注)記事の日付は太陰暦を用いております

2015年01月13日

1405日目

霜月廿三日 晴れ

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 2011年3月11日から、もう、1405日が過ぎようとしている。
 
 今年の最初のBlog。何の区切りでもないし、特に深い意味はないけれど、改めて、あの時起きたこと、あの時生まれた思いを忘れたくないと、全文、当時のまま再掲載することにした。

 2011年3月16日。震災から5日過ぎた日の、そのままの言葉で。


=== 以下、過去記事「震災の先から全文転載 ===

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 2011年3月11日の大地震、大津波による大惨事は、日本人、とりわけ東日本に住む我々に心身ともに大きな爪あとを残している。今なお被災の只中にいる多くの方たちと、つくばでパソコンの前に座っている私にはとてつもない大きな隔たりがあることは間違いない。それでも、いやだからこそ、私にできることは何だろうかと考え、こうしてBlogを綴ることにした。


 「車に荷物は準備したけど、肝心のガソリンがもう半分も残ってない。どうにもわからないけど、もう少しこっちで頑張ってみる」
 福島県いわき市に住む私の両親と姉は、15日18時現在、断水とガソリン不足の中で、TVやラジオから流される災害報道、原発報道のみを頼りに、明日をも知れない不安を抱えている。全くの素人の小生が頭を真っ白にしてネットでの情報収集を重ね、13日には家族に「何が起きてもおかしくない、可能なら入院中の祖母ちゃん(筆者注:2013年に他界)もつれて俺んちに来い」と提案した。上の言葉は、それを受けて、15日に2号機での格納容器破損のニュースが報道された後の家族からの電話だった。今現在、家族は自主的な屋内退避をしながら、事態の収束を待ち続けている。

 大地震、大津波は、天災である。政府批判をしたい人は、それでもなお、災害対策への不備、初動や対応の問題など、人災でもあったと批判するだろう。しかし完璧な人知はありえない限り、完全なる対応などもありえず、つまりどこまで行っても天災の前には人間は無力だということが、少なくとも小生には確信させられた。そして、言うまでもなく「天災」とは、「自然」と全く同じ意味でもある。つまり、人間にとって自然は、結局いまだにコントロールすることができない存在なのだ。地震、津波による都市村落の破壊は、あまりにも強大で、目にした私はただただ恐怖をおぼえることしかできなかった。「あきらめる」という人間に与えられた能力のひとつを、これほど感じさせられたことはなかった。天災、自然の前では、人は全く無力であったのは間違いないのだが、その一方で、そこから立ち直るという意志だけは、天災も自然も人間から奪うことはできない。被災からの復興へ、まだまだその一歩までも遠いような惨状かもしれないが、どんなことをしても、我々人間は立ち直ってみせる。どうか、まずは心身ともに安息が訪れますことを、そして少しでも良好に生活環境が整うことを願い、共に復興させていきたい。自衛隊の方々、警察や消防の方々、救援に携わる全ての人たちの懸命の活動に、ただただ願いを託すしかない。


 原子力発電所について、論じることは私にはできない。今回の地震に発生した、たかだか一昼夜の停電で自身の電力社会への依存を痛感させられた。日本の発電量のおよそ3分の1を供給している原子力発電は、言うまでもなく日本人の生活を支えている。今現在の現状として。それでも環境分野に足を置いてきた小さなプライドとして、心情と認識では原発には反対していたが、しかし現実には、無言で承認していた。自惚れた自我が、「俺が反対したって、他の多くの日本人は電力消費社会の維持を希望している」と偉そうに考え、だったら原発を受け入れるのが現実路線でしかない、と。聞きかじり程度に原発や電力供給の事情を調べてみても、原発に代わるほどの代替発電はまだ現実的ではない、と考えさせられ、さらに巨大な政治も伴う原子力開発の波に、逆らう気力はいつも消し流されていた。

 しかし事態は、一変した。 原子力発電を推進する、崇高な使命感と優秀な科学技術力は、私は心から尊敬している。より良い社会へ、より便利な社会へ、という人間の真摯な探究心が、宇宙開発、インターネット社会、ボーダーレス社会の素地となっていることは言うまでもない。しかし、この大震災で私たちが気付かねばならないことがある。超えられないもの、コントロールできないものが、厳然と、確実に、そしてあまりにも強大に存在することを。

 福島第一原子力発電所では、今までの最大規模の災害を想定して5m(資料によっては7m)の堤防を建設していたという。しかして、この地震で発生した津波は10m以上に達してしまった。地震と津波による連鎖的な事故によって、戦後最大とも言える原発パニックが福島の現地のみならず東京を中心に日本全国を襲っている。では避けることはできたのだろうか。堤防は20mだったら良かったのか、自家発電所を分散していたら良かったのか、海水投入を早めていたら良かったのか、対策は無数に考えうる。しかし全ては想定よりも大きな災害が訪れれば全てのシナリオは無に帰する、それだけは確かなのである。これまでの対策、これからの対策を百万遍考えるよりも、今この危険な現場に文字通り決死の覚悟で作業にあたっている方たちの無事と成功を、どんなに祈っても祈りすぎることはない。研究者、技術者、実行者、全ての知力体力を総動員して、どうか、我々日本人を、日本国土をお守りください。どんな言葉も屑に聞こえるほどの、命を懸けた闘いが行われていることを、感謝し応援するしかない。それ以外の地域にいる我々は、その現実をふまえて、日常を鑑みるしかない。


 我が家の上水は井戸水、電気ポンプで汲み上げている。通電すれば、断水地域よりも優先して水が使えるはずであったが、地震で配管が折れ、16日現在生活配水が使えずに友人知人に頼っている。便意に関しては幸い、庭先、裏庭に余裕があるため、大小に関わらず大地に排泄している。言葉を選べば、自然へ循環させている。南米旅行以来のサバイバルだが、節度を持って穴を掘り、枯葉やチップ屑を被せて、尻を拭いた紙のみゴミ箱に持ち帰っている。まさかの事態ではあったが、蚊のいない季節でよかったと思う程度でそれほど抵抗感はなかった。意地を張って言ってみれば、正体不明の開放感と充足感がみなぎってきた。便利ではないし、解決策ではないのだが、何かが損なわれるわけではなく、考えてみれば、現に飼いヤギの粟子は常に大便小便を大地に垂れ流しているのだ。
 震災当日の停電中の夜、公衆電話を求めてつくば市内を自転車で疾走した。全ての人工光が視界から消え、七日月の淡い月光と、星座の明かりが頭上を照らしていた。わずか150年程前の日本各地には、そんな夜が実際に存在していた。夜は、月明かりと星の光と、わずかな行灯程度で照らされ、無音と虫の声だけが支配していたはずだった。
 都内で地震にあった友人は、麻痺した交通機関に足止めされ、一晩を過ごした後30kmを歩いて帰宅していた。運悪く数日前にマイカーを廃車して、車を失っていた小生は、地震以降どこに行くのにも自転車である。ガソリンスタンドへの行列、車に商品を詰めるだけ買っている人たちを横目で見ながら、自転車で運べる程度の食料を買うしかなく、飲料水は車を持つ知人に分けて頂いた。
 震災から一晩明けたつくば市内では、恐らく停電でテレビもゲームもできない子供達が、芝生畑でサッカーやキャッチボール、凧揚げをして遊んでいた。普段はなかなか見られない、外で遊んでいる光景だった。震災報道を離れ畑でジャガイモを植えてみると、時折の余震を足裏で感じる以外は、おそらく何千年も変わらない農地と百姓のただの日常が広がっていた。


