注)記事の日付は太陰暦を用いております

2022年07月15日

ノラカツのススメ

水無月十七日 曇りときどき雨@大子町

 野良活、のらかつ。

 農作業でも、野良仕事でもなく、ノラカツ。

 月のうち、二十日以上は田畑や森で過ごしているのだが、どうしてもその時間を、「作業」とか「仕事」という言葉で表現することに抵抗があった。

 確かに、田植えをし、草刈りをし、大豆を蒔き、森に入り、木を切り、土を掘ったりしている。それは、誰が見ても農作業だし、あるいは野良仕事かもしれない。だけどなんか違うんだよなあ。例えそれでお金をいただいていたとしても、それでも、仕事とも、作業とも違う、何かしらの違和感がずっとあった。

 どこかしらで、誰かしらと集まり、畑で草を刈ったり森で竹を切ったりするときに、「では今から作業をスタートしましょう」という言葉を使うのに、ずっと抵抗があった。作業ってさ、やらされ感、タスク感、重い腰あげる感があるじゃない? それを、やる前から言葉にするのがイヤなのよ。自然農の田畑に出る時(特に他の誰かをお誘いする時)って、もっとこう、ウキウキして、ワクワクして、あー草に包まれてる!っていう時間に招待する感じで声かけたいんだよね。

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 <田植えはまさに、ワクワクウキウキ(^^♪>

 自然農の畑で作物のお世話をする時間に、どんな意味があるのかを考えてみると、そのことが少し伝わるかもしれない。例えばキュウリの苗の周りの雑草を抑えるために雑草の草刈りをする時、私たちにとってどんな時間が訪れているだろうか。

 まずは、草刈りをすることで、キュウリの株の生育を確保することができ、今後の成果として、キュウリを実を収穫することができる。これはまず第一に訪れるべき、目的に近づくという意味の「達成感」や「満足」だ。

 それだけではない。草刈りで発生するフィトンチッドを体内に取り入れることによる「リフレッシュ効果」。緑に包まれ新鮮な酸素を浴びて訪れる「リラクゼーション効果」。植物や土に触れることでアーシングされる「ヒーリング効果」。暑い日差しの中で発汗と共に身体を動かすことによる「フィットネス効果」。

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 <これに勝るヒーリング効果あります?>


 さらに付け加えるならば、黙々と草刈りを続けることで訪れる「瞑想的時間」。農薬肥料なしで育つキュウリを目にしながら思索する、「草とは何か?人とは何か?生きるとは何か?」という「哲学的時間」。草刈りをしつつも刈った草を土に敷くことで土壌の環境に配慮したり、あるいは虫の居場所を確保するように一列おきに草刈りしたりすることで間接的に提供する「環境への貢献」。

 あげればきりがないが、ただのキュウリの周りの下草刈りという「農作業」「野良仕事」でありながら、そこにあるのは、自分も自然もキュウリも喜ぶ、パーフェクトアクティビティなのである。

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 <庭木のスモモを食す時間も最高のグルメ>

 私はもう、この時間を仕事や作業と呼ぶことができない(笑)。

 あえて言うなら、子どもたちがただただ屋外で大解放のもとで楽しみまくる「野良あそび」になぞらえて、「野良活」「ノラカツ」と言うことに決めたのだ。なんなら、田畑や森で過ごす時間を野良活セラピーⓇとか野良活リトリートⓇで売り出したろうか(笑)。


 横道に逸れたけど、自然農や、大地再生(※)の時間は、作業でもないし、仕事でもない、野良活なんです♪ さああなたも、雑草屋と一緒に、レッツノラカツ!

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 <まあこれも一つの野良活か?違うか!>



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※『大地再生』とは:矢野友則氏の「大地の再生」の考え方、高田宏臣氏の「土中環境」の考え方を共に取り入れた、ごくごく個人的な里山再生活動を意味しています。

参考URL
『「大地の再生」について』 https://daichisaisei.net/#about
『見えない世界を見る力 ー 土中環境への旅』 https://chikyumori.org/2022/04/04/dochu01/
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posted by 学 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然農のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月23日

春爛漫、四方山話

弥生廿三日 晴れ於大子町

 Blogとして、久しぶりにキーボードをたたいている。2022年4月、築154年の100畳古民家に一家で引っ越した。昨年から、自然農の畑、田んぼの開墾、裏の杉山の手入れ、古民家の天井裏の掃除、家の改修を少しずつ進め、妻と子ども4人、ヤギ3頭、鶏5羽、他にもブルーベリーや果樹類の移植、様々の芋類なども含めて、一家丸ごと&農園の大引っ越しをこの春に終わらせての今、心と身体が喜びと悲鳴に包まれている。

