注)記事の日付は太陰暦を用いております

2015年12月31日

手で祝う

霜月廿一日 晴れときどき曇り

 旧暦ではまだ少し先の新年ではあるが、我が家ももちろん大晦日。

 クリスマス明けから29日まで体調を崩し、家族も軒並み共倒れ、ろくに新年の準備もできずに大晦日を迎えた。昨日から大慌てで年越しにかかる。30日は、穴あき障子の入れ替え、おもだった部屋の大掃除、年末年始の食事の買出しで日が暮れた。明けて今日は、大洗濯(笑)と残りの大掃除。昼食の後、「今年は無理!」と諦めていた妻の御節スイッチに完全に火が点き、怒涛の台所大作戦に突入。つられてこちらも年越しモードが加熱し、おもむろに長女を連れて竹林に出かけ、あとは庭木でなんとやら。門松をこしらえることにした。

 
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 庭の梅に、ほんとうに、一輪だけの花が咲いており、やっつけ即席自家製門松に色を添えてくれた。


 門松の後、ヤギの小屋周りも長女次女も引っ張り出して大掃除していたら、はや夕方。いざ、年越し蕎麦の仕込みに取り掛かる。妻の御節で余った椎茸出汁のツユに、昆布と鰹で出汁を合わせ、水炊き用の鳥モモと葱を焦げ目が着くまで炙ったらツユに投入。国産小麦とそば粉の乾燥麺を固めに茹でて、出来上がり。

 
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 出来合い調理品にほとんど頼らずの年越し蕎麦を、今年も家族で迎えることができた。自画自賛だが、沁みるほど美味い。



 豪華でないけど、自分たちの手で祝える。
 時間はかかるけど、その時間まで楽しめる。

 年始も、きっと飛び回ることは無いのだろうけど、静かに、手作りに囲まれて、また新しく年を迎えたい。年神様が明日安心してちゃんと来られるようにすぐに寝なきゃ!(夜に子供が起きてたら、年神様が勘違いして古い年のままになっちゃうよ、という話)と布団に滑り込んだ長女の寝息を確認して、今から黒豆と、キントンを仕込むのだ!
 
 それではみなさんよいお年を♪


 来年も、自然農、そしてそこからながめる自然体を意識して。
 人生の意義を自分の外側に求めずに。
 その感覚をじっくりと突き詰めていきたい。


  
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2015年10月31日

いたずらしちゃうぞ♪

長月十九日 曇り

 日本人の魂が震える、晩秋。
 カレンダーに10月の声が聞こえるとソワソワしだす、あのフェスティバル。


 そう、神嘗祭(かんなめさい)!!


 31日に、変装して悪魔に魂売ってお菓子食べてる場合じゃねえんだコチトラ。日本の魂は、いつからカボチャになったの?? 米だろが米!

 米を祭る。今年の収穫の真っ只中に、まず八百万の神に、大自然に、宇宙に、「実り」を感謝して、祭る。それが日本のソウル、魂だろうが!

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 もともとは旧暦九月十七日、新暦では、毎年10月下旬から11月上旬にあたるこの時期。いよいよ稲が頭を垂れて、初霜が降り、稲穂が黄金色に染まり、我も我もと田んぼに集うこの時節。
 カボチャ飾ってバテレンの仮装して馬鹿騒ぎして、子供にお菓子あげて・・・っていったい何してんのよ!? 田んぼに、稲に、生命と歴史と風土に感謝する、神嘗祭があるじゃねーかよー!! 伊勢神宮の一年の中で最も重要なお祭りとされてる祭りを無碍にして、何はしゃいでんだニッポン人は!

 我が家は、完全にこの時期、稲刈ってますから!
 みんな稲刈りで雀と激闘してて、西洋オバケとじゃれ合ってる暇ないから!!

 カボチャは食うよ、美味いから。だけど祭るのは米だ。いいな。おめえら。
 日本の10月の祭りは、カボチャじゃなくて米。

 仮装する暇あったら稲を刈れ。藁を編め。俵を担げ。いいか、異論は許さん。
 合言葉は、

 「稲刈りしないと、いたずらしちゃうぞ♪」

 そう、"Ttrick or Reap !!"

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参考HP:『伊勢神宮 神嘗奉祝祭』

★今では伊勢神宮での神嘗祭は、旧暦九月十七日から
 新暦10月14日〜16日に移って祝われています


もう少し抑えたテイストの6年前の神嘗祭の記事はこちらから(笑)。
「かんなめる」

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2014年12月31日

どうにかこうにか

霜月十日 晴れ

 どうにかこうにか大晦日。大掃除は30日までに済ませておきたかったが、致し方なし、てんやわんやと家族総出で片付けた。

 朝から窓全開で、不精が災いして数年間溜まりにたまった雨戸の汚れを洗い流す。家で一番大きなガラス戸も、玄関の引き戸も片っ端から外しては、ブラシと雑巾、洗剤なしでひたすら磨いていく。

