注)記事の日付は太陰暦を用いております

2012年03月29日

メガネを外して

弥生八日 晴れ

第十一候:春分時候
【桜始開(さくらはじめてひらく)】
=桜の花が咲き始める=
 (新暦3月25日頃〜3月29日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


 最近、メガネを外して生活することにした。
 高校生活も終わろうとする頃、そういえば黒板の字が見えにくいことに気付き、受験会場で大切な伝達事項を見落としてはまずいという理由が7割と、都会に出て遭遇するであろう可愛い子ちゃんを近眼のために見損なってはいけないという理由が3割で、両親を説得して(無論7割のみを掲げて)初めての眼鏡を作ったことを覚えている。大学に進学してからしばらくは眼鏡と裸眼を併用していたが、併用では不便を感じるようになりいつの間にかコンタクトレンズを常用するようになっていた。コンタクトレンズの毎日の着脱はその習慣に入ってしまえばなんてことはないのだが、放浪していた数ヶ月を除けば大学5年間ほぼ毎日コンタクトを装着していたことを思い出すと、今ではなんとも奇妙な感じもする。就職してからも同様にコンタクトの生活は続いたが、自由に使える金を手にしたこともあってか小洒落たデザインレンズなどを購入し、仕事のONOFFでコンタクトと眼鏡を時々に使ったりなど、眼鏡で遊ぶことも覚えた頃もあった。自然農を始めてからは、コンタクトレンズとはほとんど無縁の生活に一変した。畑作業、家畜の世話(離職後しばらく山羊牧場の仕事などもしていた)、山仕事、およそほとんどの農作業の場面で、コンタクトレンズは機動性を失う。とにかく、自然と関わる仕事は土埃と草木の粉くずに包まれおり、当然、目の中に入れたレンズとの相性が著しく良くない。数年慣れ親しんだコンタクトレンズは、装飾の面でも活動の面でもとても快適ではあったが、日常を農作業に従事することにした以上、その選択を取ることはできなくなった。それ以来小生は、朝起きて夜寝るまで、枕元の眼鏡を掛けて枕元に眼鏡を外すという、視力を眼鏡レンズによって矯正される日常を何の疑問もなく繰り返してきた。近眼は年を追うごとに少しずつ少しずつ度合いを強め、今では裸眼で0.01あるかないかという症状である。

 眼鏡がないと困る。なぜなら、周りが良く見えないから。良く見えないと、探し物もすぐに見つからないし、誰かの顔も近づくまで分からないし、信号や標識もはっきりと認識できないし、視界がぼんやりして落ち着かない。まだまだ、いくらでも、困る理由は数限りなく上げられる。しかし、さりとて、ふと立ち止まって考えてみる。良く見えないことで本当に困ることなんて、どれほどのことなのだろうかと。小生は最近までついぞ、そんな質問を自分に投げかけてみる機会などなかった。はたして、遠くが見えないことがどれほど困るのか。誰かの顔が近くまで分からないことがどれほど困るのか。視界がぼんやりして落ち着かないことがどれほど困るのか。とはいえ、探し物がすぐに見つからないのは少々不便だな。信号や標識がはっきりと認識できないのは車バイクに乗るときは一大事だな。しかし今は車もバイクもほぼ乗ってはいないな。パソコンで画面を見るときも、視力矯正されていたほうが見やすいだろうな。なるほどなるほど。つれづれに、冷静に検証していくうちに、それ(眼鏡の必要性)は不要とは言えないものの、なくてはならないと思い込む必要もないという結論に落ちついていくのであった。

 視力が良好で、視界がはっきりとくっきりと維持されていることが、当然の、疑うべくもない平均値になったのは、実はいつ頃からだったのだろうか。眼鏡が発明されて庶民の日常生活に進出する以前に、近眼者はどれほどの不自由者だったのだろうか。また、現代社会のような近眼者がもはやマイノリティではない社会はいったいいつ頃からだったのだろうか。

