注)記事の日付は太陰暦を用いております

2022年07月15日

ノラカツのススメ

水無月十七日 曇りときどき雨@大子町

 野良活、のらかつ。

 農作業でも、野良仕事でもなく、ノラカツ。

 月のうち、二十日以上は田畑や森で過ごしているのだが、どうしてもその時間を、「作業」とか「仕事」という言葉で表現することに抵抗があった。

 確かに、田植えをし、草刈りをし、大豆を蒔き、森に入り、木を切り、土を掘ったりしている。それは、誰が見ても農作業だし、あるいは野良仕事かもしれない。だけどなんか違うんだよなあ。例えそれでお金をいただいていたとしても、それでも、仕事とも、作業とも違う、何かしらの違和感がずっとあった。

 どこかしらで、誰かしらと集まり、畑で草を刈ったり森で竹を切ったりするときに、「では今から作業をスタートしましょう」という言葉を使うのに、ずっと抵抗があった。作業ってさ、やらされ感、タスク感、重い腰あげる感があるじゃない? それを、やる前から言葉にするのがイヤなのよ。自然農の田畑に出る時(特に他の誰かをお誘いする時)って、もっとこう、ウキウキして、ワクワクして、あー草に包まれてる!っていう時間に招待する感じで声かけたいんだよね。

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 <田植えはまさに、ワクワクウキウキ(^^♪>

 自然農の畑で作物のお世話をする時間に、どんな意味があるのかを考えてみると、そのことが少し伝わるかもしれない。例えばキュウリの苗の周りの雑草を抑えるために雑草の草刈りをする時、私たちにとってどんな時間が訪れているだろうか。

 まずは、草刈りをすることで、キュウリの株の生育を確保することができ、今後の成果として、キュウリを実を収穫することができる。これはまず第一に訪れるべき、目的に近づくという意味の「達成感」や「満足」だ。

 それだけではない。草刈りで発生するフィトンチッドを体内に取り入れることによる「リフレッシュ効果」。緑に包まれ新鮮な酸素を浴びて訪れる「リラクゼーション効果」。植物や土に触れることでアーシングされる「ヒーリング効果」。暑い日差しの中で発汗と共に身体を動かすことによる「フィットネス効果」。

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 <これに勝るヒーリング効果あります?>


 さらに付け加えるならば、黙々と草刈りを続けることで訪れる「瞑想的時間」。農薬肥料なしで育つキュウリを目にしながら思索する、「草とは何か?人とは何か?生きるとは何か?」という「哲学的時間」。草刈りをしつつも刈った草を土に敷くことで土壌の環境に配慮したり、あるいは虫の居場所を確保するように一列おきに草刈りしたりすることで間接的に提供する「環境への貢献」。

 あげればきりがないが、ただのキュウリの周りの下草刈りという「農作業」「野良仕事」でありながら、そこにあるのは、自分も自然もキュウリも喜ぶ、パーフェクトアクティビティなのである。

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 <庭木のスモモを食す時間も最高のグルメ>

 私はもう、この時間を仕事や作業と呼ぶことができない(笑)。

 あえて言うなら、子どもたちがただただ屋外で大解放のもとで楽しみまくる「野良あそび」になぞらえて、「野良活」「ノラカツ」と言うことに決めたのだ。なんなら、田畑や森で過ごす時間を野良活セラピーⓇとか野良活リトリートⓇで売り出したろうか(笑)。


 横道に逸れたけど、自然農や、大地再生(※)の時間は、作業でもないし、仕事でもない、野良活なんです♪ さああなたも、雑草屋と一緒に、レッツノラカツ!

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 <まあこれも一つの野良活か?違うか!>



・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
※『大地再生』とは:矢野友則氏の「大地の再生」の考え方、高田宏臣氏の「土中環境」の考え方を共に取り入れた、ごくごく個人的な里山再生活動を意味しています。

参考URL
『「大地の再生」について』 https://daichisaisei.net/#about
『見えない世界を見る力 ー 土中環境への旅』 https://chikyumori.org/2022/04/04/dochu01/
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
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2017年01月11日

月の声

師走十四日 晴れ

 
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 月の満ち欠けにあわせて農を営む。という今年度の試みは、三割成功、七割未達、といったところだろうか。

 一ヶ月の半分の、新月から満月へ月が満ちていく時期、もう半分の欠けていく時期、大まかに言えばその区分で、植物の生育へ異なる影響がある。そのことを耳にしてからおよそ十年、ようやく自然農の営みの中にそのサイクルを取り入れていこうと決め、無理やりながらつくし農園のプレーヤーさんにもお付き合いいただく形で、今年度の集合日を月2回に増やしてみた。

 結果としては、まだ「わからない」。その理由を自分なりに清算してみるならば、月の満ち欠けが成育に影響を及ぼす割合が、今の自然農の畑の成熟度や成長曲線に比べて、低いからではないだろうか。現段階の農園の様子を大雑把に表現すると、区画や畝一つ一つによって、成育の様子ががらりと異なる。整い始めてきた区画では、彩り豊かに収穫が見込まれてきた一方で、まだまだ雑草の勢いに負けていたり微生物の活動が活発でなかったりなど野菜を上手に育てられない場所も多い。その、母なる土壌の成熟度による育ち具合の変化率は大変顕著であり、育つ育たないは、やはりその度合いに大きく頼らざるを得ないようなのだ。月の満ち欠けに手をかけ始めたばかりで明言はできないが、月の及ぼす影響は、土壌の成熟の上にたって初めて、差を感じられるのではないだろうか。

 であるなら、「わからない」というのは、正確ではない。自分の耳に、まだ「聴こえてこない」という方が正しそうだ。月の引力による、生命への影響はきっとある。動物としての自分のバイオリズムなども含めて、もちろん植物にも影響している。しかし、その繊細かつ巧妙な仕掛けに応じられる自分の準備が、まだ整っていないのだ。

 身体術やヨガ、瞑想を深めていくと、始めた頃には気づかない、微細な身体の差異や変調に気付くことが増えてくる。自分の中には最初から存在していた「身体の声」に、最初は気付くことができなくても、時間をかけて耳を澄ましていくなかで、少しずつ聴こえる感覚が育ってくる。

 自分には、自然農の畑に絶えず降り注いでいる「月の声」を聞き分ける耳が、まだ育っていないのだ。しかしそれは、耳を澄まし、心を傾け続けることで、きっと聴こえ始める時が来るのだと思う。差異が「わからない」のではなく、まだ「聴こえてこない」だけなのだから。


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頬の膨らみとカブ、どちらも美味そう(笑)。




 というわけで、今年度、月二回開催していたつくし農園の集合日を、来期(2月スタート)からまた月一回に戻すことにする。月との語らいをやめるわけではない。聴こえていないことを聴こえているように振舞うのが何よりイヤだし、その楽しみは、もう少し後にとっておきたいと思うのだ。自分だけ、家族だけで、ああでもないこうでもないと楽しんだ先に陰陽と自然農の上手な付き合いが見つかるならば、その時まで待つことにしよう。

 そういえば明日は満月。満月から新月にかけては、土中の芋類などの収穫、保存にふさわしい時期とされている。明日以降、アピオスや菊芋の収穫を再開しよう。新年ぼけして田畑からついつい足を遠ざけ気味な毎日に、満ち欠けを理由に背中を押してもらおう。そう、今年度の三割成功とは、月の動きを意識することで、サボりがちの季節ごとの農作業に発破をかけてもらえたことなのだから。


 そんなこんなで、2017年度。つくし農園のプレーヤー募集がスタートしました。

 耕さず、農薬肥料を持ち込まず、虫や草を敵とせず、月の声に耳を澄まし、自然の営みに応じた農のあり方。小松学流の、自然農。今年もそろそろ芽吹き始めます。

 
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 元旦に浮かぶ四日月。これからたった十日ほどで、月は満ちる。