 窓が片付いたら、庭木の剪定。フェンスから道路に伸び放題の生垣の枝葉を、ぐわしぐわしと切り落としていく。時折道路に落ちる大きな枝は娘を呼んで片付けさせ、脚立にのぼり、木にも登り、3メートル近い垣根を、素人なりに、刈り揃える。いや揃ってないが、どうにかこうにか樹勢を落ち着かせる。落とした枝をかき集めて、粟子(ヤギ)の前に置けば、これ幸いと、むしゃりむしゃり平らげていく。家の周囲をざっくり剪定しただけだったが、山積みの剪定葉が積みあがった。これで正月帰省時の粟子の餌には困らなさそうだ。

 剪定を終えると既に夕暮れ前。昼から湿らせて仕込んでおいた稲藁を手に、しめ縄作りに取り掛かる。昨年覚えた手仕事は、数回の練習でだいぶ勘を取り戻し、汗の染みた服が冷えて手先が凍えてくるまでラストスパート。手元も暗く時間もなく、昨年に比べるとだいぶシンプルになった玄関前の注連飾りと、簡易な輪飾りを数本、なんとかかんとか日暮れ前に綯い終えた。

 
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 今年最後の日没を前に、乾燥中の大豆に防水シートを掛けに畑に車を飛ばした。晴れ続きの予報から一転して、今年最後の寒気団が通過して、除夜の鐘を前にひと雨降るとの予想。カラカラに乾かしている大豆の干し場に駆け寄り、沈みかけた西日の明かりを頼りに、大急ぎで雨避けを広げて、2014年の仕事納めとなった。


 妻は妻で、朝から夕まで、一夜漬けならぬ一日おせちに爆走中。合間に洗濯、授乳、片付け、長女の話し相手、全てこなして、年越しそばまで用意してくれた。2015年まであと4時間。合計12品のおせち完成まであと20%といったところ。これから夫婦二人で駆け抜けます。

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 写真は今年の畑で採れた里芋の「白煮」。味見ぱくり、絶品!!



 それではみなさま、どうぞ良いお年を。ぜーはー。

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2014年04月07日

本当は

弥生八日 晴れ

 本当は、書くべきことは山ほどあるんだけれども、昨年の結婚祝いに親友からいただいていたオーガニックワインをおもむろに開栓して、すこぶる旨くて、酔っています。ワインに寄せて、今日は何の記念日にしようかと妻と娘と話す夕餉が楽しくて、結局は、娘が始めて花を植えた記念日であり、妻が焼いた手作りヨモギベーグルがとびきり美味かった記念日とすることになりました。・・・こんなのほろ酔いじゃないと書けねえ。

 ついでに雑談をかませば、家のトイレには、旧暦と月の満ち欠けと四季の移り変わりが一目でわかるカレンダーが貼ってあり、便器に腰かけてそれを眺めていると七十二候の驚くべき正確さに舌を巻く。今まさに桜が満開のつくばで、花がほころび始めたのが、3月29日(@筑波大学一の矢学生宿舎前にて)。七十二候では、3月26日〜30日が【桜始開(さくらはじめてひらく)】であった。

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ほころびの桜と青空
 

 また、我が家が雨漏りと天井破損に見まわれた、先週木曜の大風や雷雨。思い返せば、七十二候では、3月31日〜4月4日が【雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】となっていた。うむむ、驚き。だから好きなのよね。

 さて日常、寒の戻りの肌をさすような風にもめげず、山羊の手綱を引かされながら、娘は毎日畑で時間を過ごす。今日は、隣接地の境界に、どうにかして除草剤を撒かれずに済むようにとの思いを込めて、花壇作戦を実施すべく、親子で花を畑の隅に並べて植えた。昼、自転車で通りかかった友人が畑に寄っては雑談し、午前の用事を済ませて畑に合流した妻と親子3人で畑ランチをし、夕方までジャガイモを植えつつ仕事帰りに農園に寄ったプレーヤーさんに娘を愛でられ、そしてほろ酔いの晩ご飯。本当は、こんなことを書くつもりではなかったのだけど、まあ、いいのだ。こうして、生きているのだから。

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 毎日が自然農、リアル百姓の生活日記は、まさしく、こんな感じなのです。おやすみー。


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いやあ、一人で手綱を引けるようになったもんだ。


第十三候: 清明 初候
【玄鳥至(つばめきたる)】
=つばめが南からやってくる=
 (新暦4月5日頃〜4月9日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※
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2013年12月29日

深夜

霜月廿七日 晴れ

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 とある深夜。新暦の正月を前に、注連縄を快調に綯っていく。

 より形良く、より太く、より早く。

 松を飾り、南天を飾り、橙(の代わりに酢橘)を飾り、紙垂(しで)を飾り。

 最初の頃はインターネットと大昔の体験を参考に、見よう見まねと記憶を頼りにして試作していた。子供たちとも一緒に作ったりと楽しみながら、ここ数日ペースをつかんでからは自分の感覚と感性で。朦朧となりながらも、部屋の隅にぞろ、ぞろ、と注連飾りが積み重なっていく。
 