 おそらく、眼鏡の登場以前にもそれなりの近眼者は存在しただろう。近眼だけでなく、遠視や乱視など他の視力困難者も少なからず存在したであろう。そして当然、五体満足者に比べて若干の不自由も備えながら、ではあるものの、しかしながら不便という言葉とはかけ離れた生活を送っていたのではないだろうか。目が悪いなりにそれを当たり前のものとして受け入れ、どうにかできたらよいだろうが回復を望んで渇望することまではせず、ただその低下した能力で過ごすことしか術がなかったはずである。見えない(ここでは見えづらいことを意味し、盲の意味ではない)ことは、見えるよりは少々不具合なことはあるが生きるうえでおおよそ支障がないものであったように思われる。
 では少し視点を変え、これが動物ならどうであるか。視力が低下した動物は、弱肉強食のリアルの中で、あるものは視力に執着してその生存能力を低下させ、サバイバルの生存競争から退いていっただろう。あるいはその視力の低下以上に別の機関(聴力、嗅覚、感覚など)を鋭敏に研ぎ澄ませることに成功したものは、視力以上のサバイバル能力を駆使して生存し続けることも可能だったに違いない。人に視点を戻し、盲や聾や唖の方々が、その生活に我々が想像しえない様々な労苦を背負われていることに異論はない。しかしそうした方々が時に素晴らしい気付きを我々に示してくれるのは、感覚が失われたがゆえにそれ以上の別の感覚を持ちえることがあることを教えてくれるからでもある。

 視力が低下したことで、それまで手にしていた何かを失ったのは現実である。しかし同時に、視力でしか認識しか出来得なかった空間把握を、低下した視力を補ってたとえば聴覚、たとえば感覚、やもすれば嗅覚などで補うことができるかもしれない。できないかもしれない。しかし出来るかもしれないと思い、それを研ぎ澄まし日常的にトレーニングすることで、視力保持者や視力矯正者が観ることができない世界を認識することが可能になる、そんな現実が訪れるかもしれない。つまりそれは小生にとって「何かを失う」と同時に、「新しい何かを手にする」きっかけを与えられたとも言えることができる。

 現代社会で一様に「不便」だとされる物事すべてに、こうした「認識の転換」というプレゼントが隠されている。現代のテクノロジーが便利の追及の上に成り立っているのだとしたら、その恩恵を味わい尽くしていながらそれを語るのも恥ずかしいのだが、それでも不便などというものは別に生活や幸せが崩壊するような大したモノでもないという実感をその体に宿すトレーニングは必須だと思う。誰しもが「幸せ」という形の見えないものを求めるのならば、それは一つの幸福への切符にもなりえるのである。逆に言えば、世の中の「不便」に対して不満を感じることを少なくすれば、「不幸」がそれだけ遠のくのである。


 というわけで、自転車生活、裸眼生活、自然農生活、一日一食(不定期)をイイカゲンに続けながら、バイク購入を考え、ワンデーコンタクトレンズも所有し、インターネットに遊び、ジャンクフードを楽しむ。説得力ゼロのインチキ生活を、邁進中なのです。


20120329endou.jpg
2月半ばに種まきしたポット苗がすくすく育ち、いよいよ畑へ。

posted by 学 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
今朝どうにかもっと見えるようにならないか考えていたところだったので、おもしろーいって思いました。
もっとよく見えたい!!って欲求が止まらなくって、とくになぜか春は。
Posted by 飛鳥。 at 2012年03月30日 11:22
>あすやん

綺麗な風景をくっきり見たい!って時はまだ眼鏡かけますぜやっぱり。
今までは裸眼の時のぼやけた景色にモヤモヤ感とかイライラ感が付随していたんだけど、最近はぼんやりした感じがスタンダードになってクッキリ見えた時にお得感が出てる感じになりつつあります。

あとは、全体的にぼんやり雰囲気でも楽しむ感覚は、自然のもの(植物・動物・風景)には利くけど、人工物には全然利かない感じ。だからテレビとかは絶対無理(笑)。

Posted by 雑草屋 at 2012年03月31日 16:08
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