注)記事の日付は太陰暦を用いております

2021年05月09日

【したいなー教育】のススメ

弥生廿八日 晴れ時々曇り

 雑草屋の活動の大きな柱の一つに、教育としての「ホームスクール&家庭保育のススメ」がある。書いておきながらおかしな話だが、実はこれは、本当にやりたいこと、ではない。私たちが本当に望んでいるコトの中身は、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 そんな教育の時間を、子どもの大切な時期に届けることにフォーカスしたい、という想い。そんな時間を子どもに届けられる幼児施設、学校に是非お願いしたいと思ってきたが、残念ながら、地理的経済的に選択できる機関に出会うことが出来なかった。

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 <見よう見まねでブルーベリーの苗を植える二人♪>

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 <焚き火で飯盒炊爨もお手の物>


 
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 これは、選択である。

 耕さなくても、農薬肥料に頼らなくても、虫や草を敵としなくても、野菜は育ってくれる。それが自然農の説くところだ。本来の自然の営み、摂理に従えば、人間の作為は極小でよく、植物と土壌環境の本来もつダイナミズムの中で、十全に野菜は育ってくれる。とはいえ、化学農法で育つ野菜、有機農法で育つ野菜、自然農で育つ野菜に、野菜そのものの優劣はない。種は種で作物のありのままであり、その与えられた環境での最善を全うしようと育ち、時には枯れ、時には虫に食べられ、時に実りに辿りつく。

 私は、環境問題を学び、地球環境の保全を仕事にしようとしていた途中で自然農の田畑に出会い、「ああ、自然界は完璧だ!人間は少しずつ手を引くことを学べばいいんだ!」と目から鱗を落とした。それから20年近く実践を続けてきた。メジャーな農法とは違うやり方だからと言って、それが間違ってる事なんてナンセンスである。


 TMS理論から学んだ心身治癒法・マインドボディヒーリングも、選択だ。人間の健康は、生活として心を最優先してケアすることで、ほとんどあらゆる病や症状から距離を置くことができる。生活習慣とか、菌とかウィルスとか、原因不明の理由とか、そうした外部要因にしかフォーカスしてこなかった今までの医学の見方を180度変えれば、薬も医者も病院も、応急処置以外必要なくなる。身体の健康維持のメカニズムは、本来100%十全で、死ぬまで体調を整えてくれる。それが乱れるのは、無意識の心に抑圧した感情が溜まり過ぎて、心を休ませようとした脳が身体に症状を起こすからだ。

 私は、自然農の学びの中から自然療法に触れ、身体と自然環境の営みの不可思議さを堪能してきた。そしてさらにその奥の、心が十全であるように耳を傾けることで、身体の不調が驚くほど解消されていくプロセスを実践を通して体感した。メジャーな医学とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスである。


 同様の、「本来あるメカニズム」を理解して現代社会から引き算することで十全なパフォーマンスを発揮するというスタンスは、人間行動に関わる多くのジャンルで、すでに取り組まれている。人間の内面的平静さへのアプローチであれば、ヴィパッサナー瞑想。身体の最適な動かし方であれば、古武術的発想の身体操法。相互理解やコミュニケーションであれば、ベーシックエンカウンター。荒廃した自然環境への改善手法であれば、大地の再生(環境再生)。などなどなど。

 ならば、教育もまたしかりなのだ。

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<ガラスに押し花:圧倒的な美しさ>


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<椿の花でサンダル:見事な手さばき>


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 子どもが育ち成人へと進む過程を「未熟から成熟へ」とする見方は、実は20世紀的であり、ダーウィン進化論的であり、自然界の摂理と少々乖離した見方である。まるで、種子は未熟で花が成熟だといったような、あまりにも稚拙な視点ではないだろうか。命の営み、生命の循環、遺伝子のリレーの枠組みの中では、金太郎飴の断面のような「ここは未熟な時期です」というように表現することにあまり意味をもたない。なぜなら精子も十全、胎児も十全、新生児も十全、幼児も大人も中年も老人も、押しなべて、その時その瞬間に十全だからである。自然界には、本質的な優劣、本質的な未熟成熟の区別は存在しない。存在するのは、「関わり合い」である。関わり合いの中で、筋力が大きかったり、行動選択の幅が広かったりする個体はその役目を全うして、命を充実することに専念する(肉食動物の成獣など)。またあるいは、関わり合いの中で、今は守られながら個体の生育に集中する期間だったり(動物の幼児期など)、捕食され命を閉じたり(食べられてしまう植物や動物など)、自らの活動の有効性を見いだせずにスペースを他者に譲ろうとする(植物や菌類など)。

 これらの関わり合いを、いつしか人間は、薄っぺらい価値観の一つでしかない「弱肉強食」という言葉で染め上げてしまった。ただただ循環する生態系の中で、個体個体が、それぞれの得手不得手によって生きるべき場所を選び選ばれ続けているだけなのに。弱肉強食ではない。生態系という主役のいない劇の中で、全ての生命が自分の役を全うしているのだ。

 赤ちゃんとは、赤ちゃんとして完ぺきな存在であり、大人はどうあがいても、赤ちゃんであることにかけては全く歯が立たない存在なのである。赤ちゃんと大人の違い、子どもと大人の違いがあるとすれば、双方にできることと得意なことが違っていて、双方に歯が立たないという点なのだ。そして、刻一刻と産まれてから死ぬまでその立ち位置は変化し、混ざり合い、関り関わられ、十全に経過していく。であるなら、老人が偉い点があるとすれば、それは老人であることにかけて紛れもなく偉いというだけで、それは全く同じ意味で赤ちゃんは赤ちゃんであることにかけて老人より偉いということでもある。

 そう。先生が偉い点があるとすれば、それは先生が先生であることにかけてのみ偉いのであって、であるなら生徒も、先生と同じ量だけ偉いのである。

 これが、大人が子どもに関わる上で、本来決して忘れてはならない、自然界の法則なのだ。

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<アスファルトを大海原に見立てて(自由な発想!)>

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<食べられる山野草を図鑑を見ながら収穫♪>



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 子どもが育つ、とは一体何だろうか。

 突き詰めればそれは、「いち個体として死を迎えるまで生き続けられるような個体へと生育させていく」ことだ。メンドクサイ言い方をすれば、「人間の構成要素と言われる、身体、心、魂(たましい)を、この世界の中で十全に経過させ、次の命へと続いていくように生育する」こと。(次の命へ続くというのは種族の繁殖のみを意味するものではない。死も、連続の輪の中に含まれる。) このプロセスは、なんのことはない。自然界では、それは半ば自動的に営まれている。胎児から老体まで、人間界でいうような「教育」は存在せず、本来の在りようとして、十全に経過していく。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして生き、子どもは子どもとして生き、青年(男女問わず)は青年として生き、成人も中年も老人もそれぞれとして生き、それで完璧。ザッツオール。大人が大人として命を輝かせて生きていれば、その関わり合いの中で子どもは子どもとして命を輝かせ、その輝かせ方を学び、ゆくゆくは大人として命を輝かせることになる。それこそが、「子育て」なのではないだろうか。

 人間にはそもそも、動物として授かった六感全てを働かせて生命活動を続けてきた、測り知れない智慧があった。人間である以上に動物であるのだが、残念ながらこれらの智慧は断絶されているに等しい。その一方、文化文明を築いてきた世界の理性と感覚の積み重なりも存在し、知識、歴史として世界に流布し、それらが現代教育の礎になっている。そしてそれこそが、諸刃の剣として現代社会の子どもたちに降り注いでいる。良い刃もあり、良いとは言い難い刃もある。残念ながらその刃は、心身の「健全性」という視点から見た時に、積極的には受け入れがたい要素として子どもたちに突きつけられてしまっているのだ。

 子どもが生き生きとして命を輝かせる場に学校が成り得ているか? この質問と答えに、それらの要素が集約されていると言っていい。

 
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 <マイ木工道具で鳥のエサ台づくり>

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 <料理本を忠実に模写する次男!>




 そう。現代の「教育」概念こそが、未熟なのだ。

 幼稚園保育園から小学校中学校高校大学就職に至るまで。ゆりかごから墓場まで、いったい何やってんの。生物として「命を輝かせて生きる」という命題に、以下の行動はいったいなんの役に立つというのか。

・時計に合わせて行動すること
・決められた席に座って一定時間動いてはいけないこと
・決められた時間に決められた行為以外をしてはいけないこと
・教えられたことを決められた日時までに暗記すること
・年齢が同じ集団での行動を最優先されること
・決められた空間に集まって過ごさなければ行けないこと
・参加の可否に原則本人の意思の自由はないこと
・ある特定の技術の出来不出来で優劣をつけられること
・指導する立場の者の指示に従うこと

 ずーーーーーーーーーーっと、こればっかり!!