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2015年10月17日

自然農=RPG論

長月五日 曇り

 自然農の目的は、作物を育てることではない。

 それはRPGが、一匹一匹の敵を倒すことやゴールドや武器を手に入れることが目的ではないことに良く似ている。と、ドラクエ世代の自分は思う。

 ゲームにさほど詳しいわけではない小生でも、いわゆるRPG(ロールプレイングゲーム)はそれなりに遊んだ経験がある。RPGの目的は、主人公が、最終的にゴールとされる最強の敵を倒すことである。しかしそれまでの道筋には、そのレベルに応じた敵を倒したり、武器を手に入れたり、謎を解いたり、という課題やプロセスが用意されている。時間を重ねることで一つ一つできることが増えていき、主人公が成長していく過程をプレーヤーは楽しんでいく。

 であるなら。

 自然農とは、田畑を育てる、RPGである。

 収穫物としての野菜は、ゲームに例えるならば、一匹一匹の敵であり、手に入れる武器であり、要所要所のイベントである。であるなら、それは目的ではない。 自然農の畑に取り組んですぐ、何でも思い通りに作物を育てられることは難しい。ときには何も育てることができない一年も、あるかもしれない。それはまるで、ゲームの主人公が、スタートしてすぐには、本当に弱々しい敵しか倒すことはできず、手にすることができる武器もごくごく粗末なものであることによく似ている。

 自然農の畑に向き合い、手を入れ、営みに応じた作物を選び育てていくプロセスを経ることで、いつしか、育つ野菜の種類が増えていき、自分なりの応じ方が身についていく。まさに、RPGの過程で、経験値を積んでレベルが上がり、倒せる敵も増えて扱える武器も増えて行動範囲がどんどん広がっていくことに重ねられる。トマトも育たなかった畑にトマトが育ち、その翌年にはナスに実がつくように変わってきたように。キュウリが育った畑の2年後に、ズッキーニが育つようになったように。

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 では自然農のボスキャラはいったい何か。それは、毎年毎年、自分の収穫したい野菜を継続して栽培していけることである。そしてそれを達成するために必要なことは、豊かな土壌を育み続けることなのだ。土壌が、無農薬・無肥料・不耕起でも作物が育つような環境に至れば、極論すればどんな作物も自然農で育てることができる。
 
 そこに至るプロセスが、まさにロールプレイングゲームさながらであり、一年一年の野菜の出来不出来に一喜一憂していられない所以である。RPGで、いちいち敵との一戦一戦に一喜一憂してはいられない。もちろん勝てば嬉しいように、収穫できればそれは嬉しい。しかし自然農で野菜が育たないのは、土壌がそのレベルに成長していないからで、まだ倒す(育てる)には早すぎたから。 ならばその土壌が豊かになる(=豊かな微生物環境を整える)ことをイメージしながら折々の手入れを行い、その状況に応じた作物を選んで栽培していくことを継続していくことが、ゴールへの最短距離なのだ。

 RPGに近道はない。途中になにか一足飛びのイベントがあったとしても、大局としては、時間をかけて、主人公を成長させて最終目的まで着々と歩んでいくことが、結局は王道のはず。

 自然農にも近道はない。もちろん、テキストもあり、指導者もあり、運不運もあり、それこそ千差万別なプロセスではある。作物がすぐに良く出来ることもあれば、数年間まったく育たないこともあるだろう。しかしそれは、「何も起こっていない」のでは決してない。RPGで、闘い続けていれば必ず経験値が溜まっていくように、自然農の田畑には、命の積み重なりが増えていく。土壌微生物が増え、雑草の植生が変わり、少しずつ少しずつ、育つ作物が多種多様になっていく。

 もちろんそのプロセスは一直線ではない。土壌環境だけではない自然の容赦ない条件が変数として掛け算され、収穫も一直線に右肩上がりのはずが無い。しかし、それに向き合っている人それぞれの中には、自分にしかわからない、確かな積み重なりが、着実に残るのである。

 RPGの最終目的は、ボスキャラを倒すことだと書いた。主人公の成長の果て、例えばレベル99にまで達した主人公は、どんな敵も倒せ、あらゆる武器を手にし、悠々とゲーム世界を旅することであろう。

 であるなら自然農は、終わりなきRPGであると言える。その地域、その土地での理想的な土壌環境を整えたとしても、それを継続的に、自然環境に応じながら、好みの作物を収穫し続けることができるかどうかは、さらにその先の永遠の課題でもあるからである。毎年毎年、ボスキャラが自動更新されていく、永遠のリアルRPGなのだ。


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 自然農の田畑に見学に来られる方たちから、「自然農って何が育ちますか?」とか、「自然農では収穫はどれくらいですか?」と質問されるたびに、自然農の目的はそこじゃない!と思いながらも明確に答えられなかった自分の、12年目の今の答えが、これ。

 全然、明確じゃない(笑)。 まあいいかー。 



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2015年08月15日

殺戮

文月二日 晴れ

 先の記事にも書いたが、7年間自然農の畑として命を育てた農地を、地主さんにお返しした。

 冬から打診され、作付けの後始末と移植を計算して、この夏にお返しすると決め、少しずつ少しずつ、畑に別れを告げてきた。春からの種まきはもちろん取りやめ、ニンニクや玉葱などの収穫物を取り、取り忘れの人参やミョウガを掘り起こし、いよいよ、正式に返却することになった。

 豊かに、優しげに、柔らかく変わってきていた自然農の土、草、営み。

 記憶と記録に残すべく、写真と共に記す。

【1】まずは草の種別関係なく、とにもかくにも、刈り倒す。

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 刈りますよー。
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 本来であれば、このまま、表土は枯れ草、枯れ枝が積み重なり、その直後に分解の営みに引き継がれていく。
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 足を踏み入れると、耕していなくてもフカフカに沈み込むほどの柔らかさをみせる、自然農の土壌。
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【2】数年間の太陽エネルギーを宿した刈り草と表土の一部を、せめてもの土産にと、集め、軽トラックに載せ移動する。(これは後に資源として利用する。)

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 刈り草を移動した後には、団子虫や、テントウ虫が、姿を表した。
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【3】 土を均すために、耕す。

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 広い土地であるため、数年ぶりに知人のご好意でトラクターをお借りし、文字通り、耕運機を運転して耕した。とにかく、無差別に、無慈悲に、過去のつながりを一瞬で断絶すべく、トラクターの重量で大地を踏み潰し、その後に機械の猛烈な刃で撹拌する。根は切られ、虫は潰され、生物の住処は破壊された。


 あっという間に、土は土漠状態へ。
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 先ほどのテントウ虫も団子虫も、もはや居場所はない。
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 どこかしらか、トラクターの音を聞きつけてか、サギの幼鳥が降り立ち、さっそく剥き出しになった土に丸見えになった虫たちを啄ばみ始めた。
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 そして、なにもいなくなった。
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・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 これを世間では、「きれいにして」お返しするという。 いったい、なにが、綺麗なもんか。
 俺はこの日、何万もの、何百万もの命を、殺戮したのだ。


 安保法制に賛成の人も、反対デモの人たちも、いったいいかほどの人たちが、この殺戮の上に提供される安穏とした日々を、理解した上で暮らしているのか。
 我々は、戦争でのみ殺戮という行為を犯すのではない。少なくとも、現代農業で、現代畜産業で、現代工業で、幾千万の殺戮、蹂躙を犯し続けながら生きている。それを忘れて、一つのイシューに対して右だ左だと言う気持ちには、少なくともこの日だけは、浸かる気にはなれなかった。


 そしてまた、自然農の日々は続くのである。


 同じ出来事を、妻はこんな言葉で綴っています。


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2014年09月12日

五感すべてで

葉月十九日 雨のち晴れ

 立秋(8月7日ごろ)から秋分(9月23日ごろ)までの、ちょうど夏と秋が交差するこの時期。春から夏への、万力で締め上げるようなじわりじわりと暑さがにじり寄ってくる様と違い、実に清々しく、秋が押し寄せてくる。その様子を、まざまざと五感で感じられるのが、白露を迎えるこの時節である。

