注)記事の日付は太陰暦を用いております

2014年11月28日

家族

神無月六日 晴れ
 
 夫婦と家族は違う。明確にそう思う。

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 先日、小生の両親が、孫の顔を見に我が家を訪れた。孫を喜び、あやし、外食し、そしてまた実家に帰っていった。TVもない我が家での時間は両親にとってはどこかしら手持ち無沙汰であり、退屈であったようだが、孫と過ごしたからそれだけで満足はしたようで、また年始に会う雰囲気を共有して、するりと帰っていった。
 
 息子の自然農の畑にはさほど興味もわかず、娯楽はほとんどないが絵本だけはアホみたいに並んでいるリビングの子供本棚にも目も向けず、なんとなく過ごし、それでいいのだ。

 おそらく両親たちは私たち夫婦の選ぶ暮らしに対して、幾ばくかの(きっと大いに)違和感を感じているだろう。我々も、愛情の表現として常に「何か買ってあげる」と消費に向かう両親の好意などに、幾ばくかの違和感を感じ、しかしありがたく受け取っている。そこには、違和感もあり、それと同時に、理屈を超えた共有感が確実に存在している。

 きっとまた年始に、子供を連れて実家に帰省し、同じような違和感と共有感を楽しんで過ごし、そうして家族の思い出が積み重なっていくのだろう。そして同じことが、我が子たちと私たちの間にも、きっと繰り返されていくのだろうと思う。

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 かつて、共同体としての継続、繁栄を目的に、家と家のつながりを最優先に交わされてきた夫婦であり家族という時代があった。その頃、社会では、おそらくその二つは重なり、同類の概念で育まれてきたはずだ。

 現代、そしてこの国で、恋愛を含む、個人間の契約という性格がほぼ大半をしめる結婚という結びつきにおいて、夫婦と家族が同じ括りにあるとは思わない。
 夫婦とは、出会いがあり選択があり葛藤があった末の、「一緒に暮らす」という合意を経た共同生活者である。一方、夫婦以外の家族、つまり父であり母であり兄弟であり子であるいわゆる血縁者とは、合意なしに強制的に(ある一定の期間を)「一緒に暮らす」ことを余儀なくされた共同生活者なのである。

 その意味では夫婦とは、曲がりなりにも、趣味や性格や価値観などで、あるレベルの共有が前提であるため、かつ自身の選択も背景にあるので、「一緒に暮らす」ことは意思と責任が伴い、多少のすれ違いや違和感があったとしても乗り越えていける理論的な根拠が存在する。

 しかし夫婦以外の家族はそうではない。そもそもが個性としてそれぞれ別個である個人個人が、たまたま血が繋がっているというだけで「一緒に暮らす」ことを社会的に強制されているに過ぎない。その共同生活には、価値観の共有や性格の一致などの、一般的に心地よいとされる人間関係においての前提条件が、実は存在していない。そして、このことを指摘することは、なにかしらのタブーのような雰囲気があり、そこまで取り上げられることは寡聞にして多くない。
 
 それでも、家族は家族である。そして、だからこそ、家族なのである。

 
 それは、「愛」だから、ではない。愛ももちろんあるだろうが、今ここで、そのことについては触れるつもりはない。
 当たり前ではあるが、家族だからといって、価値観も、性格も、趣味嗜好も、決して同じなわけではない。それどころか、「どうしてこの親から自分が?」「父親のあんなところはどうしても我慢できない」「兄弟でどうしてこんなにも性格が違うのか」など、家族間での違和感を感じることのほうが、共有感よりも多いのではないだろうか。