 この、今の普通教育で子どもたちが身につけさせられることの原点を訪ねてみると、現代教育の出発点を見ていくしかない。教育界的には自明のことではあるのだが、それは、身もふたもなく言ってしまえば、軍隊であり工場労働者育成のための制度なのである。

 6年前、長女がホームスクーリングを始めた時のBlog記事から引用する。

-以下引用-


 そもそも子育てが、人に預けることが本流、王道になったのはいつごろからなのだろうか。それは産業革命に遡る。手元にあるサドベリースクールの書籍の一節がこう明言する。

 「産業革命以前の時期に子供が成長するのに必要とされたスキルとは全く無縁の、行動様式や初歩技術を教え込むために<教育>が動員された」

 それまで、家族の構成員の一員、もしくは社会の構成員の一員として、それぞれの受け皿の中で、ある一定の制限と自由を与えられながら、徐々に歳を重ねて、成長していったこどもたち。教育ではなく、知恵の伝授や体験の蓄積が、生活単位の中で、親であり、若者であり、老人たちによって自然に行われ、こどもから大人へと時を過ごしてきた。それが産業革命以後、資本主義経済を支える構成員を大量生産する目的で発明された学校教育が、こどもの成長過程に関与する主役にとって代わった。以後100年程の歴史の中でメインストリームとなる。そして現在、資本主義経済や民主主義などと同じスタンスで、学校教育は、疑う余地の無いほとんど絶対の社会概念として世界に蔓延している。

 実は、こどもが歳を重ねながら学びを広げ深めることと学校に通うことは、論理的には対称関係にはない。決して、「学校に通う」=「こどもの成長」ではないのだ。つい、そんなはずがないと思ってしまうかもしれないが、そもそも学校教育とは、こどもが経験を積む場所や時間のひとつの選択肢(それも極めて歴史の浅い選択肢)に過ぎず、絶対の価値ではない。

-以上-

 繰り返すが、自然農の野菜、有機農の野菜、慣行農法(化学農法)の野菜に優劣はない。同様に、どんな教育を経て育った子どもか、どんな教育を親が子どもに提供するか、も優劣はない。あるのはただ、選択なのだ。

 しかしながら、慣行農法や現代医学が世の中の主流であり多くの人が選択し望んでいることと同様、学校教育も多くの人が選択し望んでいる。社会システムとしての発明品としては極めて優れており、当初の目的に沿った、資本主義経済の構成員を要請する機関として、ある意味完成されている。

 しかし、だからこそ「子どもが育つ場」は、学校が全てではない。学校教育で子どもに身につけることが出来るスキルがあるのと同様に、学校教育じゃないからこそ子どもに身につけることができるスキルが確実に存在する。

 実例は、先駆者は、古今東西に魅力的に存在している。言わずと知れたルドルフ・シュタイナーや、古山明夫さん(古山教育研究所)や、木村利行さん(東関東子育てサポートセンター)らから、私たち夫婦は、子育てに関する革命的な視点や気づきをいただいている。日本中に、ホームスクーリングを実践する素敵な家族がたくさんいて、情報発信してくださっている。不登校などの課題感からが出発点ではあるものの、教育法制度も変化し、学校以外の選択が公認され始めている。

 ああ、自然農と一緒だ! 主流じゃない手法や選択だからと言って、後ろめたいことは何もない。メジャーな教育とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスなのである。

 
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 <6年生(小学生)の長女に触発され、次女も植物の研究。>
 


 最初に戻ろう。

 私たち夫婦は、この人生の中での「親」としての時間を全うする選択として、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 を大事にしたいと考えた。輝く大人の大先輩として、シュタイナー教育を生んだルドルフ・シュタイナーの世界観に共感した。子どもは完璧な存在で、だからこそ、だからゆえに、導き方こそが大切なのだと腑に落ちた。そして自然農を始めとする、大自然の営みと生命のダイナミズムも存分に伝えたいと考えた。

 そして2021年、家庭保育とホームスクーリングの実践フィールドとして、「こぐま学舎」をスタートさせることになった。

 こぐま学舎の【したいなー教育】は、こうした想いを胸に、ゆるやかに、ホームスクーリングをベースに、活動を進めていきたいと思います。よろしく♪

【したいなー教育】

<理念>
・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

<約束事>
・ベースはシュタイナー教育(砂糖・テレビ・デジタルゲーム・キャラクターグッズから離れて)
・自然食、自然育児(子どもの自然な発育をサポート)に共感して過ごしましょう
・無駄に勉強しない(勉めて強いる学びではなく、折に触れての学びを)
・自分の子どもに対してと同様に、自然環境に配慮する(真の環境教育を)

<提案>
・自然農の畑、山の遊び場、古民家で、思い思いに。
・何もないけど、全部ある。子どもの「したいなー」の気持ちを大事にする。
・用意する、提供するは最低限に。大人の都合を用意周到に押し付けない。
・野良調理、木工アート、全身運動、探求、熱中、散漫、全てが「したいなー教育」です。





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 こぐま学舎は「春分」スタート。カレンダー、地球のめぐりを肌感覚でお祝い。




※フリースクール、ホームスクールなどの取り組みなどはこれらの団体などと連携して取り組んでいます※

▼ホームエデュケーションネット アロマスプーン
http://aroma-spoon.ciao.jp/

▼不登校・多様な教育ネットワーク 茨城
https://www.facebook.com/groups/2769717773281932

▼NPO法人ホームスクール支援協会
https://homeschool.ne.jp/


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2020年11月21日

どう生きるか

神無月七日 晴れ

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 茨城北部に移住して、季節が一周半した。二回目の秋、サツマイモはまあまあよく育ち、大豆と小豆は妻が奮闘して豊作、大根も良い感じ。

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 ただ、どうしても、言葉が出ない。

 パートの身分とはいえ、公職に関わることでこんなにも言葉が出て来なくなるとは、不惑を越えたおっさんになっても思いもよらなかった。

 畑のこと、田んぼのこと、森のこと、心のこと、身体のこと、食のこと、環境のこと、命のこと。毎日毎日、布団に籠り、後ろ髪を引かれながら着替え、ヤギを小屋から出し、時折畑に出たり出なかったり、職場に行き来し、人と交わり、妻と子と話し、食事し、暮らす。感じること、思うこと、伝えたいこと、が喉の奥から出そうになり、キーボードに指を置くたびに、手が止まる。

 向き不向きで語れるのなら、こんなに向いていないなんて(笑)。

 田畑に向き合い、大自然に向き合い、身体に向き合い、そうして立ったこの足で、人と交わり、言葉を選んできた。人の目、人の思惑、を決して優先せずに、想いを最優先して。だから今、言葉を出すことができない。

 先日の新月カフェで、「小さなことがきっかけでどうしても心が前に進めなくなった時にどうしてますか?」というテーマが話された。私は、この一周半の巡り合わせで体感していた、森や自然から受け取れる、天然のヒーリング作用をお伝えした。フィトンチッドや1/f(えふぶんのいち)ゆらぎや酸素濃度やそれら自然の恵みによる生理学的な機能としての、リラクゼーション効果や健康増進効果は、確かに偉大である。

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 しかしながら、心身相関、心身合一のメカニズムに携わってきた身としては、それらの限界も、一方で明確に感じている。森や大地のもつセラピー効果は偉大であると同時に、人は、「どう生きるか」に心の底で触れていない限り、それは脇役に甘んじることになる。

 例えどんなに森に暮らそうとも、心身に不調は発生するし、例えどんなに自然から離れて暮らそうとも、心身に一点の不安もない生き方も可能なのである。

 だから、それぞれ皆、自分にとって生きやすい場で生きるべきなのだと信じる。畑に立ち、森に入り、布団に入り(笑)、時々人と交わる。それこそが、自分の立ち位置なのだと、自覚は益々高まっていく。
  
