第一候:立春初候
【東風解凍(はるかぜこおりをとく)】
=東風が厚い氷を解かし始める頃=
(新暦2月4日頃〜2月8日頃)
【東風解凍(はるかぜこおりをとく)】
=東風が厚い氷を解かし始める頃=
(新暦2月4日頃〜2月8日頃)
全国、あるいは北半球世界の例に洩れず、つくばにも寒波が訪れている。今年の冬は、どうやら寒い。今でこそ、TVやインターネットで世界規模の気候変動を情報として認識し、対応や理解を理性的に講じることが可能、もしくは求められることとなった。しかし一昔前、というよりは人類が誕生して以来ほとんどの文明期間、我々の爺さんの爺さんくらいまでの人間は、天候の変化に対して地球レベルでの認識や対策を考える必要も理由も機会も持ち得なかった。目の前、家の周り、田畑の見渡せる範囲での、今日の明日の、せいぜい今年の、なんとなくの移り変わりを感覚と智慧で感じ、そしてそれに対して緩やかに、時には敏感に応じて過ごしてきた。はずである。
ニュースを見れば、ヨーロッパの記録的な大寒波に驚き、ほぼ自動的に温暖化や異常気象というキーワードを結び付けては憂いてみる。そしてなんとなくその憂いを曖昧に消化して、しかし日々の業務や日常に結びつくことはなく、また次のニュースを消費していく。それに善悪はなく、ただそれだけでしかないのだけど、それとこのつくばでの季節の移り変わりの機微とは、別世界のように思えてどうも良く分からなってしまう。ここ数日の、いや年をまたいでの今年の寒さの芯の強さは肌を通して実感されていて、感覚としてはどうも今年はいつもと少し違うタフな冬になりそうだなと思っていたのは事実として存在する。それが、つい数日前にネットで飛び込んで来るまで知りもしなかったヨーロッパの大寒波をニュースを見て、自分の中で「ああ」と膝を打って「やっぱりな」と勝手に理解してしまう自動反応に、どうしても納得がいかないのだ。その、目の前に広がる、地場産で息づかいの聞こえる、本来必要な「気づき」と「応じ方」に鈍感になり、手に入れたと勘違いしてお手軽に到達した「理解」と「認識」。前者と後者の間に言葉ではどう表してよいか分からない隔たりが大きく存在しているように思われてならない。
だから何、と言われればそれまでなんだけど。
二十四節句は、たびたびこのBlogで時節に合わせて言葉にしてきたが、今年は七十二候(しちじゅうにこう)を採り上げていってみようかと思う。一年を約十五日ごとに節句に振り分けたものが二十四節句であり、立春や春分といった耳馴染みのあるものや、啓蟄や清明など時々に季節の言葉として耳にするものがある。それら節句をさらに三つに分け、五日ごとの細やかな季節の移り変わりを表したものが七十二候である。Blogを始めてから、事あるごとに採り上げようかと思っていたが、五日ごとに記事を書かねばならないこと、一年に七十二回も訪れることを最初から懸念してついぞ手をかけることはなかった。
脈絡もなく今更でもあるが、今年のテーマは「しんか」に決めた。深化、真価、進化の意を込めて、さらに潜り込んで、絞り込んで、広げきって、楽しみきって、自然農とそれに纏わる事柄物柄にあたっていきたい。そのまずはBlogの試みとして、七十二候ごとにアップしていこうと思う。さて、一体。どうなったとしても、挫折しようとも、むべなるかな、インチキ百姓として応じていくしかないのだけれど。
つくばの田畑にいまだ東風は訪れず。風の代わりにだろうか、土地を緩めるような雨が降りた。土も、心も、体も、春を告げる東風を待たずとも、氷を解き、芽を準備する時節がきた。遅い遅いと言われていても、梅の蕾は一日一日と膨らみ、庭の落ち葉の下からはフキノトウが顔を覗かせている。