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2014年08月11日

38年目の真実

文月十五日 曇り

 
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 先日、38歳になりました。小生が生まれた年(1976年)に、今の自分と同じ38歳だった方(ということは1938年生まれの方)であれば、今年76歳になられることになる。それはちょうど、今年生まれた次女が38歳になる2052年(!!)に、小生が76歳を迎えることと同じことを意味する。ということは今の倍生きてようやく、今の川口由一さん(我が心のお師匠です)よりも一つ歳を重ねていることになる。

 38歳。小生が生まれた年(1976年)に米作りを始めた方がいるとすれば、今年の夏は38回目の稲作になる。こちとらまだ、今年で12度目の稲作。

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 先日の集合日の午後、つくし農園のプレーヤーさんたちと「自然農」にまつわる意見交流会をひらき、おなじみ「話す・聴く・気づきのワークショップ」のスタイルをとりいれて数時間すごしてみた。その中で、これまでの自然農の畑の変遷を今年の視点から見たときにどう感じるか、と話す機会があった。今の畑に移った7年前、正直、自分はもっとセンスがあって2,3年あれば豊かな自然農の畑になって鼻高々に収穫し、周囲に胸を張っている姿をイメージしていた。意見交流会では、いやはや、うまくはいかなかったですねえと、苦笑いでこの7年を振り返っていた。
 そして今、である。ようやく、育ってくれる作物とまだまだ育ってくれない作物の感覚をつかみ始め、一方で手を焼いてなかなか豊穣な畑に育てられない区画もあり、あるいは知人友人との試行錯誤で自然農のスタイルの中で効果的に畑を豊かにしていく手法も実践していたりもする。しかしながらその過程はただただ楽しいばかりであり、当初のイメージ通りに進まず、7年かかってもまだまだこれからと思う自分に何の不満も反省もない。対外的に(いい子ぶって)反省しているようにみせようかという自分もいなくはないのだが、しかしやはり、現在の状態は自分にとってはあくまでも自然体の結果でしかなく、そう生きようと決めて暮らしている以上、この7年の田畑の歩み(ひいては自然農に出会ってからの12年)には、全く後悔がない。

 
 38年、良くここまで育ったもんだね。育ててくれた周囲の環境と、自分をここまで導いてくれた霊性(としか表現しにくい、感性とも、直感とも、偶然とも、運命とも、魂とも言い表せない自分自身の内的な存在)に、感謝して、受け入れることしかできない。

 前述の意見交流会で、自分を自然農の田畑に立つ作物だとしたら一体どんなイメージが沸くだろうか、という問いかけを、出席者に(もちろん自分にも)投げかけてみた。そのとき小生がイメージしたのは、今の畑で一番苦労している区画で育てた、タフに、しかし疲弊しながら、小動物や病気に時折やられながらも、小さいながらなんとか芋を太らせてくれた、リアルな我が畑のジャガイモの姿であった。ジャガイモになった小生は、そのジャガイモの自分を栽培してくれた妄想上の生産者(おそらく自分自身)に対して、「芋は小さいかもしんないけど、この畑では自分ができるのはこれが精一杯だし、この畑で育てるんだったらこれが限度だよ!これからもっともっといい畑になるんだろ? このままでもいいし、もっと工夫してもいいし、なんでもいいけど良い感じの畑にしていってくれよ。」と声を掛けていた。

 命は、その環境の中で、自ずから最大限の力を発揮しようと、あらかじめ創られている(設計されているとも言って良い)。それはもちろん、人間も同じである。どこであれ、誰であれ、生命体である人間を謳歌しようとするならば、その環境の中で、その人生の中で、その制限の中で、最大限に生ききるしかない。それはただ前向きポジティブな姿勢を意味するのではなく、ネガティブな時期も、失意の時期も、その中での最大限自分が向き合える範囲で生命力を保ち続けることだっていい。(その意味では堕落だって許されている。) 命ある限り、ただただその瞬間における、自分の自然体の伸びしろを楽しみ、生きてること自体を楽しめるかどうか、である。日常的な、現実的な、具体的な、成果や、目標や、困難や、しがらみは、いかにもな顔をして人生に圧し掛かってはくるが、自分の人生の奇跡的な運命力に比べてしまえば、何のことはない。それに負けるくらいなら、それに埋もれてしまうくらいなら、全てを投げ出して、自然体としての自分に向き合えばいい。

 その自然体の作り方のヒントが、自然農であったり、ワークショップであったり、その他もろもろの、自分が今、人生を掛けて関心を抱き、時間を費やしている諸々のテーマなのだ。今の田畑に立って7年、自然農に出会って12年、この世に生を受けて38年。人生という畑に育ち、自分というその制限の中で生命力を謳歌している今、ここらでまた一つ、新しい扉を自分でこじ開けようと、もがき始めてみることにする。

 キーワードは「自然体」。ただただ、周囲と自身の相互反応の海の中で、航海していこうと思っている。さあ楽しみになってきた! これが今の、38年目の、自分のありのままの真実。





 さて今日の畑。38歳3日目にして出会った、生まれて初めて知ったミニトマトの真実。


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 綺麗に実をつけたトマトの実は、赤から黄、黄から緑に、上下に見事なグラデーションをつけて実り進む。ここまで見事な自然の美しさに、この歳になって初めて出会い、そして湧き上がるような喜びに浸った。目にした瞬間、写真や伝聞では決して伝わらない、なにかとても尊い真実を、胸に刻むことができたような気持ちになった。この自然の美しさが圧倒的に伝える「美」。それが、常に我々の生きている隣に存在している。

 生き続ける限り、知らないことが無限に存在し、生きるたびに新たな発見に出会い、感じいり、楽しむ事ができる。知れば知るほど、知らないことが増え、その知らないことを知るが故に、また知れる喜びを手にすることができる。それもまた、この歳になってあらためて実感する、真実でもある。

 これらの真実を、知った風でもなく、誰に見せびらかすでもなく、誰かの為とかの善意でもなく、純粋に生命体の欲求として、同時に人間の好奇心として、追及してみたい。あくまでも、自然体に。ミニトマトは、誰かを喜ばせようとしてグラデーションをなしているわけではない。あくまでも、トマトのその自然体がもたらしたグラデーションを観た自分が、それを楽しんだだけである。

「自然体」は美しい。翻って人間にとっての「自然体」とは何か。その問いをこれからの暮らしの中に、常に忍ばせていけますように。それが自分にとっての「自然体」であれますように。


 38年後。あと38回田植えを経験した自分は、いったい何を想ってそこに立っているだろうか。そう想像するだけで、ワクワクが止まらないじゃないか!



posted by 学 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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