注)記事の日付は太陰暦を用いております

2010年11月10日

「話す・聴く」小論

神無月五日 晴れ

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 いつもの友人たちとの会話、仕事場でのコミュニケーションとはどこかルールの異なる、じっくりと「話す・聴く」という時間。小生とダンズテーブルのダンさんが共同開催する「自然農と想いを巡らす一日」では、「自然農」を中心に置きながら、一方で「話す」ことと「聴く」ことにも耳を傾ける一日を過ごしていく。我々が少なからず確信しているその面白さについて、少しゆっくりと考えてみたい。


  自分の内側から生まれ、話される言葉とは、はたして泉に湧く清水のように濁りのないものだろうか。私たちは通常、言葉を話すときに、必要欠くべからざるものとして周りの対象、他人を認識している。周りにどんな人がいるか、言葉を届ける人がどんな反応をするか、その反応に対して自分がどんな再反応をするか、おそらくはそれ以上の複雑関数を意識せずとも瞬時に計算して、そして口から発している。言葉の湧き出る出発点が仮に心の内側からだとして、その内側から起こった言葉つまりその内容と言語が、体内を通って口から音声として出現するまでの間に、おそらく一切の変容無しに口先まで届くことは、日常生活においては極めて稀なのではないだろうか。それは、今の日常が必要とする会話のほとんどが、受け答えを前提とする、話されたらそれを受けて返すという暗黙のルールが否応なしに運用されているからに他ならない。そのために話し手は、まず自分から話すという出発点である場合でさえも、無意識に、そして半ば強制的に、受け手の返しを想定して(もしくは期待して)その返答が自身の想像内に収まってくれるように言葉を調整して話し始めることが多い。そのルールとは、例えば井戸端会議であったり、会議の打ち合わせであったり、白熱した議論の場であったり、お店と客との会話であったり、それらおよそ全ての場面で、誰も気づかぬうちに執り行われている。またその強制は、今まで生きてきた環境と習性から行われる、取り払うことがいちいち難しい癖として、体にじっとりと染み付いてしまっている。自分が話したくないようなことであるにも関わらず何故か発してしまった言葉、そんなことが誰しも少なからず経験するように、摩訶不思議で避けがたい、自分離れした会話が生まれてしまうこともさほど珍しいことではない。

 人は会話を、あたかもランダムなピンボールのように話し手と受け手の自由闊達なイマジネーションの応酬であるかのような錯覚をついつい覚えてしまうが、実際には、話し手は受け手の人格、趣味、背景、機嫌、体調、立ち位置などを極めてデリケートに無意識計算した末に、丁寧に選び取られた言葉で実践している。そして受け手もまた、相手から言葉が発せられている瞬間瞬間に、これまた高速無比は算段をこなしながら、返答、相槌、空返事、賛同、反論などを打ち返している。誰もみな、日常会話という慣れ親しんだルールを当然に受け入れた結果として。ごく普通に。しかしそこには、果たして自由な意思が紡ぎ出す、本当の内側から起こる言葉というものは存在しているだろうか。相手の、聞き手の、受け答えを無意識に想定してしまったチューニング後の言葉ではなく、今ここで偶然と必然によって産まれた、意識の泉から湧いてくる雑音のない本当の言葉というものが。


 ダンさんが重きを置く、「じっくり話す・聴く」というテーマは、小生なりの解釈ではあるが少なからずこうした問いに一つの解を照らしてくれている。ダンさんの主催している「話す・聴く」ワークショップでは、おざなりの会話を、ある一定のラインで禁止している。禁止という言葉は正確ではないかもしれないが、そうした流れを押しとどめる空気を、全員が共有しようと努める。そこにいる参加者が、その時に自分の泉に染み出してきた言葉を、誰の制約も受けず、誰の答えも期待せず、発することができうる場。それがダンさんの大事にしているテーマの一端なのだと、理解している。自分が何者かであるかを誇示するためについついひけらかしてしまう情報、知識の散乱や、間が持たない心地悪さを霧散しようとして開口してしまうどこかで聞いた風な他人事の話などは、日常では潤滑油として会話をスムーズに見せてくれているはずだというのに、そこでは、まるで空虚に聞こえてしまう。それは「話す」だけでは成り立たない、「聴く」ことが大切にされている証しでもある。むしろ、「話す」よりも「聴く」ことの方がより丁寧にフォーカスされていると言っても良い、一つの確信があるようにも思える。

