注)記事の日付は太陰暦を用いております

2014年11月12日

真ん中

閏長月廿日 曇り

 自然農ライフ。

 いったいなんのことやら。種を蒔き、草を刈り、収穫して、お裾分けする。
 時に人を招き、体を動かし、話し、思う。起きて、食って、歩いて、仕事して、愛して、呑んで、寝る。
 それだけのことだ。いや、それだけのことか?

 この日々の真ん中には何があるのか。

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 今月、10月いっぱい販売に明け暮れた枝豆の集中月間が過ぎ、気がつけば稲刈りも、来春の作付けも、思うようにままならない。じゃがいもや枝豆を喜んでいただけた方々に、得難い感謝を覚え、もっともっと自然農の「美味しさ」を届けてみたいと望む自分。畑を見れば、里芋、生姜、菊芋、アピオス、小豆、旬の味覚が今や遅しと収穫、販売を待ち望んでいるように映る。

 自然農の晩秋は短い。11月は文字通りあっという間に進み、気が付けば、ソラマメもエンドウマメも麦も、種蒔きできる時期が終わりへと差し掛かろうとしている。枝豆の販売を機に、月に数度の定期的な直売ができるようなご縁に恵まれた。作物は畑にあるので、随時収穫していけば定期的な直売も継続できる。しかし。


 しかし、直売を11月も継続することでお客さんへの信頼度を深めようと提案してくれる妻に対して、小生は、畑を優先することを選んだ。今の作業濃度を考えれば、収穫と種蒔きを同時に進めることはできない。定期的な直売を継続するための収穫作業を進めれば、播種作業に手が回らない。この時期の播種を逃せば、来春の販売作物の収量が大きく損なわれる。それは、百姓にとっては、本末転倒に他ならない。さらに、そこに稲刈りのタイムリミットも重なってきている。かろうじて、里芋や生姜など、畑で出荷に備えている作物たちは、まだ霜の降りていない土の中で待ってくれている。播種期のハイシーズンが終わりを迎える11月下旬から収穫したとしても、それから直売できるのだ。

 だから、11月は直売を休んで、種まきに明け暮れたい。



 ともすれば、いったい野菜なんか売って何の意味があるのだろうか、なんて考えないこともない。買ってくれる人からすれば、自然農だって有機農だって慣行農(普通栽培)だって大した違いはないかもしれない。そうだとすれば、もっと効率よくたくさん育ててたくさん売って、それで収益を上げることだって意味があるのかもしれない。

 でもやっぱり、嫌なんだよね。

 自分にとっては、無肥料で、無農薬で、不耕起で、手作業で、収穫のためだけの農業ではない、自然農でないと、意味がない。そして、そのエゴを、商品として押し付けていることにもなる。

 それでいいのか?と自問しながら。
 それでいいだろ?と自答しながら。

 田んぼには、稲刈りを待つ稲が。
 畑には、収穫を待つ里芋が、カブが、大豆が。

 そして己の真ん中には、自然農の日々を楽しむ自分が。
 
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 そんな毎日の自然農ライフです。




 さりとて、いつでもお届けする準備はできている!
 それはそれなのである(笑)。
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秋冬だより【雑草屋本舗】

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2014年11月23日

アート爆発

神無月二日 晴れ

 秋はスポーツとはいえ、つくばマラソンランナーを、娘とヤギと共に筑波大学で見物してそのまま畑へ。娘はマラソンに数ミリほど感化されて、この日はよく体を動かし、田んぼの畦道を3周したり、畑の空き地を10往復走ったり、その程度の、スポーツの秋。


 秋は芸術も。芸術といってみても、毎日が畑と田んぼ。幸いにも自然農、見歩けば、自然の造形はあちらこちらに。

 田んぼには、稲刈り最晩期の水田の足元に、あちらこちらに鳥の足跡。籾を啄ばみ、はたまた虫を啄ばみ、湿り気の残る泥の上に、くっきりと文様を描いて残す。あまりにも原始的で、かつ即興的な、プリミティブアート。

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 刈った稲を干せば、そこには神々しさにも近い、稲穂と稲藁の組み成す造形美。逞しさ、猛々しさ、芳醇さ。ここに極まれり。

 
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 畑では、大豆を収穫しては、いそいそと干し場に並べていく。山のように、ピラミッドのように、積み重なりのフォルムが可愛らしく。

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 自然のアートに負けず、娘もひと作品を畑に添える。ペットボトルを親子で工作した風車に、青空の下でマジックペインティングを施す。夕刻、大豆の干し場に隣接したひと隅に、大豆を狙うカラスを追い払うに迫力十分の、極彩色の風車が飾られたのであった。感性を、なかなかに爆発させて。

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 あまりにも出来がよく、裏からも一枚。

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 こうして自然農の秋も満喫するのである。材料費ほぼゼロ、交通費ゼロ、観光費ゼロ。娘よ、すまん!



