注)記事の日付は太陰暦を用いております

2014年09月02日

たわわ

葉月九日 晴れ

 雨続きの空がようやく太陽を取り戻し、久しぶりの気持ちよい晴れがつくばに訪れた。脳味噌に、腰なんて全然悪くない、と言い聞かせ、実際にぎっくり腰の怖さなどほぼ完全に克服し、ワクワクしながら田畑に出た。

 梅雨明け以降、じわりじわりと水位を下げてぐっと耐えていた田んぼ。腰を痛めたお盆のころには、すっかり表土からは水面が消え、稲自身と雑草、刈り草のカーペットが炎天下の蒸発を抑えてなんとかしっとりとした土を保っていた。そしてこの一週間断続的に降り注いだ残暑の雨。久しぶりにゆっくりと足を踏み入れた田んぼ。

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 なんとまあ、たわわに、たっぷりと、ほとほとに、雨水、沁み水が水田をきらめかせていた。

 たわわ、である。水は命の象徴だと、本能的に感じられるほどに、何かしらの豊かさのオーラのようなものが溢れていた。数週間前に腰痛まえに手を入れていた草刈りも嬉しいほどに効果を発揮していて、雑草は、モリモリと分蘖(ぶんげつ、ぶんけつ)する稲株の合間に、下草程度にちらほらと生える程度であった。そのちらほらの草を、小一時間程度で簡単に刈りながら田んぼを回る。腰をかがめながら、時折、稲株の下からの眺めを楽しむ。水面に水草をたゆたえ、空に稲の葉を茂らせる自然農の田んぼを覗いていると、ふと想いは、ボートに乗って探訪した中南米やアジアのジャングルクルーズへ。楽しい〜〜♪


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 思いを込めて取り組んだ作業が、自然の天候に左右されながらも地道に目に見える形で功を奏してくれるのも、たまには悪くない。腰の痛みに寝かされていた2週間のソワソワが、さーっと霧が晴れたように霧散していった今日の田んぼであった。


 たわわ〜たわわ〜たわわ〜♪


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 ※たんぼに水が張る様子を「たわわ」と表するのは辞書的には間違いですが、どうしてもこの言葉しか浮かばなかったので悪しからず、お許しください。

 

第四十一候: 処暑 末候
【禾乃登(こくものすなわちみのる)】
=稲が実り始める=
 (新暦9月2日頃〜9月6日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年09月09日

再会

葉月十六日 晴れ

 大学以来の友人が、Facebook経由で再会し、畑に遊びに来てくれた。都内でイタリアンを営むご夫婦の奥方。彼女も小生も、ともに大学時代の専攻からかけ離れた職種に現在身を置き、食育とか、スローフードとかに縁があって、そしてつくばにも縁があって、フットワーク軽く都内から訪問してくれた。

 夏の名残の強い陽射しと秋風の混ざる畑のガーデンテーブルに座り、子育てやら農業やら地球規模の問題(?)まで話を膨らませてあっという間の数時間。また再会しましょうと畑のジャガイモを手土産に帰っていった。

 数時間の二人の話の結論としては、結局人間はどんな状況になっても「生き抜く力」が重要だ、ということに。自然農であったり、イタリアンであったり、それはそれぞれに人生を費やしていますが、また何かどこかで、面白いことができるといいね。

 そんときは野菜使ってくれい。そしてとにかく、共に楽しく生き抜いていきましょう。

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 そのうち、こんなモリモリ野菜を届けられるかもしれませんので♪


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2014年09月10日

月とジャガイモと兜

葉月十七日 曇り

 スーパームーンも十五夜も十六夜も、長女が19時就寝の我が家ではまだ季節の行事にはならない。それでもお月見の話はして、月に見立てた蒸しジャガイモを食べて過ごした今日この頃。娘としては、「花より団子、月よりジャガイモ」で満足だった様子。月の代わりに、イモを愛で、栗を眺め、豆を楽しむ。よしよし、すくすく育っておくんなまし。  

 
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 〜栗ひろい 月には捧げぬ 娘かな〜



 季節の行事といえば、この夏の誕生日に折り紙本をプレゼントしてもらった長女。なんとか自分で頑張って色々折っているものの、なぜかこの季節に、ご機嫌で「かぶと」を折ってかぶってきました。丁寧に、自分用と、ぬいぐるみ用も用意して。 まあいいや、すくすく育っておくんなまし。
  