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<茨城県久慈郡大子町中郷集落へ>

 さーて、何を書こうかねえ(笑)。

 久しぶり過ぎてなんか恥ずかしくて、だらだらと書いてみようと思う。私は、文章家ではない。だが20代、30代の頃はSNSの代わりに毎日のように想いを文章化し、投稿していた。

 そうそう、さっき久しぶりにブックマークの整理をしようとフォルダを開き「友人HP」の一覧を開いていたら、大学時代、社会人時代の友人のBlogの殆どが、消滅か10年以上更新が途絶えていた。猫も杓子もBlogしてたもんね。楽しかったよねなんか。更新が途絶えているBlogって、たまに開いたアルバムの写真みたいで、大した記憶でもないけどただただ触れるだけでノスタルジーな存在。あってもなくても同じような存在でもあり、あるだけで遺跡のような存在でもある。

 そこに今さらしがみついているわけでもないけど、自分はBlogを続けようと思っている。(ほぼ1年更新してなかったが。)なんでだろう?文章家ではないけど、発信者ではいたいのだろうか。発信は、確かにしている。ここ半年ほど、ここ大子町で活動している「自然体研究所」での里山古民家再生ウィークで、同志のまとちゃんと密度濃く過ごしてきた。あるいは、取手市で昨年スタートした「畑からつながるコミュニティ」で自然農の講師として招いていただき、大人世代と子ども世代が生き生きと集まって過ごす時間に混ぜてもらえることになった。その中で、里山フィールドやコミュニティに参加してくださった皆さんに対して、自然農や大地の再生や古民家修繕などを一緒に作業しながら、常に発信してきた。自分の内部にある、満ちたものあるいは満ちそうなもの、あるいは芽生えたものを、自分の言葉で他者と共有することが発信なのだとしたら、私は、やはり発信者なのだと思う。


 そうか、という面では、20代の頃からそんなに変わっていない気がする。変わった点があるとしたら、20代の発信は、芽生えたもの、芽生えつつあるものや同時進行的な想いも、満ちたものとしてのアーカイブ的な記事も、気にせずとにかくBlogに綴っていた。今はきっと、泡沫(うたかた)性や同時進行的存在の強いSNS(Facebook)への投稿ばかりになってしまっていて、そうではない、遺跡性や非連続的存在としてのBlogからなぜか腰が重くなってしまっているのだ。本当は、Blogに、ノスタルジックなシンパシーを感じているにもかかわらず。

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<桜満開、笑顔満開>

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<庭が快適なので青空ランチの日々♪>



 さて、引っ越しを終えて3週間が過ぎ、喜びを嚙みしめている真っ只中。身体に悲鳴が上がった。はい、ぎっくり腰ですよぎっくり腰。まあ従来に比べたらソフトなやつ。ギクッ!!!!という魔女の一撃というよりは、チクリ、、、、、ズキーン!という、変化球。実は数日前からも、虫に刺された手足と腹部に蕁麻疹のような湿疹が広がる症状が出ていて、無意識ストレスの蓄積を把握はしていた。それをあれやこれやと言い訳をつけて向き合うことをせずにいたら、草刈り作業中に、気づいた時にはチクリに襲われていた。そして、痛みはおさまらず、翌日、翌々日と、立てていた予定をキャンセルして家でうだうだと静養することとなった。湿疹とぎっくり腰になんの関係があるの?と思う方は、こちらのマインドボディヒーリングの記事をご参照ください。

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<家の裏を楽しく環境改善中!>


 そう、私は、休みたがっていた。

 引っ越し準備が本格化してからほぼほぼ一か月、なんだかんだと休みという休みもなく、ひたすらに身体を動かし、来客対応も接客仕事も断続的に延々とこなし、自分の心はとにかく、休みたがっていた。それがゆえの湿疹であり、それでも休まないこの心に、最後通告としての、ぎっくり腰のプレゼントなのだ。

 なんという、完璧なメカニズム。なんという完璧なプログラム。

 心も、身体も、自分はまだまだ壊れていない。壊れていないからこその、湿疹であり、ぎっくり腰。そこまで発症してくれたからこその休養、そして、あっという間の治癒。傷めて動けなかった腰が、48時間で元に戻る、これもまた完璧なメカニズム。(湿疹は苦手分野なのでまだしばらく続きそうだけど。)