 それでも、この両親に生を受け、育てられ、ともに暮らし、そして子を授かり、育て、暮らしていく。そこに、理由はない。その理由は、家族だから。


 その「家族だから」という言葉に、理屈や説明や理解を吹き飛ばすような力強さがある。

 一人一人にとって、家族は全く違う意味をもって存在している。大好きで、仲良しで、性格も似ていて、一緒にいて何の苦痛もない家族もあるだろう。離れていても、思えば懐かしく愛おしく感じ、時々声も聞きたくなるような関係もあるだろう。一緒に暮らしてはいるが、顔を合わせれば文句を言ってしまったり、無言ですれ違い、歯車が合わないような家族もあるだろう。性格が合わないし、会えば不平不満を言ってしまうが、なんとなく助け合っている関係。1年に何度も電話もしないのに、正月は必ず実家で過ごす繋がり方。

 そのそれぞれの家族のあり方に、実は、価値の優劣はない。なぜなら、先に述べたように、夫婦間とは異なり、血縁関係の家族とは、社会として有無を言わさずに自分の選択なしで「強制」された共同生活者であるという性格があるからだ。

 家族と仲良しなことに明確な理由もなければ、仲が悪いことにも明確な理由はおそらく存在しない。それは、たまたまであり、運であり、あるいは努力もあり、愛でもある。家族関係を良好に継続にすることは、個人で選択できるが、そもそもの個性の差異については、選択できるものではないからだ。

 だからこそ、私たちは家族関係に悩み、憂い、喜び、安堵する。それはその人にとって本当に大切なテーマなのだけど、実は、思い切って宣言してしまえば、家族なんて、ただの血が繋がってるだけの他人だと言ってもいいのだ。

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 つい今年の夏まで、自分はなぜ、あの家族の中で育ったにもかかわらずここまで趣味嗜好行動選択の異なる個性が生まれ育ったのだろうかと、どう考えてもわからなかった。それがこの夏、何がきっかけだったか詳細は忘れたが、自分という個性がこの家族だったからこそ確立したのだという確信にたどりつくという大転換が起きた。

 親友とのたわいもない(いや、結構ディープなトークかな)対話の中で、母親の「ありのままスキル」が異常に高いことに気がついたことがあった。教育や子育てに対して何かしらの哲学や理念がきっと深くはあるわけではない母であったが、彼女はおそらくありのままで私に接していた。自分がしたいことはするし、合わないことはしない、世間に流されもするし、不平不満も言う。美食も楽しみ、教育ママにもなり、夫に従いもし、口げんかもする。当たり前のような気もするのだが、そこで自分を抑えて理想の母親らしく振舞おうとしたり、夫の顔色を伺いすぎたり、子供の機嫌をとったり、という母の姿を目にした記憶がない。自分がきっと母から受け取ったバトンは、その「ありのままスキル」なのだった。一般企業を退職し、自然農を隣に置いた暮らしをし、世間一般の価値観にそれほど気を置かずに、そのお陰で今の多少でも幸せな自分が彩られているのだとしたら、それは、母がいたからこその、母がありのままで自分を育ててくれたからこその、私なのである。価値観や趣味嗜好に、断崖のような壁があったとしても。つい最近まで、公務員就職の夢を息子に抱いていた母だったとしても。

 それまで母と自分を個性の異なる理解しがたい血縁者としていたが、以来、この母にして我あり、という奇妙な連帯感も(勝手に)生まれている。そして同時に、以前とほとんど変わることなく、価値観の違いにモヤモヤしながらの、親子関係(家族関係)が続いていくのである。

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 あらためて話すほどのこともない気もするし、しかしよくよく考えてみれば無限に話すこともあるような気もしてくる、「家族」についての思い。

 そんな「家族」をテーマにして、12月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」を過ごしてみます。誰にでも当てはまるテーマだからこそ、あらためて話して、聴いてみたい。そんな方、お待ちしています。

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photo image taken by ikki


第21回 話す・聴く・気づきのワークショップ
=2014年12月20日(土) 開催=

 今回のテーマは【家族 (親子・夫婦・一番近い他人)】です。
 参加者募集しております。





posted by 学 at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 故郷の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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