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 朝7時、しっとり明るくなった畑の中を歩くと、盛夏の頃には及ばないものの、足元の露が地下足袋がじっとりと沁みて、思わぬ足の冷たさに気づく。夏至を過ぎた7月の頃なら、朝5時前から田んぼに埋もれて田植えをしていれば、7時になるころにはもうギラギラの太陽が首を焼き始めていた。足もとの水田からはむんむんとした湿気が立ち込めて、あっという間に玉のような汗が額から噴きだす。それに比べてどうだろう、この朝露の冷たさは。このあきらかな肌感覚の違いに、季節の移ろいを生々しく感じさせられる。


 夏の盛りの梅雨明けの畑には、濃緑色の雑草が、この世の春とばかりに(夏ですが)光合成を満喫する。その色は、紫にも群青にも近いような、果てしなく濃い、緑色である。自然農の野菜の淡色の緑に比べて、その雑草たちの吸い込むような緑は、何年過ごしても息を呑むほどに深い。9月、朝露の畑から腰を上げてふと周りを見渡すと、畑のあちらこちらに、早くも種をつけ始めたマツヨイクサや萩の種が黄緑色から薄茶色に変わり始めている。深い緑の洪水は徐々に色を落とし、朝露が乾くたび、一日一日少しずつ、畑を秋の色に塗り替えていくようだ。視覚で味わう、秋の入り口である。

 
 草刈りの続きをすべく腰を落とすと、耳に届いてくるのは、コオロギの大合唱。あれほどに、大音響で世界を包み込んでいたセミのオーケストラはどこへやら、いまやツクツクホウシが申し訳程度に遠くの林から鳴くばかりである。時折雲間から届く強い陽射しに夏の名残を感じるものの、やはりセミの大音響がないとどこか物足りない。あの暑苦しさの記憶はセミと共に消えてしまったのだろうかと思うほどに、秋の虫の声は、涼しさを届けてくれるようだ。


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 畝の合間を草刈りしながら進んでいくと、鼻をかすめるのは夏に刈った草がしっとりと枯れていく腐葉土の匂いだ。真夏の草刈り作業は、とにもかくにも「草いきれ」に包まれていた。ムンと匂い立ち、息がむせるような瑞々しさと猛々しさの混ざったような臭気。自身の汗の匂いと絶妙にブレンドされて届くその香りは、まさしく生命力に溢れているようだった。今、草間から香るのは、夏に刈り倒れたのちに分解され始めつつある、優しくも力強い枯れ草の空気だ。しかしそれは晩秋の眠りゆくような静かな匂いではなく、これから秋が深まるにつれて熟成していく前の、どことなく若々しさを感じさせるような、青さを残している。それもまた、この時期にしか味わえない独特の、爽秋の匂いである。

 
 夏の炎天下に、早採りのキュウリをもいでかじったあの味は、まさしくオアシスの味だった。旨みというよりは、価値は水分にこそあり、自分の欲するものとキュウリが蓄えようとするものが一致し、ジューシーで弾くような瑞々しさに喉を潤していた。そのころのキュウリと今のキュウリは、同じ種類だろうかと首を傾げるほどに味が変わったように感じる。水気がしまり、細胞の一つ一つに旨みが宿るような繊細な味わいを、おそらくキュウリ自身も準備し、こちら側もその味わいを感知する用意ができているのだろう。この夏から秋へ進む季節が届けてくれる、ほのかな、たしかな秋の味覚のひとつである。

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 全身で、五感全てで感じる、季節の移り変わり。雑草が生え、機械音にさえぎられず、肥料や農薬の匂いに邪魔されることのない、自然農だからこそ味わえる、この醍醐味。たとえ毎日ではなくとも、週に一度でも、月に一度でも、自然農の田畑に立って季節を過ごせばこそ、体に沁み込んで体感できるのだ。映画やテレビの3D作品や、ハイテクアグリビジネスや屋上菜園では決して手に入らない、なにかがある。原始と文化が同居し、かつ自身の感覚を開放することで手に入る、人間のもっともシンプルな「楽しみ」がここにある。


 さあ自然農、始めちゃおうよ。 
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 ※つくし農園 プレーヤー随時受付中♪



 そうそう、忘れちゃいけねえ。野良仕事を終えた後の最後の締めに訪れる、夏から秋への最大の変化を感じる瞬間を。

 真夏の最高の楽しみだった、キンキンに冷えた井戸水の水シャワーが、恐怖に変わり、ついに給湯器のスイッチを入れる。そしてお湯シャワーのホカホカに、心ゆくまで包まれるこのとき。全身全霊をもって、秋の始まりを実感するのだ。



第四十三候: 白露初候
【草露白(くさのつゆしろし)】
=草に降りた露が白く光る=
 (新暦9月8日頃〜9月12日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


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2014年08月30日

田畑の自然治癒力

葉月六日 曇り時々雨

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 ぎっくり腰が緩やかにほぐれていく間、田畑からしばらく離れてしまい、大豆も稲も里芋も一様に伸びやかに生育し、ついでに雑草の勢いも逞しく、いつものことながら自然の生命力に驚かされている。そんな中、今の畑は果たして、健やかな状態、健康体なのだろうかと、常日頃思い悩ませていることに、考えを巡らせてみた。

 果たして、自分の畑は、今健康だろうか?
 自然農の畑の理想的な姿とは、どんな姿だろうか?


 どんな畑であっても、一般的な農法であれば、機械で大規模に耕運して、土壌改良して、化学肥料や有機肥料を投入してしまえば、よーいドンで栽培していくことは可能だといえる。自然農では、(特に自分のこれまでのアプローチとしては、)そうしたよーいドンをあえて選ばないが故に、毎年の作物の育ち具合に一喜一憂しながら、果たしてこの畑で自然農で育てることは可能なのだろうか、と人並み(かどうかはわからないがそれなり)に悩んできた。

 その上で、現時点での自分の答えは、こうだ。

 「自然農の田畑は、自分の心の向け方次第で必ず、持続可能な田畑になっていく。」


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 耕さず、虫や草を敵とせず、農薬・肥料を必要とせず、命の営みに沿って作物を育てる自然農は、始めてすぐに劇的な変化を伴ったり、魔法のように誰でもうまくいく成功法がある訳ではない。あくまでも、「作物が育つ持続可能な状態」に向かう流れを、植物をはじめとする諸環境が自ら整え、その流れに乗りながら、人間が必要以上に手を加えすぎることなく、自然の恵みをいただくあり方である。いま向き合っている圃場(田畑)が、作物が育ちにくいという状態であるならば、それは流れが滞っているのか、手を加えすぎているのか、まだまだ人為を欲しているのか、いずれにせよ、「状態が整っていない」という症状を表現しているのだ。と考える。

 人の身体に例えてみると、人間が、悪習慣や諸要因の結果として現在「病気」を患っている状態に等しいと考えられるだろう。自然農を始める前の圃場が、農薬や化成肥料などを使用され大型機械で踏み固められてしまったために、本来整うべき自然の土壌環境が著しく破壊されてしまったとすれば、その田畑は言わば重病人のようだと言えるのかもしれない。 

 人間の病気に対して、現代医療が施す一般的な治療は、最新の検査や投薬、手術など、いわば対症療法である。同様に、「作物の育たない圃場」という病気に対して現代の一般的な農法では、大規模に耕運し、薬品で土壌改変させ、肥料と農薬を投入して、作物の育つ土壌を作り出そうとする。そのあり方は、何を選択するかというだけであり、「効果」があるという点からみれば、正しい選択だと言っていい。

