
午前中の稲刈りのあと、親友が活動する団体に呼ばれ、出張版「話す・聴く・気づきのワークショップ」を行った。ワークショップという名を使うのも段々違和感を感じてきていたので、「醸し交わす場」として、4時間弱の対話の(厳密にはベーシックエンカウンター的な)時間をコーディネートした。動くと汗ばむほどの晩秋の晴天の昼から時間を紡ぎ、つるべ落としの日暮れまで。
車座に囲み、互いに存在を許しあい、認め合い、否定せず、そして何よりも自分自身の言葉に耳を傾けていく時間。時に沈黙が10分続くこともある。誰かの問いかけに誰も答えないこともある。しかしその時間を経たあとに手にする、参加者同士の心の繋がりは、いつ開催しても不思議な安心感を覚える。
今日の場でも、とにかく時間を贅沢に使い、導きもせず、時折の投げかけもしつつも、言葉を待った。用意された答えでもなく、想定していた満足感でもなく、今、ここの気持ちと、互い互いの相互反応によるコミュニケーション。本音も、建前も、気持ちよく折交じり、参加者同士の距離がまたひとつ縮まった。そんな気がした。
世間での、ファシリテーターという肩書や、エンカウンターカフェという名称もピンと来ない。常識的な「会話」や「交流」の枠を外して過ごす場は、人間という活動体が共鳴しあう「醸造」だ。我々は、誰かしらと出会い、交わり、反応し、変化し、存続する。互いに醸しあい、共鳴していく。そこに仮に進行役のような者がいたとしても、ファシリテーションをする、という考えは自分にはなじまない。自分は、その場に、醸造菌の一人として存在しているのに過ぎない。だとしたらそれはやはり、「醸し交わす」という言葉が一番しっくりくるのだ。

効率的な時間や、効果的なコミュニケーションという目的意識を取っ払って、仲間との「醸し交わす時間」に興味関心のある方がいましたら、お気軽にお問合せ下さい。職場でも、サークルでも、家族でも、最低4時間からの開催で、どんな場でも赴きたいと思います。