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 〜名月に 兜を折りて 秋を待つ〜


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2014年09月12日

五感すべてで

葉月十九日 雨のち晴れ

 立秋(8月7日ごろ)から秋分(9月23日ごろ)までの、ちょうど夏と秋が交差するこの時期。春から夏への、万力で締め上げるようなじわりじわりと暑さがにじり寄ってくる様と違い、実に清々しく、秋が押し寄せてくる。その様子を、まざまざと五感で感じられるのが、白露を迎えるこの時節である。

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 朝7時、しっとり明るくなった畑の中を歩くと、盛夏の頃には及ばないものの、足元の露が地下足袋がじっとりと沁みて、思わぬ足の冷たさに気づく。夏至を過ぎた7月の頃なら、朝5時前から田んぼに埋もれて田植えをしていれば、7時になるころにはもうギラギラの太陽が首を焼き始めていた。足もとの水田からはむんむんとした湿気が立ち込めて、あっという間に玉のような汗が額から噴きだす。それに比べてどうだろう、この朝露の冷たさは。このあきらかな肌感覚の違いに、季節の移ろいを生々しく感じさせられる。


 夏の盛りの梅雨明けの畑には、濃緑色の雑草が、この世の春とばかりに(夏ですが)光合成を満喫する。その色は、紫にも群青にも近いような、果てしなく濃い、緑色である。自然農の野菜の淡色の緑に比べて、その雑草たちの吸い込むような緑は、何年過ごしても息を呑むほどに深い。9月、朝露の畑から腰を上げてふと周りを見渡すと、畑のあちらこちらに、早くも種をつけ始めたマツヨイクサや萩の種が黄緑色から薄茶色に変わり始めている。深い緑の洪水は徐々に色を落とし、朝露が乾くたび、一日一日少しずつ、畑を秋の色に塗り替えていくようだ。視覚で味わう、秋の入り口である。

 
 草刈りの続きをすべく腰を落とすと、耳に届いてくるのは、コオロギの大合唱。あれほどに、大音響で世界を包み込んでいたセミのオーケストラはどこへやら、いまやツクツクホウシが申し訳程度に遠くの林から鳴くばかりである。時折雲間から届く強い陽射しに夏の名残を感じるものの、やはりセミの大音響がないとどこか物足りない。あの暑苦しさの記憶はセミと共に消えてしまったのだろうかと思うほどに、秋の虫の声は、涼しさを届けてくれるようだ。


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 畝の合間を草刈りしながら進んでいくと、鼻をかすめるのは夏に刈った草がしっとりと枯れていく腐葉土の匂いだ。真夏の草刈り作業は、とにもかくにも「草いきれ」に包まれていた。ムンと匂い立ち、息がむせるような瑞々しさと猛々しさの混ざったような臭気。自身の汗の匂いと絶妙にブレンドされて届くその香りは、まさしく生命力に溢れているようだった。今、草間から香るのは、夏に刈り倒れたのちに分解され始めつつある、優しくも力強い枯れ草の空気だ。しかしそれは晩秋の眠りゆくような静かな匂いではなく、これから秋が深まるにつれて熟成していく前の、どことなく若々しさを感じさせるような、青さを残している。それもまた、この時期にしか味わえない独特の、爽秋の匂いである。

 
 夏の炎天下に、早採りのキュウリをもいでかじったあの味は、まさしくオアシスの味だった。旨みというよりは、価値は水分にこそあり、自分の欲するものとキュウリが蓄えようとするものが一致し、ジューシーで弾くような瑞々しさに喉を潤していた。そのころのキュウリと今のキュウリは、同じ種類だろうかと首を傾げるほどに味が変わったように感じる。水気がしまり、細胞の一つ一つに旨みが宿るような繊細な味わいを、おそらくキュウリ自身も準備し、こちら側もその味わいを感知する用意ができているのだろう。この夏から秋へ進む季節が届けてくれる、ほのかな、たしかな秋の味覚のひとつである。

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 全身で、五感全てで感じる、季節の移り変わり。雑草が生え、機械音にさえぎられず、肥料や農薬の匂いに邪魔されることのない、自然農だからこそ味わえる、この醍醐味。たとえ毎日ではなくとも、週に一度でも、月に一度でも、自然農の田畑に立って季節を過ごせばこそ、体に沁み込んで体感できるのだ。映画やテレビの3D作品や、ハイテクアグリビジネスや屋上菜園では決して手に入らない、なにかがある。原始と文化が同居し、かつ自身の感覚を開放することで手に入る、人間のもっともシンプルな「楽しみ」がここにある。


