注)記事の日付は太陰暦を用いております

2016年01月03日

2086年

霜月廿三日 曇り時々晴れ
 
 あけましておめでとうございます。  

card-zassouya2016b.jpg


 国際社会のために何かしらやってみたいと思って22年。
 自然環境のために何かしら貢献したいと思って19年。
 自然農と共に暮らしてゆきたいと思って14年。
 今の田畑と共に歩み始めて9年。
 
 なかなかいいペースで、同じ線上に歩みを進めてきた。

 大晦日の夜に長女が選んできた読み聞かせの絵本は、古事記の最終章の音読だった。新年の一歩は、ひとりで勝手に地球食(※記事末尾参照)と名づけた、我が家のスペシャルおせちで幕を開けた。第二歩目は、自然農の畑と田んぼに散歩しての、初詣だった。そして今日は、地球おせち(笑)を食べながらの、通常運行の豆の脱穀作業だった。
 
 
 今手元にある「麦とホップ」のホップは、大麦は、いったい誰が、どこで、どんなやり方で栽培したものか、知る術は無い。秋田の義祖母から届いた抜群に美味いリンゴは、いったい誰がどんな気持ちで育てたのか。おでんのつみれに仕立てたイシモチは誰がどこで(茨城産らしいが)釣り上げたのか。最近のスーパーではめったにお目にかかれない食品添加物フリーのさつま揚げは、どんな工場でつくられたのか。

 ほんの一昔、百数十年前の時代まで、私たちは、もっと小さく、狭く、顔の見える、手の届く、そして煩わしく、不便で、一部は不公平で、不条理な、世界に存在していた。西暦2016年、平成二十八年の今、私たちの世界は、大きく、広く、ネット上では顔が見える、しかし手は届かない世界であり、しかし相変わらず、煩わしく、便利で、いまだに不公平で、不条理なままなのだ。


 昨年、戦後70年を迎えた。今日の70年前の1946年、戦後の焼け野原に立つ日本人が、今の時代を想像することはできただろうか。さらに70年前は西暦1876年、明治9年。エジソンが白熱電灯を実用化したのはこの3年後である。日本ではまだ上下水道の普及もままならなかった。そしてその逆に、今から70年後の2086年とは。

20160101daikon&child.jpg


 日本人口の減少を危惧する人たちは、まだ1億3千万人キープしているべきと本当に思いますか? 世界の人口は100億をゆうに超えているのだとしたら、食糧問題は解決してますか? 化成肥料や石油由来の農薬、ガソリン重油が無ければ不可能な遺伝子組み替え作物の栽培はまだ続いてますか? 穀物を育てるエネルギーの何十倍も必要な牛肉をありがたがる文化も存在してますか? どこでもドア、タイムマシンは、完成してますか?
 私たちは、自分の人生に、そして子供たちの将来に、いったい何を望んでいるのだろうか。祖父母、両親たちの望んできたように、物質的、経済的における量的な向上は、今の自分も将来も、幸せとイコールですか? そのレール、その流れが70年続くと思いますか? 

 科学技術を否定せず、しかし有限性を認める。経済発展による利便性を否定せず、しかし持続不可能性も認める。そして現代社会の矛盾に目をそむけず、自分の内側にも真摯に目を向ける。
 
 新年を祝い、FacebookやSNSで幸せを他者とシェアしても、それは消費のシェアなのかもしれない。その消費活動は、現代社会の中では、絶対に、地球上の誰かの犠牲の上に成り立っている。人に対して、動物に対して、植物に対して。食物連鎖とかそういう意味ではなく、倫理的な、道徳的な意味での、実際にその者を不幸にしているという意味での犠牲だ。食料であれ、工業製品であれ、サービスであれ。

 何のために働き、何を食べ、何を排泄するか、そしてそれは世界とどうつながっているか。70年後は、おそらくどうあがいても、それらと向き合うことなく暮らすことはできない世の中になっているだろう。新年を祝う、そのワインは、その伊達巻の卵は、海老天の海老は、家庭を照らすLEDの材料は、いったい、今と同じように無意識的に消費して楽しむことが許される世の中になっているだろうか。世界は、地球はそこまで、絞り尽くされてくれるだろうか。


 だから、今、ここから、始めてみませんか?

