注)記事の日付は太陰暦を用いております

2011年03月16日

震災の先

如月十二日 晴れ(強い風)

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 2011年3月11日の大地震、大津波による大惨事は、日本人、とりわけ東日本に住む我々に心身ともに大きな爪あとを残している。今なお被災の只中にいる多くの方たちと、つくばでパソコンの前に座っている私にはとてつもない大きな隔たりがあることは間違いない。それでも、いやだからこそ、私にできることは何だろうかと考え、こうしてBlogを綴ることにした。


 「車に荷物は準備したけど、肝心のガソリンがもう半分も残ってない。どうにもわからないけど、もう少しこっちで頑張ってみる」
 福島県いわき市に住む私の両親と姉は、15日18時現在、断水とガソリン不足の中で、TVやラジオから流される災害報道、原発報道のみを頼りに、明日をも知れない不安を抱えている。全くの素人の小生が頭を真っ白にしてネットでの情報収集を重ね、13日には家族に「何が起きてもおかしくない、可能なら入院中の祖母ちゃんもつれて俺んちに来い」と提案した。上の言葉は、それを受けて、15日に2号機での格納容器破損のニュースが報道された後の家族からの電話だった。今現在、家族は自主的な屋内退避をしながら、事態の収束を待ち続けている。

 大地震、大津波は、天災である。政府批判をしたい人は、それでもなお、災害対策への不備、初動や対応の問題など、人災でもあったと批判するだろう。しかし完璧な人知はありえない限り、完全なる対応などもありえず、つまりどこまで行っても天災の前には人間は無力だということが、少なくとも小生には確信させられた。そして、言うまでもなく「天災」とは、「自然」と全く同じ意味でもある。つまり、人間にとって自然は、結局いまだにコントロールすることができない存在なのだ。地震、津波による都市村落の破壊は、あまりにも強大で、目にした私はただただ恐怖をおぼえることしかできなかった。「あきらめる」という人間に与えられた能力のひとつを、これほど感じさせられたことはなかった。天災、自然の前では、人は全く無力であったのは間違いないのだが、その一方で、そこから立ち直るという意志だけは、天災も自然も人間から奪うことはできない。被災からの復興へ、まだまだその一歩までも遠いような惨状かもしれないが、どんなことをしても、我々人間は立ち直ってみせる。どうか、まずは心身ともに安息が訪れますことを、そして少しでも良好に生活環境が整うことを願い、共に復興させていきたい。自衛隊の方々、警察や消防の方々、救援に携わる全ての人たちの懸命の活動に、ただただ願いを託すしかない。


 原子力発電所について、論じることは私にはできない。今回の地震に発生した、たかだか一昼夜の停電で自身の電力社会への依存を痛感させられた。日本の発電量のおよそ3分の1を供給している原子力発電は、言うまでもなく日本人の生活を支えている。今現在の現状として。それでも環境分野に足を置いてきた小さなプライドとして、心情と認識では原発には反対していたが、しかし現実には、無言で承認していた。自惚れた自我が、「俺が反対したって、他の多くの日本人は電力消費社会の維持を希望している」と偉そうに考え、だったら原発を受け入れるのが現実路線でしかない、と。聞きかじり程度に原発や電力供給の事情を調べてみても、原発に代わるほどの代替発電はまだ現実的ではない、と考えさせられ、さらに巨大な政治も伴う原子力開発の波に、逆らう気力はいつも消し流されていた。

 しかし事態は、一変した。 原子力発電を推進する、崇高な使命感と優秀な科学技術力は、私は心から尊敬している。より良い社会へ、より便利な社会へ、という人間の真摯な探究心が、宇宙開発、インターネット社会、ボーダーレス社会の素地となっていることは言うまでもない。しかし、この大震災で私たちが気付かねばならないことがある。超えられないもの、コントロールできないものが、厳然と、確実に、そしてあまりにも強大に存在することを。

 福島第一原子力発電所では、今までの最大規模の災害を想定して5m(資料によっては7m)の堤防を建設していたという。しかして、この地震で発生した津波は10m以上に達してしまった。地震と津波による連鎖的な事故によって、戦後最大とも言える原発パニックが福島の現地のみならず東京を中心に日本全国を襲っている。では避けることはできたのだろうか。堤防は20mだったら良かったのか、自家発電所を分散していたら良かったのか、海水投入を早めていたら良かったのか、対策は無数に考えうる。しかし全ては想定よりも大きな災害が訪れれば全てのシナリオは無に帰する、それだけは確かなのである。これまでの対策、これからの対策を百万遍考えるよりも、今この危険な現場に文字通り決死の覚悟で作業にあたっている方たちの無事と成功を、どんなに祈っても祈りすぎることはない。研究者、技術者、実行者、全ての知力体力を総動員して、どうか、我々日本人を、日本国土をお守りください。どんな言葉も屑に聞こえるほどの、命を懸けた闘いが行われていることを、感謝し応援するしかない。それ以外の地域にいる我々は、その現実をふまえて、日常を鑑みるしかない。