 さあ自然農、始めちゃおうよ。 
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 ※つくし農園 プレーヤー随時受付中♪



 そうそう、忘れちゃいけねえ。野良仕事を終えた後の最後の締めに訪れる、夏から秋への最大の変化を感じる瞬間を。

 真夏の最高の楽しみだった、キンキンに冷えた井戸水の水シャワーが、恐怖に変わり、ついに給湯器のスイッチを入れる。そしてお湯シャワーのホカホカに、心ゆくまで包まれるこのとき。全身全霊をもって、秋の始まりを実感するのだ。



第四十三候: 白露初候
【草露白(くさのつゆしろし)】
=草に降りた露が白く光る=
 (新暦9月8日頃〜9月12日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


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2014年09月19日

筑波山脈?

葉月廿六日 曇り時々晴れ

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 穂紫蘇が実をつけ始める頃。雨が降り、日が差し、空は天高く。風は冷たく、蚊は肥大し、いよいよ秋本番へ。

 秋の野良仕事もピークに差し掛かり、毎日(時々休みながらも)フルで田畑で過ごし、夕方見渡す空が息を呑むほどに美しい。

 ある日は、西の雲の合間から放射状に差し広がる夕焼け。またある日は、見事に鱗(うろこ)状に描かれた鰯雲。そして先日の曇天の夕暮れ。畑の北東の宝篋山(ほうきょうざん)には、いつもは山の向こうには山陰などなく、背景には空が広がるだけなのだが。しかし、その日は見事なまでの黒雲と白雲のグラデーションにより、あるはずのない山脈が突如現れた。

 まるで長野か山梨の、アルプスの連峰の裾野にいるかのような不思議な感覚。浅い尾根から霧が被るように雲が流れ、その奥にはさらに険しい山が控えているかのような、そんな景色。まるで、筑波山脈。

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 ここつくばに来て、初めて目にしたこの風景。なんだか得したような、旅したような、そんな夕方。日々是好日。


第四十五候: 白露末候
【 玄鳥去(つばめさる)】
=つばめが南へ帰っていく=
 (新暦9月18日頃〜9月22日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2014年09月29日

恋人の味

長月六日 晴れ

 自然農の野菜はどんな味なんですか?

 雑草屋として自然農の野菜を少ないながらも人の手に届けるようになってから、幾度となくこの質問に答えてきた。野菜をお渡しする前に、「実際に食べてみてください!」とは以前はなかなか言えず(今では図々しく言えるようになってきた)、コミュニケーション能力を最大限に高めてどうにか自分の伝えられる範囲で対応してみるが、なかなかどうして、今でも、すんなりとは上手くいかない。


 数年前の出来事。とある連休に、前職時代の友人が友達二人で農園に遊びに来てくれたことがあった。10年来の付き合いの、フランクな会話を楽しみ会える友との酒の肴といえば、楽しい会話のキャッチボールであり、当然夜更けまで語り尽くした。翌朝、二日酔いの頭をたたき起こして台所に立ち、自家製米と手作り味噌汁と他一品、適度に自然農の恵みを混ぜ込んだ朝餉を並べることができた。
 二人とも、お世辞交じりにも旨いと言ってくれた会話の中で、「今までの中で、一番これはうまいなあと、リピーターがついているような自然農の野菜って何ですか」と尋ねられた。しばし思い起こし、「枝豆かもなあ」と答えてみた。色々と記憶をたどってみると人それぞれにお好みの野菜はあるようにも思えるが、しかしやはり一番印象が鮮やかなのは、やはり枝豆なのであった。

 お二人の出立が近づいていたので朝餉の時間はそれほどのんびりとは取れなかったのだが、ふといただいた興味深い問いかけにしばし時を忘れ、食事中にも関わらず思わず箸を置いて考えをめぐらせた。そのときの雑然とした思いは、数年たって確信に近づき、枝豆の季節が近づくたびに、このときの会話を思い出す。

 自然農の野菜はどんな味か、そのときの会話でめぐらせた思いが、きっと、その答えの鍵になっているに違いない。
 

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 なぜ枝豆がリピート率を誇るのか。

 まずここで、枝豆を食べるシーンを考えてみたい。ビールのおつまみにせよ、夕食の一品にせよ、他の商品と比較してみても、枝豆を口にするシーンにおいて、人々は、枝豆そのものの味わいを楽しみにして食べることが多い。その結果、枝豆の味に対して私たちは、他の野菜に比べてその枝豆自体の微細なさまざまな食味を、無意識的に記憶しているに違いない。その記憶はきっと、無意識ながらも明確に舌に残り、枝豆を食べるシーン折々ごとに、鮮やかに蓄積されていく。そのくっきりとした「味の記憶」が残る枝豆であるが故に、自然農の枝豆の衝撃的な旨み(甘み、コク、香り、膨らみ)がまざまざと記憶され、「自然農の枝豆は美味い」という感想が得られやすいのではないだろうか。

