文月十六日 曇り
稲、命(い)の根(ね)の花が、ちらり、はらり、そのうちにまもなく、ぶわり、と咲く。小生の、迷いを置き去りにして、もしくはピタリと沿うように。
今どこにいるのか。そしてどこに向かうのか。川は流れ、その中で泳ぐのみ。周りに何があるかばかり考え、それにつかまって浮かび上がることばかりを考えて、かえって浮かばぬことに気づかされる。浮かび、泳ぐためには、衣服を脱ぎ去った己の体重と体力と精神と、そしてなにより、今どんな流れで深さであるか、あとは風と空と水にまかせる自身の在り方でしかない。
自然農を隣に置いて暮らすことや良し。その他に自分を縛るものを削ぎ落とし、纏わり付かせず、何にもとらわれるな。畑に野菜の育たぬことは、故あって故なし。待つ身と、追い求める身と、その己の全てが畑に、ただそのうちに現われるのであり、どちらでもよく、だからこそ自然農に惹かれているのではないか。言葉に、体面に、体裁に、脅かされるのはやめよう。ただ好きで、面白くて、あきることがないのだから。
「自分を一番自由にしてくれる束縛とは何か? それを大事に思う心を育てよう」
小林よしのり氏が著書で述べた上の言葉とは、少々文脈は異なるのだが、今の自分が立つこの時と所に、その何かは既に手にしている。まずはそれを大事に思い、それに拠って立ち、生き、そして、それが故に、自然農を隣に置いて暮らすことの喜びを知る。
明日は満月。そしてまた欠ける。すべては波のごとく。行きて戻りて、また元のままにあらず。自分はいかようにもなれるし、いかようにもならずともよい。そのときどきに立っている、自分を一番自由にしてくれる束縛を愛し、偽らず、あるがままに。
成功とか、失敗とか、自分こそが、一番とらわれているのだ。何を着飾ろうとしていたのか。羨ましさも認め、妬みも認め、卑屈さも認め、弱さも認め、そして、喜びも認め、優越感も認め、満足も認め、そして今の自分を生きよう。
ああ、時には言葉をも放り投げて。畑に溺れよう。
注)記事の日付は太陰暦を用いております
2009年09月04日
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ここで取り上げられている束縛は、
自分もそれに縛られたいと願うような、
一緒にあろうと大切に思うようなものなんだね。
最近、思うのは、
その「束縛」の相手が、人でも理念でもモノでもお金でもいいんだけど、
「依存」にならないようにするのって、
自分の努力が要るなということ。
大切なものにこだわりながらも、
それは港みたいなもんで、
心は自由に、安心して飛びまわれるような
そんな関係でありたいなと思います。
なるほどですね。
私はそのような感覚を、糸をしっかりと持ってもらった凧のようだと思っています。しっかりと携えられればこその、より高く、より遠くへの飛翔ができるはずだと。
いつもコメントありがとうございます!