 今の文明があって、今の経済水準があって、はじめて存在意義を見出されている自然農。ただ昔に戻ることではない、「自然」と「人間」のバランスを問い直される時代にあってこその、思想であるはず。現代医学は、生物科学は、無機物から生命を作り出すことを今だ到達できないし、今後も、複製はあっても、改良はあっても、創出はできないだろう。原子物理学、機械工学は、宇宙の研究と膨大なる実験の末、人類に比すれば無限ともいえるエネルギーである原子力を手に入れた。しかし、自然の気まぐれは、その原子力の操縦を、人類から容易く取り上げることとなった。自然は、コントロールできないのだ。人類の知性は、そのコントロールの完成へ99%まで近づくことはできるのだろう。自然を理解し、操縦し、人間の思うように利用することは、文明の積み重ねによってほとんど完了しつつあるように思えていた。しかし、そのバベルの塔は、不幸なことに今この日本で崩落してしまった。我々はきっと、またバベルの塔を再建できるのであろう。以前よりもさらに高く、以前よりもさらに装飾しながら。そしてその塔は、おそらく今回の震災よりもはるかに大規模な被害をもって、我々の上に倒壊してくるに違いないのだ。
 
 自然は、コントロールできない。資源エネルギーは、無限ではない。地球は、人間の存在よりもはるかに大きい次元で存在している。その限度のある器の中で、人類がどうにかして生活していくには、その有限性をどうにか理解し、ある程度の利便性でリミッターをかけ、その中で満足を再生産していくしかない。 インターネットは、Twitterは、YOUTUBEは、人類の空間的自由を広大に広げてくれている。様々な科学技術が、今我々が享受するあらゆる便利さを支えている。それらを過度に失うことなく、それらを無限に追い求めることなく、どこまでが自然とバランスが取れるリミットなのか思考していくこと、それが今からできる最大の災害対策なのではないだろうか。 自然災害は、どんな堅牢な堤防もいずれ必ず突き崩す。 我々にできることは、コントロールできないものに手を出さない、たったそれだけのことなのだ。遺伝子組み換え作物の、人類に対する生物的作用の害の有無は判断はできない。しかし、組み換え作物の自然界への拡散によって起こるかもしれない生物多様性への悪影響(良影響かもしれないが)は、コントロールする術がない。原子力発電が担う電力は、確かに今の日本の産業と社会を支えている。しかし、今回の地震でかろうじて最悪の事故に至らなかったとしても、それを上回る震災が起きる可能性がある以上、原発事故による放射能汚染を防ぐというコントロールは、人類には不可能である。
 原子力で生み出された電気による、LED光とポンプ水循環で栽培された野菜を食べて、エコ野菜っていったいなんなのか。それが太陽光発電ならいいのか。風力ならいいのか。是非は、それぞれ個人が選択するだけである。その自由と責任が我々にはある。どんな社会を求め、どんな未来を求めるかを考えるのならば、そこには必ず、どんな自然環境のもとで人類は存在を許されるのかということを想像しなければならない。

 田舎暮らしなんかしなくていい。自然農なんかしなくていい。電気使う生活から、途中下車なんてできるはずはない。ただ、後始末できないものにまで手を出すべきではないことを、今まさに、それぞれが考える時が来たのではないかと思う。 原子力を即否定することで満足してもしかたがない。今、原発に少なからず支えられている現状を認識した上で、いかに自分達が納得できる文化、社会、経済を志向していけるか。化学肥料と農薬、除草剤、長距離輸送に支えられた食料生産に頼る、大量消費と大量廃棄を続けるのが豊かな社会なのか。金融商品で外貨を稼ぐのもいいし、インターネットで情報配信してもいいし、どんな商売でも優劣はないのだが、自然環境を疎かにし大地から足を離して、動物植物を食べずに生きることはできないのだ。ぼんやりのイメージでも、あいまいな選択でも、今はまだいいのかもしれないが、だがしかし、この震災をきっかけに日本人がどんな未来を描いていくか、それは我々一人一人に明確に課せられようとしているのは間違いない。

 核爆発が起こって死の灰が関東地方に降り掛かるようなことは、落ち着いて情報を精査していけば起こらないはずだと、今の私は導くことにした。最悪の事態による爆発で、たとえ放射性物質が関東地方の上空を漂っていたとしても、それが、死への階段、日本の崩壊とは考えられない。しいて言えるとすれば、それは我々が制御不能の技術を過信し、または判断を放棄したまま電力行政を受け入れ、利便性を追い求めた末の受け入れるざるを得ないリスクのはずだ。被曝の不安は確かに不安でしかなく、健康被害や後遺症などへの心配は減らせるものではないが、66年前、はるかに強力な放射線が注がれた原爆被害を、我々は既に乗り越えている。核の汚染の恐怖は、恐怖には違いないが、その恐怖は永遠ではなく、かならず過去のものとして進むことができる。

 地震と津波は天災だが、原発事故は、天災と人災のミックスである。そのような天災と人災のミックスを引き起こす種は、今の世の中の裏に表に本当に様々な分野に存在しており、原発事故のように個別にわかりやすい例はむしろまれである。だとしたらそれを見抜いて選択していくには、その技術は、その商品は、その便利さは、いったいどのようにして作られ、どのような対価と代償をもって届けられているかを知らなければならない。そして我々はそれを知った上で選択し、生産し、また消費していくしかない。その小さな繰り返しこそが、破滅的な人災のリスクを避ける、唯一の手段なのではないだろうかと思う。

 
 愛しい人、家族、友人と共に、笑顔で暮らし、知的にも身体的にも欲求を追及でき、暴力事件が最低限に抑えられるような社会が営めれば、それでいいと思っている。その欲求のパンドラの箱の管理を、他人に任せるのはやめにしませんか。そりゃ楽して、気持ちよくて、好き勝手して楽しんでられたらいいんだけど、それを続けていたら、被曝の恐怖などに右往左往する今のこの状態がいつかまたやってくる。果たしてガソリンに頼り過ぎない社会、電気に頼り過ぎない社会へと、少しずつ離陸することは可能なのだろうか。政治も、経済も、科学も、娯楽も、ここいらで一度、皆立ち止まって考えてみてはいかがだろうか。