 商売にもなるわけでもなく、だんだんと、ただ手さばきがこなれていくのが楽しくて、必要以上に積み重なっていく。売るわけでも、そんなに飾るわけでもないのに。

 その一方で、散らかり荒む藁の束。これも部屋の片隅。21世紀のオシャレ時代になにやってんだ俺は。

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 自然農の田んぼで育った稲藁。庭の松と南天。妻の実家から届いた酢橘。ホームセンターで購入した(おそらく南アジア産の)麻紐。スーパーマーケットで買った(おそらく東アジア産の)爪楊枝。それだけ。プロダクトマイレージはともかく、世界は持続可能な宝物であふれている。

 伝統と、自然と、世界と、日常をつなげて。これこそ毎日が自然農。

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2013年12月13日

しめ縄飾り

霜月十一日 晴れ

 クリスマス前になんですが。

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 昨年の冬に収穫した種籾を保存し、

 春に種を蒔き、

 苗を育てて、

 梅雨に田植えをして、

 夏には草刈りをし、

 秋になれば稲を刈り、

 天日干しで乾かし、

 脱穀して、

 余分な葉をすき、

 ようやくこの冬、しめ縄飾りの縄綯いに辿り着く。

 たかが正月のしめ縄飾りを作るに至るまでに、1年間、これだけの過程がある。


 今では簡単に、買って済ませることができる「正月飾り」。正月飾りに限らず、クリスマスにせよ、節分にせよ、洋の東西を問わず、季節の行事にまつわる「飾り物」は、(至極当たり前のことなのだが、)実は全て自分たちの暮らしの隣にあった。もちろん、飾りを彩るスダチも枝葉も、すべて自然の営みの中で育ったものである。

 先日、こぐま塾の出張授業として、柏市のネクスファさんのプログラムで「ものづくり教室」を行った。授業では、子供たちにしめ縄作りの面白さを体験してもらうことができたと思う。縄を綯う(なう)ところ始まり、自然の身近な素材で飾り物を手作りしていくことは、子供たちも1時間という短い時間の中で、悪戦苦闘しながら手足を動かして楽しんでいるようだった。

 しかし一番大切な、そもそもの「背景」を伝えられたかといえば、残念ながら力不足の感が残っている。子供たちが楽しんだしめ縄作りに用いた稲藁は、米作りの過程の副産物であり、飾りのスダチも季節の果物であり、季節と生活と全ての連動の中で意味があることを、自分は十分に伝えることができなかった。


 買えば手に入る。スーパーで。ショッピングモールで。それはだれが作り、どこから来ているのか、知るよしは無い。季節ごとに店頭に並べられるビニールの包装紙に包まれた商品をただ買って飾るのではなく、自然に、暮らしに「ある」素材を手仕事で加工して行事を彩る。その意味は経済の教科書にも載っていないし、ビジネス雑誌にも書いていない。

 自分は、そこに生きてみる。たとえ、大量生産の発泡酒を右手にインターネットをサーフィンしていようとも。

 金にはならないんだけどよ!

第六十二候: 大雪 次候
【熊蟄穴(くまあなにこもる)】
=熊が冬眠のために穴に隠れる=
 (新暦12月12日頃〜12月16日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※

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2013年09月09日

一憂一喜

葉月三日 雨一時曇り

第四十三候: 白露 初候
【草露白(くさのつゆしろし)】
=草に降りた露が白く光る=
 (新暦9月7日頃〜9月11日頃)
七十二候を“ときどき”取り入れています※


 
 今年に入って一番かもと思わせるようなじっくりと濡れた一日。

 この夏は、稲の生育にハラハラさせられている。とにかく、雨が少なかった。水が少ないせいか、(恐らく)ザリガニの餌が減り、稲を切って食べてしまうエリアが続出し、田んぼに向かうたびに足取りが重かった。

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 今日もまた不安を抱えて、草刈りに田んぼに入った。心と体は、半分以上あきらめかけていても稲株を探している。傍目から見てほとんど雑草しか生えていない田んぼにしゃがみ、草の列に鎌を入れていく。すると、ほのかに、しかししっかり分蘖した稲が、わずかに、確かに、残っていて、稲穂の花を咲かせてくれていた。

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 一方で、また今朝にでもヤラレタのではないかと思しき切られたての被害(ザリガニ?)も見られる。それを見て感情は、「チクショウまたやられた!」と不快へ傾く。しばらく後に、残された稲株を発見してしげしげ眺めていると、心が、「あああ、全滅はしてくれてなかったなあ、よかった!」とほのかな安堵をつれてくる。まず遠目で区画を眺めて一度、そして改めて草刈りを始めて二度、「全滅」や「絶望」という単語を容易に思い浮かべてしまう自分。その気持ちに負けそうになりかけたそのときに一株一株の生き残りの稲に出会うたびに、「全滅なんてとんでもないじゃないか。ここに一株でもいるじゃないか。」と大げさじゃなく思う自分がいる。どんなに過酷な状況になったとしても、最悪でも、来年の種になればいい。それだけでも残ってくれたのなら、また来年に命を繋げることができる。ならいいや、と心がシフトしていったとたん、稲の残り具合が「全滅」ではなく、「来年への架け橋」に見えてくる。それだけでなんと気持ちが和らぐことか。それだけでなんと世界の密度が変わることか。