 一方、「病気」に対しての自然療法的なアプローチはどうだろうか。身体の調子を崩して何かしらの症状が現れたら、食養を整え、呼吸や身体を正常にし、時に漢方などで治癒力を引き出してもらいながら、心健やかに過ごすことで病の状態から快方へ整えていくことを目指していく。そもそも身体は、命ある限り、自らを改善させていく力を内包している。それが、いわゆる「自然治癒力」である。

 自然農が本来有しているアプローチは、畑に生える草を診て、作物の育つ様を観て、植物たちや微生物たちが自ずから生命力溢れる環境へ向かう力に沿って手を加えていくというやり方である。時に、様子に応じて、生やす草を選別してあげたり、微生物が増えてくれるような有機物を加えてあげたりして、自然の持つ改善する力をサポートすることで、十分に作物が育つ状態(健康な田畑)に整えていけるのだと思う。それはさながら、「自然治癒力」を引き出して健やかな身体を維持していく、人体に対しての自然療法的なアプローチそのものだ。

 大切なのは、人体における「自然治癒力」を確信するように、田畑の「自然治癒力」を確信することである。そして、その治癒力と持続可能性を引き出せるような自分の手当て(関わり方)はいかにあるべきかを、問い続けることである。 その「問い」と「返し」は、蓄積もされうるし、経験を重ねて上書きされることもある。マニュアル、お手軽、効果的、それらのキーワードから開放されて、初心と積み重ねが同時に存在するしかないからこそ、自然農は面白いのだ。



 儲かるとか儲からないとか、ビジネス的においしいとかおいしくないとか、もっと戦略的にとか、面倒くさいとか、野菜が美味いとかうまくないとか、そういうの、関係ねーの。

 いつまでたっても答えがなく、でも最初から答えはあるようなところこそが、自然農の醍醐味なんだから!

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 さ、大豆の草刈りすっぺすっぺ。ジャガイモも、まだ間に合うのだけでも収穫すっぺー。


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2013年09月17日

いいんだよ

葉月十三日 晴れ

 夕方、一仕事終えて畑から家路につく前に、ミニトマトを土産に採って帰ろうかという時の出来事。十分熟したミニトマトを手に取ろうとしたとき、その実に一匹のいも虫がついているのを娘と発見した。娘ががっかりするか、もしくは怖がって嫌がるかと思い、「あらあら虫がついちゃってるからこれは食べられないねえ。悪い虫め。」とすこし慰めるつもりで話した。すると娘から、「いいんだよ。虫さんに半分くらいあげたっていいよ。虫さんがかわいそうでしょ。」との答えが。

 普段から、自然農では2割3割は虫や動物やその他いろいろに税金でも払うつもりで食べられることも受け入れてみてはどうかと嘯く自分であったが、あらためて娘に伝えていたつもりはなかった。その哲学を、娘の口から聞くことになるとは。

 ちょっとした、心にほのかな喜びが灯ったような、そんな出来事。 想いは伝わるのかね。

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第四十五候: 白露 末候
【玄鳥去(つばめさる)】
=つばめが南へ帰っていく=
 (新暦9月17日頃〜9月22日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2012年04月14日

れ・みぜらぶる

弥生廿四日 雨

第十五候:清明末候
【虹始見(にじはじめてあらわる)】
=雨の後に虹が出始める=
 (新暦4月14日頃〜4月18日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


 次回の集合日は次の満月の後の晴れた日に行います。曇りの日も開催いたします。

 そんな連絡、一度してみたいものです。

・ ・ ・


 つくばは雨。昨日までぽっかり陽気が続いていたというのに、つくし農園の集合日だというのに。やれやれ。

 本来は雨なら休めば良いだけで、その分何かしら作業なり、読書なり、時を満たすに過ぎないのにどうしても心が乱される。天候と、現代生活はどうしても折り合いが悪い。天候にほとんど左右されない産業社会の前提で日常生活が運行されている結果、休日は半ば強制的に定期的に訪れる。四半世紀ほど前までは7日に1日程度、今ではおおよそ7日に2日程度、待ち遠しい週末が毎週ごとに訪れる。休日は定期的に訪れるものでありかつ人為的にコントロールされている。その一方、天候は不定期に訪れるものでありかつ決して人為的にコントロールされるものではない。先達の知恵と社会の発展が作り上げたカレンダーは人類共通の素晴らしい財産となったが、他方で、空を観て頃合いを計るという自由を失った。晴耕雨読は既に遠い過去になり、今では月火水木金耕土日読である。

 自然の営みに沿った農のあり方を楽しむ自然農でさえ、いや正確に言えば自然農に半分足を踏み入れている小生的生活程度では、この不自由さから飛翔することはままならない。土曜日に予定する集合日にせよ、もしくは木曜日に予定する平日集合日にせよ、カレンダーとしてずらすことが難しいスケジュールがある。プレーヤーの方々と小生は、現実的にそのカレンダーのもとでスケジューリングする他なく、今日のような雨天に心が乱されてしまう。中止にすればしたで小降りになったとたんに「あー少雨決行にすれば明日は参加できない人も参加できたはずなのに」と気に病み、決行したらそれはそれで雨足の強さに「判断ミスしたー」と己れを恨む。その日の天気はまさに偶然でしかなく、降るも晴れるも巡り合わせでしかないのに。雨も陽射しも、時に求められ望まれる必須の出来事であるのに。そんな当たり前のことすらも一時忘れてしまうほどの力強さで、決してままならない天候を恨めしく思わせられてしまう。早朝起きて、ネットで天気予報を睨み倒して、開催可否のスイッチを悩み倒す。れ・みぜらぶる。
 これって性格の一部欠陥も原因になっているような気もしてきたが。要は気に病みすぎか?

 曜日にとらわれない自然農体験を他者と共有する術は、今のところ妙案がねえんだよなあ。欲張りすぎてるのかもしれないけど。さりとて、世の中の屋外イベント行事の類が軒並み、「今年の○○祭は【穀雨】を迎えての始めの晴れの日に行います」とか「春の運動会は卯月に入って始めの雨が明けた二日後の開催です」とか、なんだかとっても素晴らしくない?? 

 解決策のない不満ほど犬も食わないものはないのが、こうした心の迷走を愚痴ってみたい、集合日中止の朝なのでした。あ、また雨が小降りになってきた(笑)。

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 つくしの芽吹く、つくし農園の畑。
 ※ちなみにつくし農園と土筆は関係はありません。(つくば自然農農園の略です♪)
  
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2011年02月24日

どずん

睦月二十二日 曇りのち雨

 つい先日まで雪を降らせていた空気がなんとなしに弛緩し、一昨日は春一番、昨日は陽気、今日は雨と、そろりそろりと春の足音を鳴らし始めた。百姓はその足音の前に作業を進ませなければいけないのに、毎度のことながらスタートダッシュは好調とは言えない。 驚くほどに日に日に足元の草が息吹をあげ、そこかしこに冬眠から目覚めた春草の芽が、溶けはじめた土から顔を覗かせている。焦る、焦るねー。

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 2月の13日には、つくし農園の2011年度が開幕。前日までの降雪の影響で日曜日に順延された今期最初の集合日であったが、寒風に負けずに実習と共同作業を乗り切った。毎年恒例の一ノ矢八坂神社への参詣をすませ、農園に再集合してからイントロダクションとして、プレーヤーの皆さんに向けて自然農について話をした。ガイダンス的な概要でもなく、通り一遍の説明でもなく、今の自分として腹に落ちている「自然農」に対しての考えを、果たして話せていただろうか。畑に向き合うたびに皆さんと話すたびに今の自分が思い伝えるべきことは変わっていき、それを面倒がらずに応対していけるかという問いは、自分の存在証明でもある。いやむしろ面倒などではなく、その変化と逡巡が楽しみであるという方へ傾きつつあるのは、悪くない兆候なのだと思う。