 生活物資、燃料、給水、衣食住にわたり、被災地域の生存者はこんな将来の話では済まされない、明日をも知れない状態にある。まずは国内の総力を挙げて生命の、生活の維持を確保していただきたい。刻々と事態が暗転する原発も、信じられないほどの使命感を背にした現場作業員の努力で、どうにか最悪の中の最善の事態へ導いていただきたい。プロフェッショナルの方たちに身をゆだねるだけの自分をどうか許していただきたい。この苦境を乗り越えた先に、実際の日常をどのように選択していくかが、我々被害を免れた一般市民の、できうる限りの行動なのだと信じて。

 原発の日本での現状を、自分ごととして。
 エネルギーの選択を、自分ごととして。
 将来の選択を、自分ごととして。
 運動とかデモとかそういうものよりも、生活の中で自分ごととして考えていくことが本当の変化に繋がると信じる。


 つくば市の放射線量が安定している今日のうちに、ひとまずチャリンコ飛ばして献血行ってきます。

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=== 以上 (電力事情など、現在の認識とは異なる箇所も多少ありますが、当時のまま掲載しました)===

第六十八候: 小寒次候
【 水泉動(しみずあたたかをふくむ)】
=地中で凍った泉が動き始める=
 (新暦1月10日頃〜1月14日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


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2014年11月28日

家族

神無月六日 晴れ
 
 夫婦と家族は違う。明確にそう思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 先日、小生の両親が、孫の顔を見に我が家を訪れた。孫を喜び、あやし、外食し、そしてまた実家に帰っていった。TVもない我が家での時間は両親にとってはどこかしら手持ち無沙汰であり、退屈であったようだが、孫と過ごしたからそれだけで満足はしたようで、また年始に会う雰囲気を共有して、するりと帰っていった。
 
 息子の自然農の畑にはさほど興味もわかず、娯楽はほとんどないが絵本だけはアホみたいに並んでいるリビングの子供本棚にも目も向けず、なんとなく過ごし、それでいいのだ。

 おそらく両親たちは私たち夫婦の選ぶ暮らしに対して、幾ばくかの(きっと大いに)違和感を感じているだろう。我々も、愛情の表現として常に「何か買ってあげる」と消費に向かう両親の好意などに、幾ばくかの違和感を感じ、しかしありがたく受け取っている。そこには、違和感もあり、それと同時に、理屈を超えた共有感が確実に存在している。

 きっとまた年始に、子供を連れて実家に帰省し、同じような違和感と共有感を楽しんで過ごし、そうして家族の思い出が積み重なっていくのだろう。そして同じことが、我が子たちと私たちの間にも、きっと繰り返されていくのだろうと思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 かつて、共同体としての継続、繁栄を目的に、家と家のつながりを最優先に交わされてきた夫婦であり家族という時代があった。その頃、社会では、おそらくその二つは重なり、同類の概念で育まれてきたはずだ。

 現代、そしてこの国で、恋愛を含む、個人間の契約という性格がほぼ大半をしめる結婚という結びつきにおいて、夫婦と家族が同じ括りにあるとは思わない。
 夫婦とは、出会いがあり選択があり葛藤があった末の、「一緒に暮らす」という合意を経た共同生活者である。一方、夫婦以外の家族、つまり父であり母であり兄弟であり子であるいわゆる血縁者とは、合意なしに強制的に(ある一定の期間を)「一緒に暮らす」ことを余儀なくされた共同生活者なのである。

 その意味では夫婦とは、曲がりなりにも、趣味や性格や価値観などで、あるレベルの共有が前提であるため、かつ自身の選択も背景にあるので、「一緒に暮らす」ことは意思と責任が伴い、多少のすれ違いや違和感があったとしても乗り越えていける理論的な根拠が存在する。

 しかし夫婦以外の家族はそうではない。そもそもが個性としてそれぞれ別個である個人個人が、たまたま血が繋がっているというだけで「一緒に暮らす」ことを社会的に強制されているに過ぎない。その共同生活には、価値観の共有や性格の一致などの、一般的に心地よいとされる人間関係においての前提条件が、実は存在していない。そして、このことを指摘することは、なにかしらのタブーのような雰囲気があり、そこまで取り上げられることは寡聞にして多くない。
 
 それでも、家族は家族である。そして、だからこそ、家族なのである。

 
 それは、「愛」だから、ではない。愛ももちろんあるだろうが、今ここで、そのことについては触れるつもりはない。
 当たり前ではあるが、家族だからといって、価値観も、性格も、趣味嗜好も、決して同じなわけではない。それどころか、「どうしてこの親から自分が?」「父親のあんなところはどうしても我慢できない」「兄弟でどうしてこんなにも性格が違うのか」など、家族間での違和感を感じることのほうが、共有感よりも多いのではないだろうか。

 それでも、この両親に生を受け、育てられ、ともに暮らし、そして子を授かり、育て、暮らしていく。そこに、理由はない。その理由は、家族だから。


 その「家族だから」という言葉に、理屈や説明や理解を吹き飛ばすような力強さがある。

 一人一人にとって、家族は全く違う意味をもって存在している。大好きで、仲良しで、性格も似ていて、一緒にいて何の苦痛もない家族もあるだろう。離れていても、思えば懐かしく愛おしく感じ、時々声も聞きたくなるような関係もあるだろう。一緒に暮らしてはいるが、顔を合わせれば文句を言ってしまったり、無言ですれ違い、歯車が合わないような家族もあるだろう。性格が合わないし、会えば不平不満を言ってしまうが、なんとなく助け合っている関係。1年に何度も電話もしないのに、正月は必ず実家で過ごす繋がり方。

 そのそれぞれの家族のあり方に、実は、価値の優劣はない。なぜなら、先に述べたように、夫婦間とは異なり、血縁関係の家族とは、社会として有無を言わさずに自分の選択なしで「強制」された共同生活者であるという性格があるからだ。

 家族と仲良しなことに明確な理由もなければ、仲が悪いことにも明確な理由はおそらく存在しない。それは、たまたまであり、運であり、あるいは努力もあり、愛でもある。家族関係を良好に継続にすることは、個人で選択できるが、そもそもの個性の差異については、選択できるものではないからだ。

 だからこそ、私たちは家族関係に悩み、憂い、喜び、安堵する。それはその人にとって本当に大切なテーマなのだけど、実は、思い切って宣言してしまえば、家族なんて、ただの血が繋がってるだけの他人だと言ってもいいのだ。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 つい今年の夏まで、自分はなぜ、あの家族の中で育ったにもかかわらずここまで趣味嗜好行動選択の異なる個性が生まれ育ったのだろうかと、どう考えてもわからなかった。それがこの夏、何がきっかけだったか詳細は忘れたが、自分という個性がこの家族だったからこそ確立したのだという確信にたどりつくという大転換が起きた。