 私は、公職に生きるべきではない。生きるべきではないが現実には生きており、であるなら、世の習わしには応じ、バランスをとる。しかし、生きるべきではないので、続けることはすべきではない。であるなら、明確であり、契約期間をもって、次のステップへ移行する。

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 もちろん、縁あって今の仕事につけたことで、無職6人家族が謎の里山暮らしをスタートさせて周囲から好奇の目だけで見られてしまうという、移住前に恐れていたような残念なスタートを切ることは避けられた(笑)。この幸運は計り知れない。この町で活動する様々な分野の方と繋がるきっかけでもあり、すこぶる有意義な仕事にも恵まれた。森の効能を存分に学び体感する機会と、事業に取り組む時間は、今後の糧でしかない。また、空き家や移住に関わる職務は、山間地に暮らす上での課題をまざまざと体感することができたし、今後の最重要課題であることも間違いない。この縁に、感謝しかないことは言を俟たない。そして、繰り返すことにはなるが、自身の方向性も改めて確認することができた。やっぱり私は、自分以外の思惑の中では、十全に根を伸ばす才能がないのだ。


 一周半は過ぎ、二周目はあと半周残っている。皆さんと一緒に、半周を存分に楽しむ。さあ、三周目は、いよいよ、大地に存分に立つ。妻との想い、子らとのワクワク、そして何よりも、自分のムクムク。

 地球のためでも、世界のためでも、日本のためでも、地域のためでもない、ましてや、誰かの思惑のためなんかでない、自分のためからの発進、発信、発震。「どう生きるか」。それこそが、未来の魂と直結する唯一のアクセスコードだ。

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 芋掘って、焚き火して、竹細工して、自然食囲んで団らんする。ああ、これだけで。生きていける。(いや、もっとか。ああ、それこそ、書ききれない(笑)!!)


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2018年10月01日

道場とは

葉月廿二日 台風のち晴れ 

 共生革命家のソーヤー海君が主宰する「パーマカルチャーと平和道場」(以下「道場」での研修生活を6月に終え、もう3か月が過ぎようとしている。この半年、いったい我々家族はどんな時間を過ごしてきたのか。備忘録として振り返ってみたい。

 4月から6月までの3ヵ月。パーマカルチャーと平和道場での研修生生活。さて。

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photo by akane


 いわゆる、企業や団体に勤めて働いて給料をもらうというスタイルではない。自営業として、仕事を作って社会貢献して対価をいただいているわけでもない。授業料を払い、学習し、スキルや知識を身につけているのとも違う。楽しいことを求めて趣味や遊びに時間を費やして過ごしているわけでもない。

 道場の母体でもある「東京アーバンパーマカルチャー(TUP)」のHPから言葉を借りるなら、我々家族を含む研修生9人は、「パーマカルチャー(持続可能な暮らしのデザイン)」、「贈与経済(ギフトエコノミー)」、「共感コミュニケーション(NVC)」、「マインドフルネス」「社会変革」の5つテーマを、学び、実践し、暮らすことを海君に誘われ、それに応じて集まり、道場で共に過ごしてきた。

 今の日本社会の成人男女の人生として、「(ただ)過ごす」ことを目的に生きることってあるだろうか。朝起き、ご飯を支度し、洗濯し、竹を切ったり、畑に種を蒔いたり、メールをしたり、対話したり、コンポストトイレを掃除したり、小屋を建てたり、ドライブしたり、笑ったり、田植えしたり、ご飯を食べたりして、夜寝る。そんな風に「過ごして」きた。
 
 外の社会(商店、インフラなど)とも繋がっているので、貨幣も使用する。それと同時に貨幣を使わずに食糧や物品を手に入れることもナチュラルに希求する。反対に自分たちがお礼の代わりに何かを(物でも作業でも)提供することもある。それらの自由さの中に身を置き、様々に実践しながらの生活。かように、多くが、学びの場であった。

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photo by yoshi



 道場で、一所懸命に何かを身につけようとしてきたのかといえば、それもまた違う気もする。もちろん、上記の5つのテーマを学び、実践しようとしてきた。修行という言葉も使われるように、様々にあえてトライして、楽しもうとしてきた。とはいえそれは、身につけようがつけまいが、どちらでも構わない。今、この瞬間に起きていることに耳を傾け、味わう。結果は、問わない。

 いつからか人間は、何かの為に、誰かの為に、目標を設定して人生を捧げるようになってしまった。お金の為の仕事。自分や家族の為のお金の為の仕事。お金の為の仕事の為の勉強。勉強の為の学校。学校の為のお金の為の仕事。国民の幸せの為の事業の為の仕事。そうして、生きること、ただ過ごすことは遠くに追いやられ、目標の為に行動し、そんな無限のループが、続いていく。

 自然は、動物は、植物は、菌類は、宇宙は、誰かの為に存在しようとしていない。存在そのものに意味があり、ただ、存在している。存在を全うしようとしている。存在そのものがすでに誰かの為であり、また、誰かの存在そのものが自分の為にある。


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 私達は、世界の山積した課題の真っただ中に生きている。その一方で個々人はそれぞれ、平和、豊かさ、親愛さに包まれて生きていきたいと願っている。それなのに、今生きているこの世界の事象のほとんどが、その「願い」に直接的にコミットできていない。
 とはいえ、世界が間違っているのではない。経済活動も、政治も、教育も、間違っているわけではない。だけど、幸せになれるかどうか、という問いには、応えられていない。競争や、比較や、評価が、必ずついて回る今の世の中のシステムは、そもそもその「願い」がシステムに組み込まれていないのだ。

 私達人間は、世の中の仕組みやシステムに組み敷かれて生きる存在ではない。仕組みやシステムは、私達が作り共有している存在にすぎない。私たちは、実はシステムからは自由なのだ。経済も政治も教育も、在り方、が「願い」からずれている。あるいは、「願い」にフォーカスしていない。であるなら、世界は、変えられる。


 パーマカルチャーと平和道場は、「願い」にとことんフォーカスした場所であった。NVC(非暴力コミュニケーション)の中で言われる「ニーズ」は、まさにこの「願い」でもある。そして、関わってきたそれぞれの個性が大事にしたい「願い」が奏でられる場所でもあった。そして、それに挑戦(修行、練習、エンジョイ)できる場所であった。

 ただ、「願い」は宿命的な「業(カルマ)」にもリンクしてくるので、個人的には結構きつい時間もあった。自身のネガティブな要素に目を向ける時間も生まれるし、それを乗り越えたいのか越えたくないのかの自問自答、自己否定、などもちょくちょくあったから。それは今も続くし、これからも。ただそれが、「生きる」ことに根本的に繋がっていることも間違いない。


 
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 道場とは。

 地球上で、我々が、子供たちが、これからも楽しく暮らすことを願って生きようとしたら、種を蒔き、火を起こし、糞を還し、対話し、食事をすることだった。存在を満喫し、過ごす。悩みも、喜びも、存在として、味わう。それが許される、ちょっとリッチな場所。そしてそれが広がっていく場所。

 この日本でも、別に不便で不快な暮らしではなく、楽しみとして過ごすことができる。そんなチャレンジャブルな空間が、パーマカルチャーと平和道場での研修生活だった。



 とはいえ、「過ごす」⇒「暮らし続ける」になると大変な部分もたくさんあったけどね(笑)。家族5人だけ(大人2人)での火起こし&煮炊き生活は無理!とか。蚊対策ができてなくて刺され過ぎ!とか。

 
 研修生活を終えて、7月から9月の3か月ほど、古希を超えた我が両親にガチで心配されるくらい本当にボーーーーーッと過ごしてたけど、やっと言葉にできました。(ただ自分に必要な時間として、ぼんやりしたかっただけ。)
 関わってくれたみんなありがとう。愛してます。ここに来れて、良かったよ。


 さて、そろそろバカンスは終わりかなー。

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2017年11月10日

醸し交わす

神無月廿二日 晴れ

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 午前中の稲刈りのあと、親友が活動する団体に呼ばれ、出張版「話す・聴く・気づきのワークショップ」を行った。ワークショップという名を使うのも段々違和感を感じてきていたので、「醸し交わす場」として、4時間弱の対話の(厳密にはベーシックエンカウンター的な)時間をコーディネートした。動くと汗ばむほどの晩秋の晴天の昼から時間を紡ぎ、つるべ落としの日暮れまで。