 一方で、小松菜やジャガイモなど他の自然農野菜が、小生が感じるほどにはその旨みに比例せず、枝豆ほど感動を呼ばないのにも、そのあたりに理由があるのではないかと思われる。小松菜やジャガイモなどの日常野菜は、主に、ありふれた日用食材として「加工されて」食されることが多く、枝豆とは違い、素材そのものの味わいを楽しむという機会が実はほとんどない。言い換えれば、それらの野菜は、もともとの食味の記憶を明確に刻印するチャンスが、枝豆にくらべて圧倒的に少ない。加工され、味付けされ、料理の一素材として調理されるため、野菜そもそもの味の記憶があいまいになっているのだ。例えば小松菜はおひたしとして、鰹節や醤油の味に主役を奪われ、例えばジャガイモは、カレーや肉じゃがなど、他の調味料や具(カレールーや牛肉など)に、美味しさの記憶を明け渡してしまっている。カレーライスで、ジャガイモの美味しさを記憶する人は、それほど多くないだろう。素材感を楽しんでいるような気がするじゃがバターであっても、実はバターと醤油の旨みあってのじゃがバターであることも少なくない。

 つまりは、特別な機会を設けて「食べ比べ」でもしない限り、一般的な野菜は、「栽培方法の差異」は味の違いがライブ感として認識されず(そもそも記憶があいまいなため)、どちらかと言えばなんとなく甘い、であるとか、なんとなく香りが強い気がする、程度の食味の違いでしか、反応されにくくなっているのではないかと思えるのだ。(もちろん世の中に、「旨い」と宣伝されるプレミアムな野菜が存在することは否定しません。)

 若干蛇足にはなるが、その点子供(とりわけ未就学の幼児)はまだまだライブに生きている。つくいちなどの対面販売の機会で試食してもらうと、まず真っ先に明瞭に反応するのは子供たちだ。例えばグリーンピース、例えば人参、家では絶対に食べられないと母親が懸念しながら興味本位で試食した子供が、「美味しい〜♪」と頬を緩めてニッコリして、母親が驚くという光景を、何度も目にしたことがある。いわんや枝豆をや。目つきが変わって何度も試食をほしがり、「これ以上はお家で食べてね♪」と応える小生に、母親が財布の紐を緩めるというやり取りが、幾度となく繰り返されてきた。



 では自然農の野菜は美味しいのか否か。

 実は私にとっては、本当に美味しいかどうか、という質問はあまり意味をなさない。上に書いたように子供の反応を取り上げて、「やっぱり自然農の農作物は美味しい」と言うことだってできるが、それは本当はあまり意味がないのではないかと思っている。

 本来「味のおいしさ」とは、体が旨いと感じる絶対的な旨さと、頭で判断して美味しいと感じる知覚的な美味しさの2種類に分けられる。前述のように子供が反応するおいしさは、おそらく絶対的な旨さである。それに対して我々大人の多くは、頭で考えて感じる知覚的な味覚によって、随分と偏って美味しさを判断しているような気がしてならない。その、頭で考えて判断するための重要なキーワードは、情報、そしてイメージである。行列店は美味しい、いや隠れ家的な店が美味しい、取れたて新鮮が美味しい、初物は美味しい。その数多の情報とイメージによって既に食べる前に味はほとんど決定しており、また、誰と食べるか、というシチュエーションも掛け算されて、素材そのものの味云々よりも、つまり頭によって味の記憶が決定されることが多いのだ。

 声高に美味しさを宣伝する、自然農野菜や有機野菜、ほかにも様々に工夫をこらした特別栽培された農産物、それらが本当の意味で美味しいのかどうか。それは、実は誰にもわからない。人によっては、糖度が高いから、とか栄養価が高いから、とかアンケートを通して、とかで美味しさを評価することを優先順位に上げたりもするが、それはそれである。