 親友とのたわいもない(いや、結構ディープなトークかな)対話の中で、母親の「ありのままスキル」が異常に高いことに気がついたことがあった。教育や子育てに対して何かしらの哲学や理念がきっと深くはあるわけではない母であったが、彼女はおそらくありのままで私に接していた。自分がしたいことはするし、合わないことはしない、世間に流されもするし、不平不満も言う。美食も楽しみ、教育ママにもなり、夫に従いもし、口げんかもする。当たり前のような気もするのだが、そこで自分を抑えて理想の母親らしく振舞おうとしたり、夫の顔色を伺いすぎたり、子供の機嫌をとったり、という母の姿を目にした記憶がない。自分がきっと母から受け取ったバトンは、その「ありのままスキル」なのだった。一般企業を退職し、自然農を隣に置いた暮らしをし、世間一般の価値観にそれほど気を置かずに、そのお陰で今の多少でも幸せな自分が彩られているのだとしたら、それは、母がいたからこその、母がありのままで自分を育ててくれたからこその、私なのである。価値観や趣味嗜好に、断崖のような壁があったとしても。つい最近まで、公務員就職の夢を息子に抱いていた母だったとしても。

 それまで母と自分を個性の異なる理解しがたい血縁者としていたが、以来、この母にして我あり、という奇妙な連帯感も(勝手に)生まれている。そして同時に、以前とほとんど変わることなく、価値観の違いにモヤモヤしながらの、親子関係(家族関係)が続いていくのである。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 あらためて話すほどのこともない気もするし、しかしよくよく考えてみれば無限に話すこともあるような気もしてくる、「家族」についての思い。

 そんな「家族」をテーマにして、12月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」を過ごしてみます。誰にでも当てはまるテーマだからこそ、あらためて話して、聴いてみたい。そんな方、お待ちしています。

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photo image taken by ikki


第21回 話す・聴く・気づきのワークショップ
=2014年12月20日(土) 開催=

 今回のテーマは【家族 (親子・夫婦・一番近い他人)】です。
 参加者募集しております。



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2014年03月12日

いわきノート

如月十一日 晴れ

 
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 2014年3月11日。いつもと変わらず、温もりの縁側で自分は事務仕事、娘は絵本の午前中を過ごし、午後、畑に野良仕事に出た。妻はパート仕事で出稼ぎ中。畑には、冬眠から起こされた蛙が土からもそりと這い出してきた。

 3年前の3月11日の14時46分は、暖かい午後の陽射しが入る部屋の中で、パソコン仕事をしていた。そろそろ畑に出ようかとしている時に、地震に襲われた。翌日からの放射線を気にしながらの畑仕事では、余震にたびたび揺らされながら種播きしていたことを思い出す。

 あれから3年。夕方、パートから戻った妻と共に、家族3人で映画「いわきノート」の上映を観にでかけた。筑波大学の学生と映画配給会社が協力して作成した、震災後のいわき市を撮った映画。いわき出身で筑波大OBの自分が見ないわけにはいかないと、今回の縁に感謝して、足を運んだ。

 映画は、シンプルな、震災から2年半過ぎたいわき市に住む市民の声を集めたドキュメンタリー。そして、震災後の全ての日本人に直球に届けられる、ありのままの、ただの生きる人たちの姿。その86分間を観て、何を感じ、何を想い、明日の何に繋げるか、今の自分にどんな種を播くかかを問いかける、地に足の着いた佳作であった。

 皆さんも、まずは観て、そして、震災後の今の自分に、日本に、種を播いていってほしい。

 
  映画「いわきノート」 ⇒ 詳しくはこちらから

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2014年02月14日

十年一日

睦月十五日 雪

 驚くことに、十年が過ぎた。

 当時Blogというネット素材が今ほどまでに普及する前(すでに今はFacebookなどのSNSが優勢かもしれない…)の2004年、「毎日が自然農」のBlogは産声を上げた。脱サラして一年後、山羊牧場での研修を終えて、縁を頼りに埼玉県の江南町に居を構え、何はともあれで自然農の毎日が始まるのにあわせて、日記気分で始めたのがスタートだと記憶している。日記サイトよりも気軽にアップできるのが良いと、流行り好きの友人を参考に、Blogをスタートさせることにしたのだった。
 血気盛んに、何も知らないままに、お借りした小規模の畑に「武蔵野農園(仮)」などと名前もつけ、コンビニバイトに精を出しながら、がむしゃらに鍬をふるっていた。

 >『始めの一歩!』 (「毎日が自然農」2004年2月6日)
 >『つづく開墾作業』 (「毎日が自然農」2004年2月22日)
 
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埼玉の畑に立ちて 【2004年2月6日@埼玉県熊谷市江南】



 八年前の2006年、わずか二年ほどのトライアルを経て江南を離れ、つくばに拠点を移し、いよいよ「つくし農園」を開園する。つくばに引っ越す数ヶ月前には、「つくし農園」のBlog(スタート当初は「つくば"自然農"スタイル開拓史」と名乗っていたのね…)も産声をあげ、何も決まってないままにメンバーを募集するという(そしてBlogでしか宣伝していないにも関わらず、参加希望者から問い合わせがくるという)、はちゃめちゃな展開を経て、雑草屋としての活動が本格スタートしたのだった。

 >『第一歩』 (「つくし農園のススメ」2005年12月1日)
 >『いざ出陣』 (「毎日が自然農」2006年1月9日)
 >『開墾』 (「毎日が自然農」2006年3月15日)


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つくばの田んぼを開墾前に 【2006年3月15日@茨城県つくば市吉瀬】



 あれから、再び活動拠点を(つくば市内で)移動し、今の住みかと田畑に根を下ろしてはや六年。この春からはこの地で七年目、自然農十一年目、のひとめぐりが始まっている。

 二週続きの雪に埋もれながら、明日の集合日(8日→9日→15日と順延続き)も翌週に順延になるのか!とモンモンモン。十一年目の春を前に「何事も予想通り行くと思うな」と自然が諭しているのだと解釈しつつ、久しぶりに十年一日を思い出してみたのだった。ブルブルブル!武者震いするねえ!
 

第三候: 立春 末候
【魚上氷(うおこおりをいずる)】
=温かくなった水の中に魚の姿が見え始める頃=
 (新暦2月14日頃〜2月18日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


 とはいえ、今日もこの雪ですけど!!
 
