという。

 この、少々精神世界的な、もしかしたらスピリチュアルに聞こえる「右脳」の世界は、ネイティブアメリカンの古老が唱える「ワンネス(自然と自分が一体となる感覚)」であったり、瞑想の実践者が語る「涅槃」のようなものに非常に近しく感じられる。もちろん小生がこのような実践をできるわけも到底ないのだが、現代社会にあまりにも欠けてしまった「自然感覚」のようなものを人間は取り戻すべきだと思う自分にとって、非常に示唆に富む講演であった。

 右脳と左脳の本質などわかる余地もない小生であるが、もう少しだけ、日常的に、「右脳」を研ぎ澄ませて生きることは可能だろうか。それは、世俗的な幸福感や達成感とは、もしかしたらかけ離れているのかもしれない。さりとて博士が話すように、自己の存在の確定には「左脳」が欠けてはならず、左右がともにあってこその、世界と自分である。このBlogだって一種の「左脳」の構築であり、自然農の日々の経験の記憶ももちろん「左脳」的であり、日常生活や将来設計に日々頭を巡らせているのも「左脳」の故なのである。そうした自分に喝を入れながら、もう少しだけ「右脳」的に。感覚的に。瞬間的に。
 小生の忘れっぽさと、体感の記憶を宿す性質は、果たしてそれを可能にさせることはできるのか。うーむ、むむむむ、生きてるって面白いじゃあないか。

 Facebookにてこの動画をシェアしてくださった友人に、心から感謝します。


 201301004goya.jpg

 朝晩の空気がシンと冷え、庭のゴーヤが弾けてきた。野菜も自然も、(DNAとして「記憶」を継続させながらも、)単体としては、今のみを、右脳的に生きているんだよね、恐らく。


第四十八候: 秋分 末候
【水始涸(みずはじめてかるる)】
=水が凍り始める=
 (新暦10月3日頃〜10月7日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※




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2013年10月20日

ガイア

長月十六日 雨

 地球は一つの生命体である。そんな文字に触れたのは、卒論に追われていた大学5年次の夏だったと覚えている。環境問題をテーマにこぶしを振り上げてしまい、何から手をつけていいものやら、と図書館にあるエコロジーに関する書物を片っ端から手にとっていた頃だった。

 ジェームズラブロック博士が提唱するガイア理論とは、地球は複雑多岐なプレーヤーが「恒常性」を保って存在する一つの生き物であるとする、科学的考察に基づく仮説である。地球という惑星を、物質的、機械的な入れ物としての、いわゆる「宇宙船地球号」のイメージとは別の視点で、まるで生き物のように自ら体温や循環を調節し、体調管理をしている生命体に近い存在だと提唱した。 恒常性とは、手持ちの辞書(大辞林)によれば「生体がさまざまな環境の変化に対応して、内部状態を一定に維持する現象。またその状態」と定義されている。彼は、その意味をこの地球に当てはめて考え、生物に限らずに、「ある一つのシステムがそのシステムの構成員自らが作用しあってそのシステムが維持するように作用しあう状態にある」として彼は地球を一つの生命体とみたのだろう。

 ワールドワイドに襲い掛かってくる、いわゆる「環境問題」に埋没しそうになっていた自分にとって、息抜きと高揚感を同時に与えてくれたこの本(地球生命圏―ガイアの科学)は、ともすればネガティブに向き合いそうになる「環境問題」をロマンチックに展開してみせてくれた。その大胆で緻密な仮説に惹きこまれたワクワク感は、今の自分ともしっかりとつながっている。


 結局、大いに刺激を与えてくれたその本を卒論に活かすことはなかったが、大学を出て程なくして、小生は再び「ガイア」という文字に再会することになった。それが、当時第四番が公開されたばかりのドキュメンタリー映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」だった。映画は、22年前の1992年に第一番が公開されてから現在の第七番(第8番は製作中)にいたるまで、全国各地で自主上映会が何度となく開催されてきた。小生も、2001年の第四番を観てからは各地で行われている上映会に足を運び、一番から七番まで全て鑑賞する機会を得た。そのたびに、映画に紹介される登場人物のメッセージに強く心を揺さぶられてきた。
(※過去記事「魂の友から」もご参照ください

 
 学生時代にガイア理論を目にし、会社勤めにでて映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」に出会い、そして自然農を暮らしのそばにおく人生を選ぶこととなった。地球と自然と人間に深く関わりながら生きていきたいと今でも思っているのは、映画に紹介される方々の素晴らしい生き様や言葉の奥底に、人間は地球(ガイア)という神秘と奇跡を味わいながら共に生きていくしかない、という希望に溢れたメッセージを感じるからに他ならない。
  