 
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2014年11月26日

晩秋アンダー雨

神無月四日 雨

 旧暦の神無月。前の月周りが閏月(閏月については過去のBlog記事「うるうづき」参照)であったせいか、例年よりも神無月が遅くやってきて、どこかしらのんびりとした秋の歩みを感じていた。さて月が明けて四日。数日前のポカリとした陽気に油断していたら、いよいよ季節を一歩も二歩も進めるかのような、冷たい雨が訪れた。

 晩秋の雨はやっかいだ。米に、豆に、刈り進めて天日で干して脱穀にどんどん移りたい作業を、そうはさせじと足止めさせる。かろうじて、雀の攻撃を恐れて例年よりも早く刈り終えたかった稲は、今日の雨の予報に肝を冷やして、前日に車のライトを利用しながら夕方遅くまでかかって、すべて刈り終えることができた。その分後まわしになって畑に佇んでいる大豆たちは、おそらくこの雨の過ぎたあとの空っ風に煽られて、鞘を勢いよく弾けさせて畑に豆を飛ばし落とすことになるだろう。先に刈って干し始めている枝つきの大豆たちも、一旦はブルーシートを被せて、雨を避けて一休みといったところである。
 
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 その一方で見方を変えれば、雨ならば、と重い腰を上げて別の作業に取り掛かるチャンスにもなる。雨の強まらないうちに畑で掘りあげた里芋や生姜を、雨脚の強まった庭のテラスの軒下に腰をかけて井戸水で洗っていく。晴れるとついつい畑での作業を探してしまう自分にとっては(そして出荷をお待ちいただいているお客様にとっても)、恵みの雨と言えなくもないのだ。 

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 このところの季節の追い込みですっかり冬に近づいた畑だったが、冷たい雨は、さらに畑の色を変えていくだろう。朝の冷気と重なって雨に濡れる草々たちの、その色は実に淡いものであるが、しかし意味合いの濃い、今年のひと巡りを閉じようとするメッセージが込められているような、そんな色であるような気がして、ついついカメラを向けてしまう。

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 晩秋の冷気にあたった未成熟のトマトが、いったいどうやってその命を閉じていくのか。そんな、現代社会ではまるで取り沙汰されることもないだろう出来事を、トマト好きの人間のうちいったいどれほどの人が見たことがあるんだろう。自然農の畑の中で雨に打たれながら枯れゆこうとしているライトグリーンのトマトの実をながめ、ふとそんなことを考えて、その考えもすぐにどこかへ去り、また庭の芋洗いの作業に戻った、雨の下の晩秋の一日。

 
 
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2014年11月28日

家族

神無月六日 晴れ
 
 夫婦と家族は違う。明確にそう思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 先日、小生の両親が、孫の顔を見に我が家を訪れた。孫を喜び、あやし、外食し、そしてまた実家に帰っていった。TVもない我が家での時間は両親にとってはどこかしら手持ち無沙汰であり、退屈であったようだが、孫と過ごしたからそれだけで満足はしたようで、また年始に会う雰囲気を共有して、するりと帰っていった。
 
 息子の自然農の畑にはさほど興味もわかず、娯楽はほとんどないが絵本だけはアホみたいに並んでいるリビングの子供本棚にも目も向けず、なんとなく過ごし、それでいいのだ。

 おそらく両親たちは私たち夫婦の選ぶ暮らしに対して、幾ばくかの(きっと大いに)違和感を感じているだろう。我々も、愛情の表現として常に「何か買ってあげる」と消費に向かう両親の好意などに、幾ばくかの違和感を感じ、しかしありがたく受け取っている。そこには、違和感もあり、それと同時に、理屈を超えた共有感が確実に存在している。

 きっとまた年始に、子供を連れて実家に帰省し、同じような違和感と共有感を楽しんで過ごし、そうして家族の思い出が積み重なっていくのだろう。そして同じことが、我が子たちと私たちの間にも、きっと繰り返されていくのだろうと思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 かつて、共同体としての継続、繁栄を目的に、家と家のつながりを最優先に交わされてきた夫婦であり家族という時代があった。その頃、社会では、おそらくその二つは重なり、同類の概念で育まれてきたはずだ。