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雪の田んぼに桑の蕾を見つける 【2014年2月14日@茨城県つくば市玉取】

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2013年02月09日

ご先祖さま

師走廿九日 晴れ時々曇り

 大晦日です。三十日(みそか)ではないけど、明日は月が朔となり、旧暦睦月の一日となるので、廿九日でも大晦日。

 しんしんと、しんしんと冷える夜。江戸時代以前の我々のご先祖さまたちは、この気候、この季節の中で新年を迎えてのだと思うと、逆説的に今は新暦で新年を迎えてしまっているからこそ、想いをはせてタイムスリップしやすいような気もしてくる。いったい爺ちゃんの爺ちゃんの爺ちゃんは、どこでどんな新春を迎えてたんだろうか。門松でも飾ったのか、餅でもついていたのか、それともそんな風習知らずの山深くで暮らしていたのだろうか。
 旧暦は月の暦であるので、大晦日は必ず新月の日の前日。大晦日の夜は月のない、暗闇の夜である。日が沈み、灯りもなく、囲炉裏端で暖をとり、家族で夕餉を迎えて、冷えた床に眠る。そしていつものように朝日と共に目覚め、もちろん餅など高級品で、それでも隠して醸したお屠蘇などを瓶から酌んで正月を祝ったのだろうか。

 つくし農園の2013年度のスタートの集合日を終え、暖房をつけた部屋で大豆を袋詰めしながら、そんな遠くて近い我がご先祖様を思い浮かべていた。

 いやあ楽しいね。こうして暮れて明けて、新春を迎えようとしています。

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2012年12月11日

記憶

神無月廿八日 晴れ
第六十候:小雪末候
【橘始黄(たちばなはじめてきばむ)】
=橘の実が色づきはじめる=
 (新暦12月2日頃〜12月6日頃)

第六十一候:大雪初候
【閉塞成冬(へいそくしてふゆとなす)】
=天地の気が塞がって冬となる=
 (新暦12月7日頃〜12月11日頃)

※今年から七十二候を取り入れてみました※


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 ここ連日、氷点下の朝を迎えている。二十四節気は大雪を迎え、午前は良く晴れ、午後は風が吹き、しんしんと木も草も土も凍み乾きだす。野良仕事や野辺のひと休みに焚き火が似合う季節になってきた。マッチをすり、乾き木をくべ、火の育つ姿を見て手足を暖める。火が産まれ、消えていくまで腰を下ろしながらしばし体を休めていると、古来より人類はこうして冬を乗り越えてきたのだろうか、少しばかり原始的なセンチメンタリズムが体に呼び起こされてくる。茫としながら火を眺め、膨大な過去の人類の時間を思いやる。人は季節に応じて体を動かし、作業をし、食を取り、喜びを見つけ、生きてきた。時間は、世界は、自然とともに、気候とともにあった。その記憶は今はどこに消えてしまったのか。どこに隠れてしまったのか。文明にどっぷりと浸かって毎日をある程度快適に過ごすテクノロジーを手に入れ、そうして人類は、日々の喜びに近づいただろうか。病になるために生活し、憔悴するために仕事をし、生き急ぐために時間を惜しんではいないだろうか。

 そんな問いが現実にはさして意味がないことも分かっている。後戻りができないことも分かっている。しかし、火を眺めている内に体の奥で灯りはじめるような、原始的な感覚に耳を澄ますことは不可能ではない。それが現代社会に必要とされるかどうかはわからない。しかし少なくとも自分にとっては決して忘れるべきではないと、木枯しに乗って時間の記憶のようなものが、背中に吹きつけるのだ。夏の焦がすような炎天にはない、孤独感の強いこうした冬の訪れに、小生は時々何かを思い出したように、ワクワクしてしまうのだ。

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 それが、ただの風邪に罹患した諸症状の表れなのかもしれないとしても。
 ワクワクがゾクゾクの勘違いなのだとしても。

 やばい、鼻水が止まらない。

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2011年08月31日

故郷の盆

葉月三日 曇り時々雨

 盆にふるさとのいわきへ帰り、祖父母の墓参りと重ねていわきの被災地へ足を運んだ。帰省から半月ほど経ってしまっているが、なるべく私情を挟まず、訪れた地をその日の時系列のままに写真とともに記載することとする。(写真は全て、クリックすると拡大表示されます。)

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 出発前。父がアルバイトで相馬市での現場仕事に就いているため、我が家に放射線カウンターが備えられていた。中国製のその機械は、居間の食器棚の上に置かれ、0.23μSv/hを示している。目まぐるしく数秒ごとに数値は動いていたが、この数値がこの時間帯ではほぼ最大値であった。庭もほぼ、変わらぬ数値であることが確認された。


 家のある小名浜から北上し、小中学生時代に海遊びに出かけた、永崎、江名、豊間を海岸線に沿って車を走らせた。港町に印された被害の爪あとを目に焼きつけるしか術はなく、浮かぶ言葉が見つからぬまま、美空ひばりの碑で名が知られている塩屋崎灯台にほど近い海沿いの集落に車を停めた。津波によって破壊された家や既に取り壊されて基礎のみが残された跡地が、茂る夏草の中に並んでいる。

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 道路からの光景。家の向こうは海。通りから見える家の壁には、「解体撤去」の意向を伝える記述がある。

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 戸窓を失った家屋の中には、生活の名残りをそのままにした食器類や家具類が床板の上に散乱している。奥は砂浜。堤防が破壊され、黒い袋の土嚢が応急の防波堤として並べられていた。

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 土塁の防波堤を越えると海岸線が広がっている。小生が子供の頃に訪れた海水浴の風景は今年は見られない。岬の上には塩屋崎灯台が臨む。


 灯台を過ぎ、薄磯地区へ。海に面したこの地区は、津波によって町のほとんどの家屋が壊されていた。豊間中学校の校庭に山積みに築かれた瓦礫の岡は、屋外プールにまで迫っている。生徒の姿はもちろん、住民の生活する様子はほとんど想像できない。瓦礫屑のあまりの存在には、撤去という言葉すらまだまだ現実的に考えることが難しそうに思われてしまう。

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 瓦礫の奥に見える校舎の時計は、17時25分のあたりで止まっているようだった。津波のせいなのか、停電のせいなのか、もしくは単なる電池切れなのかは、小生にはわかるよしもない。

 
 北上を続ける途中の県道に、セブンイレブンが営業していた。恐らく津波によって四方の壁を流され、店舗としてほぼ機能不全であるにも関わらず、移動販売のトラックの中には冷蔵・冷凍商品が並べられ、店舗の中には野菜や雑貨類が手販売で陳列されている。

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 普段のコンビニとは縁遠い、生鮮野菜がダンボール箱で売られている。がらんどうの天井には、「がんばっぺ とよま」の掛け幕が下げられていた。

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 タバコも、おにぎりも、サンドイッチも、アイスも、店主の意気とセブンイレブンの協力体制によって街道の往来客へ用意されている。外壁が失われた店内の中で笑顔で迎えてくれた店員さんの制服姿が、鮮烈に印象に残っている。

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 誰が置き、描き始めたのかはわからないが、傷跡の残る公衆電話の横に立つ「がんぱっぺ いわき」と書かれた石のようなオブジェ。その奥の店舗の中には、写真やメッセージが並べられた寄せ書きのダンボール紙が立て掛けられていた。


