注)記事の日付は太陰暦を用いております

2016年09月14日

自然農体

葉月十五日 曇り

 息子が産まれて一ヶ月。
 炎天の8月は過ぎ、さめざめとした秋雨が続いている。


 人生で何度あるかないかの「自宅出産」のため、この7月と8月は、ほぼ完全に「休業」していた。貨幣を稼ぐという生産活動には全く取り組まずに、生命を次に繋ぐという生産活動にのみ心身を費やした。夫婦ともに。内実をさらせば、貯金を切り崩しての生活。田畑にもひどい時は2週間出られず、産後も妻と子供らと過ごし、野良仕事は数日おきに数時間という状態だった。一生のうちの、特別ボーナス期間だと理解してはいたものの、なんとなく、心も体も、そわそわしていた。

 つい先日まで、そのそわそわの正体は「稼いでいない」からではなく、「ほったらかしにしていた」からだ、と考えていた。田畑に育つ、稲や野菜たちに手が掛けられず、申し訳ない。そんな気持ちが、そわそわの原因なのではないかと。

 そしてこのところ、ようやく田畑に戻る時間が増えてきた。そのなかで、少しずつ、気持ちが落ち着いてくる感覚を覚えるようになってきた。

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 人には、自分のベストコンディションを整える、習慣的な行動のようなものが感覚的に染み付いていることがある。意識したことはなかったが、自分にとってのそれは、適度に自然農の田畑に没頭することなのかもしれない。娘、息子たちとの時間、妻との時間も同様に大切ではあるのだが、自然農の大地に降り、自然農パワーをチャージする。自分は勘違いしていた。畑にでて、雑草を手入れし、種を降ろし、自分が農園を管理しているかのような上から目線の日々は、実は違っていた。そうではない。自分自身こそが、エネルギーをもらい、癒され、畑から恵みを分けてもらう日々だったのではないか。
 
 だとしたら、そわそわの正体とは、「稼いでいない」からでも「ほったらかしにしていた」からでもない。それは、自然農の田畑から遠ざかる日々で「生命力を十分にチャージできずにいた」からだ。

 つまり自分の体はもう、自然農なしには、生きていけない体になっていたのね。今や俺は、自然農の田畑から生命エネルギーを吸収して生きる、自然農体となったのだ(笑)。


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 いやー、自然農に出会ってからもう十数年。おもえば遠くに来たもんだ。父さんは自然農体を手に入れたよ。妻よ子どもよ、こんな父さんについてきなさい。さすれば君らももれなく自然農体になれるでしょう♪


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posted by 学 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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