約二年ほど愛用してきたスマホが破損し、これを機にまた、いわゆるガラケー生活へ移行することになった。ありがたいことに、妻がしぶる私を遠巻きながら後押ししてくれての、変化である。
新しい携帯電話ではメール機能とインターネット機能のないプランにしたので、外部との火急の連絡は、メールやSNSではなく電話のみとなる。かろうじて、持ち運びのタブレットはあるので、のんびりとしたネット環境は引き続き継続することになる。雑草屋は、鈍重に、重苦しく、そのくせますます柳のようにふらふらと生きていきますので、皆様、どうぞよろしくお願いします。
関係の無い話だが、先週始めになんとなくで始めた断食生活を、一昨日、なんとなく終了させた。今回の断食は、過去最長で五日間行ってみた。食べること、消化すること、消費すること、体調を維持すること、活動すること、いろいろと、多面的に考えさせられる期間であった。断食期間中は、「いにしえの、獲物に遭遇できない先人たちはこのような感じだったのだろうか」などとお気楽にイメージしたり、自身の心の感覚や身体の感覚を、自分なりに味わってみた。結論としては、五日間の断食程度では、特筆すべきことは起こらない、というものであった。
数日間、飯を食わないで過ごすことと、スマホを解約することに、何の関係があるとも思わないが、自分の中では何かがリンクしている。
今の世の中の、「早く、効果的に、身軽に、お手軽に、スマートに、便利に。」をことさらにありがたがる匂い。それが、「人生の味わい」を薄めてやしないだろうか、という思い。スマホを失い、検索や、情報収集や、迅速な連絡や、お手軽なエンタメは日常的な手元からは消える。その反対に、想像や、思考や、慎重な計画や、日常への関心を日常的に手にすることになるのだろう。スマホを入手してからごくごく無意識的に失ってきたそれらを、きっと、じっくりと、意識的に。
遅く、鈍く、重く。実はこうした概念は、身体の感覚に比例している。心身の感覚が鈍ければ鈍いほど、この「遅く、鈍く、重く」という言葉はその人にとって不快にまとわりつく。だから、文明に頼り、機械に頼り、「スマートさ」を追い求めていく。そしてますます、「遅さや鈍さや重さ」に、鈍感になっていく。
ということは、反対に文明や機械に頼りすぎずに心身を練磨していれば、「遅く、鈍く、重く」が不快にならず、それは自分自身で、「早く、鋭く、軽く」していけるということになる。むしろ、それを自身で乗り越えていくことすら、楽しみとしていけるのだ。
いま享受している便利や享楽を少しずつ少しずつ手放していったときに、自分自身に残る野性の芳香はどのようなものだろうか。現代人はもう少し、そんな感覚を思い出す時間が必要な気がする。テレビを見て、新聞読んで、株価を気にして、ニュースに目を通して、それで自分の、どんな魂が鍛えられるのか。歩き、話し、手に掴み、何も無い時間に身をゆだねる。そんな時間が、人間には必要なのではないか。
スマホが壊れたことを機に、そして妻の後押しのおかげで、またひとつ自分は自由を手に取り戻した。

かわらずヤギは、もぐもぐもぐ
ちと大げさに、スマホを破損した喪失感と一念発起をなんとなく文章にしてみている。数年後にまた便利グッズを手にしていたら、是非ともあざ笑ってやってほしい。それにしても一度スマホを使った奴って、大げさだよね(笑)。