 我が家の上水は井戸水、電気ポンプで汲み上げている。通電すれば、断水地域よりも優先して水が使えるはずであったが、地震で配管が折れ、16日現在生活配水が使えずに友人知人に頼っている。便意に関しては幸い、庭先、裏庭に余裕があるため、大小に関わらず大地に排泄している。言葉を選べば、自然へ循環させている。南米旅行以来のサバイバルだが、節度を持って穴を掘り、枯葉やチップ屑を被せて、尻を拭いた紙のみゴミ箱に持ち帰っている。まさかの事態ではあったが、蚊のいない季節でよかったと思う程度でそれほど抵抗感はなかった。意地を張って言ってみれば、正体不明の開放感と充足感がみなぎってきた。便利ではないし、解決策ではないのだが、何かが損なわれるわけではなく、考えてみれば、現に飼いヤギの粟子は常に大便小便を大地に垂れ流しているのだ。
 震災当日の停電中の夜、公衆電話を求めてつくば市内を自転車で疾走した。全ての人工光が視界から消え、七日月の淡い月光と、星座の明かりが頭上を照らしていた。わずか150年程前の日本各地には、そんな夜が実際に存在していた。夜は、月明かりと星の光と、わずかな行灯程度で照らされ、無音と虫の声だけが支配していたはずだった。
 都内で地震にあった友人は、麻痺した交通機関に足止めされ、一晩を過ごした後30kmを歩いて帰宅していた。運悪く数日前にマイカーを廃車して、車を失っていた小生は、地震以降どこに行くのにも自転車である。ガソリンスタンドへの行列、車に商品を詰めるだけ買っている人たちを横目で見ながら、自転車で運べる程度の食料を買うしかなく、飲料水は車を持つ知人に分けて頂いた。
 震災から一晩明けたつくば市内では、恐らく停電でテレビもゲームもできない子供達が、芝生畑でサッカーやキャッチボール、凧揚げをして遊んでいた。普段はなかなか見られない、外で遊んでいる光景だった。震災報道を離れ畑でジャガイモを植えてみると、時折の余震を足裏で感じる以外は、おそらく何千年も変わらない農地と百姓のただの日常が広がっていた。


 今の文明があって、今の経済水準があって、はじめて存在意義を見出されている自然農。ただ昔に戻ることではない、「自然」と「人間」のバランスを問い直される時代にあってこその、思想であるはず。現代医学は、生物科学は、無機物から生命を作り出すことを今だ到達できないし、今後も、複製はあっても、改良はあっても、創出はできないだろう。原子物理学、機械工学は、宇宙の研究と膨大なる実験の末、人類に比すれば無限ともいえるエネルギーである原子力を手に入れた。しかし、自然の気まぐれは、その原子力の操縦を、人類から容易く取り上げることとなった。自然は、コントロールできないのだ。人類の知性は、そのコントロールの完成へ99%まで近づくことはできるのだろう。自然を理解し、操縦し、人間の思うように利用することは、文明の積み重ねによってほとんど完了しつつあるように思えていた。しかし、そのバベルの塔は、不幸なことに今この日本で崩落してしまった。我々はきっと、またバベルの塔を再建できるのであろう。以前よりもさらに高く、以前よりもさらに装飾しながら。そしてその塔は、おそらく今回の震災よりもはるかに大規模な被害をもって、我々の上に倒壊してくるに違いないのだ。
 
 自然は、コントロールできない。資源エネルギーは、無限ではない。地球は、人間の存在よりもはるかに大きい次元で存在している。その限度のある器の中で、人類がどうにかして生活していくには、その有限性をどうにか理解し、ある程度の利便性でリミッターをかけ、その中で満足を再生産していくしかない。 インターネットは、Twitterは、YOUTUBEは、人類の空間的自由を広大に広げてくれている。様々な科学技術が、今我々が享受するあらゆる便利さを支えている。それらを過度に失うことなく、それらを無限に追い求めることなく、どこまでが自然とバランスが取れるリミットなのか思考していくこと、それが今からできる最大の災害対策なのではないだろうか。 自然災害は、どんな堅牢な堤防もいずれ必ず突き崩す。 我々にできることは、コントロールできないものに手を出さない、たったそれだけのことなのだ。遺伝子組み換え作物の、人類に対する生物的作用の害の有無は判断はできない。しかし、組み換え作物の自然界への拡散によって起こるかもしれない生物多様性への悪影響(良影響かもしれないが)は、コントロールする術がない。原子力発電が担う電力は、確かに今の日本の産業と社会を支えている。しかし、今回の地震でかろうじて最悪の事故に至らなかったとしても、それを上回る震災が起きる可能性がある以上、原発事故による放射能汚染を防ぐというコントロールは、人類には不可能である。
 原子力で生み出された電気による、LED光とポンプ水循環で栽培された野菜を食べて、エコ野菜っていったいなんなのか。それが太陽光発電ならいいのか。風力ならいいのか。是非は、それぞれ個人が選択するだけである。その自由と責任が我々にはある。どんな社会を求め、どんな未来を求めるかを考えるのならば、そこには必ず、どんな自然環境のもとで人類は存在を許されるのかということを想像しなければならない。

 田舎暮らしなんかしなくていい。自然農なんかしなくていい。電気使う生活から、途中下車なんてできるはずはない。ただ、後始末できないものにまで手を出すべきではないことを、今まさに、それぞれが考える時が来たのではないかと思う。 原子力を即否定することで満足してもしかたがない。今、原発に少なからず支えられている現状を認識した上で、いかに自分達が納得できる文化、社会、経済を志向していけるか。化学肥料と農薬、除草剤、長距離輸送に支えられた食料生産に頼る、大量消費と大量廃棄を続けるのが豊かな社会なのか。金融商品で外貨を稼ぐのもいいし、インターネットで情報配信してもいいし、どんな商売でも優劣はないのだが、自然環境を疎かにし大地から足を離して、動物植物を食べずに生きることはできないのだ。ぼんやりのイメージでも、あいまいな選択でも、今はまだいいのかもしれないが、だがしかし、この震災をきっかけに日本人がどんな未来を描いていくか、それは我々一人一人に明確に課せられようとしているのは間違いない。