 明日は田んぼの種まき。明日からもまた、休みたいけど休みたくない日々であり、野良仕事も探求も山盛りの里山Days。自然界は完璧だし、人間界も完璧だし最高だけど、その合間に合間に訪れるバランスを欠いた出来事に十全に対応していけるように、これからも発信を続けていこうと思う。

 
posted by 学 at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月09日

【したいなー教育】のススメ

弥生廿八日 晴れ時々曇り

 雑草屋の活動の大きな柱の一つに、教育としての「ホームスクール&家庭保育のススメ」がある。書いておきながらおかしな話だが、実はこれは、本当にやりたいこと、ではない。私たちが本当に望んでいるコトの中身は、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 そんな教育の時間を、子どもの大切な時期に届けることにフォーカスしたい、という想い。そんな時間を子どもに届けられる幼児施設、学校に是非お願いしたいと思ってきたが、残念ながら、地理的経済的に選択できる機関に出会うことが出来なかった。

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 <見よう見まねでブルーベリーの苗を植える二人♪>

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 <焚き火で飯盒炊爨もお手の物>


 
・ ・ ・ ・ ・

 これは、選択である。

 耕さなくても、農薬肥料に頼らなくても、虫や草を敵としなくても、野菜は育ってくれる。それが自然農の説くところだ。本来の自然の営み、摂理に従えば、人間の作為は極小でよく、植物と土壌環境の本来もつダイナミズムの中で、十全に野菜は育ってくれる。とはいえ、化学農法で育つ野菜、有機農法で育つ野菜、自然農で育つ野菜に、野菜そのものの優劣はない。種は種で作物のありのままであり、その与えられた環境での最善を全うしようと育ち、時には枯れ、時には虫に食べられ、時に実りに辿りつく。

 私は、環境問題を学び、地球環境の保全を仕事にしようとしていた途中で自然農の田畑に出会い、「ああ、自然界は完璧だ!人間は少しずつ手を引くことを学べばいいんだ!」と目から鱗を落とした。それから20年近く実践を続けてきた。メジャーな農法とは違うやり方だからと言って、それが間違ってる事なんてナンセンスである。


 TMS理論から学んだ心身治癒法・マインドボディヒーリングも、選択だ。人間の健康は、生活として心を最優先してケアすることで、ほとんどあらゆる病や症状から距離を置くことができる。生活習慣とか、菌とかウィルスとか、原因不明の理由とか、そうした外部要因にしかフォーカスしてこなかった今までの医学の見方を180度変えれば、薬も医者も病院も、応急処置以外必要なくなる。身体の健康維持のメカニズムは、本来100%十全で、死ぬまで体調を整えてくれる。それが乱れるのは、無意識の心に抑圧した感情が溜まり過ぎて、心を休ませようとした脳が身体に症状を起こすからだ。

 私は、自然農の学びの中から自然療法に触れ、身体と自然環境の営みの不可思議さを堪能してきた。そしてさらにその奥の、心が十全であるように耳を傾けることで、身体の不調が驚くほど解消されていくプロセスを実践を通して体感した。メジャーな医学とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスである。


 同様の、「本来あるメカニズム」を理解して現代社会から引き算することで十全なパフォーマンスを発揮するというスタンスは、人間行動に関わる多くのジャンルで、すでに取り組まれている。人間の内面的平静さへのアプローチであれば、ヴィパッサナー瞑想。身体の最適な動かし方であれば、古武術的発想の身体操法。相互理解やコミュニケーションであれば、ベーシックエンカウンター。荒廃した自然環境への改善手法であれば、大地の再生(環境再生)。などなどなど。

