
令和三年、西暦2021年。新暦、あけましておめでとうございます。今年も、変わらず、自然農、自然体をベースに活動を続けてまいります。どうぞよろしくお願いします。
元来働く(人のために身体を動かす)ことがおっくうなたちなので、社会全体が厳かに賑やかにほころぶお正月は、ずっとこのままのんびり春まで布団で過ごしたいなあ、と思い続けて朝酒を楽しむのが常。今年は、どうやら社会全体の空気が、お正月の麗しさの背後に誰かしらからもたらされている不信感不安感がべったりと張り付き、私もついつい、不本意ながら仕事始めを迎えている。(もちろんこれは方便で、いただいている職務を全うしているだけであります♪)
このBlogを始めて以来、ずっと旧暦(太陽太陰暦)を併記して続けている。文頭にある通り、本日は霜月二十二日。師走も来ない、冬の暮れ。月の巡りに太陽と季節を重ねた旧暦も取り入れてきた私たちは、毎年同じ時期に暦が訪れない「ズレ」を、習慣として、身体感覚として、記憶として、身につけて暮らしてきた。本来、新年、新春、迎春は、立春(2月4日)に近い新月。人間は古来より、目に見えぬものは神の計らいとし、目に見えるものは身近に引き寄せて創意工夫を積み重ねて生きてきたのだ。文化として、技術として。もちろん、新暦の正月も、めでたいし、美味しいし、楽しいんだけどね。もちろん。

ところで。私たちは、いったい、いつからウィルスに曝露(※)することを恐れ続けて生きるべき存在に成り下がったのだろうか? 私は今、いったい世の中で何が起きているのかを、心から理解することはできていない。同時多発テロが起きた時も、東日本大震災が起きた時も、一昨年の台風被害が発生した時も、信じられない思いを抱きながらも、そこから始まる人間の行動の一進一退を見聞し、現実世界を理解して、できることをやるしかないと生きてきた。
【※現在、主要メディアが延々と垂れ流しているPCR検査の陽性者人数は、控えめに言って「曝露」であり、決して「感染」数ではありません。】
果たして今、この世界で起きている、(特に日本社会で起きている、)例年のインフルエンザよりも現実の数字として疾患の恐怖が少ない(正確に言えば社会活動を犠牲にしてまでの行動制限を課すべきか、例年のインフルエンザ流行や他のウィルス性疾患と比較しての明確な根拠が存在しない)新型コロナウィルスへの大混乱は、受け入れるべきパニックなのだろうか?神の計らいとして、甘んじて受け入れるべきものなのだろうか?
新暦の年末年始をゆるいデジタルデトックスして過ごして改めて実感しているが、俯瞰で見れば、月や地球の運行、季節や大自然は、ウィルスと人間のダンスなんて意も介さずに動き続けている。畑に、森に、ウィルスパニックなど、訪れやしない(もちろん時折の、いち作物へのウィルスによる病気の蔓延などは発生します)。ネットもテレビも喧噪も、一歩離れてみると、実は我々は、現実体験として「ウィルス」に慌てふためいているのではなくて、「与えられた情報」に慌てふためさせられていることがよくわかる。自然農の畑には、コロナウィルスもインフルエンザウィルスも破傷風菌も存在していて、自然農の畑をPCR検査にかければ陽性となって感染畑になる。PCRの技術開発者であるキャリーマリス博士が断言しているようにPCR検査は、ウィルス感染症の感染者判定に使用してはいけない。新型ウィルス騒動におけるPCR検査の理屈は、花粉が洋服に着いている人を花粉症患者だと数字化して慌てているだけだと指摘する声もある。
テレビやマスメディアからの情報を制限(遮断、選択、批判的思考で判断など)している人にとって、コロナウィルスとは、ちょっと海外で流行ってるらしいウィルス性疾患を引き起こすウィルスである。なので、疾患や通常状態として体内免疫が低下している方において、通常、あるいは少し早い進行の風邪疾患として、健康状態を損ねさせることがある。もちろん、例年のインフルエンザやその他風邪関連疾患の間接的影響による重症者・死者と同様の理由による影響も存在する。自然農、つまり本来の自然界(人間様式と大自然の狭間)の目線で眺めれば、新型も旧型も変異も強弱も、ウィルスと人間の織り成す組曲として、すべてはこれまで何十億年と繰り返されきただけに過ぎない。私たちは、ウィルス曝露を避けるために生きているのではない。ウィルス曝露しても、増殖・感染しないようにできる限り恒常性を保つために衛生学や生理学や栄養学が発展し、恒常性を損なって症状が発生した際の医学であり看護学が発展してきた。いうなれば、ウィルス感染は避けようがない生きる限り存在する必要要素として生命に関わる学問が発達してきた。エボラやエイズでもないウィルスに対して、曝露する(取り入れる)ことにこれまで血眼をかけてきた歴史は存在しない。