 今年の畑では、昨年までの育たなかった野菜が実りに到達するように変わってきた。雨不足や猛暑の気象条件も加味したとしても、この夏の畑の作物作りは難儀した。蒔いても育たず、世話しても枯れ、里芋も生姜もだめなものは全くだめで正直、「今年もなかなか改善してくれないなあ」と思いかけていた。大げさに言えば、「本当に自然農の土は年を追うごとに良くなってくれるのだろうか?」と、酷いときには猜疑心すらいだいていた。「駄目」かもしれない、そんな単語が頭をめぐっていたこともあった。しかしそれも、そうではなかった。すべてが望みどおり育つような畑にはまだなっていない。けれども変化は着実に進んでおり、そのかすかなサインを、畑のキュウリが灯してくれた。昨年まで、キュウリは発芽はしてもその後の生育が止まってしまい、実をならせずに黄色く枯れてしまう症状が多く見られた。その畝とほとんど同じ畝なのだが、今年は着実に、大きなキュウリを実らせている。それはやはり、「駄目」ではなく、「望み」である。

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 「キュウリは育ったけど、他は全然育たなかった」 と、
 「キュウリが育ってくれたということは、土は良くなっている」 は、入口と出口が全く違う。

 「あんなに苗を植えたのに、ほとんど全滅だ」 と、
 「多くが被害を受けたけど、来年の種分だけでも残されている」 にしてもそうだ。

 「否定的」かつ「断定的」な言葉をそう簡単に使わずに、常に未来の萌芽を見つける。現実逃避でもなく、反省なしでもなく、この「見つける」気持ちの向け方。分析や判断や学習は常にされるべきであるが、そこにさらに現状と未来と自分をつなぐ萌芽を見つけ出していく、それが自然が本来そなえている力強さなのではないかと思う。現状に問題点を見出して、それをことさらに改善、解決していこうとする生き方は、人生にやることが多すぎる。自然農の醍醐味は、それをある程度自然の力に委ねることで(もちろん人間側の働きかけは常に求められるのだが)、自分の手から「改善」や「解決」を一部放棄できることにある。決して、不平不満を言いながらの怠惰ではなく、未来志向しながらの怠惰。「働かないと生きてゆけない」のではなく、「そこそこ働いて、より楽しく生きていこう」をしたいだけなんです。

 一喜一憂から、一憂一喜へ。


 と、まとまらないまま相当甘いことをぬかしてみました。

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2012年12月16日

対立の先へ

霜月三日 曇り時々雨

第六十二候:大雪次項
【熊蟄穴(くまあなにこもる)】
=熊が冬眠のために穴に隠れる=
 (新暦12月12日頃〜12月16日頃)

※今年から七十二候を取り入れてみました※



 第46回衆議院議員総選挙の投票日を明日に控えた土曜日、話す・聴く・気づきのワークショップを開催した。 さて、明日は投票日。

 このところのSNSや掲示板サイトなどで時折、「○○政策なんてありえない。誰もそんなものは望んでないのにどうして?」といったような言葉を目にすることがある。原発や、TPP、憲法改正や消費税など、その議題に関わらず、あるいは賛成派反対派に関わらず、自身の考えを前提にして他方をそうした言葉で形容することをどことなく見かけることがある。概して中立派からこうした言葉が聞かれることは少なく、立場や意見を鮮明にしている方に多く見受けられるように思われる。例えば憲法改正について、改憲を公約に掲げる政党があり、一方で憲法9条は守らなければならないとする政党がある。それらは政策として対立し、それを支持するかしないかによってその政党に一票を投じるかどうかという判断基準となる。選挙の結果、今の日本国では獲得票数に応じて議席が確保され、それが結果として国の政治の方向へと繋がっていく。その過程においても結果においても、どうしても、異なる意見、思想、立場は存在し、その多様性の存在を昇華する手段のひとつとして、日本は民主主義を選択してきた。それは国政に関わらず、地方自治にも、おそらく多くの会社組織やその他団体の中でも、最も有効性の高い意思決定手段の一つとして採用されている。