 同じように痛みが残る街道沿いを走らせながらいわき市をさらに北に抜け、国道6号線で行けるところまで車を進めてみた。東京電力広野火力発電所のある広野町と、その北の楢葉町との町境にある「Jヴィレッジ」の入り口で、警備員の方たちによって国道は封鎖されていた。福島第一原発までおよそ20kmのところで、車を引き返すことになった。

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 持参した放射線カウンターを数分ほど手元で確認すると、最低で0.24μSv/h、最高値は0.71μSv/hを示した。


 Uターンして、市内を国道6号に沿って南下する。津波の後に火災が広がった久ノ浜駅周辺を過ぎ、四倉へ。震災以前は国道沿いの道の駅としていわきの新鮮な山海の幸を扱っていた「道の駅 よつくら港」

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 港に面したこのエリアには、津波で打ち上げられた漁船が空き地にまとめて並べられ、海に戻ることなく風雨に晒されている。漁船の並ぶ隣の空き地には、恐らく同様に津波によって破損した乗用車がむごたらしい姿で集められている。

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 道の駅では復興を願って屋台、フリーマーケットのテントが並び、多くの市民で賑わっていた。店舗の中には残念ながらいわき産の新鮮な海の幸は並べられていないが、野菜や果物、加工品を扱う人々の顔は明るく、売り子の声が高らかに響いていた。

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 店舗の前の催事スペースに、震災犠牲者の方々に手向ける碑が祀られている。主催者からの呼びかけで菊の花が手渡され、訪れた市民が顕花とともに祈りを捧げていた。


 いわき市の中心地の平地区から南に下り、住宅地として拓かれた中央台へ入る。震災後、もともと開発予定地とされていた地区に、避難者用の仮設住宅が用意されたという。プレハブ式のモノではなく、地元の住宅会社の意向によってらしく、木材を使用した仮設住宅が広大に建てられていた。

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 仮設住宅での被災した方たちの生活を想像することは易しくはないが、外観として木材の住居が与えてくれた、存外の暖かみに小さな感動を覚えた。


 中央台を離れ、結果いわき市北部の海沿いを一周して、小名浜へ戻った。港湾都市として栄えた時期ははるかに過ぎ、漁港と水族館の町としてこの20数年を迎えていた故郷。シンボルとしての水族館「アクアマリンふくしま」は津波により大きな打撃を受けたものの、7月15日に再オープンを実現させた。周辺の魚市場、物産店も大きな被害を被り、従来の観光客がまだまだ望めない状況は厳しいものの、それでも少しずつの歩みを止めずに前を向いて進んでいる。

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 周囲の土産物店舗では「11月完全再オープン」の表示が掲げられていた。漁港の水揚げは、つい先日に遠洋漁業としてカツオの初揚げがされたばかりの小名浜港。福島第一原発の影響による規制がいつあけるかは誰も予断はできないが、地元の人々は、いわきでとれる海の幸を心待ちにしている。

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 実家の自家用車に張られたステッカー。故郷の全ての人たちの思い。

 その夕、送り火を祖母の家の前で焚き、今年の盆に里帰りされた人々をせめてもの気持ちでお送りした。明日から9月。気がつけば震災から、半年を迎えようとしている。
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2009年03月05日

モゾモゾ

如月九日 【啓蟄】 晴れ


【啓蟄】…陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也(暦便覧)
     ★雑草屋的季節分布★ 冬:春=6:4

     啓蟄とは、土の中で縮こまっていた虫(蟄)が
     穴を開いて(啓いて)動き出す日のことです。
     この時期は、一雨降るごとに気温があがってゆき、
     春に近づいていきます。日差しも徐々に暖かくなってきます。
     ※読み:ケイチツ
     <参考:日本文化いろは事典 & こよみのページ



 雪と曇りが明けて、晴れ日を迎えた。虫がモゾモゾの頃、それが啓蟄。虫と共に、インチキ百姓もモゾモゾと土を這い回る。今日はネギの苗を植え、カブ、ニンジン、小松菜、ラディッシュ、春菊の種を播いた。順々に、作業は慣れだし手際が良くなるようでもあるが、作付する畝ごとに雑草や土の表情が異なるので、やはりその畝に合わせて按配して進めることになる。手間だが、まあなんというか、世話が焼けて可愛いようにも思えてくる。これが農繁期突入するとイイカゲンうんざりさせられるわけであるが。

 さて、お昼もすぎて厚手のインナーを一枚脱いだ頃、雑誌取材のライターさんとカメラマンさんが畑に到着された。「キャリアガイダンス」という、高校の先生(及び高校生)向けの、リクルート社の進路情報誌。いよいよ世の中も高校生にインチキ百姓暮らしを進める日が来たかというわけではなく、「環境を護る仕事」特集の中に取り上げていただくとのこと。なんか説明調だなこの文章。

 といっても高校生に対してナニカ、などと普段考えたこともないので、ライターの、いのうえさんが質問されることにそのまま答えるだけ。こういう場ではよく、自然農を始めたきっかけは、というところから始まるのでいつもは前職や大学時代の話が多くなるのだが、今日は自然と高校時代へも話が遡る。何も考えず、いや何かをモンモンと考えてはいて、その中で目の前の、自分を投影できうることにのみに「はっちゃけて」、それでも、漠然と将来へと漕ぎ進んでいたようには憶えている。その何も形にならない徒手空拳が、大学、就職を経ながら血肉になってきているような気がしないでもない。

 雑草屋での毎日の業いが、環境を護る仕事かどうかは解らない。そもそも「自然環境とは何ぞや?」という問いを小生に叩き付けてくれたのが自然農であるのだから。護るべき自然環境とは何ぞや?人間と自然環境とは何ぞや?それを問いかけながら生きていくのみではあるが、そんな問いを死ぬまで続けられるのだとしたら、それはとてつもない贅沢ではある。

 いのうえさんから取材後にメールをいただいた。

 「小松さんのお話をうかがっていたら、
  自然農と言うのは、大地と人間が二人三脚で、
  互いの力を引き出しあいながら、生きていく姿のような気がしました。
  で、それが、環境と関わるってことの
  本来のような姿のような。 (抜粋)」

 
 そうなのだとしたら、ちょっと、美しすぎますな(笑)。いやはや。こちとらモゾモゾしてるだけですから。はい。

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2008年12月14日

景色

霜月十七日 雨のち曇り

 気持ちの好い脱穀日和となった集合日から明けて翌日、つくばはいつもに増して冷たい雨の朝を迎えた。前日に参加できずに日曜日に作業予定していたプレーヤーの方にとっては、新米が遠のく残念な雨になってしまった。

 雨が上がった遅い午後、農具のチェックと米の様子を見に畑に出直した。ふと、昨日とはうってかわって冷えた空気の中に、筑波山がぐっと近くに迫ってくるようにあらわれた。

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 いつもより少し早いような、筑波山の雪。紫峰の別名を持つ筑波山は、文字通り冬の季節を迎えて色を紫に変える。畑に遊びに来たプレーヤーさんたちも、脱穀中止に肩を落としながらも筑波山の淡雪景色を楽しんでいた。
 
