文化的サバイバルバケーション中である「パーマカルチャーと平和道場」を数日間留守にして、貨幣経済畑(世間で言う労働環境)で収穫(世間で言う給与)を手にした。その収穫物を分けて、電車に乗り、帰宅の移動手段を交換することができた。
これはいったい何を意味しているのか。

マインドフルネスに身体操作を練りつつ電車に揺られながら漠然と考えが進んで行く。そうか、お金を稼ぐっていうのは、魚を釣るとか、乳を搾るとか、薪を割るとかと同様の、何かの目的物を手にする為の一手段に過ぎないんだ。生きる=お金を稼ぐ、ではないんだ。
道場で実践している、「貨幣経済だけの世界で生きていかない」という試み。今までお金がないと生きていけないと思い込んでいた世界は、ただの貨幣経済のみの視点で見ていた世界に過ぎない。世の中のあらゆる資源(物質的な資源から精神的な資源まで)は、お金を介さないとアクセスできない訳ではない。お金がないと生きていけない、というのは自己暗示、あるいは社会暗示とも言える、思い込みだ。
お金は、ツールだ。今この瞬間にも、貨幣を外した世界は存在している。命も、安心も、喜びも、愛情も、手伝いも、種蒔きも、炊事洗濯も、そしてなにより大地の恵みも、貨幣経済の枠にとらわれずに常に存在している。
お金を介さないと交流(交換)できないモノが欲しいなら、お金を使用する必要があるのでときどき収穫に出ればいい。食べたい魚を釣るように。食べたい果物をもぐように。畑で菜花を摘むように。世界には、お金を収穫に出る、という自由が存在する。
貨幣でしか換算できない経済のなかで暮らす人生から、貨幣に矮小化されない多様な経済の中で暮らす人生へ。それはどこか遠くに存在するものではない。今この瞬間にも存在している。いつか手に入れるかどうか、ではなく、気づけるかどうか。
肥料や農薬や耕運機がなければ農はできない、という矮小化された農から離れることができるように。近代医療、薬がなければ健康は手に入らないという、制限された医療から自由になれるように。自然農や、自然療法(や心身治癒)などの試みは、机上の空論なのではなく実際に田畑として、治療として続けられているからこそ、力がある。であるなら同様に、貨幣経済に依存しない暮らしも、実践あるのみ。ギフトエコノミー、ギフトエコロジーは、自分がやるか、どうかだ。
田畑の答えがシンプルで十全な自然の営みの中に存在するように、暮らしも、きっとシンプルで十全だ。試し、戻り、気づき、交わり、続いていく。試さないなんて、もったいない。世界は、ワクワクに満ちている。

そう、おもちゃもいらない、赤ん坊のようにね。
参考資料:「独立国家のつくりかた」坂口恭平著
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