朝、自宅のパソコンのモニター(ディスプレイ)が故障。急に何も映らなくなってしまった。親友に借りているノートパソコンでなんとか急場をしのいでいる。先日から車を廃車して自転車中心の生活になり、少しずつ慣れてきたかなと思っていたら、今度はパソコン。マイカーの無い生活は、可能性としてありえるかもしれないが、パソコンの無い生活は、今のところ想定していなかった。連絡も、事務関係も、趣味も、仕事も、ほとんど毎日何かしらの形で関わり、内容としてもかなり依存している。名簿もパソコン、記録もパソコン、予定もパソコン、あらあらら。
マイカーを少し手放して、あらためて必要性と不必要性に気づきつつあるように、パソコンもそういうことは可能なのだろうか。知人の自然農法家には、インターネットも携帯電話も手放している猛者もいる。小生はそこは目指してはいないが、どこかしら淡い憧れを抱くような軽やかさを感じることもある。震災後、あらためて身の周りの用不要を問いかけられてきている。諸事情で通常よりも高く支払っていた電気代の基本料金をあらためて見直したら、月額2500円もカットできることになった。車の代わりに購入を検討している単車も、時を経るごとに買わなくてもいいか?と思うようになってきた。便利さを手に入れて失うことがあることを、今までの日本人は見なおす機会を失い、見ることも忘れていたが、そこを改めて問い直してみる好機を手にしている。思考を止めず、あるレベルの不自由さと不便さを身に着けることで、逆に驚くほどの自由と快適を手に入れることができることもある。慣れと思考停止が、全ての停滞を生む。体内細胞は常に傷つきながらも、しかしそれを永続的に修復と新陳代謝を繰り返しているからこそ生命は維持されている。低量の放射線などで人体は犯されすぎはしない。怯えて目を凝らしているつもりでいたら袋小路に追い詰められるだけかもしれず、無防備に楽観ばかりしていたら自分の足元をすくわれるかもしれず、どちらか一方サイドの判断、価値に身を預けることは一時の楽を手に入れて結局は自身を追い込んでいく。放射線こそが、人類を滅ぼすのではない。電力会社こそが、日本人を滅ぼすのではない。慣れと思考停止こそが、その人自身を滅ぼしていく。いったりきたりでも、間違いに気づいて戻っても、試行錯誤してもなんでもいいから、前向きに生きていきましょう。
あー、中古のディスプレイ、どこかに落ちてやしねえかなあ。今のところこればかりは、必要リストに入れるしか仕方ないのよね。車も持ってると便利よね。自転車に乗って電気店にモニター背負っていったのは、さすがに嫌になったわ。こんなことパソコン使って書いてないで、はよ畑に出んかい、俺。
不便さを着こなし、科学を見つめ続ける。それくらいのスタンスでいきたいものだ。
★追記(5/1):思いもよらず、ディスプレイを譲ってくださるというご連絡をたくさんの皆様からいただきました! 1番にお声かけくださった方からお譲りいただき、早速使わせてもらっています。皆様からのご好意に本当に感謝いたします。 なにごとも言っているもんですな。
僕は福島県の会津地方で雑草を作っている者ですが、今シーズンはさらに雑草を生やしながらじっくり見ていきたいと思っている次第です。
http://tuchinohito.jugem.jp/
ちょっと前までは立派な作物も作らないとなんて有機肥料投入も企んでましたが、ここでの今の状態では、変に手を入れずに放射性物質を散らしたままの方が案外安全なのかもと最近感じているので・・・
雑草屋さんもがんばってください。
はじめまして、コメントありがとうございます。ご返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした。
私は福島出身、いわきの生まれです。Blogを拝見いたしました。喜多方にいらっしゃるんですね。雑草を生やす者同士として、つくばから応援させていただきます。
何をしたらいいのか、なんて簡単なことは言えませんが、この個人の試行錯誤こそがより良い将来への源泉だと信じてます。野菜が、雑草が、鶏が生きる限り、人間も生きるのだと思ってみるのもいいのかなと私は思ったりもしています。
また時々Blogなど拝見させていただきますね。
「野菜が、雑草が、鶏が生きる限り、人間も生きるのだ」
そう、僕の田畑でもさまざまな命が今も力強く生きていまして、それを見ているとまさにそういう気持ちになってきますね。
ところで、僕は会津出身ですけど、学生の頃の5年間いわき市民でした。
今後もどうぞよろしくです。