 夜、大学の先輩諸氏と夕食。自然農にちなんだわけではもちろんないが、名前に「耕す」の字や「木」や「花」のつく先輩たちと、さっぱりと話した。皆さん、興味だったり必然だったり家族だったり理由はあれど、想いをもって仕事してる話はやっぱり気持ちがよい。愚痴だったり、思い出話だったり、学生の頃のバカやってた糧が、それぞれに血肉になっての今でもある。その頃も、筑波山の頂には雪が被っていたのかもしれないのだが、呆れるほどにそんな情緒ある景色の記憶は残っていなかった。10年以上を経て、山の景色を日ごとに眺める暮らし。やれやれ、今の自分など微塵も想像していなかった自分がいて、さてこの10年後にはどんな景色を眺めているのか。

 いよいよもって、面白く。
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2008年07月01日

7月1日に生まれた男

皐月二十八日 曇りのち晴れ

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 13年前の夏、確かに自分はこの道を自転車で滑走していた。早朝からの作業を終え、数ヶ月ぶりの献血を済ませた午後、つくばセンターから大学を北に貫通する歩行者自転車専用道路(通称ペデストリアン)を歩いた。つくば駅からペデストリアンを北上すれば、大学の終点の先は我が家が目の前である。午後の早い時間から、帰宅途中の小学生に混ざって大学からつくば駅に向かう自転車の学生を多く目にし、今日の日付を思い出した。7月1日はひょっとしたら夏休みなのかもしれないと。1995年に筑波大学に進学した夏、同じようにこの道を何を思うでもなく自転車で往来した自分がそこにいた。時間は過ぎ、人もまた過ぎた後に、何が変わり何が変わらないのかを知りたくなり、家路の途中にすれ違う無数の学生一人一人の顔を追い掛けていた。そしてその面構えは、何も変わりはせず、そして自分もまた、変わってはいないのだった。

 7月1日、筑波大学時代の恩師である故秋野豊先生の誕生日である。全くの偶然にこの日にたまたま大学構内を歩いて、大学時代の自分を想起して、そして秋野先生と少し話をした。

 秋野先生は、1998年の夏、国連タジキスタン監視団政務官として執務中、反政府勢力に襲撃され殉職された。小生自身、大学4年次の7月の出来事だった。
 秋野先生のメッセージは、決して「国際政治に興味をもって、世界平和に貢献してほしい」というものだけではなかった。先生は、学内で会う生徒に「幸せですか?」「よく眠れましたか?」「今何が面白いですか?」と声をかけてくれた。勉強でも研究でもなく、生命は弾んでいますか?と問いかけてくれた。それは今も燦然と肉声となって魂に問いかけられる。
 

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 2008年7月19日(土)、つくばノバホールにて、「秋野豊メモリアルコンサート」が開かれる。是非この機に、人間「秋野豊」に触れる人が増えてくれることを望む。矛盾するかもしれないが、極論を言えば、行かなくてもいいのだと思っている。先生は、メモリアルコンサートに来てくれることを望んでいるわけではない。秋野豊を偲んでくれることを望んでいるわけではない。秋野先生を超えること、追いつくこと、真似することは誰もできない。付和雷同せず、立場や職業などを超えて、自分にも他人にも阿ることなく、「気概」を持って生きることを、先生は教えてくれた。「気概」を持って生きる人間が増えて、世の中が少しでもよくなり、ついでにグッとくるほど面白い世の中になればそれでいいのではないかと思う。どんなに世界の情勢が絶望的なり悲観的であったとしても、世の中を支えるのは一人の気概のあるサラリーマンの日々でもあり、気概のある主婦でもあり、気概のある学生でもあり、気概のある百姓の日々でもあるのだ。

 自分が秋野豊という虎になれないなら、次の世代が虎になればよいのだと思う。虎でなければ龍になればよい。それはコンサートによって築かれるものではなく、むしろその前であり、その後でもある。自分はコンサートに行く。行かない人もいて、行く人もいる。行っても虎にならないくらいなら、行かないで虎になるほうが、険しく素晴らしい。さて、あなたはどうする。先生を知ってるなら、自分の虎の道を歩けばいい。先生を知らないのなら、どんなことをしても、当日ノバホールに来て秋野豊に触れてほしい。

秋野豊メモリアルコンサート 公式サイト チケット絶賛発売中 ※


 大学を休学しての南米放浪から途中で戻ってきた98年の正月、先生からこんなメールをいただいた。


 『そうかそうか、学がけえってきたか。いろいろいい体験もしただろう。今度会うのが楽しみだな。おれは出発まで、少し日本にいそうだ。少なくとももう2週間はいると思う。元気で、秋野虎』


 小生が先生からいただけた、二つのメールの内の一つ、宝物のメール。


 世界は、現実は、生半可な物ではない。だからこそ、その内容と同じくらい、気概が世界には必要なのだと思う。楽しみ、悲しみ、それでも日常を前に進むために。


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2008年04月26日

背中

弥生二十一日 曇り

 前日の金曜日に実家に戻り、祖母の家からビニルハウス用の金属パイプ類もろもろを運んできた。祖父が昨年他界して、裏の畑で放置されていた資材であったものを、祖母にお願いしてつくばで使わせてもらうことにした。長さのあるパイプの運搬は難儀すると思っていたが、父の縁故でトラックを借りて運ぶことができた。いやあ、小松家にすっかりお世話になってますな。

 玉取に移ってから、家族が畑に来るのはこれがはじめて。土曜日なのでプレーヤーの皆さんもチラホラと見える中、ハウス資材を畑の隅に降ろし、なんとか運搬終了。荷を降ろした父には、所用で畑を外す小生に代わって菊芋を植えてもらうことにした。植え場所と、植え方、自然農のいろはを簡単に伝えると、合点も早くテキパキとこなし始めていく。もともとの里山育ちと家での庭作業の蓄積は伊達ではなく、(贔屓目に見て)他のプレーヤーさんに負けずに手際が良い(笑)。これなら安心だとしばらく任せて再び戻ると、五十ほどの植え穴のほとんどを終えてしまっていた。菊芋なんてどう植えても間違いなく芽が出るのという理由もあるが、そのスピードと着実な仕事ぶりに、久しぶりに親父の背中をたくましく思えた。

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 ハウスは梅雨までになんとか見様見真似で組み立て、雨宿りや荷物置き場に利用するつもりであるので、田植えの時期の前の合間をみて時間をとるようにしたい。温室利用ではないので、屋根を覆いたいのだが、天然素材でなんかいい方法ないものだろうか。ヨシズは高いかなあ。
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2008年04月04日