 味の判断基準そのものが、情報やイメージが優先されやすい傾向があるのだとしたら、自然農の野菜を美味しいかどうか判断するのはある意味簡単だ。その人にとって、自然農(という栽培のプロセスや意義)に対するイメージが好意的であるなら、それは間違いなく美味しい。あるいはそれを栽培する人に対して、好感を持っているのであれば、それもまた美味しさを演出する。そしてその逆もまた、真である。

 自然農の野菜が美味しいかどうか。それは、実は美味しく食べる為に欠かせない「スパイス」によって決まる。その「スパイス」とは、結局はこの野菜がどのように育ったのかという「背景を知る」ことなのだ。さあ、自然農で育つ野菜たちの幸せさをイメージしよう。化学肥料、有機肥料によって太らされるのではなく、自分が育つだけの分を他の雑草たちと分け与えながら適度に生育した、控えめで優しいイメージ。農薬や土壌改良剤や耕運機によって、微生物や昆虫や動物が住むことを許されない土ではなく、根っこの隣や草葉の影に賑やかしく他の命が溢れる、豊穣で健やかなイメージ。そのイメージにプラスして、顔も知り、性格も見知ったヒゲ面のややこしい想いも、アクセントに加えてみる。

 そうした背景を知って味わう準備が整った上で、本来の自然農の野菜が持つ「味」が、舌に放たれる。その野菜が、その味が美味しくないわけがない。(そしてもちろんここでも、その上で「おいしくない」と判断されることがあるのも、十分承知しています。)


 さて、話を少し脱線してみる。人々が、グラビアアイドルや芸能人を愛でる時の「味わい方」と、隣にたたずむ現実の恋人を慈しむ時の「味わい方」では、明確に論じらることはあまりないが、その「味わい方」はまるで違う。その理由は、グラビアアイドルの場合は顔の造形やスタイルの良さを視覚情報でのみ愛でるのであり、もしくは芸能人や歌手であれば、その視覚情報に加えて歌唱力であったり演技であったりは加味されるものの、あくまでも伝えられる「情報」によって愛でて味わっている。それに対し一般的には芸能人ほど外見が整っているとはいえない場合が多い彼女や妻ではあるが、それらを愛する場合は生い立ちや性格や内面などの、いわゆる背景込み、そして存在そのものを愛で、愛して、味わっている。(もちろん異論は認めます。)それはまさに、自然農の野菜を食べるのと同様に、「背景を知る」からこその美味である。

 つまり、自然農の野菜を食べる楽しみには、恋人や妻を愛するのと同様の楽しみが隠されていると言ってもよい。そして実はこの脱線した話こそが、味の本質、美味しさの真髄につながっているのだ。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 なぜ自然農の枝豆が美味しいのか、という話からだいぶ話がそれてしまった気がするが、いい加減まとめましょう。

 まず第一の理由は、その前提条件にある。枝豆を食べるという行為そのものに、野菜の本来の味を楽しもうという準備がされていること。「味わおう」という感覚が用意されているが故に届く、比較の美味。

 第二の理由は、雑草屋が自然農で育てた野菜を食べるという行為に、「背景を知って食べる」という、味のポテンシャルを引き上げる要因が隠されていること。背景を知るが故に広がる、恋人の美味。

 そして第三の理由は、その二つの条件が整った上で、満を持して舌に放たれる、本来の自然農の枝豆が持つ旨みそのものの実力。期待を超えて想像をはるかに上回る、衝撃の美味。


 その3つが必然的に満たされた、我らが自然農の枝豆が、美味しくないわけがない。一般的に枝豆の旨さとしてのキーワードとしての、香り、甘み、コク、があげられるが、その全てを、市販の枝豆(それは高級な枝豆やブランドだだちゃ豆なども含む)を衝撃的に上回る。味覚というものは個人個人によって違うし、大半は情報やイメージによって左右されるとわかった上で、それでも、この枝豆を手にして、口にしてくれた方たちが、「うまい!」と舌鼓を打ってくれることを信じて疑わない。

 そしてそれが「自然農」の魅力の一つになり、自然農に興味をもってくれるきっかけになってくれるのだとしたら、こんなにも嬉しいことはない。

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 個人的には、第二の理由、恋人の味こそが、自然農の作物たちが美味しく感じる秘訣なのだと、愛しい我が枝豆たちを味わうにつけ、感慨にひたっているのであります。

 ちょっとした、変態なのかもしれないけど。



 ※過去のBlogではこんなこともやってました >> 「おいしさ」





posted by 学 at 16:44| Comment(3) | TrackBack(0) | 食の喜び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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