 車座に囲み、互いに存在を許しあい、認め合い、否定せず、そして何よりも自分自身の言葉に耳を傾けていく時間。時に沈黙が10分続くこともある。誰かの問いかけに誰も答えないこともある。しかしその時間を経たあとに手にする、参加者同士の心の繋がりは、いつ開催しても不思議な安心感を覚える。

 今日の場でも、とにかく時間を贅沢に使い、導きもせず、時折の投げかけもしつつも、言葉を待った。用意された答えでもなく、想定していた満足感でもなく、今、ここの気持ちと、互い互いの相互反応によるコミュニケーション。本音も、建前も、気持ちよく折交じり、参加者同士の距離がまたひとつ縮まった。そんな気がした。


 世間での、ファシリテーターという肩書や、エンカウンターカフェという名称もピンと来ない。常識的な「会話」や「交流」の枠を外して過ごす場は、人間という活動体が共鳴しあう「醸造」だ。我々は、誰かしらと出会い、交わり、反応し、変化し、存続する。互いに醸しあい、共鳴していく。そこに仮に進行役のような者がいたとしても、ファシリテーションをする、という考えは自分にはなじまない。自分は、その場に、醸造菌の一人として存在しているのに過ぎない。だとしたらそれはやはり、「醸し交わす」という言葉が一番しっくりくるのだ。

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 効率的な時間や、効果的なコミュニケーションという目的意識を取っ払って、仲間との「醸し交わす時間」に興味関心のある方がいましたら、お気軽にお問合せ下さい。職場でも、サークルでも、家族でも、最低4時間からの開催で、どんな場でも赴きたいと思います。

 
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2017年01月27日

ヴィパッサナー 10days

師走丗日(旧暦大晦日) 晴れ

 とても暖かな、冬の休息日。今日は旧暦の大晦日、明日は新月、睦月の始まり。

 月の暦に合わせての新年を迎える前のこの十日間、ごく個人的に、ヴィパッサナー瞑想実践の日々を過ごした。朝5時半過ぎに起き、6時から1時間強の瞑想を行い、それ以降は通常通り生活し、就寝前にも瞑想する。食事は昼以降は取らない。数年前に瞑想センターで体験した十日間のプログラムを、勝手に、ではあるが友人と共にサテライトで実践し(メールで同時進行で瞑想するなど)、その他にも八つの戒律も守って過ごした。そして今日、大晦日を迎える。

 ヴィパッサナー瞑想についての詳細はここではしないが(※後述)、この十日間を過ごしての感想は、瞑想実践の充実度と共に、禁酒の十日間と毎朝の夜明け前起床が、何よりも新鮮であった。

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 夏の作業時の早朝起床は、日中作業ができない故の必然的かつ半ば強制的な選択である。しかし真冬。勤め人でもなければ子供の通学時間に追われることも無い、自営業兼ホームスクーラーにとって、冬の明け方に布団を這い出す理由などどこにも無い。現に我が家は、この一ヶ月以上、8時以降起床、朝ごはんは9〜10時という素晴らしい生活スタイル。冬に早起きする理由など、どこにも無いのだ。だって畑さ行ったって土凍ってから(笑)!

 そして毎日、安酒を晩酌。

 自堕落にも程がある、といった声も聞こえてきそうだが、自然農、自然体、自然食、自然育児、を突き詰めていった結果が、この暮らしなのだから仕方がない。家族5人、しばらくはこのスタイルで突き進んでいく。

 
 矛盾するようだが、この暮らし、この方向性に、ヴィパッサナー瞑想が加わるとどうなるか、という化学反応をこれから楽しんでいきたいのだ。いつしか書いたが、心の自然体を探求していくと、ヴィパッサナー瞑想にたどり着く。ブッダが紐解いた、心と身体の究極の真理。自然体研究家としての自分が取り組む課題として、どうしても避けては通れない人生の大目標の一つなのだ。

 自然農は、田畑との取り組みの継続の上にしか成り立たない。全く同様に、ヴィパッサナー瞑想は、瞑想の実践の継続の上にしか成り立たない。自然体とは、生まれながらの自由でラクチンなワタシ、ではなく、本来流れ進む澱みなきところを目指しながら黙々と歩き続ける、「バランス感覚」である。

 今後も、酒も飲むだろう。布団も大好きだろう。その一方で、ブッダの爪の垢ほどでも真理に近づきたいという思いを携えて、自然農と、家族と、自分の運命とともに、瞑想も続けていきたい。


 瞑想して、それでどうなるの?とか
 それって世界平和に、社会貢献につながってるの?とか
 お前大丈夫?とか

 色々な声もまとめて、これからも「毎日が自然農」を続けてまいります。

 とりあえず、十日間は終了! 一日一食も続けたせいか、腰周りの肉がだいぶスリムになってしまった。もうちょっと脂肪蓄えてこの冬乗り切らないとな。酒も夜食もしばらくは解禁して、自堕落と瞑想の狭間にしばらくは埋没します。そしてまた、誰に言うでもなく歩き始めます。

 まずは、(太陰暦ですが)新年あけましておめでとうございます。そして十日間付き合ってくれた家族、妻に大感謝。そして、生きとし生けるものが幸せでありますように。



★ちょうど同じ時期、妻はこんな日々を過ごしていたようです。
「なにもしなくてもいいんだよ」

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 ※ヴィパッサナー瞑想については、こちらのHPをご参照下さい。
  【ヴィパッサナー瞑想:ダンマーディッチャ

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2014年02月13日

観る、話す、聴く、

睦月十四日 晴れ 

 心に、深く深く染み入る映像を鑑賞し、その後に、ゆっくりと、頭の中をめぐらせる。
 と同時に、他人と「おしゃべり」ではない時間で共有していく。

 その体験が、こんなにも心地よく、自ら語りかけられるものが多く、通常の映画鑑賞以上に肉体化される時間になるとは、想像以上だった。

 1月25日につくサスが主催した「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第一番」の上映会。その午前と午後の上映の合間に、「話す・聴く・気づきのワークショップ」の特別編を開催した。派手さやハラハラドキドキが欠かせない劇場映画とは明らかに異なり、あるいは危機意識を煽るような教育映画とも一線を画した、観る人それぞれの時間の中にゆっくりと染み込んでいくような「地球交響曲」にこそ、この時間が意味を持つ。そう期待して、この機会に是非とも開催したいと実現に踏み切った。


 後日、参加された方からの感想が本当に的を得ていて、了承を得て全文抜粋する。

あの場(話す・聴く・気づきのワークショップ)だから、
この映画を語れたのだと思いました。


一人で観て自分の心に感動が刻まれるのもいいし、
友人や家族と観てお互いに感想を
シェアするのもいいのですが、
『良かったねー感動した!!』だけで終わってしまい
深いところまで行き着けないような気がします。


自分の中で反芻しつつ
思ったことを
漠然としてた想いをかたちに変えて
自分の心に耳を傾けてみる。
アウトプットしてこそ気がつくことってたくさんあるのですね。

映画をみたあと、あれだけ静かに語らう時間を
持ったことがあっただろうか?


そして
他の方の話からもさらに連想がひろがって、
自分だけでは気づけなかったものが得られたと思います。

これがワークショップの醍醐味なのかも?