 集合日の数日前、知人である石岡市の「あらき農園」さんにお邪魔して、団子と昼食を食べながら自然農談義に花を咲かせていただいた。それぞれの立ち位置や姿勢、歳月、条件は異なるものの、自負として真剣に取り組んできた数年の自然農を振り返りそして展望する中で、折々に荒木さんの言葉が染みた。それは具体的には言いまわされてきた言葉だったかも知れないのだが、実感と覚悟が伴って互いに握手しているような感覚で話していると、その中にどずんと太い理解が降りてくるときがある。空間的に、時間的に、立体である動態として畑を想像すること、自然農はルールではなく目的であること、解釈の自由さは「逃げ」ではなく「応用」であること、土は、微生物は、前提条件であり繊細でもあるが一方でとても力強いこと。・・・荒木さんと話しながら、「言葉にしたら消えちゃうんですよねー」と笑ったとおり、書くとやはりなんだか意味のないような文章になってしまってしまうんだよね。いいんだけど。時間でしか体感できない、感覚でしか実感できないモノは確かにある。それは、自分だけのモノであるべきなのだ。

 最高のタイミングでこうした内的な消化ができた後の集合日。はたしてなるべく言葉にしないように、でもなんとか思うことは話せるように、よくわからないまま時は過ぎ、いつもどおり農園のひとめぐりはスタートされた。なーんだかよくわかんねーな。大学の旧友からは「Blog見たらチョーシこいて格好つけてるくせに実際はこれだもんなあ」と、猥談に盛り上がる最中に言い放たれる始末の俺。

 
 いつのまにやら、来週には3月。昨年の猛暑で圧倒的に不足気味だといわれるジャガイモの種イモを必死で仕入れ、いよいよ本格的に農シーズンの到来を迎える。種まいて、イモ埋めて、土整えて、小屋も建てて、ムチウチ治して、映画も観て、飲んで騒いで、なんだかんだとおおわらわ。あらたいへん。
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2010年12月17日

アクセル

霜月十ニ日 晴れ

 暖かい初冬だ、などと言っていた舌の根も乾かぬうちに、冷たい雨を越したここ数日のつくばは本格的な寒さに包まれようとしている。朝には薄い霜が降り、水バケツの表面には淡い氷が張るようになった。林に積もる落ち葉もぐっと重みを増し、その分、空が少しずつ開けてくるように感じる。冬の空の、どこかしらくっきりとした開放感は、こうした知らぬ間の落葉樹たちの営みによって作られていく。

 ひとしきり種播きの季節は休みに入り、もっぱら畑での作業は、草刈りと土の養生ばかりとなった。自然農の畑で野菜が十全に育つことが目的の一つであるならば、冬の間の土との会話は、自身が思っている以上に大切な時間だ。春から秋、作業に追われる季節では、成り行き上どうしても育てる作物の動向に注視してしまい、土にフォーカスできる分量が落ちるのは経験上しかたがない。それならば、作業の少ない冬の内に、というよりそれこそが冬の作業だとアクセルを踏んで、土の、畑の、草の、根の、状態を見て、触れて、想像して、次の春への準備を進めたい。

 今、主に野菜に育ってもらっている畑は三箇所ある。子(ね)の畑、午(うま)の畑、未(ひつじ)の畑、それぞれ、状態、今までの手のかけてきた内容が異なる。それぞれに、生えている草、生えてきた草、野菜の育ち方も違っていて、それはメモ帳であったり、頭の中であったり、記録されてきた。その各々の様子をイメージし、どんな手の加え方をこの冬にして行くかを行きつ戻りつしている。チガヤを冬の間に根から抜き切る箇所、家の裏の林や隣の桑畑からの落ち葉を持ち入れてみる箇所、畝間の溝に、刈り倒した枯れ草や周囲のセイタカアワダチソウを敷き詰めてみる箇所、一日一日、少しずつしか進まないのであるが、初春の声を聞くまでの数十日をかけて、手足と気持ちを入れて、その先に畑が整っていくはずなのだ。あくまでも、そのはず、でいいのだとしても。

 それすらも楽しめるのだから、まあ幸せ者なんでしょう、私は。いろいろいろいろ、どんなことも人生では起こりますが、時々に飲みつぶれ、友人や学友に大言壮語し、歌い、笑い、本を読み、そうして生きて、死ぬまでの繰り返しに自然農を織り交ぜて。

 また明日、畑に這って、草を抜く。それが今のところの冬の楽しみなのだから。

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 それにしても、夜の屋敷がすこぶる冷えてまいりました。
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2009年10月30日

生きとし

長月十三日 晴れ

 耳を澄ますと、虫の音はすっかり止み、ギーギーやらチュンチュンやらの鳥の鳴き声ばかりが辺りを包むようになった。畑に腰を下ろしているとつい、ひとつ藪を挟んだ向こうの田んぼを狙うスズメの大合唱が気になり、足元の虫たちからは意識が遠のく。手元では豆を降ろしながら、時々田んぼを斜めで気にして、こちらの耳でスズメを、あちらの耳では車からのラジオを、混線させて作業している。


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 昨年播いたマリーゴールドが自然に育って花が咲き、晩秋の畑に橙の色味を添えている。その花の先に、名も知れぬ蝶(ツマグロヒョウモン)がとまる。重なる鮮やかな色が鮮烈で、昼の陽射しが一層暖かく感じた。鳴き音は随分減りもしたが、虫たちの生きとし生ける命はまだしばらく、続くのだ。まだ、草の命が先に進もうとする限りは。


 ひとしきり播き終えた豆の作業を切り上げて、隣の畑へ。昨年定植したステビアの株がくたびれかけている事を忘れていて、枯れてしまう前に甘味の葉を集めて乾燥ハーブを作ってみることを思いついた。ステビアの畝に腰を下ろし、まだ青味が残る葉を選んで籠に摘み進めてゆくその足元に、見慣れぬ影が目に留まった。

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 数ヶ月ぶりかに見る、モグラだった。そしていつもと同様に、命を絶った後であった。随分と、暗澹と、畑を悩ます三本指に入る、やっかいものの最後の英姿である。今年もどれだけ小生を苛だたせてきたか知れない原因の、小さな体躯が、畑の土の上に無防備に横たわっていた。モグラ、だよな。だいぶ小さいお姿のようですが、子供さんでしょうか。ひっそりと、かつあるがままに、何かに襲われたようでもなく、餓えて痩せ衰えたようでもなしに、ぽつねんと、土の上に、寝ていた。

 自然農の畑には、不自然なものは何もない。秋には秋の花が咲き、蝶がとまり、スズメが騒ぎ、時々にモグラが死ぬ。草も、野菜も、虫も、小動物も、巡る命の中にただ生きて、死に、太陽のエネルギーと不滅の原子分子を体内に循環させきった後に、次の生きとし生けるもの糧となる。
 それだけ。それだけのことですよ。その先に人間様が野菜をいただいて、んでもって、頭でっかちになにやら屁理屈を捏ねて、循環だの持続可能だの安全だの安心だの価値だの生き方だのくっつけて騒いでるだけ。モグラの様には人間様は見事に死ねない。死ねない。だからせめて、屁理屈捏ねてそれでも少し自然の醍醐味に触れて、そう思い込んで、楽しんで生きるしかない。

 あなたは何の為に生きているのですか。俺は何の故に生きているのですか。

 
 酒かなあ。違うよな。
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2009年10月29日

むしくう

長月十二日 曇りのち晴れ

 小豆、大豆が、カラリと乾き始めてきた。大豆はもう少し畑に置いて、葉が落ちるのを待ちたいところ。毎年刈り時を逸してしまいがちであるが、今年は莢がこげ茶を増す直前に、一気に収穫を進めたいものだ。
 小豆はなかなか一度に収穫させてくれずに少々腹立たしい。大規模栽培であれば、一気に刈り取ってしまうのが良いのであろうが、量が少ないから丁寧にしたいと思うと、ひと莢ずつ枯れたものから摘み取っていくのがかえって良い気がしてくる。畑に出るたび、小豆畑を周回して、採り時の小豆をもいで籠に入れていくのもまた、いつのまにかこの時期の日常になっている。