ひと休み

如月二十八日 【清明】 晴れ

【清明】…万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也(暦便覧)
     清明は「清浄明潔」を略したもので、
     「万物ここに至って皆潔斎なり」と称されるように、
     春先の清らかで生き生きした様子をいったものである。
     この頃になると、春気玲瓏にして、桜や草木の花が咲き
     始め、万物に晴朗の気があふれてくる。
     ※読み:セイメイ
     <参考:【室礼】和のこよみ


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 陽気は嬉しいが、たっぷりの畝作りが体に堪える。

 週末、祖父の一周忌で実家にちょっと帰ってきます。一日も畑を空けるのが惜しいほど種播きシーズンは到来してますが、休憩も必要。来週頭にはごっそり芽吹いてることを存分に期待して♪
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2008年01月03日

着根

霜月二十五日 晴れ

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 年が越えました。実家では、海の幸が食卓に並び、随分と賑やかな彩りに。野菜だけではこの艶や活きのよさはやはり演出できません。

 天然の命が生み出す彩りの素晴らしさに改めて敬服し、感謝し、満腹した。おだやかで、きびしくて、ゆたかな、地元の正月。

 

 さあ、つくばに戻り、足場を固めていざ戦場へ。

 今年のテーマは「着根」としよう。まずは、そこから。
 どうぞ、今年も宜しくお願い致します。
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2007年08月15日

休息

文月三日 快晴

 祖父の新盆に里帰りし、しばし田畑を離れる。息抜きの実家帰りではあったが新盆の手伝いで慌ただしくも賑やかに飲み食いした数日を経てまたつくばへ戻る。

 帰路、国道を離れて太平洋岸にテントを張り、友人と郷で買った海産物を焼いてビールをあおり、翌日、朝陽を浴びる。

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 数時間後にはそのすがすがしさを消し去るような、記録的な猛暑。なんとも夏らしい、しばしの休息。
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2007年01月04日

発芽

霜月十六日 曇り時々晴れ

 数年ぶりに正月を実家で過ごした。自然農にはまり込んでからなんとなしに親戚筋に顔を合わせづらく、帰郷する時も不義理を重ねて盆と正月を避けて帰ることが多くなっていた。昨年の秋に遊びに来てくれた従兄弟が緩衝材になるかなという助平心と、まがりなりにも農園を始めてチラシやWEBなどで活動が見え始めてきたことを過大評価し、覚悟を決めて大晦日の夕日に車を走らせることにした。


 元日の朝、港町の岸壁の向こうに、だいだいに染まる初日を拝む。慣れ親しんだ、身を引き締める冬の浜風に、初心と決心が洗われるような気持ちになる。今年は、「発芽」の年にしよう。ぽつぽつと芽を吹かせ、根を伸ばし、育つための基を作って、大気を知る、その年。焦らず、徒長せず、枯れぬように。

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 色々な人の期待と想いを背負いながら、魑魅魍魎と観音菩薩の世の中を生きるしかないのだから。そう想いきって、やるしかない。
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2006年11月19日

交差

長月二十九日 雨

 筋肉痛がようやく治まったと思ったら、右足のふくらはぎが軽い肉離れを起こしてしまっていた。先週末の、出身大学の学類(学部)のサッカーチームが開催するOB戦から一週間。晩秋のいつもの行事のツケが今頃回ってくるとは情けない。

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 小降りの雨の中の試合ももちろん楽しかったが、その後の打ち上げも大いに楽しんだ。月並みな表現だが、楽しんだ。ユニークで、バイタリティのある後輩たちとグラスを交わし、ようやく皆の前で恥ずかしくなく自分の取り組みを話せていることに気づいた。まだまだでありながら、つくばという土地で自然農生活をすることで同類の仲間たちに農、自然、食などのキーワードを伝えることができたら。そんな夢も膨らむ夜となった。

 国際関係学と自然農が交差して何かが生まれること。いったいなんだろう。ふくらはぎの痛みと引き換えに得た、小さなワクワク感。心の隅に宿しながら今後を考えていこう。
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2005年01月08日

イノセント

霜月二十八日 晴れ@小名浜

 コタツに潜りながら庭を眺めていると、どうして犬と遊びたくなるんだろう。しかし、いざ寒空の下にということになると、不思議なことに腰に根が生えたようにたちまちコタツから出る気が失せる。どうせそのうちガラス窓越しにこちらを覗く犬の視線にやられてしぶしぶ根っこを断ち切ることになるのだが。
 週末に実家に帰って、よく晴れた南東北の太平洋岸の冬を楽しんでいる。あくまでもコタツの中から。二十数年のあいだ口に慣れ親しんだ雑煮はまさしく実家の味そのもので、どうしても自分ではこの味が出せない。その「オフクロノアジ」の再現の難しさはまるで神秘に近いものがあるよね。
 雑煮で腹を満たした後にうたた寝をきめこむのが幸福のセオリーではあるが、こちらを見つめる犬の黒目の奥に、そのセオリーを打ち破るイノセントを感じてしまい、ようやく腰を上げることにした。玉を転がして取りに走り戻ってくる。ただそれだけなのに犬も俺もなぜこんなに楽しそうに遊ぶんだろう。わはは、犬はバカだなあ。そして、俺もバカだなあ。

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 モモ、疾駆!
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2004年10月10日

男六人衆

葉月二十七日 曇り@つくば

 大学時代を一緒に過ごしたメンバーと共にタイムスリップ。

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 自然農とともに今後もずっと関わりつづけるであろう大事なモノ。



※今年で十周年を迎えた所属サークル … Doo-Wop
  あたたかく迎えてくれて、一緒に楽しめたことに感謝!
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2004年08月08日

飾りに窒息

水無月二十三日 晴れ @小名浜
 いわき市の中心都市、平(たいら)の七夕祭は、毎年8月6、7、8日と自分の誕生日に必ず重なるので、昔から親近感を感じている。商店街の店が軒を連ねて七夕飾りを通りに立て、屋台と飾りの歩行者天国となる。

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 本家仙台には遠く及ばないにしても、身の丈にあった規模、小一時間も歩けば周り終える手頃さがよい。これもまた、学生の頃から変わらぬ風景。ちらほら目に入る短冊のひとつに、『セーラームーンになりたい』とあった。俺は何になりたかったのかな。
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2004年08月07日

港に咲く花

水無月二十二日【立秋】 晴れのち曇り @小名浜
 夏の海辺の夜風は冷たい。涼しい、というより冷たい、というほうが好きだ。暑さもひとしおの夜はその冷たさが最高のデザートになるが、少し曇った日の夜などは冷えが厳しく文字通り冷たい。
 第43回いわき小名浜ミュウ花火、港の夜風と海鮮屋台が溢れる、美味くて心地よい故郷の花火大会に行ってきた。目の前は海、頭の上には花火、右手にはビール、左手にはウニの貝焼き、それがココの醍醐味。浴衣着て、下駄履いて、家路を帰る自己満足度は最高潮。『夏は夜、花火の頃はさらなり』とは枕草子は言わなかったか。


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 花火の写真は難しい
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