映画とともにとても充実した一日になりました。



 悩みながら、自問自答しながら、毎月開催を続けるワークショップ。派手さもなく、参加後すぐさま役に立つようなノウハウもなく、わかりやすくパッケージングできるようなメッセージもなかなか宣伝できない。しかし、それでもこうした参加者からの生の声をいただくたびに、とにかく続けてみようと思う。
 
 
 上映会のワークショップを開いてみて、とりわけ今後、可能な範囲内で「地球交響曲」以外の映画でも、映画をテーマにワークショップを開催してみたい思いが強くなった。メッセージを放つ映画を鑑賞した後の感覚を共有し、違う感性を持つ他人と同じ時間を過ごす。単なる勉強会とは違う、意見交換会とも違う、静かな交流こそが「醍醐味」の映画のワークショップ。

 果たしてテーマに適う映画に出会う日は来るだろうか。果たして開催が叶う日は来るだろうか。
 自然農に勤しみながら、そんな出会いを心待ちにする日もまた、百姓の毎日としては悪くないのだ。

 
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第16回 話す・聴く・気づきのワークショップ =2月23日(日) 開催=
 16回のテーマは【食(食育・食材・食生活)】です。


第17回 話す・聴く・気づきのワークショップ =3月15日(土) 開催=
 17回のテーマは【身体(運動・心・体の動かし方)】です。

 どちらも参加者募集しております♪
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2013年10月05日

右脳的に

長月一日 雨時々曇り

 昨日のことや一週間前に自分が話したことを忘れては、「どうしてそんなに覚えてないの?」と目を丸くして人を呆れさせることが、しばしばある。自分がその時に確かに感じ、考え、導き出して口を通じて相手の耳へ届いた言葉は、相手の記憶に刻印されて引き出しにしまわれているというのに、当の本人は忘れてしまっている。とはいえ、そのことを話してもらうことによってまたみずみずしく記憶はよみがえり、そのとき話したような、または頭に思い描いたような感情をもって改めて考え直してみたり、また同じ内容を繰り返し話しては、楽しんでいる。人は小生を「忘れっぽい」と評する。

 それとは逆に、心象を揺さぶられ、五感六感を研ぎ澄ませて体験したことは、脳の収納箱以外のどこかに記録され、時間や場所の正確さとは異なる、まざまざとした具体的な身体まるごとの記憶として残されている。言葉以上のなにかによって、確かに、深々と、ありありと。日常での、鍵の置き場所、冷蔵庫の具材、家族の好きな洗濯物の畳み方などは、すぐに忘れてしまうのに、最初に出会ったある自然農の畑の鮮やかな景色や、改心の身体さばきで滑降できた時のスキーのゲレンデ、楽しすぎて時間を忘れて話し込んだ親友たちとの夕食会の匂いなどは、今も目の前にくっきりと浮かび上がる。そんなときは、自然と、己の記憶に感謝している自分がいる。

 そんな小生に対してパートナーからは、「象の時間を生きているから仕方がない」とうまい具合にたしなめられ、本人はいい気にさせられているのだが、その一方で彼女の持つ、幼少時のころからの微細にわたる記憶の鮮明さにはいつも驚かされる。自分にとって少年時代といえば、小学生、もっと言えば中学生の頃の記憶ですら、モザイク状につぎはぎで、果たして本当に自分の経験に根ざした記憶なのか、写真や家族の証言などで上塗りされた記憶なのか、自分にはもはや確かめるすべはない。対して彼女はといえば、幼稚園、小学生の頃の過ごした思い出をひもとくこともしばしば。さらには、生まれて間もない頃の親戚の顔合わせで、本人がどんな気持ちでその集まりの時間を過ごしていたか、といったことまで、仔細にわたって話してくれることもある。

・ ・ ・


 来月開催予定の、第13回「話す・聴く・気づきのワークショップ」のテーマは、「記憶」。 テーマを決めてから数日たった今日、幸運にも、非常に衝撃的な印象的な動画に出会えた。脳卒中を体験した脳科学者、ジル・ボルト・テイラー博士の講演である(TEDより)。

 詳細は動画を是非ご覧いただきたい。博士によれば、我々人間は、感覚に彩られながら「現在」「この瞬間」を生きる右脳と、情報の整理や理知をつかさどり「過去」と「未来」に生きる左脳を、明確に持ち分けている。しかし現在を生きる私たちの多くは右脳の世界から離れ、その時間のほとんどを、左脳に従って生きているように思える。博士の言葉を借りれば、右脳が観る世界は、全てが一つとしてつながっており、美しく平和に満ちている。それと対比するように、左脳は、そうした感覚世界の繋がりから我々を個人として切り離し、別個のものとして認識させる機能を果たしている。そしてだからこそ私たちは「存在」し、社会を生きることが可能なのだという。

 この、少々精神世界的な、もしかしたらスピリチュアルに聞こえる「右脳」の世界は、ネイティブアメリカンの古老が唱える「ワンネス(自然と自分が一体となる感覚)」であったり、瞑想の実践者が語る「涅槃」のようなものに非常に近しく感じられる。もちろん小生がこのような実践をできるわけも到底ないのだが、現代社会にあまりにも欠けてしまった「自然感覚」のようなものを人間は取り戻すべきだと思う自分にとって、非常に示唆に富む講演であった。

 右脳と左脳の本質などわかる余地もない小生であるが、もう少しだけ、日常的に、「右脳」を研ぎ澄ませて生きることは可能だろうか。それは、世俗的な幸福感や達成感とは、もしかしたらかけ離れているのかもしれない。さりとて博士が話すように、自己の存在の確定には「左脳」が欠けてはならず、左右がともにあってこその、世界と自分である。このBlogだって一種の「左脳」の構築であり、自然農の日々の経験の記憶ももちろん「左脳」的であり、日常生活や将来設計に日々頭を巡らせているのも「左脳」の故なのである。そうした自分に喝を入れながら、もう少しだけ「右脳」的に。感覚的に。瞬間的に。
 小生の忘れっぽさと、体感の記憶を宿す性質は、果たしてそれを可能にさせることはできるのか。うーむ、むむむむ、生きてるって面白いじゃあないか。

 Facebookにてこの動画をシェアしてくださった友人に、心から感謝します。


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 朝晩の空気がシンと冷え、庭のゴーヤが弾けてきた。野菜も自然も、(DNAとして「記憶」を継続させながらも、)単体としては、今のみを、右脳的に生きているんだよね、恐らく。


第四十八候: 秋分 末候
【水始涸(みずはじめてかるる)】
=水が凍り始める=
 (新暦10月3日頃〜10月7日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※




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2013年07月04日

音色

皐月廿六日 曇り時々雨

第三十候: 夏至 末候
【半夏生(はんげしょうず)】
=からすびしゃくが生える=
 (新暦7月2日頃〜7月6日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

 20130703ajisai.jpg

 先週の日曜日、話す・聴く・気づきのワークショップを終えた。
 4人の参加者と共に、テーマを「音」に据えての4時間半を過ごした。

 テーマについての考察がどうこう、知識がどうこう、というよりも、このワークショップが常に包括する性格の通り、自分の生き方(あるいは人生の楽しみ方)について想いをめぐらすことになった。

 ワークショップの進行上、いつもの開催では映像などを使用することはないのだが、今回は導入に、ジョン・ケージの作品「4分33秒(原題 4'33")」の、とある演奏映像を流した。小生自身もこの演奏の映像をきちんと観るのは初めてであったが、かつてこの演奏の話を聞いたときの印象も含めて、今回のテーマ開催をするにあたってきっかけのような映像でもあり、アイスブレークに使用してみた。

 演奏についての詳述や感想は控えるが、ジョン・ケージの4分33秒とは、大雑把に言えば「無音」の演奏である。しかしそこには「無音」という音があり、そして聴衆の音があり、はたまた映像としてみるときにはその場の音があり、そして最も大きな存在は、「音楽とは何かという問いかけ」であるように、思われてくる。

 ワークショップでは、この映像を視聴し、その後いつもの「話す・聴く」時間を過ごした。庭に鳥の声、途中からは草刈り機(刈り払い機)の操作音、風鈴の音、そして断続的な会話と、少々の沈黙のうちに時間が過ぎていった。会話は「聴覚」から「音楽の発祥」、「現代音楽の問題点」やら「自分にとっての音とは」など、普段そこまで込み入って考えることが少ないことまで、様々に広がりをみせた。

 今回印象的だったのは、沈黙がいつもよりも「平穏」なことだった。このワークショップでは沈黙もまた意義があるとして、日常会話で頻繁に取り入れられる「相槌」や必要以上の「話題提供」などから解放されてみるという仕掛けがあるため、時に数分単位での沈黙が場に訪れることがある。もちろんワークショップとしてそれは何も問題ではなく、むしろ歓迎されても良い「ポジティブ」な時間なのだが、参加者によっては不自然さや不安感を覚えて、何かしらのソワソワした空気が場に産まれることもしばしばである。
 しかし今回は少し印象が変わった。ジョン・ケージ作品の映像のせいか、はたまた参加者がいつもよりも耳に意識を傾けてのせいか、時折の沈黙も不自然ではなく過ごされているかのように見えた。大げさに言えばそれはそれでひとつの意味あるコミュニケーションであり(それは常々このワークショップで小生が感じていることなのでもあるが)、もっと言えば演奏であるかのようにも思えてくるのだった。
 そんなことが頭に浮かぶようになるうちに、後半の途中から参加者の方々の声の交わしあいに目を閉じて耳を傾けていると、人の声の音色やタイミングの掛け合いがまるで交響曲や、ジャズの即興曲のライブのようにまで、聴こえはじめるのだった。決して大袈裟ではなく。