 つくばの地に移って自然農を始めて八年が過ぎた。そして今、小生の隣に、出会い方は異なれど同様に地球交響曲(ガイアシンフォニー)に感銘を受けて育った一人がいる。そして彼女は、その想いとともに、新しい取り組みを楽しむことをスタートさせた。


 「つくばで持続可能な社会を考えるプロジェクト」、通称「つくサス」が始まる ( ※サスはsustanable(=持続可能性)の略)」。 小生も正式メンバーにようやく加入し、さっそくこちらでも勝手に大宣伝することにいたします。
 「つくサス」プロジェクト、その第1弾はズバリ、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の上映会である。2014年1月25日、まずは第一番が上映。その後、数カ月おきに第七番まで、継続して上映会を重ねていくことになっている。大好きな映画を、一番大切な仲間と共に上映会を手がけられるなんて、なんてラッキーなんだ我輩は!


 また同時に、上映会に合わせて「話す・聴く・気づきのワークショップ」も開催することになった。静かに、たおやかに、地球時間を感じることが出来るガイアシンフォニーの調べを聴き、その余韻をもって、何もないけど何かが存在するゆっくりとした時間を過ごすワークショップは、通常の意見交流会とは違う、より印象的な参加者同士の響きあい(シンフォニー)が生まれるにちがいないと確信している。


 【つくばで持続可能な社会を考えるプロジェクト(つくサス)】 は こちら から!!

 
gaia裏表.jpg

チラシも完成! 是非とも皆さん鑑賞にいらしてください!!




posted by 学 at 18:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 地球を感じる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月22日

断酒なう

長月十八日 曇り時々晴れ

第五十一候: 寒露 末候
【蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)】
=蟋蟀(こおろぎ)が戸の辺りで鳴く=
 (新暦10月18日頃〜10月22日頃)
参考リンク [くらしのこよみ]

七十二候を“ときどき”取り入れています※

 
 ここ一ヶ月ほど、断酒してます。
 きっかけは自分から率先してではなく、半ば強制的に、半ば実利的に、なんだけど。

・ ・ ・ ・ ・

 この歳にもなっていったい君は何をしとるんだね。と、どこの誰かから言われそうで、そして今でも何かしらの気恥ずかしさもあって今の今まで書きあぐねてきたことがある。傍からみれば別段のことでもなければ、あるいは怪訝な視線を向けられそうな気もするが、小生、時折、治験ボランティアに参加している。先日は、「スギ花粉症患者への新しいアレルゲン免疫療法」(この辺り詳述はできませんが)を開発に協力する治験でした。

 聞きなれない方へちょいとご説明を。治験とは、医薬品もしくは医療機器の製造販売に関して、薬事法上の承認を得るために行われる臨床試験のことである。元々は、「治療の臨床試験」の略であるという。健康な成人男女を対象に行われる治験では、動物実験を経て生体安全性が確認された新薬候補を人間に微量投与し、その排泄や体調への発現などを調べることが主目的とされる。この段階での結果を元に、さらに新薬の対象患者への微量投与、続いて通常量投与の試験が行われ、審査された後、新薬が認められ世にでることになる。臨床試験の性格上、対象薬の効能を正確に観察するため、治験参加期間中の、飲酒、喫煙、対象薬以外の薬の摂取、激しい運動や不規則な就眠などが、治験の種類によって禁止される。(一部、wikipediaから引用)

 治験参加という行為に対して報酬の授受が発生することに、臓器売買のような嫌悪感が(体を提供しているイメージのためか)発生することを考慮してか、ボランティアという言葉が使用され、参加者は、アルバイト代ではなく負担軽減費という名の試験協力費を受け取ることになる。つまり、新薬開発の実験にあなたのお体を提供して社会貢献にご協力ください、という体裁で行われる、実質アルバイト的なボランティアなのです。もちろん安全性が十分に考慮された範囲の試験ではあるものの、薬害やネガティブな副作用などは世の全ての医薬品全般に必ず含まれる事柄でありその意味では決してリスクがないわけではないが、あくまでも微量投与であるという自己判断のもと、小生は今まで参加を決めてきた。