 核爆発が起こって死の灰が関東地方に降り掛かるようなことは、落ち着いて情報を精査していけば起こらないはずだと、今の私は導くことにした。最悪の事態による爆発で、たとえ放射性物質が関東地方の上空を漂っていたとしても、それが、死への階段、日本の崩壊とは考えられない。しいて言えるとすれば、それは我々が制御不能の技術を過信し、または判断を放棄したまま電力行政を受け入れ、利便性を追い求めた末の受け入れるざるを得ないリスクのはずだ。被曝の不安は確かに不安でしかなく、健康被害や後遺症などへの心配は減らせるものではないが、66年前、はるかに強力な放射線が注がれた原爆被害を、我々は既に乗り越えている。核の汚染の恐怖は、恐怖には違いないが、その恐怖は永遠ではなく、かならず過去のものとして進むことができる。

 地震と津波は天災だが、原発事故は、天災と人災のミックスである。そのような天災と人災のミックスを引き起こす種は、今の世の中の裏に表に本当に様々な分野に存在しており、原発事故のように個別にわかりやすい例はむしろまれである。だとしたらそれを見抜いて選択していくには、その技術は、その商品は、その便利さは、いったいどのようにして作られ、どのような対価と代償をもって届けられているかを知らなければならない。そして我々はそれを知った上で選択し、生産し、また消費していくしかない。その小さな繰り返しこそが、破滅的な人災のリスクを避ける、唯一の手段なのではないだろうかと思う。

 
 愛しい人、家族、友人と共に、笑顔で暮らし、知的にも身体的にも欲求を追及でき、暴力事件が最低限に抑えられるような社会が営めれば、それでいいと思っている。その欲求のパンドラの箱の管理を、他人に任せるのはやめにしませんか。そりゃ楽して、気持ちよくて、好き勝手して楽しんでられたらいいんだけど、それを続けていたら、被曝の恐怖などに右往左往する今のこの状態がいつかまたやってくる。果たしてガソリンに頼り過ぎない社会、電気に頼り過ぎない社会へと、少しずつ離陸することは可能なのだろうか。政治も、経済も、科学も、娯楽も、ここいらで一度、皆立ち止まって考えてみてはいかがだろうか。

 生活物資、燃料、給水、衣食住にわたり、被災地域の生存者はこんな将来の話では済まされない、明日をも知れない状態にある。まずは国内の総力を挙げて生命の、生活の維持を確保していただきたい。刻々と事態が暗転する原発も、信じられないほどの使命感を背にした現場作業員の努力で、どうにか最悪の中の最善の事態へ導いていただきたい。プロフェッショナルの方たちに身をゆだねるだけの自分をどうか許していただきたい。この苦境を乗り越えた先に、実際の日常をどのように選択していくかが、我々被害を免れた一般市民の、できうる限りの行動なのだと信じて。

 原発の日本での現状を、自分ごととして。
 エネルギーの選択を、自分ごととして。
 将来の選択を、自分ごととして。
 運動とかデモとかそういうものよりも、生活の中で自分ごととして考えていくことが本当の変化に繋がると信じる。


 つくば市の放射線量が安定している今日のうちに、ひとまずチャリンコ飛ばして献血行ってきます。

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2010年11月10日

「話す・聴く」小論

神無月五日 晴れ

 いつもの友人たちとの会話、仕事場でのコミュニケーションとはどこかルールの異なる、じっくりと「話す・聴く」という時間。小生とダンズテーブルのダンさんが共同開催する「自然農と想いを巡らす一日」では、「自然農」を中心に置きながら、一方で「話す」ことと「聴く」ことにも耳を傾ける一日を過ごしていく。我々が少なからず確信しているその面白さについて、少しゆっくりと考えてみたい。

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2009年11月26日

ゆさぶられ

神無月十日 晴れ

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 自然農の本質ってなんだっけ。作物はどうして育つんだっけ。虫って草ってなんだっけ。それなりにわかったつもりで実は会得できていない。「耕さない」「虫や草を敵にしない」「農薬・肥料を使わない」は、ただの目安であって、本質でもなければ、ルールでもない。ただの、目安。わかっていたつもりでいたことが、このところ出会ったちょっとした「きっかけ」に、見事に揺さぶられている。

 揺さぶりのような、振り戻しのような、もしくは追い風のような、向かい風のような、漠然とした、しかし確かな霧に包まれている今日この頃。見たい、知りたい、先に行きたい、という気持ちは常に持っているつもりだが、手にする地図に何かしら漠然とした曖昧さを感じて、四方八方に目線を奪われている。これは、変節なのか、変化なのか、転進なのか、迷走なのか。

 いや、重要なのは、自然農とは、自然とは、栽培とは何であるかということを自分が見失わないこと。会得していないと確信する自分がここにいて、この先にその手がかりがあるという予感できるのなら、何を留まることがあろうか。例えそれが今まで信じていた「ルール」から離れた、別視点の解釈や手法だったとしても、本質に近づけるのなら、じわりと受け入れて問答、試行錯誤をすればよい。

 尊皇攘夷に燃えていた坂本竜馬が、勝海舟の話を聞いて、ぐわんと考えが一変したように。ともすれば安きに流れて凝り固まろうとする頭を、いかに柔らかく保ち続けられるか。それは死ぬまで持ち続けたいスタイルである。いえ自然農はもちろん続けますよ。今はまだ何も言えませんが、自然農においての、面白い解釈に出会いつつあるもんで。そんなこんななのです。