 ダンさんは、「聴く」人だ。いつだったか、ダンさん夫婦としばしば楽しむ会食の中で、会話の風景を録音しようという、考えによっては少々悪趣味な、一方で現代アートのような仕掛けを、いたずら半分で録られたことがあった。普段の流れていく会話では、三者三様で等分に発言していると思っていた我々は、その録音を聞いて(実際は小生は全てを聞いたわけではないが)、ダンさんの話す言葉が、驚くほど少ないことに気がついたのだった。会話の役割で言えば、小生はついつい「話す」側に立ち、おそらく時にはどうしようもない空虚なおしゃべりを幾分混ぜながら、日常会話を成立させていることになる。逆に、いつもの会話の中でもダンさんは、もちろん彼も時折の空虚な会話にも参戦しながら、しかし自然に「聴く」側に寄っていた。

 なぜ、「聴く」のか。それはここでは、日常会話での「聞く」とは少し意味合いが違って用いられている。通常、人が会話の中で誰かの話を聞く場合、上でも述べたように暗黙のルールに無意識に従って聞いている。私たちの日常では、会話を成立させてるために、相手が話す内容を聞きながらもそれと同時に次に返す言葉を頭に紡ぎ始め、そして向こうからの話が終わるやいなや、十分に練られた、適度な返答を ふさわしいタイミングで発言するという、これまた複雑怪奇な演算処理をほとんど無意識中にやってのけている。そこでは、双方から発せられた言葉が見事なコミュニケーションを成立させているように見えているが、実は全く逆の、成立させたいコミュニケーションのために言葉を選び出すという、本来の自己表現や相互理解などからは程遠い、逆転現象が起きてしまっている。聞いているようで実は聞いていないという無意識のテクニックと共に。それもまた、産まれてから染みついた垢のように取り去りがたい習慣として、じっとりと。

 ダンさんの場での「聴く」とは、会話のための、コミュニケーションのための、行為ではない。その場の誰かが、日常のルールから放たれてなんとか織り成した言葉を、ありのまま、耳を傾ける。次の言葉を予測しながら聞く必要も、返事のための応答を考えながら聞く必要もなく、その人の言葉を、自分の心に一旦入り込ませてみる。森の中に吹き込んだ木枯らしが、出口もなく木々のこずえに吹き分かれていつかは森に溶けてしまうように。その後、森の中で消えた風が空気となってたたずみ、今度は森からの風が辺りをそよぐように、言葉は受け手の体を巡って、時には沈黙し、時には新たな言葉が紡ぎだされていく。コミュニケーションのための会話ではなく、言葉が、結果としてコミュニケートされていくといったような、ゆっくりとした、しかし深みのある時間の共有がなされていく感覚。無意識の日常のルールから、少しだけ自由になって。

 日常的に行われている無意識の会話においても、当然楽しくもあり、内容もあり、有意義に言葉を交わしあうコミュニケーションが行われていることは、もちろん言うまでもない。しかし小生にとって、時に椅子を並べてダンズテーブルで過ごす、このじっくりと「話す・聴く」時間は、普段 の会話とは全く異なる、新しいスポーツのような、未知のゲームのような、汗噴く真剣勝負のような、すこぶる面白い余暇の過ごし方になりつつある。


 11月21日に開催する、自然農ワークショップ「自然農と想いを巡らす一日」は、「話す・聴く」一日でもある。静かなブームが小波のようにさざめき、自然農という言葉が何かのキーワードのように時折飛び交うことは決して悪いことではない。しかし福岡正信氏や川口由一さんをはじめとした、自然と農と人の在り方を問いかけながら作物を育てるすべを捜し求める行為は、決して簡単なキーワードや方法論で指し示せることではない。それは誰もがわかっている。しかしそれでも人は、回答や手順をうすうす期待しながら、会話による自然農に花を咲かせる。あたかも、自然や、自然農に、たどり着けるルールがあるかのように無意識に期待しながら。自然は、その時とその場所、つまり時間と空間を手掛かりに、何が語られているかをじっくりと聴くことからでしか、辿り着くことはできないのに。

 自然農は言葉ではないと言いながらも、自然農をテーマにした「話す・聴く」、そして「想う」一日。参加する方それぞれの内側に吹き込んでいる自然農という言葉が、また別の人から風を受け、時に削られ、時に熟成しながら、少しずつ変容し、またその人の「自然」と「農」と「人」の在り方へ繋がり、それぞれの自然農の在り方へ返っていく。それは堅苦しさや、生真面目な意味とは全く別の意味での、真剣な自然農への取り組みの一つだ。日常に染まりきったルールから意識的に離れて、自分の内に耳を傾ける時間の中で、あらためて自然農へ想いを巡らす一日。自由であり、対等であり、何も決められていない一日。いわんや、自然と人の関係も、それぞれに自由であり、対等であり、何も決められていないのだから。


21日へのご参加を、心よりお待ちしています。 ⇒受付はこちらから 
★現在は受付は終了しております★

posted by 学 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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