 小豆も、大豆も、植え方を込み合いさせすぎた箇所は特に、程よく、多めに、虫が入っている。小豆も、大豆も、この虫とは仲が良くて困る。先月から枝豆を採っていざ食べようとすると、幾度となく出くわしてきたのがコイツである。今日は小豆からニョロリ。


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 自然農での枝豆、大豆、小豆栽培は当然農薬は使わないわけだが、この虫、草刈りや植え方である程度の対処は可能としても全く虫に食われないことはまずないとされる。有機栽培農家が枝豆を大量には好んで栽培しない話もちらほら聞くのは、無農薬で栽培して、こいつらに食害された枝豆を選別して出荷するのが非常に手間がかかって現実的ではないからという声もある。もちろん篤農家の方は、それぞれに工夫と手間をこらして対応されているのだろうがやはり、虫との付き合いは悩まされるであろうことは想像に難くない。小生はまだ、ごく小規模であり、届け先に直接話ができることで対応できるのが幸いなのである。

 では、日常、ほぼ9割以上の内食、中食、外食でお目に掛ける枝豆の、あの完全無欠のピカピカ綺麗な枝豆は如何にして作られているか。特に、中に虫がいない豆にする方法を挙げるとすれば、代表的な一つは虫除けネットで豆畑を覆うこと、そしてもう一つは、もちろん農薬である。対象の虫は、マメシンクイガ。農薬は、様々(参考を下記にリンク)。仕組みは、直接殺虫するか、もしくは枝豆の葉についた農薬成分を虫が食べることで、食毒効果で虫を防ぐというものである。当然、人が食しても安全な量とされており、収穫前の一定期間以前の散布が規定されているので、基本的には食べることでの人体への悪影響はほとんど無いとされているのだが、しかし。家ではゴキブリに殺虫剤スプレーして、街では排気ガス吸って、添加物たっぷりのスナック頬張ってる小生ではありますが、しかし。もちろん、枝豆だけに限らず、綺麗なツルツルのお野菜は押しなべて農薬のお世話になっているのですがしかし、改めて、考えちゃうのだよね。

 あらためてね。

 
 工夫と、手間と、寛容さをもって、なるべく虫の被害を減らすべく。南無三。
 


==== 農薬についてのリンク =====

マメシンクイガにおける適用農薬
 ・・・「東京都病害虫防除所」のHPより、参考箇所をピックアップ

大豆編 虫害防除
 ・・・「みんなの農業広場」から、大豆栽培時の農薬使用について

化学殺虫剤の話
 ・・・「農薬ギライのためのバラ作りのページ」から。
  農薬についての要約がまとめられています。

==== 枝豆についての補足的リンク ====

枝豆についてのFAQ
 ・・・「日々是枝豆」というHPより。枝豆愛に溢れるこのサイトでも、
  農薬使用の必然性に言及されております。
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2009年01月17日

小宇宙だ

師走二十二日 晴れ

 来週の土曜日、つくし農園として新しい試みにトライしてみる。


 平成21年1月17日の小松学の今の言葉として、自然農は小宇宙だ、と断言してみる。実在する自然そのものでもあり、向き合う人そのものでもあり、人と自然の関係性の縮図であり、そしてその意味を意義付けることができるのは自分自身でしかない、という意味で。

 自然農はノウハウではない。レジャーでもない。癒しでもなく、息抜きでもない。かといって哲学でもなく芸術でもなく、宗教でもなければ絶対真理などでもない。しかし本人しか手にすることができない「気概」を携えて足を踏み入れることができたならば、そこには間違いなく、ミクロコスモス、小宇宙が広がっているのだ。

 全てあって、何もない。決めるのは自分自身。教えてくれるのは自分自身の向き合い方しだい。田畑の小宇宙を覗き込んで、何を見つけ何を思うかなんて、誰もわからない。僕は、自然農の入り口を紹介することしかできない。今の正直な自分の断言は、それでしかない。あえて言わせていただきたい、つくし農園は小宇宙への招待状なのだ、雑草屋本舗は野菜というレンズ越しに自然農を眺める望遠鏡なのだ、と。
 
 ならば言い換えれば、自然農はノウハウでもありレジャーでもあり癒しでもあり息抜きでもあり哲学でもあり芸術でもあり宗教でもあり絶対真理でもあり何でもいいのだ。何でも。何でもいいんです。


 三年目のつくし農園を経て、少なからず僕と小宇宙を共有してくださったプレーヤーの方達と過ごす、「話す聴くワークショップ」の開催。DAN'S・TABLEさんの全面協力を得て、トライしてみる。 実に、楽しみで仕方がないんだ。
 
 
 それはまさしく、銀河鉄道999。
 

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vegetables from microcosm
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2009年01月05日

初心

師走十日 【小寒】  晴れ


 食っちゃ寝、食っちゃ寝、正月に帰省するのはそのためであるかのような寝正月を最大限に過ごし、リズムが整わないままつくばに戻ってきた。


 初仕事、と別段意味もこめずに散歩をしながら田んぼと畑を見てまわる。昨年いっぱい向き合ってきた、土、草、空気。春、夏、秋、そして只今の冬。想い返し、振り返り、季節の巡りが目の奥に流れる。そこには、土地を移してそれぞれの畑と田んぼがあり、それはすなわち、そこそれぞれの命の営みがあり、同時に自分が費やした時間と思いと手足がある。その結果としての今のそのままがある。


 今年の言葉を、「初心」にすることにした。


 つくばに移ってから、一年目を「播種」、二年目を「発芽」、三年目を「着根」として正月に毎年のテーマを掲げてみていた。その年それぞれに、前年を振り返りながらその年に持ちたい言葉を考えていた。2008年の正月、「着根」と決めた後に漠然と将来を期待しながら思い描いていた2009年の言葉は、「開花」だったように覚えている。かくして「開花」は今の自分の言葉としてはほとんど当てはまらず、導き出されるがごとく、「初心」でしかなかった。

 小生にとって自然農とは。世の中にとって自然農とは。自然にとって自然農とは。自然農はつまりは、まずは農であること。そのとどのつまりが自分にとって揺らがないこと。自分が向き合っている様が、つまりは畑と田んぼに表れるということ。自然農に足を踏み入れて七年目の今年、その根本をシンプルに見つめなおしたい。


 リラックスして、心のままに、真剣に、自ずから然らしむるように。空は見てくれているのだ。

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【小寒】…冬至より一陽起るが故に陰気に逆らう故益々冷る也(暦便覧)
      ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=3:7

      この日をもって「寒の入り」とし、寒中見舞いが出されたりする。
      この日から節分までが「寒の内」で、約30日間、厳しい寒さが続く。
      芹の苗が出盛り、雉が鳴き始め、泉の水が心もち温かみを含んでくる。
      小寒から四日目を、特に、「寒四郎」、九日目を「寒九」と呼んでいた。
      寒四郎は、麦作の厄日とされており、この日の天候によって、
      その後の天気や収穫に重大な影響があると信じられていた。
      また、寒九は「寒九の雨」といって、この日に降る雨は、
      農家にとって豊作の兆しであると信じられ喜ばれた。
      ※読み:ショウカン
      <参考:【室礼】和のこよみ
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2008年12月09日

霜月十二日 曇りのち雨

 底冷えの寒気が、家の中にシンと張りつめてきた。節句は二日前より「大雪」。つくばではまだ雪の声は聞こえてこないが、日暮れから軒を濡らしだした雨音に秋の温もりは残っておらず、冷たく厳しい冬の雨があたりを包む夜を迎えた。