 現代、そしてこの国で、恋愛を含む、個人間の契約という性格がほぼ大半をしめる結婚という結びつきにおいて、夫婦と家族が同じ括りにあるとは思わない。
 夫婦とは、出会いがあり選択があり葛藤があった末の、「一緒に暮らす」という合意を経た共同生活者である。一方、夫婦以外の家族、つまり父であり母であり兄弟であり子であるいわゆる血縁者とは、合意なしに強制的に(ある一定の期間を)「一緒に暮らす」ことを余儀なくされた共同生活者なのである。

 その意味では夫婦とは、曲がりなりにも、趣味や性格や価値観などで、あるレベルの共有が前提であるため、かつ自身の選択も背景にあるので、「一緒に暮らす」ことは意思と責任が伴い、多少のすれ違いや違和感があったとしても乗り越えていける理論的な根拠が存在する。

 しかし夫婦以外の家族はそうではない。そもそもが個性としてそれぞれ別個である個人個人が、たまたま血が繋がっているというだけで「一緒に暮らす」ことを社会的に強制されているに過ぎない。その共同生活には、価値観の共有や性格の一致などの、一般的に心地よいとされる人間関係においての前提条件が、実は存在していない。そして、このことを指摘することは、なにかしらのタブーのような雰囲気があり、そこまで取り上げられることは寡聞にして多くない。
 
 それでも、家族は家族である。そして、だからこそ、家族なのである。

 
 それは、「愛」だから、ではない。愛ももちろんあるだろうが、今ここで、そのことについては触れるつもりはない。
 当たり前ではあるが、家族だからといって、価値観も、性格も、趣味嗜好も、決して同じなわけではない。それどころか、「どうしてこの親から自分が?」「父親のあんなところはどうしても我慢できない」「兄弟でどうしてこんなにも性格が違うのか」など、家族間での違和感を感じることのほうが、共有感よりも多いのではないだろうか。

 それでも、この両親に生を受け、育てられ、ともに暮らし、そして子を授かり、育て、暮らしていく。そこに、理由はない。その理由は、家族だから。


 その「家族だから」という言葉に、理屈や説明や理解を吹き飛ばすような力強さがある。

 一人一人にとって、家族は全く違う意味をもって存在している。大好きで、仲良しで、性格も似ていて、一緒にいて何の苦痛もない家族もあるだろう。離れていても、思えば懐かしく愛おしく感じ、時々声も聞きたくなるような関係もあるだろう。一緒に暮らしてはいるが、顔を合わせれば文句を言ってしまったり、無言ですれ違い、歯車が合わないような家族もあるだろう。性格が合わないし、会えば不平不満を言ってしまうが、なんとなく助け合っている関係。1年に何度も電話もしないのに、正月は必ず実家で過ごす繋がり方。

 そのそれぞれの家族のあり方に、実は、価値の優劣はない。なぜなら、先に述べたように、夫婦間とは異なり、血縁関係の家族とは、社会として有無を言わさずに自分の選択なしで「強制」された共同生活者であるという性格があるからだ。

 家族と仲良しなことに明確な理由もなければ、仲が悪いことにも明確な理由はおそらく存在しない。それは、たまたまであり、運であり、あるいは努力もあり、愛でもある。家族関係を良好に継続にすることは、個人で選択できるが、そもそもの個性の差異については、選択できるものではないからだ。

 だからこそ、私たちは家族関係に悩み、憂い、喜び、安堵する。それはその人にとって本当に大切なテーマなのだけど、実は、思い切って宣言してしまえば、家族なんて、ただの血が繋がってるだけの他人だと言ってもいいのだ。

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 つい今年の夏まで、自分はなぜ、あの家族の中で育ったにもかかわらずここまで趣味嗜好行動選択の異なる個性が生まれ育ったのだろうかと、どう考えてもわからなかった。それがこの夏、何がきっかけだったか詳細は忘れたが、自分という個性がこの家族だったからこそ確立したのだという確信にたどりつくという大転換が起きた。

 親友とのたわいもない(いや、結構ディープなトークかな)対話の中で、母親の「ありのままスキル」が異常に高いことに気がついたことがあった。教育や子育てに対して何かしらの哲学や理念がきっと深くはあるわけではない母であったが、彼女はおそらくありのままで私に接していた。自分がしたいことはするし、合わないことはしない、世間に流されもするし、不平不満も言う。美食も楽しみ、教育ママにもなり、夫に従いもし、口げんかもする。当たり前のような気もするのだが、そこで自分を抑えて理想の母親らしく振舞おうとしたり、夫の顔色を伺いすぎたり、子供の機嫌をとったり、という母の姿を目にした記憶がない。自分がきっと母から受け取ったバトンは、その「ありのままスキル」なのだった。一般企業を退職し、自然農を隣に置いた暮らしをし、世間一般の価値観にそれほど気を置かずに、そのお陰で今の多少でも幸せな自分が彩られているのだとしたら、それは、母がいたからこその、母がありのままで自分を育ててくれたからこその、私なのである。価値観や趣味嗜好に、断崖のような壁があったとしても。つい最近まで、公務員就職の夢を息子に抱いていた母だったとしても。