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 干している米へのスズメの襲来があまりにもひどくなって来たので、稲架全体に鳥避けネットを掛けることにした。化学製品の農業資材に、まだまだ助けられていて甘えて自然農をしているのだな。つくばエクスプレスの開発で雑木林を追い出されたスズメや鳥たちではありませんようにと願う。もしそうだったら、電車に乗るたびに新興住民に呪いをかけそうで困ります。南無南無。


 四日前から暦は小雪へ。いつの間にか、てくてくと節句は過ぎてゆきますね。我も我も。


【小雪】…冷ゆるが故に雨も雪となりてくだるがゆへ也(暦便覧)
     ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=7:3

     小雪とは、寒さもまだ厳しくなく、雪まだ大ならずの意味である。
     市街には、まだ本格的な降雪はないものの、遠い山嶺の頂きには
     白銀の雪が眺められ、冬の到来を目前に感じさせる。
     北風が木の葉を吹き飛ばし、みかんが黄ばみ始める。
     ※読み:ショウセツ
     <参考:【室礼】和のこよみ & こよみのページ>  
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2009年03月25日

子豚のテント

如月二十九日 雨

 つくばはこのところ寒の戻り。冷たい曇り空と、吹き荒ぶ筑波颪に体が縮む。今日は雨、午前はなんとか焚き火もしながら堪えたが、本降りを迎えてあえなく部屋へと戻った。雨宿りの場所が、今日はなかったからだ。

 昨日の出来事、自転車で畑に向かう途中で、遠景に農園の目印にもなっている白テントがはっきりと歪んでいるのが目に飛び込んできた。嫌な予感。コタツをつけたままにして三泊四日の旅に出てきてしまった時に感じるようなあのどうしようもなさを、数倍ほどにした寂寥感。ああ、こういうことって起きるのだね。

 畑に着くと、昨年の真夏の時期に農園のプレーヤーの力をあわせて立てたテントは、背骨部分に当たる金属パイプがグニャリと曲がって一部の足場も引き抜かれて無残に崩壊していた。分析しても後の祭りなのだが、後学の為に考察してみる。テントは白いビニルシートが固定されていて、通常の暴風では考えられないような金属パイプのゆがみが特徴的である。おそらく、昨年の冬の畑で何度か目にしたつむじ風が、テント内部に入り込んで下から持ち上げ(もしくは横に殴りつけ)ながら通り抜けていったのだろう。基礎などのない半固定のテントであるが故に風が抜けるようにガランドウの構造にしていたのがアダとなった。テントに重しとして立て掛けていた廃材の木戸類も跳ねるように散在し、割れたガラスが散らかっていた。来園して作業していたプレーヤーのmさんにお手伝いいただいて、ビニルシートを外してパイプも解体し、ガラスも拾って木戸も移動して、荷物をまとめなおすことができた。綺麗な跡地には、少々の心地良さすら覚えるのだった。

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在りし日の雄姿

↓ ↓ ↓

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諸行無常



 色々考えることはあるが、次、ではある。梅雨までにはゆっくりと再建したいと思い、少しずつまた考えながら立ていこう。何もない畑地に、テントを組み、物置小屋を設置した昨年。そこに訪れたつむじ風。一瞬でひしゃげた金属物。そしてまた再建の思考。何故かわからないが、喪失感と同時に発生した、安堵感。何もないところに組み立てて、それが自然の力で壊れて、また組み立てようとする不思議な開放感。物は壊れて、そしてまた産まれるという再生のテーゼなのか。はたまた、あるはずのモノが簡単になくなった時に抱かされる無常のテーゼなのか。
 「うわあ、壊れたかあ!」という気持ちで残念がる暇などなく、「いやでもしょうがないか」という諦観が訪れる。その諦観は、出来上がったものを用意されるアメニティに浸るのではなく、無いことを前提に進んで必要なものを少しずつ作っていく好奇心とセットとなり、世の中をなんでも楽しめるスパイスにすらなり得る。それで行くしかないし、それでいいのだと思う。もちろん、「絶望」などという言葉とは程遠いこの「平和」な日本で生活する限りにおいての、お気楽な感性ではあるのだが。自然農の農園を、この日本で、何かしら意味があると思って続けていく、そのためにこのお気楽さを携えていこう。風で飛ばされるような、3匹の子豚のテントを何度も立てながら。


 いや、どうせなら今度は壊れないように。
  
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2009年02月10日

風の声

睦月十六日 晴れ

 十五夜の昨日に体調を落として一日ひっそりと潜伏し、どうやら取り戻した今日。

 夏以来、久しぶりに来園していただけた川口さんと、陽光と風の中で話をした。つかまえることはできない風が、時に、修練によって、語りかけてくる瞬間があることを知る。対象が何であっても、そうした原始の強さを少しでも体得できた時に手にすることができる、動物的な自由。風、雨、日、草、虫、土、鳥、獣、人、そして己、現代社会にどっぷり生きる上では残念ながらそれほど必要とされない、これらの事象へのリコンセントレーション(再意識化とでも言えようか)は、皮肉にも、だが明白に、生命としての力強さを鍛えることにつながっている。そんな確信を持つことができた。
 今の世の中をのびやかに生きたいのだとしたら、ビジネスや社会で器用に立ち回るスキルなどではなく、自身の生き物としての強さを(そして弱さを)身につけるべきだ。目に見えないスピリチュアルな癒しやヒーリングではなく、目を閉じた時に見える自然の囁きにこそ刮目せよ。