 途中、ゲストの井上さんから、「音楽の根源的な存在のようなものは何か」というニュアンスの問いかけがあり、その時は漠然と、小生の中には答えのようなものは出なかった。しかし今思い返すと、この耳を澄ましての「声の掛け合い」つまり、ゆっくりとした「相手の声の音色や抑揚にさえ耳を傾けてみるコミュニケーション」の時間が、もしかしたら音楽の萌芽なのであるのかもしれないと、直感的に感じられる瞬間が確かに存在した。その正誤はともかく。

 話す・聴く時間が、根本的にはテーマのない自由なワークショップでありながら、毎月のテーマをあえて設けることでこうした根源的な気づきに出会えることがある。それは毎月主催する側の、期せずして生まれた偶然の喜びでもあり、同時に、できうる限り他の方にも味わってほしい面白さなのだ。

 7月のテーマは「男女」。28日(日)、どんな出会いと気づきが訪れるか。
 普遍的なテーマだからこそ、あえて取り上げてみました。是非、ワークショップでお会いしましょう。

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第12回 話す・聴く・気づきのワークショップ =7月28日(日) 開催=
 今回のテーマは【男女(男性、女性、コミュニケーション)】です。
 参加者募集しております♪
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2013年05月31日

自然側

卯月廿二日 晴れ

 自分ができるだけ自然と共にあれるか。それは自然農に取り組む中で、自ずから寄り添ってくるテーマでもある。


 今日、農園として使用している一部の畑を知人にお貸ししていた区画を、2年を経た後に返していただいた。知人の取り組みに共感しその区画は有機農での栽培をすることになり、トラクターで耕し、有機肥料を入れ、ビニルマルチを張り、寒冷紗をかけて、とある作物を栽培した。そして2年が経ち、返却していただく段となった。

 戻した後には、自然農での作付けを予定しており、現状復帰の作業を手伝った。寒冷紗の撤去はなんとかスムーズに終了したのだが、手を焼いたのが、ビニルマルチの回収であった。農作業においてのマルチとは、地熱を高めたり雑草を生えにくくしたりさせる目的で作物以外の土を覆う資材全般を指す。ビニルマルチとは、種類も様々にあるようだが、おおまかに言えば石油資源のビニル素材でつくられ、薄くて軽く、畑一面に広げるのに効率的でありかつ作物の生育促進にも一役買うため、慣行農法や有機農法の畑では、しごく一般的に使われる資材の一つでもある。

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 それが、2年の使用を経て撤去するとなると、はてさて。雑草の根がビニルに張りめぐり、土はビニルを腐食させ、固定の為に打ち込んだプラスチックのアンカーも食い込み、簡単に外せるものではない。無理して剥がせば表面は綺麗にはがれるが、土の下に埋まったビニルやアンカーは残り、人工物として、分解されて土に還ることがほとんど無い(非常に長い年月においては分解されうるかもしれません)。自然農栽培を選んだ小生にとって、こうした時にこそ、天然素材を選ぶ理由が明確に体感される。ビニル素材は、明らかに土とは親しくなく、見た者に不自然さを覚えさせる。いつかぼろぼろに小さくなったとしても、天然素材の草木や動物とは明らかに異なり、違和感を感じさせるに違いない。一方で、麻布を利用した鳥避けネットや布マルチなどの自然素材は耐久性は比較して弱いが、使用後に畑に放置していたとしても、いつか必ず土に還る。その差異は、どこまで行っても混じることなく、小生の中に大きな隔たりとなって存在する。

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 決して使用しないというわけではない。有用に使えるものは当然利用している。天然素材では工夫に限界にある製品などは、便利な資材として、手元において使っている。ただ、田畑の中に、土の中に残されてしまうような使い方をするものについては、土のためなのか自分のためなのかは分からないが、どうしても使いたくない、と判断する自分がいる。果たしてそれが、自然なのか、不自然なのか、欺瞞なのか当然なのかはわからないのであるが。

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 その作業中、昼休み明けの上半身(わき腹と右腕)に、突然痛さと痒みが走った。最初は草負けや蟻にでも咬まれたかと、軽く擦って済ませようとしていたのだが、何度か擦っているうちにヒリヒリもしくはズキズキするような猛烈な痒さが襲い掛かり、切ったばかりの爪の伸びていない指先で、いてもたってもいられずに掻き毟っていた。しかし何度掻いても十数秒後には元の木阿弥。むしろ痒み、というより痛みが広がってくるような気がしてくる。これは毛虫か、と気がついた頃には、これ以上作業を続ける気力すら失われてしまうほどの不快感だった。
 とりあえず帰宅してなにかしらの薬をつけるべきかと一考したが、ふと、頭の片隅を探し当てる。記憶の断片に、書物か、インディアンの教えか、定かではなかったが足元の雑草についての智慧が思い出された。それは、セイタカアワダチソウを咬んだ汁を虫刺されの皮膚につけると良い、という記憶だった。その時点では確かではない智慧の記憶ではあったが、文字通り藁にもすがる思いで、原因の一つであろう長袖シャツを脱ぎ捨て上半身裸になり、セイタカの葉を口に含み、咬み、唾液の混ざった草の汁を、がむしゃらに患部に塗りつけた。何度も、何度も。作業の汗で渇いた口では唾液が足りなくなると、麦茶を口に含み、その水分で草の汁を伸ばし、腹に腕にこすりつけた。痒みはすぐに治まったわけではなかったが、このままでも仕方ないと、持ってきていたジャージを裸の上に直接着て、作業に戻ることにした。

 すると1分、3分、5分。痒みも痛みも、激しい再発はそれ以降おこることはなかった。飲み薬でも塗り薬でもなく、そこらじゅうに生えている雑草の、咬んだ汁を塗っただけ。それだけで、あの、気が変になりそうなほどのとげとげしい痒みが、一陣の風と共に和らいでくれたのだった。その現実はすこぶる力強く、目が覚めるように明らかで、まずは先人の智慧に、そして植物の薬効の力に、畏敬の念を覚えずにはいられなかった。


 そんな、自然と不自然を感覚として身に深く体感したような今日の出来事。どんなスタンスをとっても自由なんではありますが、小生の個人の趣向としては、自然側に立ったスタンスは、やっぱり魅力的なんだよなあ。と、しみじみの一日。


第二十五候: 小満 末候
【麦秋至(むぎのときいたる)】
=麦が熟し畑が黄金色になる=
 (新暦5月31日頃〜6月4日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2012年10月26日

エコロジー

長月十一日

 先日の、スズメとの大抗争。それから何を学べるかと考えるならば、自然農にかぎらず自然を相手とする農林水産業が対峙する、他の動植物との関係性の中での人間の取り分、と言ったら大げさだろうか。言い方をかえれば、環境と人間の係わり合い方、とも言えるだろう。

 小生が自然農に携わる、そもそもを紐解けば、それは学生時代に自然環境、地球環境への問題意識に火がついてしまったからに他ならない。「国際関係」という十把一絡げな学部に飛び込み、国際社会全般に問題意識を拡げて拡げて収拾が付かなくなった小生に、恩師からとある一冊の本を紹介されてから紆余曲折。いつのまにか休学してからの放浪中にも環境問題、復学してからのゼミも卒論も環境問題、就職先も環境問題、常に目の前と足元がエコロジーづいていた。

 そうして生きてきた先にたどり着いた自然農。正解とか、生計とか、地位とか、名誉とか、その辺とっぱらってどうしようもなく自然農のある暮らしをしているのは、その基盤に、「環境」への問題意識が深く深く澱のようにしみこんでいるからに他ならない。

 今を生きる、自然体である、中庸である、そういうことに敏感でありたいとすれば、自然環境に耳を傾けて感覚を拡げていかざるを得ない。現代人にとって環境とは。日本人にとって環境とは。そもそもエコロジーとは。

 そんなフレッシュでもありベタベタでもあり普遍的でもある疑問を抱えたまま、11月のワークショップはずばり「環境」をテーマに話す・聴くをやります。学生時代の後輩をゲストに招けるのも、存外の喜び。


