葉月一日 曇り
短いようで長かった文月が過ぎ、今日から葉月。
少しばかり、畑から足が遠のき、田んぼの稲は任せるままにし、遠のくことで、また想いを新たに。畑で何が起こっているか。土はいまどんな状態なのか。虫は、微生物は、生きているか。草は、今なにが生えているか。野菜は、何故育たないのか、そして何故育つのか。考えず、見る。見て、手を動かす。動かして、待つ。待って、感じる。感じれば、ひとつ、体に染み込む。それをすることを忘れて、スピードと、効率と、目の前の結果と、何か「形あるもの」に目を奪われて、そして足踏みしていた。田畑から足が遠のいてしまうほどに。
自然農の田畑では、その足踏みの最中でも草と虫が絶えず生き巡っている。常に動的平衡を保つ生命活動と同様に、人間や山羊や、その他のあらゆる生命と同様に、動き続けている。その中での安定を、野菜の収穫を、文明生活とのバランスを、築いていこうという試みが自然農である。
見ること。心が揺れる試行錯誤を受け入れて何事もやってみること。田畑に足を運ぶこと。感性と実践とあと少々の読書で、己を潤せ。
〜秋の野に 朱色を灯す 石勺柏(アスパラガス)〜
なにしようかな。枯れ草堆肥も入れてみようか。ちょっとは耕す部分も試そうか。自分には何を投入しようか。家にある本全部読みたい。でも、少しずつ。でも、全部やりたい。もう一度、再スタート。こうした独り言は、時に必要なのだ。
注)記事の日付は太陰暦を用いております
2009年09月19日
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心は失うかもしれないけれど、
同時に悩みも消し飛びます。
たまには、意識的に
「忙しい」状況に陥るのも、
効果的かも、です。
朱色の小さな実が秋らしいね。
いつでも一からスタートし直せると思える強さ、わたしも持ち続けたい。
インチキさんの自然農との向き合い方は、私の子育てに対するものと似ています。
放置すれば荒れ果て、手をかけすぎればまた育たず。
規格品を育てるつもりはないのに、ちまたにあふれる規格品情報に揺れる自分がいて。
いつも試行錯誤で、時に投げ出したく、時に愛おしく。
子育てとはおこがましく、育てられているのは自分なのだと思う日々です。
コメントありがとうございます。
「忙しさ」は、確かに効果的かもですね。
「意識的」に、今の状況を把握することができれば、悩みも、忙しさも、全てはもしかしたら効果的に対処できるのかもしれません。
それと同時に、「悩み」を消し飛ばさずにそのまま同居させて今しばらく経過してみようかとも、考えたりもする今日この頃です。
>fumi
決して成長しきってはないアスパラだけど、ほんのりと、実をつけています。
再スタートはいつからでも、どんなものを背負っていたとしても、可能だと思ってます。頭のアチコチにこびりついた贅肉で思考や行動が固まった時に、いかにその余分なしがらみや観念や惰性を振り払うか。
自分が何かに陥った時に、この作業ができるようになりたいもんです。
>jeannieさん
子育ては、よくよく自然農との付き合いの中で引き合いに出されることがあります。
人の親になることと、自然農の畑に向き合うことが同列とは一概には言ってはいけないのでしょうが、命に漠然と、かつ真剣に向き合う点において、いつも考えさせられます。