 自然農はそんな強さへの道しるべにもなる。


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 まだまだ小生には風の声は聞こえやしない。草の声は、土の声は、ボリューム1程度は聞こえるようになってきてはいるのだろうか。どんな途中過程だとしても、ワクワクは止まることはない。

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2009年01月25日

The Sense of Wonder

師走三十日 晴れ


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 新月の前、晦日の夕暮れを歩く。旧暦師走の大晦日にこうして歩いたのはいつ以来のことだろうか。近くのコンビニへ歩いて寄る間に陽は落ち、一ノ矢神社の横を抜けて家へ帰る。月のない夜の、この闇の深さといったら、なんというかもう、笑ってしまうほどに深い。街灯の無い野良道を歩く足元の頼りなさは、何かしら自分の生命力の弱さを突きつけられているようで、何故か逆に勇気がわいてくる。なんとなく、生きるしかないな、と。

 夕暮れに見た、大通りの枯れ木の並列。自然の造形はなぜにこんなにも人を惹きつけるのだろうか。誰に教育されたわけでもなく、目に沁みて湧き上がるセンスオブワンダー。霊的でもスピリチュアルでも超常的でもなく、自然はそんな陳腐ではなく、実態として人間を畏怖させる。全ては科学的であり、だからこそ驚きに満ち溢れている。神に祈ることと、科学的であることは対立しない。いたずらに科学を超えて神や精神世界に心を寄せることは、おそらく、自身のセンスオブワンダーを濁らせてしまうに違いない。枯れ木の影はそれが自然に創られたフラクタルであるが故に驚くべく美しさを届けるのである。そしてその驚きを楽しむ精神性を人間は持ちえたからこそ、神も仏も信じえるのだ。

 時折、自然農の在りようを伝えようとして言葉が詩的(寓話的?)に傾くことがあることがあってもどうか容赦いただきたい。科学的に正しい(scientifically correct)からこそ、詩的に言い得ることなのだから。自然農は極めて、科学的だからこそ、小生をここまで惹きつけているのだ。この、大晦日の夕暮れの、枯れ木の情景のように。 
 

 
 前日につくし農園のワークショップを終えて、どうにか今期も一区切りをつけた感が沁みてきた一日。参加していただいたプレーヤーの方々からの珠玉のインスピレーションをもらって、暗闇を抜けて睦月を迎える。人からも、自然からも、あまねし関係性から自身を照らして。
 
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2008年12月26日

12月31日に

霜月二十九日 晴れ時々強風

 12月31日に何をするか。大掃除、正月の準備、帰省、買い物、レジャー、旅行、皆それぞれ、何かをして過ごす。では何故?と問いかけられて、はたと考えてみる。

 人はそれぞれに各人の物語の中で生きている。クリスマスも大晦日も、正月も旧正月も誕生日も、全てはその人が生きる物語の中になにかしら位置付けされてはじめて意味をもつ。どのように生きたいか、どのように生かされているか、自身のこれまでの歴史とこれからの指針が交差するなかでの無意識と意識の積み重ねが、物語を築いてゆく。それは行事に限ったことではもちろんなく、最終的には「価値観」や「世界観」というその人をかたちづくる個性そのものと同意義なのだろうと思う。「その人をかたちづくる」というのは、反対から見ると「その人が縛られている」とも言い換えられる。もしくは「その人がある価値観をもっている」とも言えるだろう。価値観というとポジティブに聞こえるが、「価値観を持っている」ニアリーイコール「縛られている」ということに、なかなか人は気づかない。価値観や個性だと思い込んでいる「縛り」が、実は無限の思考や行動の可能性を制限しているのだとしたら、それは自分を小さくまとめる鎖でしかなくなってしまう。人が生きる現実社会には、「縛り」でもあり「価値観」でもあり「物語」でもある事象が数多く存在している。仕事であり、お金であり、人間関係であり、家族であり、過去であり現在であり、そして常識。その人を形づくるそれらを無意味に批判したり相対化したいのではなく、それらから一時的に開放される自由を自分は持てているだろうか、という問いである。

 自分の思考はお金に縛られていないか。自分の思考は仕事に縛られていないか。自分の思考は過去に、現在に縛られていないか。
 

 Danさんが企画した大晦日の時間の過ごしかた。「新暦」の「大晦日」というひとつの「行事」を意識しつつもそこからちょっと開放されて、遊び気分で「思考」の旅を過ごす。面白ければGO、なおかつ意義があればGO。さらにちょっとだけ反抗的であればなおさらGO。肩書きも、人間関係も、できる限りどこかに追いやって。そんな時間をともに過ごしたいという人が増えたら、けっこう面白いなあと思うんだよね。


 自然農の畑は、そんな大晦日の夜も正月の朝も、ひたすら意味を持たずに営みを続ける。人間は意味を必要とする。対照的な自然の大きな無意味な流れの中で、小生が紡いでいきたい意味とは何か。色々考えたいこの時期だからこそ、「縛り」を開放する機会を。さて、どんな旅になるかな。
 

 まだもう少し参加受付可能かもしれません!!DAN'S・TABLEへGO!
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2008年04月09日

南無三

弥生四日 曇り

 今日、報道によるとダライ・ラマ14世が渡米の飛行機のトランジットで成田空港に立ち寄る。チベットで起きている惨状が、いったい如何程の事態なのか寡聞にして把握できないが、決して目をそらしてはならない。自然農生活と、この惨状は、関係の無い出来事ではない。

 この時代、情報だけは椅子に座っているだけでほとんど手に入る。そこには、一部の真実と一部の息遣いと、そしてほとんどは思惑に左右された"報道"がある。中国政府が第2次世界大戦後にチベットに対して行ってきた政治、そして今まさに叫ばれているチベット人の声に対して、一人一人ができることは小さい。火事を消すことはできないにしても、せめて油を撒き散らしたりすることはしてはならないというのが現状である。


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2007年12月03日

おいしさ 追考

神無月二十四日 雨時々曇り

 先日の、いわゆる「おいしさ」についての記事に色々コメントをいただけて再考悶々としているうちにダラダラと再度書き綴ってみました。深夜に。よって基本ダラダラしてます。その辺りご容赦いただければ幸い。

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2007年11月29日

おいしさ

神無月二十日 曇り


 自然農の野菜はおいしいか否か?

