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2021年05月09日

【したいなー教育】のススメ

弥生廿八日 晴れ時々曇り

 雑草屋の活動の大きな柱の一つに、教育としての「ホームスクール&家庭保育のススメ」がある。書いておきながらおかしな話だが、実はこれは、本当にやりたいこと、ではない。私たちが本当に望んでいるコトの中身は、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 そんな教育の時間を、子どもの大切な時期に届けることにフォーカスしたい、という想い。そんな時間を子どもに届けられる幼児施設、学校に是非お願いしたいと思ってきたが、残念ながら、地理的経済的に選択できる機関に出会うことが出来なかった。

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 <見よう見まねでブルーベリーの苗を植える二人♪>

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 <焚き火で飯盒炊爨もお手の物>


 
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 これは、選択である。

 耕さなくても、農薬肥料に頼らなくても、虫や草を敵としなくても、野菜は育ってくれる。それが自然農の説くところだ。本来の自然の営み、摂理に従えば、人間の作為は極小でよく、植物と土壌環境の本来もつダイナミズムの中で、十全に野菜は育ってくれる。とはいえ、化学農法で育つ野菜、有機農法で育つ野菜、自然農で育つ野菜に、野菜そのものの優劣はない。種は種で作物のありのままであり、その与えられた環境での最善を全うしようと育ち、時には枯れ、時には虫に食べられ、時に実りに辿りつく。

 私は、環境問題を学び、地球環境の保全を仕事にしようとしていた途中で自然農の田畑に出会い、「ああ、自然界は完璧だ!人間は少しずつ手を引くことを学べばいいんだ!」と目から鱗を落とした。それから20年近く実践を続けてきた。メジャーな農法とは違うやり方だからと言って、それが間違ってる事なんてナンセンスである。


 TMS理論から学んだ心身治癒法・マインドボディヒーリングも、選択だ。人間の健康は、生活として心を最優先してケアすることで、ほとんどあらゆる病や症状から距離を置くことができる。生活習慣とか、菌とかウィルスとか、原因不明の理由とか、そうした外部要因にしかフォーカスしてこなかった今までの医学の見方を180度変えれば、薬も医者も病院も、応急処置以外必要なくなる。身体の健康維持のメカニズムは、本来100%十全で、死ぬまで体調を整えてくれる。それが乱れるのは、無意識の心に抑圧した感情が溜まり過ぎて、心を休ませようとした脳が身体に症状を起こすからだ。

 私は、自然農の学びの中から自然療法に触れ、身体と自然環境の営みの不可思議さを堪能してきた。そしてさらにその奥の、心が十全であるように耳を傾けることで、身体の不調が驚くほど解消されていくプロセスを実践を通して体感した。メジャーな医学とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスである。


 同様の、「本来あるメカニズム」を理解して現代社会から引き算することで十全なパフォーマンスを発揮するというスタンスは、人間行動に関わる多くのジャンルで、すでに取り組まれている。人間の内面的平静さへのアプローチであれば、ヴィパッサナー瞑想。身体の最適な動かし方であれば、古武術的発想の身体操法。相互理解やコミュニケーションであれば、ベーシックエンカウンター。荒廃した自然環境への改善手法であれば、大地の再生(環境再生)。などなどなど。

 ならば、教育もまたしかりなのだ。

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<ガラスに押し花:圧倒的な美しさ>


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<椿の花でサンダル:見事な手さばき>


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 子どもが育ち成人へと進む過程を「未熟から成熟へ」とする見方は、実は20世紀的であり、ダーウィン進化論的であり、自然界の摂理と少々乖離した見方である。まるで、種子は未熟で花が成熟だといったような、あまりにも稚拙な視点ではないだろうか。命の営み、生命の循環、遺伝子のリレーの枠組みの中では、金太郎飴の断面のような「ここは未熟な時期です」というように表現することにあまり意味をもたない。なぜなら精子も十全、胎児も十全、新生児も十全、幼児も大人も中年も老人も、押しなべて、その時その瞬間に十全だからである。自然界には、本質的な優劣、本質的な未熟成熟の区別は存在しない。存在するのは、「関わり合い」である。関わり合いの中で、筋力が大きかったり、行動選択の幅が広かったりする個体はその役目を全うして、命を充実することに専念する(肉食動物の成獣など)。またあるいは、関わり合いの中で、今は守られながら個体の生育に集中する期間だったり(動物の幼児期など)、捕食され命を閉じたり(食べられてしまう植物や動物など)、自らの活動の有効性を見いだせずにスペースを他者に譲ろうとする(植物や菌類など)。

 これらの関わり合いを、いつしか人間は、薄っぺらい価値観の一つでしかない「弱肉強食」という言葉で染め上げてしまった。ただただ循環する生態系の中で、個体個体が、それぞれの得手不得手によって生きるべき場所を選び選ばれ続けているだけなのに。弱肉強食ではない。生態系という主役のいない劇の中で、全ての生命が自分の役を全うしているのだ。

