注)記事の日付は太陰暦を用いております

2016年02月11日

エリート教育

睦月四日 晴れ

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 今、我が家では、究極のエリート教育を行っている。自然農百姓風情が何をぬかしているのかと思われるかもしれないが、これは紛れもない事実だ。

 エリートの定義はここでは触れないが、他人や社会からの外圧によって人生を疲弊せずに、自然と共存しながら自他共に幸福を追求していける人間になって欲しい。ただそれだけの願い。しかし現代では、それをシンプルに追求しながら子育てをすることが恐ろしいほどに困難であり、異端となって映ってしまう。社会に阿ることなく、現代の標準的な価値観に堂々と疑問をぶつけて生きようとすると、残念ながらどうしても、一般的な暮らしぶり、子育て方針とはかけ離れていってしまう。

 現在6歳6ヶ月の長女と1歳9ヶ月の次女が、日々受けているエリート教育は以下の通り。

【発育・健康分野】
 砂糖が含まれる食事・お菓子をめったに食べられない。
 動物性たんぱく質も毎日の食事には出てこない。
 ファーストフード、ファミレス的な外食をほとんどしない。
 自然農、有機栽培の野菜を多く口にする。自分でも育てる。
 ヤギの草刈り、餌やり当番を割り当てられている。
 予防医療も対症療法も含めて、ほとんど現代医学の恩恵に与らない。

【現代文明・生活分野】
 テレビ、ネットに限らずメディアにほとんど触れる機会が無い。
 電気性の音楽がほとんど無く、自然の音か、家族の歌声が響く。
 LED電球、携帯電話、電子レンジを身近に使わせてくれない。
 冷暖房を使用せず、日本の四季を乗り越えている。
 料理洗濯掃除などの家事手伝いを、毎日何かしらお願いされる。

【教養・情操分野】
 毎日幼稚園や学校に通う必要が無い。
 両親とほぼ24時間、一緒に過ごしている。
 絵本、児童書は、惜しみなく手にすることができる。
 家の周りに、木があり、草があり、虫があり、鳥があり、花がある。
 時々焚き火をする。なんなら煮焚きもする。
 おそらくあらゆる早期教育から、開放されている。

【家族関係】
 両親が尊敬する仕事人たちと、折々に出会える。
 両親の仕事場に、時々連れられて時間を過ごしている。
 両親が、愛し合っている。ときどき喧嘩している。
 親子間にも愛があるが、適度に諍いが生じる。叱られる。


 どんな子育てにも、光があり、影があり、それ自体に、成功も失敗も無い。だからこそ、両親がまず信念をもって人生を歩き、多面にアンテナを広げ、魂の声に耳を傾け、子供に向き合っていきたい。適度にいい加減に。力抜いて。泥臭く。そして重要なのは、自分たちのこうした指針に、決して縛られ過ぎないこと。これからも、子供の成長に応じて融通無碍に。

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 今日は尊敬する友人夫妻が来訪して、自然農で育てたお米を、脱穀精米していった。長女はそれに甘え、遊び、手伝い、夕方には、庭でフキノトウを見つけ、今期初収穫。その合間には、来月の初スキーに向けて体力づくりの真っ只中で、庭を100周マラソンする日々。頑張れよー。


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 明日は畑の後、近所の友人家族たちとお遊び会。
 明後日は、今年度のつくし農園オープンの日
 三日後は、古武術稽古的な遊びの場にお出かけ。

 ホントはもっと、のーーーんびりしたいんだけど!



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2016年02月15日

怒らない決意

睦月六日 雨のち晴れ

 午前中、長女を叱り飛ばし、昼過ぎから一緒に過ごすつもりだった予定を取り止め、自分だけ家を後にした。送り出す際の、妻の複雑な視線をちらりと見つめ、その背徳感に耐え切れなくなって、玄関を飛び出した。

 午後からの用事は、身体のバランス感覚、力の強張りや無駄な動きへの認識、より自由な自然な身体の操作方法などへフォーカスしていく、研究会。正午過ぎのスタートから夜遅くまで、内容を変え場所を変え様々に自由稽古が続けられていく。