 その答えは、否である。

 
 あえて、あえてそう言ってみる。続きを読む
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2007年05月13日

行きつ戻りつ

弥生二十七日 曇り

 つくし農園、5月の集合日が終了。先月までまだまだ枯れ草色が目立っていた畑が、ひと月ぶりの訪問で緑の小山に変わっている様子に驚くプレーヤーも多数。畑作業では、この時期の雑草との向き合い方を実習。田んぼは先月こしらえた苗代にまだまだ目立った変化は見られず、ちょろりと顔をだした芽になんとか一安心。草取りは来月になりそうかな、といった感。メインの作業は畦の補強、踏み固め塗り固めのバリバリの肉体労働を人数に任せて遂行した。

 集合日でいつも気づかされるのは、前日までに頭で考えていること(それはつまり毎日自分がやっていることでもあるのだが)を、当日メンバーと一緒に作業しながら話すことで、ぼんやりしていた感覚が自分の中に落とし込まれていく感覚である。いつも誰とも話すこともなく、今までの慣れと思いつきと振り返りの繰り返しで、まるで自動車を運転する時のように作業を進めていくので気づかないが、改めて「車の運転の仕方」や「エンジンの動き方」を言葉に出して誰かに説明するような、そんな再確認。だからこそ、雑な説明にならないように気をつけたいのに、ペースがつかめなかったり予定通り進まないと、進行することばかりに頭が追いやられて肝心の自然農との向き合い方を伝えきれずに時間が過ぎていくことになる。

 と反省のひとかけらを気にしながらも、自分の知る自然農などまだまだ破片に過ぎず、結局はプレーヤー各人がそれぞれの取り組みの中で気づいていくことが真実でもあると思い直す夜。自分ができることは「伝える」ことなどではなくて、「気づく」きっかけの場所を用意することなのかもしれないし、そうでないかもしれないし。もう少し考えながら進みます。
 

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 親友にもらった手ぬぐいの絵柄が随分とのん気で、リラックスにはもってこい。ありがたいもんです。
 
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2007年01月25日

ないない

師走七日 晴れ




 自分はTVの前で座っているだけで、世の中に甘いことは「あるある」と期待して、裏切られたと怒るその崇高なる姿勢には頭が下がる思いがします。それにしてもたかが納豆である。納豆が全般的に健康に良いということはある程度の事実であり、それに少々付け加えてダイエット効果があるかないかという話に期待して裏切られたからといってなんなのか。その報道が「捏造」だと鬼の首を取ったように扱うマスコミや、良心的意見のオンパレードには辟易させられてしまう。小生はその番組をあまり観てはいないが、毎週ごとに異なる食材や栄養素をテーマに挙げて放送してきたことは知っている。単純に1年72週としても、それほどの数である。自分が知っている食材を72も挙げられる人がどれだけいるだろう。ましてや、それが何年も続いた長寿番組である。
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2006年07月06日

一日一食

水無月十一日 曇りのち晴れ

 ひょんなことから始めることになった。

 人は食べないでも生きられる、というまゆつばものの話。突拍子もないことは得てして、多くの人に笑い飛ばされながらも一部の人を激しく惹きつけることがままある。世界のどこかで土だけを食べて生き続ける人や、水だけを飲んで生き続ける人がいるという話をTVで見ても、それはただのびっくり人間の範疇で括られてしまう。
 常識を疑う。そのための大いなる武器のひとつは、実践による体験である。「食べる」という常識に向かい合うことがどれだけ意味があるかはわからないが、現実に体を張って実験している人がいて、彼らは強く、「人は(それほど)食べる必要がない」と宣言している。人間は、生まれた時から食べることを欲し、それがいつしか習慣となり、まるで朝昼晩の三食を食べなければ文化ではないように思考が固まってしまっているが、いったい誰がそのルールを決めたのだろうか。人間はほとんど精神(脳)で生きているとすれば、そして人間が必要な摂取エネルギーは思い込んでいるよりもはるかに少なくてよいのだとしたら、もしかしたら人間は食事をしなくても(減らしても、と言ったほうが正しいだろうが)生活できるのかもしれない。食事の多くが排泄物として「消費」され、余計な摂取分は(もはや社会の病といえる)肥満となって「蓄積」される現代。無駄に摂取しておいて無駄にダイエットするという笑えない悪循環が先進国の一大産業となる一方で、途上国では今もなお解決の一端さえ見えない飢餓問題が存在する。

 「疑い」が「行動」に変わり、「現実」になるとしたら。

 
 一個人の動機は、ダイエットであったり、好奇心であったり、節約(笑)であったり、様々なはず。全く食べないというのではなく、一日一食にしてみたり、飲み物だけの生活にしてみたり、とやり方も様々であろう。大事なのは、「食べなくてはいけない」「食べることを我慢するなんて馬鹿げたことだ」という精神の束縛を疑ってみることではないだろうか。