 ならば、教育もまたしかりなのだ。

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<ガラスに押し花:圧倒的な美しさ>


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<椿の花でサンダル:見事な手さばき>


・ ・ ・ ・ ・

 子どもが育ち成人へと進む過程を「未熟から成熟へ」とする見方は、実は20世紀的であり、ダーウィン進化論的であり、自然界の摂理と少々乖離した見方である。まるで、種子は未熟で花が成熟だといったような、あまりにも稚拙な視点ではないだろうか。命の営み、生命の循環、遺伝子のリレーの枠組みの中では、金太郎飴の断面のような「ここは未熟な時期です」というように表現することにあまり意味をもたない。なぜなら精子も十全、胎児も十全、新生児も十全、幼児も大人も中年も老人も、押しなべて、その時その瞬間に十全だからである。自然界には、本質的な優劣、本質的な未熟成熟の区別は存在しない。存在するのは、「関わり合い」である。関わり合いの中で、筋力が大きかったり、行動選択の幅が広かったりする個体はその役目を全うして、命を充実することに専念する(肉食動物の成獣など)。またあるいは、関わり合いの中で、今は守られながら個体の生育に集中する期間だったり(動物の幼児期など)、捕食され命を閉じたり(食べられてしまう植物や動物など)、自らの活動の有効性を見いだせずにスペースを他者に譲ろうとする(植物や菌類など)。

 これらの関わり合いを、いつしか人間は、薄っぺらい価値観の一つでしかない「弱肉強食」という言葉で染め上げてしまった。ただただ循環する生態系の中で、個体個体が、それぞれの得手不得手によって生きるべき場所を選び選ばれ続けているだけなのに。弱肉強食ではない。生態系という主役のいない劇の中で、全ての生命が自分の役を全うしているのだ。

 赤ちゃんとは、赤ちゃんとして完ぺきな存在であり、大人はどうあがいても、赤ちゃんであることにかけては全く歯が立たない存在なのである。赤ちゃんと大人の違い、子どもと大人の違いがあるとすれば、双方にできることと得意なことが違っていて、双方に歯が立たないという点なのだ。そして、刻一刻と産まれてから死ぬまでその立ち位置は変化し、混ざり合い、関り関わられ、十全に経過していく。であるなら、老人が偉い点があるとすれば、それは老人であることにかけて紛れもなく偉いというだけで、それは全く同じ意味で赤ちゃんは赤ちゃんであることにかけて老人より偉いということでもある。

 そう。先生が偉い点があるとすれば、それは先生が先生であることにかけてのみ偉いのであって、であるなら生徒も、先生と同じ量だけ偉いのである。

 これが、大人が子どもに関わる上で、本来決して忘れてはならない、自然界の法則なのだ。

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<アスファルトを大海原に見立てて(自由な発想!)>

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<食べられる山野草を図鑑を見ながら収穫♪>



・ ・ ・ ・ ・

 子どもが育つ、とは一体何だろうか。

 突き詰めればそれは、「いち個体として死を迎えるまで生き続けられるような個体へと生育させていく」ことだ。メンドクサイ言い方をすれば、「人間の構成要素と言われる、身体、心、魂(たましい)を、この世界の中で十全に経過させ、次の命へと続いていくように生育する」こと。(次の命へ続くというのは種族の繁殖のみを意味するものではない。死も、連続の輪の中に含まれる。) このプロセスは、なんのことはない。自然界では、それは半ば自動的に営まれている。胎児から老体まで、人間界でいうような「教育」は存在せず、本来の在りようとして、十全に経過していく。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして生き、子どもは子どもとして生き、青年(男女問わず)は青年として生き、成人も中年も老人もそれぞれとして生き、それで完璧。ザッツオール。大人が大人として命を輝かせて生きていれば、その関わり合いの中で子どもは子どもとして命を輝かせ、その輝かせ方を学び、ゆくゆくは大人として命を輝かせることになる。それこそが、「子育て」なのではないだろうか。

 人間にはそもそも、動物として授かった六感全てを働かせて生命活動を続けてきた、測り知れない智慧があった。人間である以上に動物であるのだが、残念ながらこれらの智慧は断絶されているに等しい。その一方、文化文明を築いてきた世界の理性と感覚の積み重なりも存在し、知識、歴史として世界に流布し、それらが現代教育の礎になっている。そしてそれこそが、諸刃の剣として現代社会の子どもたちに降り注いでいる。良い刃もあり、良いとは言い難い刃もある。残念ながらその刃は、心身の「健全性」という視点から見た時に、積極的には受け入れがたい要素として子どもたちに突きつけられてしまっているのだ。

 子どもが生き生きとして命を輝かせる場に学校が成り得ているか? この質問と答えに、それらの要素が集約されていると言っていい。

 
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 <マイ木工道具で鳥のエサ台づくり>

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 <料理本を忠実に模写する次男!>




 そう。現代の「教育」概念こそが、未熟なのだ。

 幼稚園保育園から小学校中学校高校大学就職に至るまで。ゆりかごから墓場まで、いったい何やってんの。生物として「命を輝かせて生きる」という命題に、以下の行動はいったいなんの役に立つというのか。

・時計に合わせて行動すること
・決められた席に座って一定時間動いてはいけないこと
・決められた時間に決められた行為以外をしてはいけないこと
・教えられたことを決められた日時までに暗記すること
・年齢が同じ集団での行動を最優先されること
・決められた空間に集まって過ごさなければ行けないこと
・参加の可否に原則本人の意思の自由はないこと
・ある特定の技術の出来不出来で優劣をつけられること
・指導する立場の者の指示に従うこと

 ずーーーーーーーーーーっと、こればっかり!!