 しかしその根底に忘れてはならない事実がある。それは民主主義によってある施策が選択されようとする時、それと異なる意見は決して存在していないのではなく、選択されなかっただけという事実だ。つまり、選挙結果や多数決の結果として決定された政策は、唯一の正しい答えでもなければ、集団がその意思一色に染められなければならない訳ではない。しかし上述したような「○○などありえない、誰も望んでいない」という発想に、おそらくは無意識的にではあるがそうした多様性を否定する性質が潜んでしまうことがある。自身の望む政策の正しさを要望するあまり、もしくは社会の方向性を正義感として強く憂うがあまり、対立する選択を取ろうとする人たちを「ありえない」とついつい断じてしまう瞬間において。しかし、それは決して「ありえない」のではない。現実に、対立する意見を持つ人々が存在するが故に、政党として存在しかつ公約として掲げられている。一方からみれば「ありえない」ような政策は、大いに正しい政策として信じて掲げられ、それはただ、異なる意見として実際に存在しているにすぎない。

 ここで我々が立ち返らなければならないのは、そうした真反対の意見が並立するという現実においてしか、この国の方向性を選んでいくことはできないのが現状だという認識ではないだろうか。「原発反対、TPP反対、憲法改正反対、ザッツオール。これ以外の考えなんてありえなくない? 賛成のやつ頭おかしいって。賛成とか言ってるのは一部政治家だけで国民全員はそんなの望んでないよ。」というスタンスがあるとしたら、それはもうそこで思考がストップしてしまってはいないだろうか。現実には、原発もTPPも憲法改正も、国を二分(割合はどうでもよいのだが)するほどに各政策ごと支持不支持が存在し、それらは互いに目を背けてしまって良いはずがなく、対立しているのはどの点か、なぜ一方は賛成で一方は反対なのかに目を向けなければならない。そして民主主義で選択された政策の背後には反対者の声もある、ということを踏まえた上での一つ一つを対立を乗り越えてたどり着いた先に、集団社会の進むべき将来があるのではないかと思う。であるなら、「○○政策も××党もありえない」と言い放ってしまう、その一歩手前で立ち止まり、実際に存在する目の前にいるかもしれない対立意見に耳を傾け、その対立意見がなぜ起こっているか(もしくはそもそも自分がなぜ自身の意見を持つに至ったのか)を一人一人が熟考できるような社会になるしか、本当の意味での多様性が認められその上で民主主義が機能する世の中にはなりえないのではないだろうか。

 未来から振り返ってみたらこれしかありえなかった、という政策が例えあったとしても、しかし今現在は現にそうではない意見が存在するのであれば、それは「ありえない」と排除や切り捨てや蔑視するのではなく、乗り越えていかなくてはならない現実として存在しているのだ。いわゆる価値相対主義に与しない、多様性からなる社会というものがあるとするならば、こうした意識的な対立意見への向き合い方こそが、我々に必要なスタンスなのではないだろうか。

 瑣末な話かもしれないが、今日のワークショップの最後に、参加者が一日の感想を話す時間があった。答えや成果を手にするような時間ではないが、それぞれに数時間を過ごしたあとの、そのときの気持ちを出し合った。そこには、同じあるテーマについての一つの意見と、一方でそのテーマに対して真反対の印象を抱いた方が存在した。しかしそこでは一方を「ありえない」とする態度は存在せず、その違いを発見として認識して、さらに自分の意見をより深掘りする機会にもなりえていた。小さな小さなワークショップでの感想の言い合いと国政選挙の政策論争が同じ土俵であると言うつもりはないが、ついついヒートアップして反対意見の選択自由を無意識に排除してしまうムードのようなものが目にとまるたび、幾ばくかの違和感を覚え、そしてその先にあって欲しい民主主義の熟成を期待してしまうのだ。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


 意見を述べることによってのみコミュニケーションが存在するのではなく、また意見を述べることによってのみ自己が存在するわけでもない。同時に、異なる意見であろうと同質の意見であろうとそれはそれぞれに個々が存在し、同レベルでコミュニケーションがはかられる。人間にとって、「話す」とは何か。「聴く」とは何か。コミュニケーションとは何か。国政選挙のシーズンを迎え、ことさらに意見を表現することがクローズアップされる時期だからこそ、その彼岸にあるような時間へと想いが広がる。

 1月の「話す・聴く・気づきのワークショップ」はテーマをずばり「聴く・話す」に据えて開催いたします。

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第7回 話す・聴く・気づきのワークショップ =1月13日(日) 開催=
 今回のテーマは【聴く・話す(対話・コミュニケーション)】です。
 参加者募集しております♪
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2012年11月29日

熟女をば

神無月十六日 晴れ

 柿がそろそろぽとりと落ちる前に、農作業の合間をみて、いそいそと干し柿作りを楽しんでいる。

 どうやら豊作らしい今年の柿は見事に実をつけ、雑草屋本舗にも時折の商品として並べながら、それほどのヒット商品にもならずに売れずして家へ出戻り、そして熟々と熟れていく。うれうれになるその前にやおら腰を上げて手間を惜しまなければ、日本の誇る伝統保存食、干し柿へと変身を遂げるのだ。

