
<土壁内部の竹小舞をライトアップ>
この2週間ほど、土壁を塗りながら、土壁の永続性について想いを巡らす。
土壁は、微生物と稲藁と泥土が育む、完璧に再生可能な建設資材だ。崩れても、壊し、潰し、また稲藁と水を混ぜて捏ねて発酵させれば、また塗って壁に復活する。芯材としての竹小舞は、木材と割った竹と縄(藁縄やシュロ縄)で編む。水と土と植物と菌類が建材を構成し、動物としての人間が塗って完成する。地球上のおおよそ全ての構成成分で出来ており、そして永遠に作り直し続けられる存在なのだ。

<3月、崩れていた土壁を「きちんと」壊し>

<分別し、水と藁を混ぜ練り直し、発酵を待つ>
いわゆる、「持続可能性」とは何なのだろうか?それは、『今の状態がずっと続くこと』ではない、ということを明確に理解したほうがよい。自然界は持続可能性を結果的に内部に包み込んでいるのであるが、実はその持続可能性とは、福岡伸一氏の言葉を借りれば「動的平衡」な持続可能性である。動的平衡とは、常に壊しながら生み続けていることで「状態」が継続していく様であり、言い換えれば、「壊れる」プロセスが無ければ「持続性」が維持できないことも意味している。
コンクリートは、硬化すると、元(セメントと水と砂利)の姿には戻らない。不可逆的であり、壊れたコンクリートは、再びコンクリートとして利用することができない。その意味で、コンクリートは決して持続可能な物質ではない。土壁は、とにかく何度でも壊れ、固まり、壊れ、固まる。人と技術が寄り添う限り、何度でも、何度でも、繰り返し繰り返し、壁になり、人と育み、そして壊れ、また壁に戻る。
ああ、なんという可塑性であろう。僕はこの可塑的であり、持続可能的であり、破壊と再生を繰り返す動的平衡な営みを愛して止まないのだ。世の中に、真に持続可能なものがあるとすれば、それはこの「土壁性」なのではないかとすら思う。

<練り直して8か月後、壁土も頃合い>

<土壁内部の構造体、竹小舞を編み直す>

<あとは塗り、塗り、塗る。>
この2週間、土壁を友人たちと塗りながら、ある時は作業中の瞑想性に感心し、ある時はその可塑性から「結婚観」や「資本主義の限界」に話が及び、夢中になって壁塗りを楽しんでいる。
大自然の恵みにほんの少し手間暇を加えるだけで、住まいが調い、哲学を楽しみ、世界の来し方行く末に想いを馳せる時間が訪れる。なんという喜び、なんという幸福。
この壁が塗り終わったら、友人の粘土質の畑から土を分けてもらい、今年育った自然農の稲藁を混ぜ込み、発酵させ、来年の壁土を仕込むことに決めた。塗る場所は決まってないが、どこでもいいから、塗りたくなっている。さて、次はどんな持続可能を楽しもうか(笑)。
※土壁塗りに関して、こちらのサイトに大変お世話になりました。
『【図解】土壁のつくりかた!+メリット・デメリット』
http://landschaft.jp/2017/05/10/%e3%80%90%e5%9b%b3%e8%a7%a3%e3%80%91%e5%9c%9f%e5%a3%81%e3%81%ae%e3%81%a4%e3%81%8f%e3%82%8a%e3%81%8b%e3%81%9f%ef%bc%81%ef%bc%8b%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%bb%e3%83%87%e3%83%a1%e3%83%aa/