 小生の場合。一日一食を始めて二週間を経過した。夕食は、何も我慢することなく思いのままに食べ、朝昼その他は飲み物のみ。毎日欠かさないアルコールは、夕食時に大いに楽しむ。一つの大きな変化、空腹の意識が徐々に無くなりかけてきており、夕食の食事量が、劇的に減ってきた。その日の都合で昼に食べたときは、できるだけ晩を抜く。ただし無理はしない。人に説明するのは面倒なのだが、それは仕方がない。先日知人に話すと、一種のヨガだねと言われ便利な言葉を発見した。ダイエットでもあり、好奇心でもあり、節約も兼ねているのが実情なのに、言葉を変えればたちまちロハスなヨガに早や変わり。なんとも説明しやすいご時世です。

 さてさて、いつまで続くのか、はたして、何かを見つけることができるのか。食欲のカタマリのような男が、変わることができるか。何事も、物は試しなのです。

 
不食の会:山田鷹夫氏が3年間実践してきた不食のススメ。
      かなり、本質をついた内容も見られます。

      著書「不食 〜人は食べなくても生きられる」もあるとのこと。
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2006年04月26日

priceless

弥生二十九日 晴れ

「発展しても日本みたいなら、ならなくてもいいと思ってしまう。」

 アジアのとある国から来ている友人との食事で、こんな言葉を聞くことになった。仕事で日本に来て3度目の友人は、職場の関係で日本人の従業員と飲み会の席に座ったときのこと。日本人たちの間で交わされるのは給料の話か待遇の話か、不自由さの話ばかり。

「もちろん、お金は大事。でもそれは最低限であったり、あたりまえの話。そればかりを目標に生きることなんてできない。」

「国に早く帰りたい。日本人はみんな、お金お金、時間時間。母国はお金はなくて貧しいけど、家族と友達と安心して過ごせる。お金は自由じゃないけど、心は自由だよ。ずっと後になって私の国が発展して、物が豊かになっても、こんなふうになるのは嫌です。」

 そんなことはない、と強く言い切れず、一人の外から来た目にこのように映った自分たちの社会が、とても寂しかった。その言葉を否定できない現状、しかしこの国に生を受けた必然と責任と幸運。そして漠然と抱く望むべき将来像。確かに胸に潜む、今の日本への違和感。

 日常に誤魔化して、自分の中の違和感を「仕方がない」の言葉で死ぬまで抑えて生きていくことなどできないから、僕は今を生きる。

 カード会社がうたう、お金があるからこそ言える"priceless"などという欺瞞を打ち砕く、本物の"priceless"を目指す。
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2006年02月20日

憎い奴

睦月二十四日 曇りのち晴れ

 ぐっと冷え、ほっと温(ぬく)もる。そんな数日が続いている内に、懐かしい顔にちらほらと出会うようになった。

 うれしい顔の代表は、家の裏の白梅。艶やかな赤黒いほどの精気が詰まった蕾を張らせて潜んでいたかと思うと、お先にお先に、と人を置いていくように花を開かせてゆく。その顔がたまらなく美しい。

 憎たらしい顔の代表は、言わずもがな、日本中の老若男女を惑わすスギ花粉。いつ来るかいつ来るかと、もはや自分の花粉アンテナが恨めしいほどに敏感になっていた先週、東京の地でついにレーダーは反応してしまった。東京行きの電車に揺られて駅の扉を降りたその瞬間、9ヶ月間ご無沙汰していた憎いアンチクショウが、人より少しだけ大きい鼻の穴に飛び込んできた。そして悲しい生体反応が鼻腔内で激しくスパークし、3ヶ月続く鼻水の嵐が幕を開けることになったのだった。

 大都会の花粉症の皆様、スギ花粉は、アスファルトやコンクリートの上では決して消えることなく雨に流されて排水溝に去っていくまでずっと滞留し、風によって常に舞い上がっています。また、花粉症の症状は排気ガスやスモッグなどの化学物質の吸引を伴うことで症状が強くなるとも言われております。杉の林が並ぶ田舎では、田んぼや畑に花粉が落ちると湿気とともに腰をおろしてしまって都会に比べて相対的な花粉量はむしろ少ないとも考えられます。もちろん、排気ガスなど比べるまでもありません。とりわけ自然農の田畑は植物が土を覆っているために常に湿り気があり、花粉の落ち着き度は他の農法の畑に比べても高いと言えると思われます。(…かなりの我田引水かな。)
 
 そんな訳で、自然農って花粉症の人のちょっとした気休めにもなるんだー、というまるきしインチキな宣伝記事でした。
       
ここから本音
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2006年01月12日

まとまらぬまま

師走十一日 晴れ

 江南町では正月明けのいつもの晴天が続く。テレビではまるで別の国のように、百キロほど西の大雪を伝えている。

 自然環境にたよる農業一辺倒では、たとえば大寒波による冬野菜の不作へは対抗できない。大雪や寒波による農作物への影響も全国各地に広がっていると報道されている。しかし、もちろん雪国の方々は冬の間の食料確保の方法を知っており、雪の下の貯蔵庫から大根や菜っ葉を取り出して見せて、これがあるから食いもんには困んねえんだけどなと笑っていた。昔は、本当にそうだったのだろう。例え今年の雪が観測史上を塗り替えるような記録だとしても、数十年前は除雪車もなければヘリコプターもないのだから、閉ざされる村は閉ざされたのだろう。それでも人は生きてそこに留まってきた。閉ざされることを恐れずに、遠方からの食料品に頼らずに、生きることは不可能ではなかった。

