注)記事の日付は太陰暦を用いております

2012年02月22日

道中より

如月朔日 天気知らず

第四候:雨水初候
【土脈潤起(どみゃくうるおいおこる)】
=雨が降って土が湿り気を含む頃=
(新暦2月19日頃〜2月23日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※



 先日からしばし、つくばを離れています。もとより、旅は嫌いではない。旅行や、リゾートや、ツアーではなく、半ば入り口がそうであっても、内容を旅(のようなもの)にしたがるような粗野さが、自分にはまだ残っている。もちろん、目指す場所や過ごす内容や、期待する充実感をなぞる事で得られる喜びや楽しみもあるにはあるが、本当の旅の醍醐味とは、目的と予定調和の狭間で起こる、生の自分に起こる反応や感覚であり、どこかでそれを求めてしまう自分がいる。

 旅の位置づけが難しいのは、いつもの日常生活の中には旅ほどのライブ感を持ち込むことができなくなってしまうが故に、休暇で過ごすそうした旅にことさら非日常感を盛り付けてしまい、あくまでも旅と日常を無意識に切り離してしまうことがよくあるからである。そうした時に旅は、単なる気分転換であり、または一つの目的達成ゲームであり、せっかくの生き生きとした感性を手にした先に、まったりとした日常が上書きされるという繰り返しに陥ってしまう。若い時分に鼻息荒く口にした「人生とは旅だ」などというどこにでも溢れているようなセリフを今更持ち出したくもないが、時間をやり繰りして手に入れた余暇としての旅を、非日常のワンシーンに納めてしまわずに折々にその感覚を日常に照らし、自分と世の中を眺める感性を思い出す手段として携帯したいと思っている。 

 時間をかけて距離を移動し、普段では目にしない手にしない環境に触れてその新鮮な感覚を楽しみとするのが旅であるとすれば、実はそれは距離や時間に制限されない、という点も旅の本質であり醍醐味である。20代に時間と距離をかけて這いずり回った異国の放浪も代用のきかない経験ではあるが、自分の感性さえ、探求性と感受性を鈍らせていなければそれはいつでも、どんな場所でも、手にするチャンスはある。それは一つには自然農の田畑であったり、古武術的な体の使い方であったり、動物の行動に思いをはせるトラッキングであったり、それらは身の回りにすでに内在し、いわゆる普通の日常に隠れているインナートリップである。内側の声、すでに在るものへの気づき。その無限の広がりへの好奇心を手にしたとき初めて、人生はもしかしたら旅のようなものかも知れないとようやく言えるようになるのではないだろうか。

 今どこに居るのかって? さあどこでしょ。 留守を預けて、田畑も山羊も置いて、自然農をしばし手放して、どんな旅になっているのか。自分でもわかりませんゆえ。出発前に書いたこの記事がちょっとした置き手紙になっていますが、また戻りましたらどうぞよろしく。

 
2月15日の出発を前に記す




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== 1月の旅 雪の斜面もまた旅なり ==
posted by 学 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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