耕さず、虫も草も敵とせず、農薬・肥料を使うことなく、自然の営みに沿った親子のあり方。
なんだかおかしな言葉だが、本人いたって真面目である。
ご縁があって今週末の11月7日、自由な教育を実践・研究されている古山明男さんをお招きして、子育てに関するワークショップを開催することになった。古山さんの言葉の中に、「無農薬教育」という考え方を拝見したことがある。一言で述べるのは難しいのだが、Blogからの言葉をお借りすれば、「強制力や賞罰を使わず、生徒の感受性と理解力を信頼する教育のことである」。
あえて置き換えることが許されるとすれば、自然農とは、「農薬や肥料を使わず、植物の共生力と成長力を信頼する農法のことである」。
無農薬教育という概念を提唱された古山さんの言葉を見つけた友人は、「無農薬」という言葉だと先に農薬があることが連想されてしまうため、より軽快な発想の自然農教育はどうだろう、と提案されていた。明らかに我田引水なのは承知の上で、お二人に敬意を表し、私も乗っかって「自然農教育」を名乗ることを許していただきたい。

また古山さんは、学校の教師の仕事は、農民の仕事に似ている、とも説く。書籍からの言葉をお借りすれば、「作物を種蒔きから収穫まで世話する農民と、生徒の成長に長期間つき合う教師は、立場が似ている」と。これも我田引水が許されるならば、自然農は作物を育てるというよりも、「田畑の土、生態系を豊かに育むこと」が主目的という点で、田畑育てと言ってよく、子育てとも通ずるものが多い。であるなら、「子供たちの生きる力を豊かに育むこと」が主目的という意味において、自然農教育という概念が、我々夫婦が子供に対してのアプローチの根底に広がってくるのだ。
自然農の本質とは。
それは大自然の「豊潤にあろうとする生態系の方向性を信じること」である。
その自然の豊かな営みの海の中で、少しだけ人の都合に応じて手を入れ、望むような作物が育ってくれる田畑を育み、見守っていく。大自然は、雑草、野菜、微生物、小動物を分け隔てなく、全ての総量として生命力がが豊かになろうと進んでいく。人間は、そうした本来の大自然(生態系)のダイナミズムを邪魔せず、ほんの少し、野菜たちが優先されるように、作物が生き生きと育つように頃合いに応じて手を差し伸べるだけでよい。
では子育ての本質とは。
それは、、、まだ答えが見つかったわけではない。 しかし上に述べた自然農の視点が、子供の生きる力を育み、たくましく、瑞々しい感性が花開く手助けになるのではないかと、確信している。あえて現時点で言葉にしてみるならば、「豊潤にあろうとする人間の方向性を信じること」と言ってみたい。

大型機械で耕して、肥料をたっぷり入れて、農薬を撒き、ただただ収穫を追い求める。そんな子育てに果たしてなっていやしないか?と常に自身に問いかけながら、耕さず、農薬肥料を使わず、自然の営みに沿った農のあり方に耳を澄ますように、子供たちと関わっていきたい。
そんな子育てだからこそ、大量生産はできない。誰かにゆだねてお任せも、なんだか違う気がする。だからといって、親の思いを押し付けることと勘違いしてはならない。畑が豊かになることを、自然に沿って見守るように、子供と生きてみたい。 毎日田畑に関わるように、子供に関わる。 時間はかかる。それでいい。もとより、自然農と子育てとは、時間が最高のパートナーなのだから。
もちろん、こんなことを書いているのは、いまだに、そんな関わり方ができずにいるからなのです。今日もまた、子供に肥料と農薬をふとした折りに撒こうとしてるんだよねええええ。