 それまで母と自分を個性の異なる理解しがたい血縁者としていたが、以来、この母にして我あり、という奇妙な連帯感も(勝手に)生まれている。そして同時に、以前とほとんど変わることなく、価値観の違いにモヤモヤしながらの、親子関係(家族関係)が続いていくのである。

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 あらためて話すほどのこともない気もするし、しかしよくよく考えてみれば無限に話すこともあるような気もしてくる、「家族」についての思い。

 そんな「家族」をテーマにして、12月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」を過ごしてみます。誰にでも当てはまるテーマだからこそ、あらためて話して、聴いてみたい。そんな方、お待ちしています。

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photo image taken by ikki


第21回 話す・聴く・気づきのワークショップ
=2014年12月20日(土) 開催=

 今回のテーマは【家族 (親子・夫婦・一番近い他人)】です。
 参加者募集しております。



posted by 学 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 故郷の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

どんな出会いが

神無月九日 晴れのち曇り 

 雑草屋として、本人たちも忘れかけたような頃に、ぽつり、ぽつりと、自然農を体験したいという方たちが我が家を訪れる。農作業の手伝いを日長たっぷりしてもらい、夕食を囲み、団欒し、また朝から自然農の田畑へ。 思い思いに、草に囲まれた農園での一日を過ごし、自然農を縁とした一期一会を楽しんで、また日常へ戻られていく。

 LONOF(Local Oppotunity on Natural Organic Farm、ロノフと呼んでください)は、WWOOFに敬意を表して一部スタイルをお借りした、雑草屋が展開する自然農体験宿泊の取り組みだ。数年前から、誰にも知られず、ひっそりと始めていた試みではあるものの、これまでに計八名、複数回こられた方も合わせると、延べ十名のLONOFer(ロノフ体験者、通称ロノファー)がおみえになり、自然農の農作業と、我が家での滞在を過ごされた。

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 今年の夏の終わりのころ、珍しく立て続けに二名のLONOFerが来訪した。それぞれの滞在に、我々夫婦もともに刺激をいただき、長女も次女も可愛がってもらい、ささやかに賑やかな日常が我が家に訪れた。滞在中の楽しいあれやこれやも綴るのも良いのだが、それよりも、お帰りの際に記していただくノートのメッセージを引用するほうが、様子をお伝えするのに最適かもしれない。

 自然農だけに限らず、【話す聴くWS】【食事】【夫婦がお互いを大切に思い合うということ】など、たくさんの生きるヒントをいただきました。まずは自分が自然体に。そしてその波動がゆっくりと広がっていくように。自然農に出あえ、たずさわれていることと味わいながら、ゆっくりと生きていきたいと思えました。(ノートより一部抜粋)

 それにしても、ああやって一緒に畑仕事して、ごはん食べてお話して、日々の暮らしの中に人を迎えられるっていいですね。いつか私もやりたいな〜。おいしいご飯とお酒とおしゃべりと畑仕事とでおもてなし、本当にありがとうございました。(ノートより一部抜粋)


 こちらこそ、ありがとうございました。さて次はどんな出会いが待っているのやら。わくわく。



※LONOFについてはこちらから ⇒ LONOF(ロノフ)大募集!のページ


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 そんな今日、珍しく日帰りのLONOFerさんが来園された。ワークショップへの問い合わせが縁で、LONOFに興味をもって来てくださった方。作業しながらの話は尽きず、あっという間に夕方を迎えての帰宅の折。イタリアンのお仕事をされていたとのことで、帰り際に、さりげなく、かつ衝撃的に、ゴルゴンゾーラとリンゴの手作り(!)ケーキをいただいてしまいました。 

 偶然、先日姉からもらっていたボジョレー・ヌーボーに合わせたら、とてつもないマリアージュ♪ Mさん本当にありがとう!!

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 さて次は、どんな出会い(笑)が待っているのやら。わくわくわく。

  
LONOFについてはこちらから ⇒ lonof_ban.jpg




posted by 学 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 新しき出会い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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