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第5回 話す・聴く・気づきのワークショップ =11月23日(日) 開催=
 今回のテーマは【環境(持続可能社会・暮らし・環境意識)】です。
 参加者募集しております♪
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2012年09月09日

まなび

文月廿三日 晴れ

 
第四十二候:処暑末候
【禾乃登(こくものすなわちみのる)】
=穀物が実り始める=
 (新暦9月2日頃〜9月6日頃)

 
第四十三候:白露初候
【草露白(くさのつゆしろし)】
=草に降りた露が白く光る=
 (新暦9月7日頃〜9月11日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※



 20120909ending.jpg


 言葉にならないような、充実したような、まだ物足りないような、素晴らしいような、こみ上げてくるような、そんな出来事を言葉にするのは、してはいけないと思いました。

 以上。


 もりのがっこうの、「おとなワークショップ【じっくり聴く・話す】時間」に関われたことに、全身全霊の疲労感をもって感謝します。

 今日の「まなび」がまた、自分に沁みて、沁みて、沁みて、そして湧き出るときまで。


 

 
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2012年07月22日

船は港を出てそして帰港す

水無月四日 曇り時々晴れ


「話す・聴く・気づきのワークショップ」号にご一緒に乗船した
皆さんと、今日のテーマ、「自然農」周遊コースを一緒に
巡り、そして今、港に戻れたような、そんな気持ちです。


 どんな思いで港に集まり、どんな気持ちでこの船旅を過ごし何を眺め、そして港についた今、もしくは家路についた後にどんな残り香をいだくのか、それは結局は集まっていただいた方々の中にしか答えはないのだが、ワークショップの短すぎた4時間を終えた後に発していたのは、そんな言葉だった。

 今日文字にできるのはこれくらいかな。


「話す・聴く・気づきのワークショップ」号は、毎月出航します。
8月の周遊コースは「生命」、9月は「野性感覚」を辿ります。
乗船希望される方は、どうぞ HP までアクセスください。


 
20120722afterthetrip.jpg

 せめてもの余韻をファインダーに収めたくて、帰港直後、船を降りてお話しされているお二人の光景を写してみた。いったいどんな旅だったのか。砂時計、トーキングスティック、そして外された名札たちこそが、それを知っているのかもしれない。


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2012年04月08日

趣味雑感

弥生十八日 晴れ

第十三候:清明初候
【玄鳥至(つばめきたる)】
=燕が南からやって来る=
 (新暦4月4日頃〜4月8日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


 趣味が多いほうではないと思うのだが、趣味に至る手前のようなものはそれなりに手を伸ばして楽しむほうかもしれない。趣味と呼ぶのはやぶさかではあるものの、自然農は今のところ、ここ数年ナンバーワンの地位を譲らずまだまだ座を受け渡す気配はなく、とはいえ従来も今も様々に興味をそそられるものはあるよね。趣味的になっていようといまいと挙げてみれば、最近のものでは身体操法、トラッキング、瞑想、スラックライン、聴く話す時間、昔からならサッカー、アカペラ、スキーなどなど。取りとめもないようでいてこれらの羅列には、自分の中でくっきりと繋がるものがある。それは、スポーツ系か否かに関わらず、肉体化していく過程に言語表現を超える感覚的な感性が働くことである。言葉で論理化しながら追求していく行程もそれなりに楽しいものだが、それをはるかに上回る楽しみが、経験や感性を肉体や感覚の反応に応用させながら具現化していく過程に存在する。体感や感性を働かせて気付く発見があり、それを実際に身体や感覚の操作に落としこんでいく実践があり、それを習熟させてまた次の発見につながっていく。この持続的ループを内在する過程が、またさらに飽きることがない楽しさのポイントのようにも思える。単なる結果の成否の楽しみではなく、あくまでも肉体化の実践を通しての経過を楽しむ。そういった意味において、サッカーでのゴールシーンも、アカペラでのハーモニーも、スキーでの滑降も、小生の中では同類のエクスタシーなのですわ。

 ジャガイモの植え付けもまだまだ終わらせていないのに、絶好の作業日和の午後を潰し、今日は月に一度の稽古会にお邪魔した。ここ二年程、古武術の体の動かし方を中心とした身体操法を学ぶ「つくば身体操法研究会」に参加させてもらい、様々な達人の先輩にご指導いただいているがこれがすこぶる面白い。詳述するには若輩者すぎる為いずれまた機会のあるときに譲るとして、いやあ面白い。自分の体の無駄な使い方、不自然に力が必要な動き、疲れの残りやすい姿勢、これまで三十数年間付き合ってきた自分の体の「できなさ」加減が、少しずつ「できそうな」感覚に近づく歩みは、スピードは遅くとも素直にとても楽しいのだ。
 さてこの研究会(参加されている皆は稽古会と呼んでいるのだが)の前座の遊び(もしくはトレーニング)として取り入れられているスポーツに、スラックラインがある。一言で言うならばモダンな綱渡りスポーツといったところだろうか、これがまた身体操法に劣らず、感覚を肉体化していく過程が格段に面白くて困る。数メートルに張った(場合によっては10メートル以上にも)特殊素材で編まれた帯状のラインの上に乗り、歩いたりジャンプしたりしながらバランスをとるという実にシンプルなスポーツ。それでいながら、実に奥深く、何よりも夢中に乗り続けてしまう中毒性がある。この感覚にはまってからは、稽古会を主催されている居候氏が所有するスラックラインを強制収用しては裏庭に張っては乗り、畑の雑木林に張っては作業合間に乗り、ユルユルの腹が少しでも締まらんという邪念も乗せて一人で体幹トレーニングに勤しんでいる。少しずつ試行錯誤していく度に、スキーや身体操法、ひいては農作業時の体の動かし方にまでヒントとなり、それがまた巡ってスラックラインの動作へのフィードバックになり、その連動性、継続性がまたたまらない。まだまだ、初心者レベルではあるのだがね。

20120408slackline2.jpg  20120408slackline.jpg
いやはや、こんな感じなんですけども。


 これらの趣味に共通する楽しみは、肉体化していく過程の感覚の面白さと充実感と難しさにある、と個人的には考えている。そしてこれ以上言葉を並べてるとその体験が泡のように消えてしまう感じの不安定さがまた、奥深いところなのだと思う。自然農も然り、言葉で全て表そうとすることが無理、もとい勿体無い。体感して、肉体化して、そしてそれをもとにさらに目の前の実践に反映させていく。その終わりなき実践。

 それで言えば、世の中の諸事に対して不満や不平をすぐに発火させたくなるような自分はいるものの、TPPだろうがセシウム基準値見直しだろうが遺伝子組み換え作物だろうが原発再稼動だろうが、すべては自分ごととして肉体化とは言わないまでも生活化させた上で自身の考察をすべきだと、省みずにはいられなくなる。言葉と情報と思い込みによる考察ではなく、確かに自分とつながる点からリアルに肉付けさせた不平不満、そして提案であるべきだと。一見関係ないようなことなのだが、小生の中では、とても大事なことに思えてくるのだ。今はこれ以上は言葉は出てこない、趣味雑感なのでした。


※スラックラインについて
 スラックラインの歩き方・・・スラックラインについて大変よくまとめられています。非常に充実したサイトです。

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2009年09月23日

出さない

葉月五日 【秋分】 晴れ時々曇り

 自然農の毎日には、とり立てて連休の恩恵は余りないのだが、穏やかで、朝夕の冷えがぐんと増してきた秋分が静かに経過していった。気づけば、カブや大根の種を播き、ラッキョウやタマネギの球根を植え、繁茂したセイタカを抜き倒し、自ビールを仕込み、パンを焼き、散歩し、自転車に乗り、ヤギを連れまわす。もちろん、少々の酒にも溺れる。そして話す。

 誇れる友人達が様々に人生を飛翔していよいよ面白くという昨今、小生はしこしこと自然農に傾倒だか埋没だか謳歌だかを勤しんでいる。さてこれまで何をしてきたか、さてこれから何をしていくか、今の畑に立って足元を見渡すがごとき、まるで濃霧の道中にある。しかし灯台の光はいよいよ明るく、自然農とのランデブー飛行、はたまた心中飛行は確固として揺るぐものがない。幸か不幸か。

