皐月九日 曇り
いつだったか学友の家に遊びに行き、庭の片隅のちょっとした畑の中で、これでもか、と生い茂る小松菜と、ぐいぐい背丈を伸ばすエンドウ豆の苗株を見つけて、友人には気付かれないように心の中ですげえなとつぶやいたことがあった。その辺の雑誌にあった通りに肥料やって種まいて良くわからんうちにこんなに育っちゃってさ、と何気なくその小松菜を摘んで、夕飯の味噌汁にぶち込んで食べさせてくれた。
あれから数ヶ月ほどして、今の家に移って4年目を迎えてようやく、庭の一部を改良して猫の額ほどの畑をこしらえてみた。雑草と土の様子を考えて、草を刈り出してから鍬を入れ、10cmほどの深さで耕起して、適当に余っていた菜花類の種を播き散らかした。かくして、慣行農ではないものの耕起して種を播いては野菜屑を放り込む、半分自然農半分有機農のような適当マイガーデンに今、ミックスベジタブルが繁茂している。 自然農の畑であれほど苦戦しながら、育った育たないと数年も頭を掻き毟っている横で、隠れて羨ましいと嫉妬した友人の適当ベランダ農園を習った庭の畑に、モリモリと葉っぱが育つのだ。

・
原発事故以来、世の中では「安全(と思いたい)派」と「心配(をしておきたい)派」との間で、本来あるべきでない分裂がみられはじめている。そうじゃない例が多数だと信じたいが、互いに互いを白眼視しつつ、それぞれの見識の足りなさを嘆き、悲しみ、挙句の果てには罵倒してしまう。 放射能の健康被害に気を配る方たちには、不安な要素を固める情報が集まり、よりその不安な要因を拡大し強固なものにしていく。健康への影響を控えめにみる方たちは、その根拠を求めて手に入れた情報に安堵し、不安要素の声に耳を貸さなくなっていく。 「こんなに心配しているのに、どうしてあの人たちはあんなにノホホンとして無関心でいるのだろう」と、「これくらいじゃ全然心配ないのに、どうしてあの人たちはあんなにビクビクして煽り立てるのだろう」との間には、埋まらない溝が開いてしまっているかのようにみえてしまう。
しかし一度立ち止まって考えてみる。そこに架かる橋はないか。もしくは本当に溝があるのか。否、そこには両者を繋ぐ、共通の基盤が存在しているはずだ。全く違う価値観を持ってしまって互いを不快にさせるアピールしかできないないのではない。本当はその奥に共通の想いが隠されているはずなのだ。それはシンプルであり、本質でもある。どちらも、心の芯から放射能の恐ろしさにまいってしまっているということで、一致しているのだ。原発事故以降に福島原発から不幸にも放出されてしまった放射性物質に対する影響の受け止め方にこそ差はあれ、結局のところは、放射能の量がとてつもないものであったなら全員一致で「放射能コワイ」になるはずだからである。いざと言うレベルになったら全員まとめて放射能には適わないという認識の元、「今は安全」と「今でも心配」という振れ幅の中にいるのだ。その大前提の恐怖があるからこそ、その不安が妖気のごとく漂う中でどうにかして日常の安心を手にしようと、一方では「安全派」に身を寄せ、一方では「心配派」に足場を固め、少しでも自分の不安を取り払おうと必死になってしまっている。その結果、自分の反対側の人たちの言動や行為はそれぞれの安心を脅かすものとして無意識に認識され、自分の安定を守りたいが故にネガティブな感情を抱いてしまうのではないだろうか。
どっちが科学的か、どっちが現実的か、どっちが優しいか、なんてなんの意味もない。
電磁波だってこわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。農薬だってこわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。ダイオキシンだって、化学調味料だって、温暖化だって、デフレだって、少子化だって、不景気だって、貿易自由化だって、こわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。全てが、ある振れ幅の中で意見がぶつかり合っているのだ。科学的に絶対の真実などなく、選択としてどっちが現実的かなんて立場でしかなく、倫理的にどっちが優しいかなんて価値観によるだけなのだ。そんな大前提の社会の中で、しかしながら人は選択をして生きなければならないからこそ、難しさを抱えて右往左往してしまう。
とはいってもこんな「なんだってどっちだってある」みたいな価値相対主義みたいなこと言ってたって仕方がない。どんなものにも相違はある、その違いによっては時折不愉快にもなる、だけども必要なのは、その相違や不愉快の原因が解決しうるものなんだとしたら、それを突破することを創造しなくてはならない。立場や価値観でただ分裂してるんじゃなくて、もっと根本的なところで生きていくほうがいい。その先や現実を、想像し、そして柔軟に変化もしながら。
大切なのは人であって、イデオロギーではない。大切なのは魂(たましい)であって、価値観ではない。全てが同じ方向性で価値観を共有している方が、むしろ気持ちが悪い。原発反対と有機農業と憲法9条と遺伝子組み換え反対が、なんとなくセットで同じような人が主張しているのは気持ちが悪いでしょ。それよりも、「これはあいつとは意見が合わないけど、一緒にいると話してて面白いなあ」の方が大事じゃないだろうかね。
自然農をやってる人にも、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
有機農やってる人にも、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
原発推進派にだって、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
安全派にだって心配派にだって、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
それなのだから、立場とか運動とかイデオロギーで頭を固めずに、どんなことにも一つ一つを別個に考えて、問題解決型の思考で対処していけばいい。放射能についても、思う存分に不安になればいいし、思う存分に安心してもいい。感情と理性を自分自身の根拠としてフル稼働させて辿り着いた姿勢なら、それに自信を持って、その上で互いに優しくなればいい。答えがわからなくても生きるしか術はないのだから、自分が満足できるように選択してさえいれば、他人がどんな価値観を選択しようが犯されることはない。そこを見失うことなく、小さな対立をうまく乗りこなしてサーフィンしていきたいと思う。
・

自然農にとらわれずに適当に育つ、庭の野菜たちのように。ついつい凝り固まる自分の脳と体を、酒と友人たちで解きほぐしていけることを願っている。
一番大事なのは、想像力なんだ。原発の将来だって、放射能汚染での対立だって、教育だって、農業だって、環境だって、つまりは愛ですよ。想像力ですよ。そこなのよ、つまりは。自分にまだまだ欠けているのは、そこなのよね。