 稽古後の食事会を終え、帰宅を前に、夕方に妻から届いたメールを見返す。そのまま書くことはできないが、メールには、「気持ちを整えて、攻撃力を下げて帰ってきてね」といった内容が記されていた。何時間かの稽古会で過ごした、より自由な、より力の抜けた、強張りの無い身体の使い方を練っていく時間のなかで、自分の身体と心は確実に落ち着きを取り戻していた。 午前中に長女とやりあった心の刺々しさは、自分の至らない身体の不自然さと同様に、ひどく不恰好だった。

 自然農の畑に向き合うとき、無意識ではあるが、心に決めて取り組んでいることは多数ある。その中でも、農薬・肥料を使わないことは筆頭に上げられる。それは、自分で決めたことであり、決意であり、誰がなんと言おうとも不要と確信しているので、ただただ、どんな結果になろうとも、原則として用いることは無い。農薬・肥料を必要とするのは、田畑が自然のあり様としては不完全であり、状態としてはまだまだ未熟であるが故に、発生する症状と考えられる。安定して成熟した自然農の田畑では、農薬も肥料も不要であり、そしてそこに生まれる様々な不具合も、ある程度のバランスで修繕されていく。そんな田畑にするための前提条件として、「農薬・肥料は必要不可欠」という世間一般の常識から脱皮することが、何よりも求められていく。


 そんな自然農に対する決意と同じように、自分は、「怒らない」という決意を宣言しよう。

 「怒らない」。もっと厳密に言えば、「我が子に怒りをぶつけない」。午前中の不恰好を経て、午後の身体の探求を過ごし、自分の不自由さを実感し、そう決意することにした。自然農の田畑に、決して、農薬・肥料を用いることを選ばないように、我が子に対して、不細工な怒りをぶつけないことを選ぶ。聖人君子になろうということではなく、決めたことを、ただ実行する。きっと「イライラ、ムカムカ」は生まれ続ける。しかし「怒らない」。「怒り」の実行は仕方が無いものだと決め付けている、何よりも自分自身の常識から脱皮して、ただ決意して実行する。ポイントは、「怒らない」のではなく、怒りの感情がうまれたとしても、それを彼女に伝えるまでに至らせないこと。そこが自分の決意である。

 決めたことを守れるかどうかは実はわからない。しかしともかく、自分自身は、その決断が良い方向にむかうに違いないと確信している。であるならば、田畑に接するように、自分に対しても実行させていくしかない。誰が見ているわけでもない。それは自分と娘たちとの密約である。厳密に言えば片思いの約束でしかない。学童期を迎えようとしている長女は、時に反発し、時に怒り、時にエゴを撒き散らす。しかしそれは、自分の決意とは実は関係がない。関係があろうがなかろうが、未熟な畑に対してでも肥料を用いようとは決して思わないように、彼女の反応に対して怒りをぶつけまい。そう決意してみる。

 自分の怒りの感情に対して、こんな決意ができるとは、実は気づいていなかった。決意がもてるということは、取り組めるということであり、対象の観察、もしくは程度の把握もできるということなのだろう。そこに、実はワクワクしている。それは自分が決めたことであり、しかもどこかの受け売りではなく、自分がきっとこうだという確信からの発生であるから。

 その決意、果たして貫くことができるだろうか。とある事象に怒っていた人間が、同じ事象に対して怒らなく(しかも決意によって)なることができるのかどうか。自然農の田畑の営みを見守り続けたいように、自分の変化を見守っていってみたい。田畑について記していくように、その後の経緯も記してみたいと思う。


 怒りをぶつけるのは簡単だ。子供を、自分に従わせているように感じることができる。それはまるで、肥料や農薬を用いることで、作物を従わせているように感じることができるように。その、魅惑から、習慣から、自由になることができるか。さあ、また新しいチャレンジへ。


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 雨のち晴れ。雨降って、地固まる。



ラベル:子育て
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2016年02月19日

お返し

睦月十二日 晴れ

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 このところの暖かい陽射しについつい冬を忘れそうになるが、ほんの二十日ほど前の作業のことを少し。1月末、立春を迎える前になんとか終わらせた米の脱穀。昨年に収穫して乾燥・保存していたものを春の産声を前に、えいやっと済ませてしまうことができた。