 この、今の普通教育で子どもたちが身につけさせられることの原点を訪ねてみると、現代教育の出発点を見ていくしかない。教育界的には自明のことではあるのだが、それは、身もふたもなく言ってしまえば、軍隊であり工場労働者育成のための制度なのである。

 6年前、長女がホームスクーリングを始めた時のBlog記事から引用する。

-以下引用-


 そもそも子育てが、人に預けることが本流、王道になったのはいつごろからなのだろうか。それは産業革命に遡る。手元にあるサドベリースクールの書籍の一節がこう明言する。

 「産業革命以前の時期に子供が成長するのに必要とされたスキルとは全く無縁の、行動様式や初歩技術を教え込むために<教育>が動員された」

 それまで、家族の構成員の一員、もしくは社会の構成員の一員として、それぞれの受け皿の中で、ある一定の制限と自由を与えられながら、徐々に歳を重ねて、成長していったこどもたち。教育ではなく、知恵の伝授や体験の蓄積が、生活単位の中で、親であり、若者であり、老人たちによって自然に行われ、こどもから大人へと時を過ごしてきた。それが産業革命以後、資本主義経済を支える構成員を大量生産する目的で発明された学校教育が、こどもの成長過程に関与する主役にとって代わった。以後100年程の歴史の中でメインストリームとなる。そして現在、資本主義経済や民主主義などと同じスタンスで、学校教育は、疑う余地の無いほとんど絶対の社会概念として世界に蔓延している。

 実は、こどもが歳を重ねながら学びを広げ深めることと学校に通うことは、論理的には対称関係にはない。決して、「学校に通う」=「こどもの成長」ではないのだ。つい、そんなはずがないと思ってしまうかもしれないが、そもそも学校教育とは、こどもが経験を積む場所や時間のひとつの選択肢(それも極めて歴史の浅い選択肢)に過ぎず、絶対の価値ではない。

-以上-

 繰り返すが、自然農の野菜、有機農の野菜、慣行農法(化学農法)の野菜に優劣はない。同様に、どんな教育を経て育った子どもか、どんな教育を親が子どもに提供するか、も優劣はない。あるのはただ、選択なのだ。

 しかしながら、慣行農法や現代医学が世の中の主流であり多くの人が選択し望んでいることと同様、学校教育も多くの人が選択し望んでいる。社会システムとしての発明品としては極めて優れており、当初の目的に沿った、資本主義経済の構成員を要請する機関として、ある意味完成されている。

 しかし、だからこそ「子どもが育つ場」は、学校が全てではない。学校教育で子どもに身につけることが出来るスキルがあるのと同様に、学校教育じゃないからこそ子どもに身につけることができるスキルが確実に存在する。

 実例は、先駆者は、古今東西に魅力的に存在している。言わずと知れたルドルフ・シュタイナーや、古山明夫さん(古山教育研究所)や、木村利行さん(東関東子育てサポートセンター)らから、私たち夫婦は、子育てに関する革命的な視点や気づきをいただいている。日本中に、ホームスクーリングを実践する素敵な家族がたくさんいて、情報発信してくださっている。不登校などの課題感からが出発点ではあるものの、教育法制度も変化し、学校以外の選択が公認され始めている。

 ああ、自然農と一緒だ! 主流じゃない手法や選択だからと言って、後ろめたいことは何もない。メジャーな教育とは違うアプローチだからと言って、それが間違ってるなんて発想はナンセンスなのである。

 
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 <6年生(小学生)の長女に触発され、次女も植物の研究。>
 


 最初に戻ろう。

 私たち夫婦は、この人生の中での「親」としての時間を全うする選択として、

・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

 を大事にしたいと考えた。輝く大人の大先輩として、シュタイナー教育を生んだルドルフ・シュタイナーの世界観に共感した。子どもは完璧な存在で、だからこそ、だからゆえに、導き方こそが大切なのだと腑に落ちた。そして自然農を始めとする、大自然の営みと生命のダイナミズムも存分に伝えたいと考えた。