 昼、ストーブに火をつけて芋を焼きながら、来客のDanさんとしばし談笑した。そこから飛翔する、自分と世の中の終わる事のないバランス合戦への思考の旅。自分はどうあり、世の中はどうあるか。なぜ自然農に惚れて「今」のこの32歳の自分をこの場所に置いているのか。

 家庭菜園のフィールドとして野菜作り、米作りなどをしたいわけでは全くない。安定的な食糧自給を目指しての就農だったり、安心・安全・健康な野菜を作りたくて農の世界に片足を踏み入れたわけでも、おそらくない。耕運機で耕して肥料を使って農薬を播いて作物を育てるんだとしたら、間違いなく、自分は今この場にいないはずなのだ。

 ではどうして。そしてこれから何を。それを言葉でつむぐ時期は、今ではない気がしている。心の底に宿っている大切な「勘」、心の隣にそっといる大切な「人」、心の芯から楽しめる大切な「欲」、それらを混ぜ込んで炊き上げてとびきりうまい料理にするレシピとして、自然農を見つけてしまったんだという、今のこの、感触。まずは今、そして次へ。これからもどっぷり、自然農でまいりますので、どうぞ宜しく。

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 だって、面白いんだもの。それ以上の理由、ないもの。

 
 寒さが運んでくれる翌春へのこの皮算用が、冬の隠れた楽しみ方なんだとしみじみ思うようになってきた。これってたぶん正しい。



【大雪】 …雪いよいよ降り重ねる折からなれば也(暦便覧)
      ★雑草屋的季節分布★ 秋:冬=6:4

      もう山の峰は積雪に覆われているので、大雪という。
      平地も北風が吹きすさんで、いよいよ冬将軍の到来が感じられる。
      この時節、時として日本海側では大雪になることもある。
      ぶりやはたはたの漁が盛んになる。
      熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色づく。
      ※読み:タイセツ
      <参考:【室礼】和のこよみ>  
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2008年07月26日

剛毛 vs 無毛

水無月二十四日 曇り

 昨晩の雷雨が嬉しくて寝坊にも負けずに朝から田んぼと畑をぐるぐると見回った。一時しのぎの通り雨ではあったが、寝起きの草達は、沁み込むように水飲みをしているように思えた。田んぼも、畑も。

 自然農の畑に草がある。これは当たり前の風景である。田んぼにも、畑にも、作物があり、そして隣り合いながら雑草が生えている。言い方を変えれば、生きている。生き方や住む場所が千差万別なのは人間も動物も植物も同じであり、それは田んぼも畑も千差万別であることを意味する。そして草の生え方、育ち方、つまりは土の様子や性格も千差万別を数える。

 この地の田畑に移って半年以上が過ぎ、しかしまだ一巡りも過ぎてはおらず、初めての田畑には幾度となく驚き、悩み、喜び、あきらめ、そして、ひたすらと時間が過ぎていく。そのなかで、自分があれこれ手を加えることと、自然にただ任せることが、相反することではなく同義であるなんだという思いが備わってくるようになってきた。初めての場所、個性ある土と草を目の前にすると、あれやこれやと手を出して、自分の思うような田畑に変えていきたいと欲張り、そしてすべからく空回りして呆然とする。一方で、もうやってられるか、と自然農の放任主義を都合よく解釈して草の生えるに任せていると、やがて諭されるかのように、取り返しがつかないほどの大繁茂の雑草たちに愕然とする。

 自然農の肝要は、もしあるのだとしたら、それは「土と草を見る」ことなのではないかと思う。土も見ず、草も見ずに、自然農のテキストや耳学問の作法をこなしてみても、それはただ自然農の真似事をしているだけであり、自然でもなければ、農でもない。一番奥底に隠されている秘宝には決して触れられずに、自然のもつ通り一遍な厳しさを、もしくは運良くお手軽な収穫体験を体験できるだけで、それで終わってしまう。それに甘んじたくないのだとしたら、その先の入り口は、いつも目の前にある、「土と草を見る」ことにあるのではないかと思う。

 今自分の対面している畑は、極端に言えば二つの極相に分かれている。数年間、雑草抑制の為のトラクター耕運を繰り返されて、雑草の命が極端に少ない「無毛の畑」。そしてその隣には、芝畑の放棄地にセイタカアワダチソウやススキが犇いて土中にその根が絶望的に伸張している「剛毛の畑」。


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 無毛の畑には、草が圧倒的に少ない。野菜の種を播く際も、被せる草もはるかに少ない。草がない土は、乾燥が速く、乾燥してゆく土は次第に固く締められてゆく。作物は苦しそうに窮屈に育ち、さらに栄養分も少ないためか、成長は心もとない。固さをほどくためには、また人為的に耕起するか、もしくは粘り強く移り住み始める雑草たちの根が耕すのを待つかの選択だろう。そのプロセスに待ちきれずに耕起をすれば、それは終わりのない人為的耕運のスパイラルを続けることになる。数年の間、草を生やすことができなかった土は、そこに住み交う虫も微生物も圧倒的に少ない。なぜなら、そこに住処も食べ物もないから。しかし、ある種は生き残り、ある種はいずこより飛来し、草が生え、根づいてゆく。いつしか土は和らぎ、虫が住み、微生物が根に宿る。枯れ葉は土に落ちて優しい布団を被せ、その亡骸が次の命の力に繋がってゆく。その繰り返しが、畑を小宇宙に近づけてゆく。愚農ができることは、雑草が増えてくれることを待つこと。時には隣の雑草畑の刈り草を入れ、収穫後の残渣を入れ、米糠を振り、急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、待つこと以外にない。




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 剛毛の畑には、作物が育つ隙間がない。超絶に地中に張り巡らされたススキ、セイタカアワダチソウ、芝の根は、アレロパシーという武器で作物を襲う。アレロパシー(多感作用)とは、【植物が成長の場を確保するために、根や葉などから他の植物の生長を抑制する物質を分泌する現象】とされ、根に隣接する植物に強い影響を与える。事実、作物は伸び伸びと生育を謳歌することなく小さく留まるか、もしくは息切れしたかのようにいつの間にか姿を消してしまう。アレロパシーの性格を持つ雑草たちに負けない畑にするには、どうすればよいか。一つは、耕起して彼らの根を裁断し枯れさせ、時には焼却し、根絶やしにすることもできる。そんな衝動と行動はたしかに魅力的である。もしくは別の手段があるとすれば、それは根気を絶やさずに草を刈り続けることである。彼ら強勢力の草達は、押しなべて「宿根草」という性格を持っている。つまり、土の上に繁茂すると同時に土中にその根を伸ばし、さらにその根を来年の為の貯蔵庫としてさらなる繁殖の基地を築くのである。この時、自然農の最大の友であるはずの「根っこ」が、作物にとって最大の敵となるのだ。しかし相手は無敵ではない。宿根草はその根を根城に発芽し、その後地上に出た後は光合成で大きくなるプロセスを踏む。であれば、こまめに執念深く、伸びては刈り、伸びては刈りを続けることで、根城の栄養素は次第に枯渇し、かつ光合成によって次世代の新根を伸ばすという隙をあたえず、いつしかかの宿根草たちも勢いを失ってゆくのだ。その間に逞しき他の無限の雑草達がいつの間にか住処を増やし、草の種類の増えた土は生命が豊かになり、作物もその中で育ってくれる畑に近づいてゆく。愚農ができることは、宿根草の根がギブアップするまで草を刈り続けること。時には鍬を振って耕起しつつ、堪忍袋が切れて焼き畑だってしてみながら、宿根草の減退を急がせようとしてしまうものの、しかし本当にできることは、刈り続ける以外にない。


 土と草を見て、語られている姿に目を凝らし、少しだけ自然のプロセスを勉強して、何をすべきか考える。その千差万別にあわせて自分と自然の間に立つ面白さが、自然農のとてつもない魅力であり、原点でもある。 時には裏切られ、時には褒美をいただき、翻弄と着実が同居する営み。自然と人間の交わる真理を容赦なく突きつける、自然農の醍醐味がそこにある。