 干し柿作りはいとやすし。皮を剥き、熱湯に十秒弱ほどくぐらせ、あとは柿同士が触れぬように、干す。吊るしてもよし、置いてもよし。晩秋、初冬の空っ風にあて、夜露、氷雨にさらさず、鳥や虫に掠め取られなければ、後は待つだけ。じらす熟女についつい手が伸び、しわの増した肌をもみもみするのもまた良し。恥じらいの故かどうかは知らないが、もめば甘みは増すとか増さぬとか。程よく干されて食べごろを迎える頃には、白粉を吹いて薄化粧を纏うところもまた可愛らしく。

 
 我が家の干し柿は、ヘタを底に逆さにして、ザルにて干すこと五、六十個。美肌の熟女が粉吹き婆さんへ美化を遂げた末の、甘味は果たしてどれほどか。頬張る楽しさを期待して、今日も毎朝縁側へ並べて眺める今日この頃なのです。

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 ちなみに剥いた柿の皮は、オーブンで焼けばパリパリのスイーツに。みじん切りして油と醤油で炒めれば、簡単キンピラ料理が出来あがり。十分に甘みを蓄えたその皮を、余すところなく味わえるのも、自然農栽培の特権なのよね。



 「食べる」楽しみを十二分に楽しんでいる、毎日が自然農。12月の話す・聴く・気づきのワークショップは「食」をテーマに想いを拡げます。その頃までには干し柿は、まだ出来上がらんだろうなあ。

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第6回 話す・聴く・気づきのワークショップ =12月15日(土) 開催=
 今回のテーマは【食 (食育・食材・食生活)】です。
 参加者募集しております♪
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2012年06月29日

独り立ち

皐月十日 晴れ時々曇り

第二十九候:夏至次候
【菖蒲華(しょうぶはなさく)】
=あやめの花が咲く=
 (新暦6月26日頃〜6月30日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


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 六日前の土曜日から、今年の田植えが始まった。4月に種を降ろし、二ヶ月を苗代で少年時代を過ごし、これから二ヶ月お盆を過ぎる頃に花を咲かせるまで、根付き、茎を増やし、葉を広げ、成人時代を送ることになる。種を降ろしてから稲刈りまでおよそ六ヶ月の稲の命は、まるで家族と過ごした青年が独り立ちするように、込み合って育った苗代から十分に分蘗できるスペースへと一本一本田植えされていく。

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 半夏生の頃、梅雨が明けるまでに田植えを終わらせるべく、そしてまだまだ終わらぬ大豆の種蒔きシーズンのエンドラインも背後に迫り来ている。これからしばらくは、田植えに4時間、大豆の播種に4時間、休みが許されない怒涛の二週間が待ち構えている。つくいちもあり、農園集合日もあり、LONOFもホストし、他の農作業もあり、なんかキテルなこれ。

 精進精進。菖蒲も、アジサイも、季節の彩りにも心を費やすことなく、しばらくは精進です。
 
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2012年03月09日

願う

如月十七日 雨

第七候:啓蟄初候
【蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)】
=冬籠りの虫が出て来る頃=
 (新暦3月5日頃〜3月9日頃)
※今年から七十二候を取り入れてみました※


 そろそろ虫も動き始めようとするというのに、どっぷりと冬籠りから抜け出せないこの一週間。明日はつくし農園の集合日。寒気と低気圧による冷たい雨が窓の外で降り続けている。さて、明日はどうなるやら。

・ ・ ・ ・ ・ ・


 フジテレビで放送されている『自衛隊だけが撮った0311−そこにある命を救いたい−』にたまたまチャンネルを合わせた。昨年の震災を「311」と記号化する風潮にはどうしても違和感を覚えるのであるが、そのこととは関係なく、自衛隊員の皆様の姿を拝見して胸を打たれた。国を守る。郷土の人たちの命を守る。故郷の、風土と、歴史と、生活を。我々は、本当の意味で、国柄を守る日本の軍隊に対して意識を変える必要がある。自衛隊という誤魔化しの言葉での存在からそろそろ脱皮して、日本軍として。この度の震災での軍人の方々の職務に対して小生が感謝と敬意を向けるにはこの程度の思いしか表せない。

 誤魔化しからの脱却は、日本人が今最も必要な行動の一つである。

・日本の郷土を、生活を、一瞬で奪う原子力発電所を本当に必要とする理由など無い。
・仮想敵国から郷土を守るための軍隊や抑止力を不要とする現実は今の国際社会には存在
 していない。
・外交力、政治力において信頼を寄せることができない今の政治に対して、TPP交渉を任せ
 ることは大変なリスクである。
・人口増加、水資源、気象変動のリスクを抱える世界食料事情の中で農業生産を軽視して
 自由貿易を推進するような方針は日本の国防としてのリスクヘッジになりえない。
・最低限の食糧、最低限のエネルギー資源、最低限の経済活動、そして日本という共通文
 化価値の継続、それらを本来の意味で守りうる青写真はどのようなものなのか。

