
茨城北部に移住して、季節が一周半した。二回目の秋、サツマイモはまあまあよく育ち、大豆と小豆は妻が奮闘して豊作、大根も良い感じ。

ただ、どうしても、言葉が出ない。
パートの身分とはいえ、公職に関わることでこんなにも言葉が出て来なくなるとは、不惑を越えたおっさんになっても思いもよらなかった。
畑のこと、田んぼのこと、森のこと、心のこと、身体のこと、食のこと、環境のこと、命のこと。毎日毎日、布団に籠り、後ろ髪を引かれながら着替え、ヤギを小屋から出し、時折畑に出たり出なかったり、職場に行き来し、人と交わり、妻と子と話し、食事し、暮らす。感じること、思うこと、伝えたいこと、が喉の奥から出そうになり、キーボードに指を置くたびに、手が止まる。
向き不向きで語れるのなら、こんなに向いていないなんて(笑)。
田畑に向き合い、大自然に向き合い、身体に向き合い、そうして立ったこの足で、人と交わり、言葉を選んできた。人の目、人の思惑、を決して優先せずに、想いを最優先して。だから今、言葉を出すことができない。
先日の新月カフェで、「小さなことがきっかけでどうしても心が前に進めなくなった時にどうしてますか?」というテーマが話された。私は、この一周半の巡り合わせで体感していた、森や自然から受け取れる、天然のヒーリング作用をお伝えした。フィトンチッドや1/f(えふぶんのいち)ゆらぎや酸素濃度やそれら自然の恵みによる生理学的な機能としての、リラクゼーション効果や健康増進効果は、確かに偉大である。

しかしながら、心身相関、心身合一のメカニズムに携わってきた身としては、それらの限界も、一方で明確に感じている。森や大地のもつセラピー効果は偉大であると同時に、人は、「どう生きるか」に心の底で触れていない限り、それは脇役に甘んじることになる。
例えどんなに森に暮らそうとも、心身に不調は発生するし、例えどんなに自然から離れて暮らそうとも、心身に一点の不安もない生き方も可能なのである。
だから、それぞれ皆、自分にとって生きやすい場で生きるべきなのだと信じる。畑に立ち、森に入り、布団に入り(笑)、時々人と交わる。それこそが、自分の立ち位置なのだと、自覚は益々高まっていく。
私は、公職に生きるべきではない。生きるべきではないが現実には生きており、であるなら、世の習わしには応じ、バランスをとる。しかし、生きるべきではないので、続けることはすべきではない。であるなら、明確であり、契約期間をもって、次のステップへ移行する。

もちろん、縁あって今の仕事につけたことで、無職6人家族が謎の里山暮らしをスタートさせて周囲から好奇の目だけで見られてしまうという、移住前に恐れていたような残念なスタートを切ることは避けられた(笑)。この幸運は計り知れない。この町で活動する様々な分野の方と繋がるきっかけでもあり、すこぶる有意義な仕事にも恵まれた。森の効能を存分に学び体感する機会と、事業に取り組む時間は、今後の糧でしかない。また、空き家や移住に関わる職務は、山間地に暮らす上での課題をまざまざと体感することができたし、今後の最重要課題であることも間違いない。この縁に、感謝しかないことは言を俟たない。そして、繰り返すことにはなるが、自身の方向性も改めて確認することができた。やっぱり私は、自分以外の思惑の中では、十全に根を伸ばす才能がないのだ。
一周半は過ぎ、二周目はあと半周残っている。皆さんと一緒に、半周を存分に楽しむ。さあ、三周目は、いよいよ、大地に存分に立つ。妻との想い、子らとのワクワク、そして何よりも、自分のムクムク。
地球のためでも、世界のためでも、日本のためでも、地域のためでもない、ましてや、誰かの思惑のためなんかでない、自分のためからの発進、発信、発震。「どう生きるか」。それこそが、未来の魂と直結する唯一のアクセスコードだ。

芋掘って、焚き火して、竹細工して、自然食囲んで団らんする。ああ、これだけで。生きていける。(いや、もっとか。ああ、それこそ、書ききれない(笑)!!)