 閑話休題。本日配布の常陽リビングに、雑草屋を扱った記事が掲載されました。記者のEさん、素敵な文章ありがとうございます。そういえば今年のテーマは「着根」でした。宿根草とまではいきたくないけど、根っこを伸ばして少しずつ。そんな思いを新たにして。
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2008年05月31日

匂い

卯月二十七日 雨

 雨が寒い日となりました。ブルブル。

 雨上がりの晴れた日、栗の花の「薫り」がどんよりと漂うこの頃は、雑草がいよいよもっていたるところに茂り始める。「草いきれ」と呼ばれる夏の始まりの独特の重い空気であるのだが、自然農の百姓にはたまらない「気」の満ちる頃でもある。

 そしてその同じ頃、同様の重力を携えた「匂い」が立ち込めるのもこの季節の特徴である。雑草退治に苦心されている方の魔法の薬、「除草剤」の匂いである。ちょっとすえたような、むっとくるような、中学校の運動部の部室のような、大自然の中ではなかなか鼻にしないような、でもそこまでは強烈でもない匂い。畑に立っている時、自転車で走る時、ふと、風にまぎれて漂ってくるその違和感はここ数年の百姓暮らしですっかり恒例のモノになりつつある。
 特に数日行けなかった畑に来たときにソイツに遭遇したら要注意。まずは畑の周囲を歩いてみる必要がある。まず間違いなく近くに茶色く枯れたエリアを発見するだろう。それはたいていもちろんお隣さんの畑であるが、ごくまれに、小生の畑の作物にもかかることもある。そして、おやまあ、と驚くほどにぐっしょりと首を傾けた苗の姿に出会い、そして数日の後にその苗は枯れてしまうのである。こちらとしては残念極まりないことではあるのだが、「雑草」に対していかに自分が異世界にいるかを痛感する瞬間でもある。そうした混沌を受け入れつつお隣さんに少しずつ理解してもらいつつという方法こそが、自然農を続けていく上で大切な、ゆるい感覚でもあるのだろう。できうる限り。

 そういうわけでお隣との境界線の雑草管理は、自然農実践において何にもまして最優先されるべき重要事項なのである。明日やる、と思っていたその日の留守に除草剤を散布されていても、どうにもこうにも後の祭りなのだ。「ぼうぼうだったからクスリまいちゃったよ」と言われたらそれまでの世界ですから。


 雑草はやっぱり、邪魔者なんだよね。今のところ。あの匂い、漂ってるんだよなあ。ふがふが。




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 除草剤の威力。
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2008年05月27日

朝露と砂漠

卯月二十三日 晴れ

 日中の暑さが増しても、日が沈むとしっとりと空気が冷える。半そでではまだバイクの風が肌寒い。この冷たさが朝露を畑に降ろし、自然の湿気を作物に与えてくれるのだろうか。朝露は、もちろん、夏の間続く。

 雑草のない剥き出しの畑はこの作用の恩恵にあずかれないために、潅水の必要が出てくるともいえる。とにかく、雑草が茂る畑の朝は潤っている。地下足袋で早朝に自然農の畑を歩くと、十歩ほど歩いただけで足袋がぐっしょりと濡れてしまうほど。その湿気が雑草と作物の下の土壌に降りて日中の灼熱から乾燥を防いでくれるのだとしたら、なんと効率の良い仕組みだろうか。雑草を取り除いた畑では、朝露を受ける草もなく、作物以外に陽を遮る物もなく、ただただ乾燥を余儀なくされ、結果「水遣り作業」が必要になる。「農業」=「水遣り」の一般的イメージは、「食事をすれば排泄する」くらいの常識として流布されている。森のあれほど豊かな大木が、一切の潅水を必要とせずに生育するさまを想い描けば、自然農の底力を侮ることはできない。 同時に、砂漠化のきっかけに現代農業にも一端があるのだとしたら、とも思わずにいられない。もちろん、科学的に確かなことかどうかは小生はわからないのだが。

 まだ冷たさの残る夜風にあたりながら朝露の恵みを想い、自然農のダイナミズムを考えた。
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2007年04月17日

掃討作戦

弥生一日 曇り時々雨

 菜の花が農園の畑に咲き乱れて数週間、黄色に広がる帯は畑の風物詩となっていた。自然農に触れて初めて知ったことは数知れないが、菜の花もその内の一つである。

 白菜、キャベツ、小松菜、水菜、タアサイ、野沢菜、チンゲンサイ、はたまたカブに至るまで、これみなアブラナ科の植物。これらアブラナ科の植物は、菜っ葉のうちに食べているので普段はなかなか気づかないのだが、人間がいずれは子供を授かるように、当然花をつけて種を残そうとするのである。つまりは、みな、アブラナとして、同じように「菜の花」を咲かせるのだ。


 @070407komatsuna A070407mana B070407mizuna
 C070407nozawa D070407taasai

 @小松菜 A真菜 B水菜 C野沢菜 Dタアサイ …違いわかる?


 ぱっと見ても、区別しがたいほどに鮮やかに黄色く匂いたつ菜の花たちには、見事に遺伝子の不思議さを感じさせられてしまう。

 花をつけて種が出来るとなれば、やはり自家採種したいのが百姓の性であるが、そうは問屋が卸さない。アブラナ科の野菜は、ミツバチなど昆虫によって受粉する性質をもち、その多くは交雑して、次の世代の野菜たちは異種混合のハーフの子になってしまうのだという。つまりはチンゲンサイと水菜のMIXや、白菜とカブのMIXなど、安定した種類の野菜の種を望むのは難しいらしいのだ。交配を一手に担う、ミツバチの飛来距離を甘く見てはいけないのである。


 さて、つくし農園の畑にもう一度目を向けると、一面に咲く菜の花たちを尻目に青々と元気に葉を茂らせる一群が目に入る。遅蒔きして今の時期に盛りを増す小松菜の一群だ。ここの土地との相性も良かったようで、葉の育ち方も他を圧倒して元気が良い。つまりは、この小松菜の種を採ることが出来れば、つくし農園に適した小松菜の種を手に入れられるかもしれないということではなかろうか。善は急げ。そう、交雑は待ってくれない。今まさに、蕾を伸ばし始めるこの小松菜が開花する前に農園の菜の花を刈ってしまえば、他と交雑することなく良質の種を手に入れることができる。
 そう判断したインチキ百姓は、農園に散らばる可憐な菜の花の区画のプレーヤーに協力を仰いで、週末から菜の花掃討作戦を慣行中です。このあまりにも人間本位な試みに、自然はいかなる判断を下すのか。しかし、それが農業という、人類の背負った巨大な「業」でもあるのだな。
posted by 学 at 23:00| Comment(7) | TrackBack(1) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

ご法度

如月五日 晴れ

 この週末は江南で過ごした。田んぼと畑の後始末をする週末。「焼畑」を楽しんでしまった週末。

 060305yakihata

 自然農ではご法度(優しく言えば「できればしないほうがよい」とされる)とされている農作業がいくつかある。「耕すこと」、「農薬を使うこと」、「化学肥料を使うこと」、「雑草を抜くこと」などなど。それは何故かと問えば、答えは「田畑の生命活動を豊かにする」という大きな目的に沿わないからと言えるだろうか。野菜、雑草、昆虫、微生物、バクテリア、動物、人間、という田畑にかかわる生命体がおのおの活発に生きながら食糧生産という大目的を目指すのが、自然農であるから。
 
 さて、そのご法度のひとつに、「焼畑」もあげることができる。古くから農業の重要な手法として用いられてきた「焼畑」であり、農学素人のインチキ百姓が反論しても始まらないのだが、耳学問をまとめるとこう考えられる。


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posted by 学 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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