注)記事の日付は太陰暦を用いております

2006年07月06日

一日一食

水無月十一日 曇りのち晴れ

 ひょんなことから始めることになった。

 人は食べないでも生きられる、というまゆつばものの話。突拍子もないことは得てして、多くの人に笑い飛ばされながらも一部の人を激しく惹きつけることがままある。世界のどこかで土だけを食べて生き続ける人や、水だけを飲んで生き続ける人がいるという話をTVで見ても、それはただのびっくり人間の範疇で括られてしまう。
 常識を疑う。そのための大いなる武器のひとつは、実践による体験である。「食べる」という常識に向かい合うことがどれだけ意味があるかはわからないが、現実に体を張って実験している人がいて、彼らは強く、「人は(それほど)食べる必要がない」と宣言している。人間は、生まれた時から食べることを欲し、それがいつしか習慣となり、まるで朝昼晩の三食を食べなければ文化ではないように思考が固まってしまっているが、いったい誰がそのルールを決めたのだろうか。人間はほとんど精神(脳)で生きているとすれば、そして人間が必要な摂取エネルギーは思い込んでいるよりもはるかに少なくてよいのだとしたら、もしかしたら人間は食事をしなくても(減らしても、と言ったほうが正しいだろうが)生活できるのかもしれない。食事の多くが排泄物として「消費」され、余計な摂取分は(もはや社会の病といえる)肥満となって「蓄積」される現代。無駄に摂取しておいて無駄にダイエットするという笑えない悪循環が先進国の一大産業となる一方で、途上国では今もなお解決の一端さえ見えない飢餓問題が存在する。

 「疑い」が「行動」に変わり、「現実」になるとしたら。

 
 一個人の動機は、ダイエットであったり、好奇心であったり、節約(笑)であったり、様々なはず。全く食べないというのではなく、一日一食にしてみたり、飲み物だけの生活にしてみたり、とやり方も様々であろう。大事なのは、「食べなくてはいけない」「食べることを我慢するなんて馬鹿げたことだ」という精神の束縛を疑ってみることではないだろうか。

 小生の場合。一日一食を始めて二週間を経過した。夕食は、何も我慢することなく思いのままに食べ、朝昼その他は飲み物のみ。毎日欠かさないアルコールは、夕食時に大いに楽しむ。一つの大きな変化、空腹の意識が徐々に無くなりかけてきており、夕食の食事量が、劇的に減ってきた。その日の都合で昼に食べたときは、できるだけ晩を抜く。ただし無理はしない。人に説明するのは面倒なのだが、それは仕方がない。先日知人に話すと、一種のヨガだねと言われ便利な言葉を発見した。ダイエットでもあり、好奇心でもあり、節約も兼ねているのが実情なのに、言葉を変えればたちまちロハスなヨガに早や変わり。なんとも説明しやすいご時世です。

 さてさて、いつまで続くのか、はたして、何かを見つけることができるのか。食欲のカタマリのような男が、変わることができるか。何事も、物は試しなのです。

 
不食の会:山田鷹夫氏が3年間実践してきた不食のススメ。
      かなり、本質をついた内容も見られます。

      著書「不食 〜人は食べなくても生きられる」もあるとのこと。
posted by 学 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。