 赤ちゃんとは、赤ちゃんとして完ぺきな存在であり、大人はどうあがいても、赤ちゃんであることにかけては全く歯が立たない存在なのである。赤ちゃんと大人の違い、子どもと大人の違いがあるとすれば、双方にできることと得意なことが違っていて、双方に歯が立たないという点なのだ。そして、刻一刻と産まれてから死ぬまでその立ち位置は変化し、混ざり合い、関り関わられ、十全に経過していく。であるなら、老人が偉い点があるとすれば、それは老人であることにかけて紛れもなく偉いというだけで、それは全く同じ意味で赤ちゃんは赤ちゃんであることにかけて老人より偉いということでもある。

 そう。先生が偉い点があるとすれば、それは先生が先生であることにかけてのみ偉いのであって、であるなら生徒も、先生と同じ量だけ偉いのである。

 これが、大人が子どもに関わる上で、本来決して忘れてはならない、自然界の法則なのだ。

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<アスファルトを大海原に見立てて(自由な発想!)>

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<食べられる山野草を図鑑を見ながら収穫♪>



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 子どもが育つ、とは一体何だろうか。

 突き詰めればそれは、「いち個体として死を迎えるまで生き続けられるような個体へと生育させていく」ことだ。メンドクサイ言い方をすれば、「人間の構成要素と言われる、身体、心、魂(たましい)を、この世界の中で十全に経過させ、次の命へと続いていくように生育する」こと。(次の命へ続くというのは種族の繁殖のみを意味するものではない。死も、連続の輪の中に含まれる。) このプロセスは、なんのことはない。自然界では、それは半ば自動的に営まれている。胎児から老体まで、人間界でいうような「教育」は存在せず、本来の在りようとして、十全に経過していく。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして生き、子どもは子どもとして生き、青年(男女問わず)は青年として生き、成人も中年も老人もそれぞれとして生き、それで完璧。ザッツオール。大人が大人として命を輝かせて生きていれば、その関わり合いの中で子どもは子どもとして命を輝かせ、その輝かせ方を学び、ゆくゆくは大人として命を輝かせることになる。それこそが、「子育て」なのではないだろうか。

 人間にはそもそも、動物として授かった六感全てを働かせて生命活動を続けてきた、測り知れない智慧があった。人間である以上に動物であるのだが、残念ながらこれらの智慧は断絶されているに等しい。その一方、文化文明を築いてきた世界の理性と感覚の積み重なりも存在し、知識、歴史として世界に流布し、それらが現代教育の礎になっている。そしてそれこそが、諸刃の剣として現代社会の子どもたちに降り注いでいる。良い刃もあり、良いとは言い難い刃もある。残念ながらその刃は、心身の「健全性」という視点から見た時に、積極的には受け入れがたい要素として子どもたちに突きつけられてしまっているのだ。

 子どもが生き生きとして命を輝かせる場に学校が成り得ているか? この質問と答えに、それらの要素が集約されていると言っていい。

 
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 <マイ木工道具で鳥のエサ台づくり>

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 <料理本を忠実に模写する次男!>




 そう。現代の「教育」概念こそが、未熟なのだ。

 幼稚園保育園から小学校中学校高校大学就職に至るまで。ゆりかごから墓場まで、いったい何やってんの。生物として「命を輝かせて生きる」という命題に、以下の行動はいったいなんの役に立つというのか。

・時計に合わせて行動すること
・決められた席に座って一定時間動いてはいけないこと
・決められた時間に決められた行為以外をしてはいけないこと
・教えられたことを決められた日時までに暗記すること
・年齢が同じ集団での行動を最優先されること
・決められた空間に集まって過ごさなければ行けないこと
・参加の可否に原則本人の意思の自由はないこと
・ある特定の技術の出来不出来で優劣をつけられること
・指導する立場の者の指示に従うこと

 ずーーーーーーーーーーっと、こればっかり!!

 この、今の普通教育で子どもたちが身につけさせられることの原点を訪ねてみると、現代教育の出発点を見ていくしかない。教育界的には自明のことではあるのだが、それは、身もふたもなく言ってしまえば、軍隊であり工場労働者育成のための制度なのである。