 農作物にとって自然なあり方とは。
 社会環境にとって自然なあり方とは。
 身体にとって自然なあり方とは。
 心にとって自然なあり方とは。
  
 それは、新しく発明するようなメソッド(方法)なのではなく、これまで生きてきた人類が、様々に気づき、醸造し、語り継いできたもののなかにひっそりと隠れて存在している。決して難しくもなく、スピリチュアルなグッズを手に入れることでもなく、原始生活に没入するわけでもなく、今の自分からの一歩。ヒントはそこらじゅうにある。ただ一歩ずつ、今の自分を形作る一つ一つの要素に目を向けて、それは自然なあり方なのか、継続可能なあり方なのか、変えることが出来るとしたらどうすればいいか、それらを、自分で考えて見つけていくこと。ただそれだけで、70年後の世界は変わっているはず。

 自然農の田畑にふれることで、そう、確信するようになった。


 田畑と共にありながら、自然農からの想いを広げ、自然環境を守り、国際社会の未来を築く。高校生の頃からの想いが、逆回転しながら、また進み始めた。
 
 より、田畑の本質へ
 より、身体の本質へ
 より、心の本質へ

 言ってることはちょっとヤバイですが、ちょっとヤバいくらいじゃないと、70年後の将来なんて彩れるわけがない。やるしかない。


※食べ物から地球を見る。
 食べ物で地球と話す。
 その食事が、いったいどれほど自然に負荷をかけているか。
 その食事が、いったいどれほど自然を育んでいるか。
 大げさに言えば、そういう意識が、これからのトレンドになる。
 そういう意味で、満足度とエコロジーを両立させている
 我が家のおせちは、地球食なのです。

posted by 学 at 02:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

こぼれだね

師走十八日 晴れ

20160127-090123.jpg


 立春を一週間後にひかえて、ようやく、心も身体も動き始めてきたようだ。

 やりたいことは山ほどある。書きかけの計画ノートだけが増えていく。どこかに、自分の外側の姿かたちを気にする自分がいた気がする。体裁を気にする自分。見栄えを気にする自分。中身よりも先に梱包に頭を悩ます自分。そこに「自然さ」はない。悩みながら、探求しながら、歩き続けることが、「生命」のダイナミズムである。
 
 年齢とか、立場とか、そこにしがみついた途端に失われる探求心。小生は、足掻きつづけながらも、常に森羅万象に探究心が開かれている状態でありたいと願っている。そんな状態を、ワンダーフルネスと名づけてみた。心身、そして森羅万象に対しての自然体を探求する際、自分という存在は、常に仮の存在でなければならない。自分が固定された存在になってしまった時、発見、探求のプロセスは停止していく。「満ち足りている」と「欠けている」が全く同時に存在し、それに気づき続けるのが「ワンダーフルネス」である。
 
 こうした想いが伝わるだろうか、伝わらないだろうか、と考えるのもやめることにする。ただやる。そしてただやらない。そうした積み重ねこそが、自分が自然農の実践を重ねながら実感している「自然体」である。

 先日のつくし農園での「振り返り会」と称したワークショップ的な時間の中で、今年の目標をあげてみた。単なる思い付きではあったが、自分がだした言葉は、「こぼれ種のようにありたい」だった。こぼれ種。自然農の田畑でしばしばみられる、播いたつもりはないが、ついつい手元からこぼれてしまい、もしくは前年の作物が種をつけて畑に落ち、それらが勝手に発芽して成長した野菜。栽培した作物に比べて押しなべて生育がよく、自然農の仲間内ではよく見られる不思議な光景である。自然界の絶妙なる采配を目にする瞬間でもある。

 それらの種は、ただ落ち、時を待ち、自ずからのタイミングで発芽し、草々と共生しながら葉を伸ばし、たくましく生命を全うする。自分はそんなこぼれ種のようにありたいのだ。


 形は問わず、答えを先に出さず、発芽しそうな種をどんどん勝手に育てていく。きっと今年はそうなる。


 森羅万象をターゲットにした自然体研究所のスタート。活動として、マインドフルネス勉強会(現在活動中)、サーノ博士の心身症プログラムの読書会、つくば身体操法研究会の自主練会、シュタイナー思想の読書会、ベーシックエンカウンターサロン(話す・聴く・気づきのワークショップをもっと気軽に)、スラックラインの大人サークル、ホームスクーリングの地域ネットワーク立ち上げ、などなどなど。週の3日は自然農、残りの日々は、ワンダーフルネスをキーワードに、自然体探求。

 やるも八卦、やらぬも八卦。 さあ種は、いつ発芽するのやら。


posted by 学 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地に足つけて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。