注)記事の日付は太陰暦を用いております

2011年12月15日

日常

霜月廿一日 晴れ  

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 しばらくご無沙汰しておりました。神無月と共にどこかに隠れてました、わけじゃないけど。

 畑では、大根やら小松菜やらカブやら、育つ箇所では少しずつ良く育ち始めている。大豆も程よく乾き、米もしっかりと干され、小豆も刈り終え、生姜と里芋と菊芋は土中で掘り出される頃合いを待ちかねている。要は収穫の秋、ド本番を急き立てられているのです。

 
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 毎日毎日、作業を目の前にこなしてはいるものの、書くこと、ねえなあ。放射線とか、TPPとか、遺伝子組み換えとか、ユーロ危機とかFIFAクラブW杯とかAKBとか、日常に、夕餉の度に深刻に体をひとめぐりして煮詰められて出て行くものの、書くべきことは見つからない。自身の内側に根付いて、自分の言葉で、堂々と向き合える思考ではない。つぶやくくらいならできるのだろうが、それが何になるのか。脱穀の合間に、コタツで豆を選別する合間に独りごちることと、Tweetしてネットに公開することに、どれほどの差があるのだろう。
 自然農の畑は、ムーブメントや体制や情勢とは次元を別にして、ただ、そのまま、自ずから然らしむるペースでしか進まない。自分の周囲と己れ自身が、笑ってしまうほど流されるままにしか生きられないからこそ、その泰然の田畑のペースを師として自分を引き戻したくなる。だからなんだというわけでもなく。

 米を脱穀して、豆を脱穀して、間引き菜摘んで、拾った猫を飼い遊んで、ヤギと蹴り遊んで、来春からの跳躍にむけて練る。枯れ葉をかき集め、垣根をこしらえ、ヤギの糞を畑に戻し、作業の合間に落ち葉で焼いた菊芋を頬張る。それこそが、世界に通じている道だと信じて。いわんや、それでしか、世界には通じていない。
 

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posted by 学 at 19:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私たちは自然に生かしてもらっているのだから、それに逆らって生きることはできないよね。忙しい日常で自分たちはなんとなく『自立していて、何にも頼っているわけではない』と思いがちだけどそうじゃないと思う。自然の流れの中で、季節の移ろいと共に与えられる様々な大地の恵みに感謝しながら、自分も生活したいものです。学さんの畑をみると元気が出るよ。がんばって。
Posted by 頼子 at 2011年12月18日 23:10
>頼子

がんばるぜー。頼子も元気出してがんばれー。
逆らわずとも、後ろ向きにならずとも、ベースを自然の有限性に置きつつ文明を継続していく方向は絶対にあると思うんだけどね。経済も発展も科学も社会もエネルギーも無限と思えてしまっている今の前提に、いつかクサビが打ちこまれる日が来るのを楽しみにしてるんだよね(笑)。

そっちは今年もガツンと寒いんだろうなー!
Posted by 雑草屋 at 2011年12月22日 18:57
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