・ ・ ・ ・ ・

 一方で、現代医療と半ば確信犯的に距離を置き、風邪をひいては布団に入って寝てるだけ、切り傷負っても舐めるだけ、消毒も、殺菌も、投薬も、通院も、避けうるものならとことん避けて、毎日を過ごしている小生。胃腸が優れぬときは、自家製の梅肉エキスをひとなめ。農作業で足腰の具合が悪いときは、古武術的な体裁きとヨガ瞑想で微調節。花粉症にはセイタカアワダチソウやオオバコの自家製薬草茶で症状緩和。いよいよ寒気が止まらねば、蜂蜜生姜と葛根湯。そうして、四季を通じて暮らしている。幸い大病とは縁なくここまで来れたおかげで、自然療法、姿勢改善、辿りついても東洋医学まで、で貫いてきた。奇特な友人から、お前にあっているだろうと、体を洗わずに生きる野人生活のような本を薦められては、よし俺も、と膝を打つ始末。

 知人に医療従事者がいないわけでもなく、ブラックジャックも好んで読み、子供のころはNHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体」に目を輝かせてきた。日々更新される、生化学や近代医学が解明する人体の神秘にも、ワクワクしながら知的好奇心をかきたてられることもしばしばである。それでいながらやはり、自然をどこまでも細分化していく流れの西洋医学へ、心の本流が流されることはない。本来として完全であり、細にして全である、という生命体として生物を認識する自然療法や東洋医学の流れに、心が傾くのだ。それは、あくまでも自然環境全体を見ながら植物の栽培に人間が寄り添っていく、「自然農」に魅せられた者の、ひとつの宿命であるかの様にも感じている。

 自分の体を、自らの命を、他所の誰かに預けて健康を維持してもらう生き方ではなく、少しずつでも、日々の暮らしの中で気づきと調整を施しながら、心地よい身体をこしらえていく。それは、野菜たちが土壌や他の雑草たちとの共生の中で少しずつ豊かに育っていくように手を加えていく、自然農の田畑とまるで同じではないだろうか。本来、生物は、生まれながら十全に生きようとする力が備わっている。自然も、田畑も、もちろん人間も。対症療法的にあれこれ術を費やす生き方よりも、いま既にある、もしくは一時的に損なわれてしまっている(しかし元に戻ろうとしている)、本来の健康に自ら気づいて手を伸ばしていくような生き方。それって楽しくない?

 矛盾のうえで言えば、さりとて現代医学の進歩があって初めて解明され治療しうる病気は数知れず、その技術の発展の上にしか、自分たちの今の健康が存在しているだろうことも、十分承知している。風疹ワクチン、打ちました。口の中には、虫歯治療の銀歯が数本。西洋医学を影で支える輸血治療の大本に立つ献血は、暇さえあれば楽しんでいる趣味のひとつである。そして、ボランティアの名を借りた効率のよいアルバイトである、治験への参加(笑)。それでもなお、その必要性を知ってなお、やっぱり小生は「自分で治す」というロマンを手放したくはないのだ。

・ ・ ・ ・ ・

 話は戻るのだが、ということで、治験参加による二次的なメリットをあげるならば、事前検査や事後検査も含めれば数週間に及ぶ参加期間中、意欲的に「断酒」できることなのでありますわ。現在、断酒3週目。治験を終えてもいましばらく、せっかくなので一ヶ月達成に挑戦中。人生初の、ロングコース。今まで、酒が無くとも日常を営める妻を横目に見ながら、酒のない人生なんて暗黒だと思っていた。絶対無理だし、何を我慢できても晩酌だけはやめたくない、と思ってきた。 
 それがさ、自分の選択で、かつ必要性もあって、前向きなトライアルだと思ってやれば、身体や心の思い込みはいとも簡単に変えられるんだね。おそらく、習慣も、常識も、世の中のあらゆる囚われからはいつでもこうして自由になれる。いや、大げさでなくて。もちろん、おちゃけはこれからも大好きなんだろうけどね。

 いやー、それにしても禁断症状が出なくて良かった良かった。手が震えたらどうしようかと思ってました。そしてなにより、早く断酒あけのビールが待ち遠しいい!


追伸:そうそうおまえら、献血しろよ! 自分がいつ、輸血治療受けるかわかんないんだから!血は足りてないんですよー。
 ※参考:あなたもご協力を!命が救える身近なボランティア「献血」


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第14回 話す・聴く・気づきのワークショップ =11月30日(日) 開催=
 テーマを【生命(健康・病・自分で診る)】で開催します。
 参加者募集しております♪  ヨガプログラムもあるよ♪
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posted by 学 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 身体を見つめる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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