 6年前、長女がホームスクーリングを始めた時のBlog記事から引用する。

-以下引用-


 そもそも子育てが、人に預けることが本流、王道になったのはいつごろからなのだろうか。それは産業革命に遡る。手元にあるサドベリースクールの書籍の一節がこう明言する。

 「産業革命以前の時期に子供が成長するのに必要とされたスキルとは全く無縁の、行動様式や初歩技術を教え込むために<教育>が動員された」

 それまで、家族の構成員の一員、もしくは社会の構成員の一員として、それぞれの受け皿の中で、ある一定の制限と自由を与えられながら、徐々に歳を重ねて、成長していったこどもたち。教育ではなく、知恵の伝授や体験の蓄積が、生活単位の中で、親であり、若者であり、老人たちによって自然に行われ、こどもから大人へと時を過ごしてきた。それが産業革命以後、資本主義経済を支える構成員を大量生産する目的で発明された学校教育が、こどもの成長過程に関与する主役にとって代わった。以後100年程の歴史の中でメインストリームとなる。そして現在、資本主義経済や民主主義などと同じスタンスで、学校教育は、疑う余地の無いほとんど絶対の社会概念として世界に蔓延している。

 実は、こどもが歳を重ねながら学びを広げ深めることと学校に通うことは、論理的には対称関係にはない。決して、「学校に通う」=「こどもの成長」ではないのだ。つい、そんなはずがないと思ってしまうかもしれないが、そもそも学校教育とは、こどもが経験を積む場所や時間のひとつの選択肢(それも極めて歴史の浅い選択肢)に過ぎず、絶対の価値ではない。

-以上-

 繰り返すが、自然農の野菜、有機農の野菜、慣行農法(化学農法)の野菜に優劣はない。同様に、どんな教育を経て育った子どもか、どんな教育を親が子どもに提供するか、も優劣はない。あるのはただ、選択なのだ。

 しかしながら、慣行農法や現代医学が世の中の主流であり多くの人が選択し望んでいることと同様、学校教育も多くの人が選択し望んでいる。社会システムとしての発明品としては極めて優れており、当初の目的に沿った、資本主義経済の構成員を要請する機関として、ある意味完成されている。

 しかし、だからこそ「子どもが育つ場」は、学校が全てではない。学校教育で子どもに身につけることが出来るスキルがあるのと同様に、学校教育じゃないからこそ子どもに身につけることができるスキルが確実に存在する。

 実例は、先駆者は、古今東西に魅力的に存在している。言わずと知れたルドルフ・シュタイナーや、古山明夫さん(古山教育研究所)や、木村利行さん(東関東子育てサポートセンター)らから、私たち夫婦は、子育てに関する革命的な視点や気づきをいただいている。日本中に、ホームスクーリングを実践する素敵な家族がたくさんいて、情報発信してくださっている。不登校などの課題感からが出発点ではあるものの、教育法制度も変化し、学校以外の選択が公認され始めている。

 ああ、自然農と一緒だ! 主流じゃない手法や選択だからと言って、後ろめたいことは何もない。メジャーな教育とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスなのである。

 
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 <6年生(小学生)の長女に触発され、次女も植物の研究。>
 


 最初に戻ろう。

 私たち夫婦は、この人生の中での「親」としての時間を全うする選択として、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 を大事にしたいと考えた。輝く大人の大先輩として、シュタイナー教育を生んだルドルフ・シュタイナーの世界観に共感した。子どもは完璧な存在で、だからこそ、だからゆえに、導き方こそが大切なのだと腑に落ちた。そして自然農を始めとする、大自然の営みと生命のダイナミズムも存分に伝えたいと考えた。

 そして2021年、家庭保育とホームスクーリングの実践フィールドとして、「こぐま学舎」をスタートさせることになった。

 こぐま学舎の【したいなー教育】は、こうした想いを胸に、ゆるやかに、ホームスクーリングをベースに、活動を進めていきたいと思います。よろしく♪

【したいなー教育】

<理念>
・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

<約束事>
・ベースはシュタイナー教育(砂糖・テレビ・デジタルゲーム・キャラクターグッズから離れて)
・自然食、自然育児(子どもの自然な発育をサポート)に共感して過ごしましょう
・無駄に勉強しない(勉めて強いる学びではなく、折に触れての学びを)
・自分の子どもに対してと同様に、自然環境に配慮する(真の環境教育を)

<提案>
・自然農の畑、山の遊び場、古民家で、思い思いに。
・何もないけど、全部ある。子どもの「したいなー」の気持ちを大事にする。
・用意する、提供するは最低限に。大人の都合を用意周到に押し付けない。
・野良調理、木工アート、全身運動、探求、熱中、散漫、全てが「したいなー教育」です。





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 こぐま学舎は「春分」スタート。カレンダー、地球のめぐりを肌感覚でお祝い。




※フリースクール、ホームスクールなどの取り組みなどはこれらの団体などと連携して取り組んでいます※

▼ホームエデュケーションネット アロマスプーン
http://aroma-spoon.ciao.jp/

▼不登校・多様な教育ネットワーク 茨城
https://www.facebook.com/groups/2769717773281932

▼NPO法人ホームスクール支援協会
https://homeschool.ne.jp/


posted by 学 at 22:23| Comment(0) | 学びを知る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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