 ひとつひとつはバラバラで存在している。かつどこかで繋がってもいる。本当にそれは、必要不可欠なのか。本当にそれは、現実的なのか。その判断、その価値観、その将来像は、いったい何をベースにして存在しているのか?今まで先送りにしてきた誤魔化しを一つ一つ脱却していけないものかと願う。これから数十年にどのような社会になっているか、今までの数十年を振り返るだけでも想像はつかない。しかし願う先にその未来があることだけは間違いない。個人としての未来も、日本人としての未来も、惑星地球で暮らす人間としての未来も、願うこと、そして生活することから始まっている。
 自然を敬い、畏れ、かつ技術を妄信することなく、また科学を、経済を、発展を当然の正論とせず、コントロールできないものに頼らず、手の中に残る一つ一つの生活に幸せを見出すような世の中になることを願って。かつそれも度々に疑いながら。

 小生は、右翼でも左翼でも保守でも革新でも中道でもない。もしくはそのどれだっていい。日本の、郷土の、生活、風土、歴史の継続を望む一生活民として、必要だと思う選択を取るだけである。詳論には整合性がなくとも、その上で現実を選択していけばよい。イデオロギーとプライドと思い込みこそが、糞食らえなのだ。個人の上に関して言えば、過度の怠惰の癖も糞食らえであるのだが。

 普段テレビは見ないように努めていても、こうして時折に示唆をくださるテレビ番組製作者の皆様にも、心より感謝いたします。
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2011年06月07日

守り神様

皐月六日 曇り

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 昨日、茹だるような夏日が訪れたつくば。一転して今日は静かな曇り空が広がる。二十四節気は「芒種」を過ぎ、田畑では雑草がモワンとした熱気を帯びて広がり始め、田植えを間近に控えた稲の苗は俄然、葉に力を感じられるようになった。 今朝起きると、なにやら天井裏で明らかに生き物の活動音が聞こえる。前々から、ネズミか、虫か、鳥か、と折に触れ何かがいるような気配を感じてはいたが、聞こえてはそのうち止み、いつのまにかそのことを忘れて日常の暮らしへ戻っていった。それが、今日は少し様子が違う。 ずずずずずうっっ、と這いつくばるような、引きずるような、小動物とは思えぬ物音。心地良くはないもので、板張りの天井裏を傘の柄などでつつくと、気にしたように、もしくは気にもかけないように動いては留まり、またしばらくすると動き始める。 はてさて、と借家の管理会社と電話相談すると、なるほど鳥と蛇かもしれませんねと、薄々予想していた答えが返ってきた。雨を避ける鳥が巣を天井裏の軒下近くに作り、卵や孵った雛を狙って、蛇が入り込むことが時々あるという。常駐するわけではなく死体が残って異臭が発生することなどなければ問題もなく、程なくいなくなると思いますよ、という担当者の話に合点し、ふと訪れた奇妙な共同生活を楽しむことにした。 田舎では、蛇は家の守り神と言われている話も耳にしたこともあるし、我が家の近くにも毎年抜け殻を見かけてはいた。これだけ明らかな足音(移動音)が聞こえたことはなかったが、地震で屋根が一部落ちたり、風呂のタイルが破損した今年の家の様子を振り返れば、守り神様が我が家に訪れたことは吉兆でもあり幸運の記しと思えば良いのだ。


 自身の吉兆はさておき、そろそろ震災から3ヶ月。春の訪れを待っていたまだまだ肌寒いあの時期から、季節は休まず足を進め、夏の訪れを待つ梅雨の季節を迎えている。6月11日はもうすぐだ。東日本各地でまだまだ遅れる震災からの復興がすすめられている現状であり、原発事故を受けての原子力行政への関心の高まりはもはや日本人の常識になりつつある。浜岡原発の一時停止の動きもあり、財界政界あげて日本の原子力発電はいったいどこに向かうのか、行く先は、もしくは落としどころはどこなのか、関係者すべての保身と献身、バイアス(先入観)とイマジネーション(創造力)、希望と諦観などの双方の価値観が入り交じり、それらがにさら各人の日常生活に覆い被さって今なお方向性が決まらぬままに議論と駆け引きが続けられている。

 震災以後の自分のBlogをざっと読み返してみて、何か変化したことがあっただろうかと思っていたが、実際はほとんど認識や感覚に変化は訪れていない。小生は、ごく一部地域を除いて、幸いにも今回放出されている放射線量における生物に与える悪影響については、ほとんど不安な思いを持っていない。原子力発電に対しては、事故発生後に人間のコントロール下で被害を急激に抑えることが物理性質上できないのならば(発電停止後も数ヶ月〜数十年単位での低温管理が必要になるなど)、そうしたテクノロジーを利用する発電技術は手にするべきではない。もしくは生物に対する放射線による影響について科学的な判断として断言できるような論証が現在確定できていないために人々に対して許容しがたい不安や恐怖を与える恐れのある発電手段は、採用すべきではない。つまり原発脱却を希望する。原発停止による経済界に与える少なくない規模の影響はあるのは当然だろうが、それは今までも常に存在していた他の様々な社会制約(バブル崩壊、省エネ、円高、自由貿易化などなど)と同様に受け止め、対応するかもしくは別の道を探すかして進めばよい。現在の放射能汚染の影響は個人的に全然心配してはないが、原発はもう止めましょう、という立場。あくまでも、恐怖によるものだけではなく、反対運動だけでなく、対立姿勢だけではなく、変えていくこと変わっていくことを最優先において、垣根を越えて目的に近づけていければいいなと願って。