 健康番組では、コンビニ弁当を毎食とっている人が10年後にどんな病気を抱えるかを面白おかしく伝えている。添加物として入っているリン酸化合物が脳内のマグネシウムを減らしてしまい、脳が縮んで記憶力が低下するなど、まるでホラー映画のごとし。しかしそれを防ぐための方法は決してコンビニ弁当を減らすような指示でもなければ、コンビニ業界への添加物削減の提言でもなく、マグネシウムが不足を補うワカメやヒジキを即席味噌汁でもいいから摂取することだと伝えていた。あくまでも、プラス、プラス、プラスで考えていく様子は、どこか違和感を覚える。足るを知ることなく、足らずにばかり目を向けていつも何かを求める様は、果たして幸せなのだろうか。
 

 雪国での地産地消でも、ずっと人は生き続けてきた。全国各地からガソリンをめいっぱい消費してかき集めた材料で作るコンビニ弁当を食べるのを減らして、地元で取れた材料を自然な味付けで調理して食べれていればすくなくとも脳が縮むことはないだろう。ブラウン管に映る二つの光景は、なにやらインチキ百姓の心を振るわせたのではあるが、結局まとまりそうにない。大雪の下に住んでもいなく、コンビニ弁当もあまり食べていない小生には所詮は他人事でしかない。本質は、もっと別のところにある。それを探していくのが自分のすべき事だと思って、テレビを消してから作りおきのカレーを食べた。それがことのほか美味しくて、まとまらない思いはどこかに去ってしまっていた。
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2005年08月30日

告白その1

文月二十六日 明け方


えーと、「ロハス」が苦手です。悪口ではありません。


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2005年08月21日

悩まぬが吉

文月十七日 快晴

 TVを見ると頭でっかちになるので嫌いだ。

 NHKスペシャルでの、アメリカ農業の近年中にも起こりうる深刻な水不足。地下水枯渇度数95%ともいわれる中西部。牛に穀物を食べさせるための農業。肉の為の家畜を育てるための水は、植物生産の10倍から20倍を数える。

 テレビ東京「ガイアの夜明け」での、米国産牛肉のBSE対策問題。危険部位も一緒くたに加工される工場。その牛肉を宝物のように並んで待つ牛丼信者もいる。

 日本は世界でも稀にみる、雨水の豊富でかつ季節の移り変りが大きく植物生産の豊かな自然環境に囲まれている。その資源をかえりみることなく農林水産業からかけ離れていく経済。郵政民営化こそが一大事だという政府与党。


 自然農は食料自給のための答えだとは言い切れない。答えへの何かしらの過程かもしれないがただの趣味かもしれない。ただ、「食べる」ことへの意識、食物を育てることへの意識、自然環境の変化への意識、「生存への危機」(果たしてそんなものは起こりうるのか?)への感覚が少しだけ敏感になるだけかもしれない。


 そんなことより自分の「生活の危機」に敏感になりなさい。はい、わかりました。

 


・・・もちろん自分も肉も好きなわけで、、、 

050821kumo
 
なんとなく、クモになりたい気分
 
 
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2005年07月07日

偽七夕

水無月二日 曇り時々雨 【小暑】

 一番迷惑してるのは、勝手に一年に一度の再会日をずらされてしまって毎年曇天に邪魔されることになってしまった織姫と彦星だろう。

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2005年02月18日

月と農業

睦月十日 【雨水】 曇りのち雨

 【雨水】…陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也(暦便覧)
      空から降るものが雪から雨に替わる頃、
      深く積もった雪も融け始める。
      春一番が吹き、九州南部ではうぐいすの鳴き声が聞こえ始める。
      ※読み:ウスイ
      <参考:こよみのページ

 夕方からの雨が降り続いている。アルバイトからの帰りの本屋で、今月号の「現代農業」を手に取った。特集は「月と農業」。しつこいようだが、このBlogの日付は陰暦を用いることにしている。それは、昔から農作業と月の関係が深くて近いものだと感じていたから。季節の移り変わりは太陽暦、今日の【雨水】が示すように、二十四節句の暦は現代の一年と変わりはなく、季節による農作業の暦はこちらに基づいている。一方、毎日の移り変わりは太陰暦、ひと月の始まりが新月で、十五日が満月の、一巡り。このふたつを併せたものが、日本の旧暦で用いられていた「太陽太陰暦」である。

 月の満ち欠けに合わせて栽培するなどと真剣に話すと、(バイオダイナミック農法をはじめとして)世間ではカルトの類いと思われる危惧さえあるが、昔からの叡智の蓄積は、この満ち欠けの神秘を教えていることが少なくない。現に、江戸時代の農書にも書かれていることも多く、そうしてついに全国農業者の必携本ともいえる月刊専門誌に特集されるに至ったことは、当然といえば当然のこと、驚きといえば驚きの出来事とも言える。特集では、『サツマイモは新月の五日前に定植するとよく育つ』『新月に伐採した木は割れにくい、カビにくい』など、興味を引く話題が実証されながらまとめられていて、うなづく部分も多かった。

 自然の仕組みに耳を傾ける自然農が、月の作用に習う部分があってもよいと思う。薬(農薬)や栄養剤(肥料)に過度に頼ることなく、バイオリズムでうまく育つのであれば、それに勝る知恵もないものだろう。少しずつでもよいから、取り入れていくことを目指したいものだ。

 海は月に干き、月に満ちる。海から出た我々の生命が月のリズムに多少左右されていたとしても、決して不思議なこともあるまい。


recit … 今回発見したJeanさんのBlog。月のこと、シュタイナーのこと、
       植物だけでなく体のことなどもお手軽に読めて良い。
posted by 学 at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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