<手作りの門松、注連飾りで、正月を迎えることができました>
目の前の、微生物はウィルスは敵ですか? これまでも、これからも、地球上に生成されるウィルスは、今後地球消滅まで、存在し続ける。インフルエンザウィルスが、毎年、延々居続けるように。新型コロナウィルスは、私たち人間、動物、植物という多細胞生物を親として派生した、因果関係のある共生者でしかない。これからも一緒に居るし、インフルエンザ同様、それぞれにウィルスの個性を持ちながら、人間の好不調の波をサーフィンしつづける存在である。
敵でもないモノを恐れることも必要ないし、敵でもないモノが遠ざかることを願うことも必要ない。
今、この瞬間、2020年の年末も、2021年のお正月も、「ウィルス情報」とダンスする人と、情報とは躍らずに「ウィルス」とダンスしながら共存する人がいただけ。踊りたくもないダンスを踊るために我々は生きるのだろうか? マスクを付け続けて、免疫力を下げる殺菌消毒を繰り返して、会って抱擁して笑顔で会話することを否定されて。
生きるとは何か? 今この瞬間に手にしていないことを願って望み進むことが生きることではない。神頼みは、天と自分の人生についてするもので、社会にするものではない。社会へするのは、働きかけである。今、この場で、いかに息を吸って歩みを進め泣き笑い語り座り寝ることを、ただやりきることが、生きることだ。
山羊は、今、その場で、草を食み、座り、寝る。たとえ次の瞬間にウィルスや細菌に体を侵されようとも、その瞬間を生き続ける。自然農の野菜たちは、種を降ろされたその場で、根を伸ばし、草間の中で育つ育たないを選択し、あるものは種を残し、あるものは私たちに提供され、その瞬間までその瞬間を生き続ける。私たちがダンスすべきなのはウィルスとであって、情報ではない。
毎日、毎日、その場に起きていることに対して、自分の心身のできる範囲で、向き合うだけ。それ以外のことは、ただのおまけ。
であるなら、この世のすべてのコロナ対策は、おまけのことに過ぎない。おまけに心も体も魂も踊らされることを、私は選ばない。おまけは、遊びだ。遊びなら付き合ってもいい。遊びなら、踊ってもいい。遊びだから、悩む必要はない。
だから私たち家族は、友人からいただいた孟宗竹と裏庭の南天で門松を作り、2年前の藁でしめ縄飾りを作り、「感染を恐れる」という風習から心を遠く離れて、新暦の正月を楽しむだけなんです。だからこそ、お屠蘇でいただく自然派地酒やビール、家を照らす電気、水道、その他すべての正月休暇を彩ってくれる社会資本により生かされていることを自覚すれば、この風潮からただ遠ざかっていれば済む話ではない。この風潮に否応なしに巻き込まれて、どうしようもなく選択しなければならないことも重々承知している。ただ、ただ、私ができる事は、メディアが報じているようなスタンスではない選択をしている人もたくさんいるよ、と伝える事だけではないだろうか。

巷で、見識者や指導的立場の方々からの「この事態が収まっていくことを願う」という言葉に、違和感しか感じない。自粛も、制限も、選択しているのは私たちの判断だ。であるなら、紡ぐ言葉は「このパニック状態から抜け出す方法を、みんなで見つけ出そう」ではないだろうか。襲い掛かった厄災という考え方を捨てて、本当に気をつけるべきことと大事にしなければいけないことを導き出そうよ。
自然農農家であり、自然体研究家であり、地域おこしに少しだけ関わる者として、おまけも携えながら、今年も田畑に立ち森を歩き身体を観て、探求し続けよう、思いを新たにしている。
