弥生二十九日 晴れ
「発展しても日本みたいなら、ならなくてもいいと思ってしまう。」
アジアのとある国から来ている友人との食事で、こんな言葉を聞くことになった。仕事で日本に来て3度目の友人は、職場の関係で日本人の従業員と飲み会の席に座ったときのこと。日本人たちの間で交わされるのは給料の話か待遇の話か、不自由さの話ばかり。
「もちろん、お金は大事。でもそれは最低限であったり、あたりまえの話。そればかりを目標に生きることなんてできない。」
「国に早く帰りたい。日本人はみんな、お金お金、時間時間。母国はお金はなくて貧しいけど、家族と友達と安心して過ごせる。お金は自由じゃないけど、心は自由だよ。ずっと後になって私の国が発展して、物が豊かになっても、こんなふうになるのは嫌です。」
そんなことはない、と強く言い切れず、一人の外から来た目にこのように映った自分たちの社会が、とても寂しかった。その言葉を否定できない現状、しかしこの国に生を受けた必然と責任と幸運。そして漠然と抱く望むべき将来像。確かに胸に潜む、今の日本への違和感。
日常に誤魔化して、自分の中の違和感を「仕方がない」の言葉で死ぬまで抑えて生きていくことなどできないから、僕は今を生きる。
カード会社がうたう、お金があるからこそ言える"priceless"などという欺瞞を打ち砕く、本物の"priceless"を目指す。
注)記事の日付は太陰暦を用いております
2006年04月26日
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会社の飲み会って環境がそういうトピックにさせたんじゃない?中途半端な距離感にある上司、同僚との飲みって、大概そんな感じじゃないかなぁ。最近、日本人のethicsについての論文読んだんだけど、日本人はethicsを四種類のコミュニティで使い分けているというのがその論文の主旨。「家族」「会社の人間」「日本人一般」「外国人一般」。(個人的には「友達」ってカテゴリーも必要だと思うんだけど。)彼女はその一側面を見て言ったんじゃないかな。少なくとも、学にはそんなこと言わなかったでしょ、きっと。
雨が降ってもお日様出ても、お金あってもなくても、日本人だって一人一人それぞれ大事な人がいて、生きているのに。。。
ま、個性の強烈なガクさんとお友達なら(笑)大丈夫かな〜
問題解決論的には、そもそも幸せ(その当人が何を人生に望むか)を定義せんとこんなん議論にならんし、さらにその幸せが違う人同士ではこれまた議論にならないしね。
もっともそこまで深い意味はなく、なんとなくこいつらおわってんなーくらいのコンテクストやったんかな?
日本みたいな国になりたくないということは悲しいけど、まあこれはこれでしゃあないですな。もちろんそういう声に耳を傾けて自戒とするのは、これまた別の次元で大切だと思うけど。
それよりも他人にそれであんた幸せですか?ってきかれた時にそりゃあ幸せですよ、ってノータイムで答えられるくらい自分の幸せをちゃんと理解しときたいね、お互い。
pricelessをカード会社ごと買収しちゃうくらい、我々ももっと頑張らんといかんですなあ。
おれには学が言いたいニュアンスは分かるけど。むしろ、「あーその人はこーいうシチュエーションでこんなこといったんやろなあ。これは○○に分類されるわ。ぜったいそやわ(無論一側面だけを見て言っただけだろ、気にすんなっていうはじめの意図は分かるが)」とか、「いやー幸せってひとそれぞれ違うとおいちゃんは思うねえーこれ。人が求める幸せってのはそれぞれ違うからねえーこれ。幸せの基準が違う人と話してもねえーこれ。意味ないねえーこれ。プライスレスだかなんだかしらんけど、カード会社もりもり買収しよーぜ」みたいな方がおれには違和感あるな。正直な話。
他己が信じる幸せの基準に単純に共感したり、影響されたり、世の中を体感するための一つの基準にしたりすることは、というかその姿勢を持つことは、おれは大事なことだと思うよ。
どこにいても、心は自由だと思う。否、思いたいと思っている。
「夜と霧」のフランクルおじさんさんは収容所の中でさえ、心は自由だったと言い得る。心という一個人の内面に関することを、国全体を一つと捉えて、ステレオタイプ化されたことを非常に残念だと思ったんだ。学の側というより、そのお姉ちゃんの側を見て。お姉ちゃんの言葉から学が自分の世界観を改めて、考えるというアクション及びその内容については全肯定するけど、お姉ちゃんの思っていることと、学の思っていることとには随分乖離があるような気がする。現実に違和感を共有することとその方向性を共有することは、別の事柄だし。統計の試験迄、後6時間の肇より。
本当は俺ら世代がもっとこういう社会にしたいというあーだこーだの話をしなければいけないんだよね。学生時代から今まで俺はこうなりたいとか俺はこうしたいとか、保険はあれがいいよとか車のローンがきちいねえとかの話が多かったもんね。いい加減それをしなけりゃ面白くねえよな。
実を言うと友人と話をした時に答えた俺の反応は、「日本が好きでいてくれてて、そう思ってしまったのは残念だ。でももし途上国の目で見て日本みたいになりたくないと思ったんならその気付きを踏まえて自分達の将来を考えるのはメチャクチャ意義があると思うよ。」でした。偉そうなこと言う代わりに、じゃあ俺達のことは俺達で考えないとね。
統計の試験どうよ?
俺がどうしたい、って言う気持ちは強くあれど、社会とか他人とかをどうしたい、って気持ちは言われてみれば以前ほど意識しなくなっているかもしれないね、正直。
自分の幸せ論じゃなくて、他人や社会の幸せ論を語れる自分は確かに少なくなってきてると思う。
むー、これはこれでつまらんのう。
まあ、おいらの場合は特殊でよ、ダイレクトにリスナーに届いちゃうからね。そういうバランス感覚とはいつも向き合って生きてるからなー。
そろそろ、こういうこと考えたりする同世代も減って来てるのが、最近ちょいと切ないでごわす。