注)記事の日付は太陰暦を用いております

2012年06月21日

梅雨来たりて夏に至る

皐月二日 曇り

第二十七候:芒種末候
【梅子黄(うめのみきなり)】
=梅の実が黄ばんで熟す=
 (新暦6月16日頃〜6月20日頃)


第二十八候:夏至初候
【乃東枯(なつかれくさかるる)】
=夏枯草が枯れる=
 (新暦6月21日頃〜6月25日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


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 台風の暴風雨、台風一過の猛暑、そして台風一過一過の今日、湿気も落ち着き日差しも隠れ、どんよりとした梅雨曇りの皐月の二日。 二十四節句は夏至。一足先に太陽の運行上のピークは訪れたものの、しかし地の上の気はようやく夏が春を追い越し、梅雨の緞帳が重く空に掛かる頃。七十二候は「乃東枯(なつかれくさかるる」。乃東とは漢方にも使われる夏枯草(カコソウ、別名ウツボグサ)の古名。この草は冬至の頃に芽を出し、田んぼや畑の畦道などに生える野の草であるが、ちょうど夏至の頃に種をつけ終えて黒く枯れることから、季節に読まれることになった。この辺りの野辺には見かけないが、その夏枯草と同様に、冬(晩秋)に芽を出した草花がようやく命を閉じていこうとするのがこの季節となる。麦、えんどう豆、菜種、そして数え切れぬほどの冬草の雑草たち。

 自然農で田畑に向かう時よく耳にし、かつ暦を重ねる度に身をもって知る草の姿に、冬草と夏草の二種類がある。生物学上にこうした草の分け方があるかは知らないが、川口由一さんの本にも、その他の自然農の手引きの類にもよく現れる言葉である。冬草は、大まかにいって秋から冬に芽を出し、春に盛り、夏の始まりに枯れていくというプロセスをたどり、同様に夏草は、春に始まり夏から秋に大きく育ち、冬に倒れて種を結ぶ草たちのことである。稲は夏草の代表であり、麦は冬草の代表である。豆で言えばえんどう豆は冬草、大豆は夏草と言えるだろう。もちろん、自然はそんなにシンプルではなく、この冬草夏草のグラデーションの間に様々な個性が入り乱れるわけなのだが、総じて、そのような色分けは間違いではない。自然農では、雑草にも当てはまるこうした草の傾向と個性を見分けつつ、刈る草、抑える草、生やす草、そして育てる作物に応じてゆく。この季節に枯れ行く冬草の命をあえて刈り倒して閉じずに、ただ根元をより分けて種蒔きするだけでよいし、これから共に生まれ育とうとする夏草たちは適度に刈り抑えて、作物が負けぬよう目配りをしなければならない。

 先日の台風4号の襲来後の猛暑で再確認したことだが、やはり太陽の素の力強さは、比すべきものが無いほどに荒々しい。 台風が、梅雨の一時の曇天を持ち去ってしまった後のあの突然すぎる猛烈な熱射は、まさしく太陽光のすさまじい厳しさを思い知るのに十分であった。幸いなことに日本には梅雨があり、夏至を迎えて間もないまだ成育途中の夏草たちを、湿り気と時折の五月晴れで優しく育てあげる。頃合いを見計らったころに梅雨が明け、それまでに根と葉を伸ばした草たちは、ギラギラの夏に耐え抜く力を宿すのだ。しかし梅雨明ければまもなく暦は立秋、夏は盛りとはいえ、既に太陽運行はピークではなく、とはいえ残暑を獰猛に蓄えながらも、日に日に季節は秋へ秋へと進んでいく。 つまり、最も暑さが極まろうとするこの夏至の太陽光を、梅雨空は穏やかに遮り、大地を乾き尽くすことなく瑞穂が根を張り巡らせるために優しく居座ってくれているのだ。

 ともすれば、カビだ、湿気だ、陰干しの匂いだと、嫌われる対象にあげられてしまう梅雨であるが、見方を変えれば日本にとって欠かさざるべき大切な大切な季節の営みのはずである。そうであるなら、季節、気候、天気は、決して克服すべき相手なのではなく、寄り添い共に歩む相手としてしか存在せず、季節や天候がどうあってもそれに幸福感を左右されない生活スタイルを模索していくのが本来の人間のあり方なのではないかと思う。 本来の人間のあり方など希望せず、文明生活に依存して自然克服型の生活スタイルしかもちえないのだとしたら、それはおそらく大きな損失であり、その先にいかに眩ゆい程に輝く素敵なリッチライフがあろうとも結局は根本的では自然環境に左右されてしまうことは避けられない。


 梅雨空にカビを恨めしく思いながらも感謝もし、気まぐれの猛暑に嫌悪感を覚えながらも感謝もし、育っても感謝、育たなくても苦笑、死んでも笑い、生きても笑い、それでも起こりうる悲喜こもごもをなんとか適当に乗り過ごして生きてゆきたい。 社会情勢も大変だけど、国際社会も喫緊だけど、それぞれが足元から幸せになりましょうよ。それでいいと思うんだよね。
 なんか最近こんなことばっかり書いてないか俺。ちょっとうぜえなこれ。やれやれ。 

 と、知人の自然農家さんからいただいた梅を塩漬けしながら、梅雨明けの土用干しを待つのでした。

 
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posted by 学 at 21:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なんだか自然は奥深いと言っていいのか、基本さえ認識していれば深いのではなく、基本しかないと言うのがより近いのか、そんなことを考えました。奥深いと言ってしまうとそこで思考停止してしまいそうで・・言葉遊びでなく、自分の思考を深めるために「自然は奥深い」を封印しようかなーと。
Posted by furutani at 2012年06月26日 22:01
>furutani氏

そうだね。「奥深い」はそういうこともあるのかもなー、と考えさせられます。
自然を前にして「あるがままを受けとめる」のがいいんだと思うよ。それは決して思考停止ではないと思うんだ。

また飲みたいね。
Posted by 雑草屋 at 2012年06月29日 22:43
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