 濃霧に霞む灯台を頼りに続けるランデブー。ここにきてパイロットの気持ちが少々変わり始めている。元来、「自然農」の持つ世界観、哲学に惚れて実践に突入し、小生は事あるごとに「何か」を「どこかへ」広めようと無意識に行動していた。それがBlogであり農園でありワークショップであり、様々の活動として今につながっている。自然農からインプットがあればあっただけ、アウトプットをより効果的にしたいと思っていた。そしていつしか自分は、出すべきアウトプットが枯れてもなお、うんとこすんとこ出そうと、いや出せると、アクセルを吹かしていたのかもしれない。さて今、搾っても出ない小生がすべきこと、それは。

 出さない。 

 インプットは日々重なり、畑に、田んぼに、足を向けるたび、離れるたび、積もり積もる。その蓄積を、溶かさずに、もしくは溶かしながら、ただそのままに、積み重ねてみる。今まで、無秩序に、無反省に、なんとなしに、出しすぎていた。満ちるまで、種がはじけて落ちるまで、出さない。何をもって出さないのか、それは、我のみぞ知るのだが、その「何をもって」というのが、一番厄介ではあるんだけども。


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小豆は一足先に膨らみ始めてきたね。


【秋分】…陰陽の中分となれば也(暦便覧)
     ★雑草屋的季節分布★ 夏:秋=4.9:5.1

     秋の彼岸の中日で、国民の祝日の一つ「秋分の日」。
     この日は春分と同じく、昼と夜の長さがほぼ等しい。
     しかし、秋分の日と春分の日の気温を比較してみると、
     平均気温で秋分の方が10度以上も高くなっている。
     夏の暑さの名残があるからである。
     雷が鳴らなくなり、虫は地中に隠れ、水が涸れ始める。
     また、台風のシーズンでもある
     ※読み:シュウブン
     <参考:【室礼】和のこよみ & こよみのページ
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2009年01月06日

Burning

師走十一日 晴れ

 初心を忘れた有様が、いきなり具象化したような、一大事であった。プレーヤーの方達と作業して、友人とも打合せもして、半日が経過した今もなお、漠とした動揺の火が燻っている。

 ここに顛末を記す。

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2007年09月23日

また一歩

葉月十三日 雨

 妙なる畑の会 全国自然農実践者の集い 東北
 
 2002年の夏に自然農に出会ってから、はや5年。のんびりと、そして無理の無いスピードで歩いてきた5年を振り返りながら、先輩百姓の田畑や暮らしを見聞きした。

 川口由一さんの風のような話しぶりの中に、毎日の田畑での迷いや右往左往への答えの糸口がちりばめられていて、今はただ、咀嚼の途中といったところだろうか。事務的なまとめはできるのだろうが、言葉にすることで「限定」された概念になってしまい、「自然農」のもつダイナミズムが失われはしないかという戸惑い。面白くて、美しくて、おいしくて、楽しい。そういう原始的な快楽と結びついているからこそ、自然農には魅力がある。表現は千差万別。実践する人が専業だろうが兼業だろうが、哲学的だろうが中途半端だろうが、熱心だろうがインチキだろうが、その人にとって持続可能なスタンスで関わりながらの自然農がそばにあればいいのだと思う。


 耕さず、虫や草を敵とせず、肥料も薬も用いることなく。野菜や米が育つ意思と、生命あふれる土壌の力を受け入れて、自然と人間の住みあうバランスを手探りしながら。無限の可能性と、現実の生活と、日常の農作業と、わくわくのこれからを融合して。

 16回を数え、250名という参加者が集まった実践者の会。自然農の包容力は、ゆっくりと広がっている。

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 あー、宮城県丸森町の皆さんの素晴らしい田畑の様子、出会いや再会の喜び、つくし農園メンバーの笑顔、帰りに立ち寄った会津の定食屋さんでの大宴会、翌日の稲刈り体験に、農爺から教わった納豆大豆と蜂蜜作りの秘伝。書きたいことはヤマホドあるんだけどなーーーー!
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2007年09月21日

えんそく

葉月十一日 晴れ

 明日から、福島、宮城、会津方面に遠足に行って来ます。

 「第16回 妙なる畑の会 全国実践者の集い・東北」へ参加。なにやら全国各地で自然農に取り組む魑魅魍魎が200人ほど集結するとのこと。ワクワクドキドキの初参加なのです。

 つくばはすっかり秋めいた後の残暑に見まわれて、田んぼの神丹穂がもえたぎってきた。赤く赤く、陽射しに揺れる。さて、楽しみでございます。

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2006年08月23日

出穂の頃

葉月三十日【処暑】 晴れ

 夕方に涼しさの産声が聞こえ始めた。

 先週の週末、つくし農園にて夏の「ぷち」収穫祭を敢行。収穫した野菜がままならぬのはご愛嬌、それを補って余りある出席者のパワーが満ち溢れた夜となった。詳しくはつくし農園Blogにて。

 土曜日も、日曜日も、メンバーが集まり、友人が集まり、それぞれの思いで自然農をすごす。日頃たんたんと一人作業の多い野良仕事だが、こうして人が集まることがこんなにも楽しくて嬉しいことだと感じたこともなかった。

 分蘖(ぶんけつ)が進んだ8月の終盤、最後の田んぼの草取りを済ませ、あとは出穂を待つのみ。ちら、ほら、と黒米とモチ米が真っ先に穂を出し、集合日には花を咲かせる株も見られた。

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 少し遅れているとはいえ、この8月の暑さでようやく追いついてきた気もする稲達にほっとする自分がいる。草取りを済ませ、稲穂の赤ちゃんを見やるプレーヤーの皆や見学にきた友人たちを見て、自然農を続けることの意味のかけらをまた何かもらえたような気がした。


【処暑】…陽気とどまりて、初めて退きやまんとすれば也(暦便覧)
     暑さが止むの意味から処暑という。
     涼風が吹きわたる初秋の頃で、暑さもようやくおさまり、
     綿の花が開き、穀物が実り始め、収穫の候も目前となる。
     昔から、この頃は二百十日と並び台風襲来の特異日とされ
     ており、暴風雨に見舞われることが少なくない。
     ※読み:ショショ
     <参考:【室礼】和のこよみ


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草刈りて 顔上げ見れば 笑い声

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2005年10月02日

復習復習

葉月二十九日 晴れ   

 稲が育てば刈り取ります。刈り取った稲は乾燥させます。乾燥させるのには天日で干します。

 というわけで、昨年ひと通り覚えたつもりの復習のために丸ヶ崎自然農の会に参加して、稲木の組み方、稲架(はさ)のかけ方を盗みに行ってまいりました。


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 むむむ・・・こうやって支えの木を組んで、、、

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 ひと通り掛けて、紐で括って、、、、 


 なるほどうんうん、頭の片隅に消えかかっていた記憶が、体を動かすことでまた蘇ってくる。これであと数週間はなんとかもつかもしれぬ。いずれにせよ、習ったことを一番よく体得するのは、自分で実践して失敗を経て試みること。これ間違いなし。


 さて、重大な問題が目の前に。稲木を組むための「組み木」がない。。。買う金は惜しい。材木屋の廃材?山林の間伐材? それとも少し離れた集落で使用している「組み木」をお願いして使わせてもらうか? ううむ、どーしよ。こっちのほうが問題かも。



稲木の組み方、稲架(はさ)のかけ方はこちら
  〜丸ヶ崎自然農の会HPの昨年10月の記録より〜
  敬意の一言につきる詳細なる解説、代表の細やかさに脱帽です。
  最後の仕上げはやはり実践、これがないと覚えられません。

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2005年07月20日

有機反応

水無月十五日 晴れ

 拙い取り組みが友人というフィルターを通すと、自分でも思ってもみないような化学反応(というより「有機反応」と言おうか)を起こすことがある。先日手伝いに来てくれた自称見習い君がまとめたBlogを見せてもらって、ひとしきり関心してしまった。自然農の田植え作業がコンパクトにポイント良くまとめられており(もちろんノウハウとしてではないにしても)、コンセプトはがっちり捉えられており、小生もなんだか気分一新。とはいえ愚農がステキな自然農に化けてて苦笑する自分もいる。・・・それにしても自分が話してることって全然覚えていないものだと再認識。感謝の気持ちとして見習い君の植えた苗達のその後を一枚提供〜! 水を、栄養を、いっぱい吸収しとるようですな。

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 次回の有機反応もまた楽しみ。だから手伝いに来るのだぞ。
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