 6月11日には、全国規模で脱原発を呼びかけるデモが行なわれる。つくば市でも、デモイベントが開催されるといい、知人も参加される。デモはデモであって即効性はないかもしれないが、その先に署名での反対であったり、選挙を通しての政治意思表示に繋がったり、一人一人の行動に火種を起こすきっかけになる可能性がある。 願ってやまないのは、「放射能の恐怖」を煽ることに使命感を帯びた、一種のイデオロギー色の強いものにならないで欲しいという思い。現在の放射線の影響を強く懸念して脱原発への行動をとることは間違っていない。しかし小生のような脱原発のスタンスも、多く存在するはず。「怖いから反対」でなくてもいい。「今は怖くなくても今後が心配だから反対」でもいい。「なんだかわからないけど反対」でもいい。「怖い」側に加勢したくないけど、でも原発はないほうがいいなあという声だってある。そうした声をも無駄にしない、そんな動きが日本に根付き、結果として原発行政からの脱却が図られればという個人的な望みが叶うならばと願う。

 もちろん、目にも見えず影響も確定できておらず因果もはっきりされていない為、予防原則的に最大限の心配をすることがそれぞれの判断のもとでされるべきことに異論はない。その一方で、
「こーんな奇形の植物が育ちました!」「やっぱり原発は怖いねー!」
「最近ちょっと体調悪くてさー」「ああそれ放射能だねー!」
そんな会話を耳にする。本人達にはとても真剣な話である一方で、目の前で大きな声でされてしまうと違和感を感じてしまう人もここにいるんだという想像力も持ってもらえたらなあ。そしてそれは逆に、自分のような安心側にいる者たちが、不安側にいる人たちにも同様の違和感を与えているという事実も自認しながら。ともあれ、不安や不満、対立、軽蔑、確信、などが突き動かす情熱や行動力はとても豊かで、パワーに溢れている。そのうねりに、より多くの人の関心を引けるように、緩やかで静かな中間層にも共感しやすい冷静な感覚もこれからの運動には是非あって欲しい。最終的には結果が全てなのだから。 街中でシュプレヒコールをしながらプラカード持って音楽かけて行進して、ってなんか恥ずかしくて行けねえや、という感覚は、個人的にはとても素朴で信頼できる感覚だと思うんだよね。デモなんか行かなくたって、「署名なら賛成する」、そうした人が少しでも増えるんだったらどんな人だって活動だって自分は応援していきたい。


悩んで 息抜き 生き抜く 


 あくまでもポジティブに。感性は素直に、発想は先入観の反対側も視野に。常に客観性を持った主観で。そうやって、大自然の懐のもとで、日本人として文明社会を生きていきたい。

 天井裏の守り神様、そして日本の八百万の神様、日本人に、我に、どうか勇気を。

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2011年04月19日

できること

弥生十七日 雨時々曇り

 東日本大震災による様々な被害が、各地で爪あとを残しています。今なお、そしてこれからも復興にむけてありとあらゆるサポートが必要とされています。

 幣Blog「毎日が自然農」では、スタンスとして基本的には「自然農に関わる生活」を綴ることを目的としております。しかし一方で、震災後に自分ができることを考えた時に、少ないながらも200名近い方が毎日アクセスしてくださっているこのBlogを通して、一人でも多くの方に震災復興に関する情報を自分なりに発信していけないかと感じていました。

 そこで「自然農」に関わるこのBlogの中では震災や原発に関わる内容を記載することはなるべく控え、別のBlogを開設して、少しずつでも情報を集めて公開していくことにしました。皆さんも自分発信の情報や応援したい活動などがありましたら、ご連絡お待ちしております。なんでもかんでもという情報ではなく、個人的に繋がりのある地方や取り組みなど、ある程度の取捨選択をしながら取り組んでいければと思います。
 
 個人的復興支援情報Blog
 『青い空 碧い海 蒼い大地』


Blogの左側に、新着情報が載るようにしました。どこまで続けられるかは分かりませんが、何事もできることからやればいいだけですので、気楽に続けていきたいと思います。
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2011年03月16日

玉音

天皇陛下からのお言葉がありました。

外出の為にたまたま携帯ラジオのイヤホンを耳につけた直後、天皇陛下のお言葉が放送されました。ラジオだったので椅子に座ったままで目を閉じて聞いていたのですが、途中から涙がとまりませんでした。


     なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる
西行法師





小松学
posted by 学 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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