 昨年2月に苗代を準備し、種を播き、苗を育て、田植え、草刈り、草刈り、草刈り、そして稲刈り。天日に干して、乾燥、稲架(おだ)を外す前に納屋に移動して、ネズミに食べられないように稲藁のまま保存(放置・・・)し、ようやく1月末に、足踏み脱穀機で、稲穂から稲をこそぎ落とした。丸1年のプロセス。
 
 脱穀して、籾摺りして、やっとの思いで口にすることができる玄米や白米。しかしこの1年の稲作は、この米のためのみに過ごしてきた訳ではない。脱穀した後には、豊かな豊かな、稲藁の束が山積みになる。つくし農園での脱穀後の稲藁は、二割を翌年の様々な農作業に利用する資材として保管する。そして残りの八割は、大事に大事に、稲が育まれた田んぼに、必ずお返しする。

  自然農のテーマの一つ、「持ち込まず・持ち出さず」は、自然の営みの循環のサイクルを表している。自然界に不要な、過剰な持ち込みをしない。それは、農薬のことでもあり、肥料(化学肥料・有機肥料を問わず)や、土に還らない農業資材全般のことでもある。だからこそ大切なのが、いただく命以上の、不要な持ち出しもしないように心を配ること。刈った雑草、育った野菜の茎葉、豊穣な土、全ては循環の中で生態系を常に豊かに保ち続ける要素であり、その毎年の蓄積があるからこそ、過剰に肥料分を必要としない田畑が継続されていくのだ。


 脱穀を終えた稲藁たち。我が家では、正月飾りなどにも一部活躍いただきもしながら、全ての脱穀が済んだ藁束を、薄氷の張る厳冬の田んぼへ投げ返した。 稲藁を手にとっては、ひと投げ、ひと散らし。満遍なく、まとまることなく、均等に、ランダムに。畦道の上から、田んぼの中から。
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 理屈や、知識ではなく。お米を育ててくれた田んぼからいただくのは食べる分だけで、あとは返そうね。また来年のお米の栄養になってくれるからね。と、手伝う長女と話しながら、一年の田んぼ作業を締めくくったのだった。奪いすぎることの無い、「人間と自然の共存」のリアルさを肌感覚に記憶してくれることを望みながら。


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 全部、手で育てる。この贅沢さが伝わるのは、もしかしたら、もっとずっと先のことなのかもしれないけど。

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2016年02月23日

アソビジネス

睦月十五日 晴れのち雨

 家族が家業の雑草屋では、子供を寝かしつけたあとの夜の時間を、事務作業、DVD鑑賞、息抜き、雑談、打ち合わせ、晩酌、、、公私混同しながら、「今」と「これから」の様々を過ごす。

 そのなかで、「アソビジネス」という言葉が生まれた。

 妻のやってみたいことで、楽しくて社会的意義もあって、ビジネスに繋がるかもしれない、そんな企画が話題にあがった。それをやるのも、家業として悪くない。でも、しかし、だからこそ、それを月に1日とか2日だけやるというスタイルではどうだろうか、という感覚。

 遊びでやってみたいことを、実現可能な範囲でビジネスに。それがアソビジネス。


 一方で、小生がやりたいことは、遊びというよりは使命感。しかも、稼ぎに結びつかない。でもやりたい。なら、本業としてやってみたいことは、無償なり、ビジネス抜きではじめてみる、やってみる。妻とともに関心をもっているギフトエコノミーにも通じるスタンスで。

 本当にやりたいことは、ギフトエコノミーで。そして心を豊かに。
 遊びでやりたいことは、アソビジネスで。ほどほどに日銭を。


 そんな、アホみたいなことを雑談して、明日のえんどう豆の種蒔きにも想いをめぐらす。 我が家の自然農はこんな感じです。


 
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 長女が毎日取り組んでいる庭の100周マラソン。数の勉強にもなるかなと、廃材のタイルに絵を書いて、10週ごとに渡すことにしてみました。ついついタイルの絵も、自然農っぽくなるんだよね(笑)。



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