 そして2021年、家庭保育とホームスクーリングの実践フィールドとして、「こぐま学舎」をスタートさせることになった。

 こぐま学舎の【したいなー教育】は、こうした想いを胸に、ゆるやかに、ホームスクーリングをベースに、活動を進めていきたいと思います。よろしく♪

【したいなー教育】

<理念>
・子どもの心からの自発的なやる気を応援する
・子どもの魂の発育に適切な環境を整える
・子どもの「したいなー」の気持ちに向き合って伴走する
・地球の、大地の、生命の声に耳をかたむける

<約束事>
・ベースはシュタイナー教育(砂糖・テレビ・デジタルゲーム・キャラクターグッズから離れて)
・自然食、自然育児(子どもの自然な発育をサポート)に共感して過ごしましょう
・無駄に勉強しない(勉めて強いる学びではなく、折に触れての学びを)
・自分の子どもに対してと同様に、自然環境に配慮する(真の環境教育を)

<提案>
・自然農の畑、山の遊び場、古民家で、思い思いに。
・何もないけど、全部ある。子どもの「したいなー」の気持ちを大事にする。
・用意する、提供するは最低限に。大人の都合を用意周到に押し付けない。
・野良調理、木工アート、全身運動、探求、熱中、散漫、全てが「したいなー教育」です。





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 こぐま学舎は「春分」スタート。カレンダー、地球のめぐりを肌感覚でお祝い。




※フリースクール、ホームスクールなどの取り組みなどはこれらの団体などと連携して取り組んでいます※

▼ホームエデュケーションネット アロマスプーン
http://aroma-spoon.ciao.jp/

▼不登校・多様な教育ネットワーク 茨城
https://www.facebook.com/groups/2769717773281932

▼NPO法人ホームスクール支援協会
https://homeschool.ne.jp/


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2021年05月07日

雑草屋・第二章へ!

弥生廿六日 曇り時々晴れ

【立夏】(春9:夏1)
 新暦5月5日頃。始めて夏の氣配が現れて來る。

・・・・・・・・・・・・

 いやー、よく頑張った。2年間のオツトメから戻ってまいりました!♪!♪!♪

 祝!無職!!!

 祝!フリー!!!

 祝!自由気ままライフ!!!
 
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2代目飼いヤギの麦太(手前)と豆子(奥)



 お勤めの良さは、この2年で存分に堪能いたしました。地域おこし協力隊として嘱託職員ながら行政職に就き、公務員として「仕事とは」「職務とは」「公務とは」ということを肌身に沁みこませて過ごしました。任命された業務として、十分な結果を残せなかったことは悔いが残る点はゼロではありませんが、まあ良くやったと思います。力足らずの部分は個人の力量として仕方ありません。関係者の皆様には、本当に、お詫びいたします。

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 秋に蒔いたエンドウがいよいよ実をつけ始める

 
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 牧歌的な自然農の光景:刈った畝は枯れ色に、青草は茂る


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 麦の穂、立ってきました。麦秋に期待。
 

 さて、5月から、いや、二十四節気の「立夏」から、と言いましょうかね。夏産まれたるこの折、雑草屋・第二章いよいよスタートします♪ つくばでの15年の自然農活動からの、千葉県いすみ市でのパーマカルチャーと平和道場での「文化的サバイバルバケ―ション」、茨城県大子町での地域おこし協力隊勤務としての修行期間「田舎籠り実践トレーニング」を経て、満を持しての、雑草屋、再開します!!! もう、雑草屋final とか雑草屋レジェンド とかシン雑草屋とか名乗ろうかっちゅう勢い。

 WEB上の鼻息だけは荒いですが、実態は真逆♪ 2年の勤務が満了した最終日の勤務後に、長女とお祝いの90q行脚に出発して二日でリタイアした後、実家で家族とだらーんと過ごして、帰宅後も家と庭と布団でぽかーんと過ごしています(笑)。


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 下の子3人で読書会。思い思いに。

 
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 90q行脚の出発前の長女。20q歩いて父娘ともにリタイア♪
 

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 水戸の森林公園をお散歩。次男の脚力も頼もしくなってきました。


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 授乳はできない分、べったりくっついてます(笑)。



 やりたいこと多すぎて笑っちゃうけど、まずは家族の内側の最大級の自然農・自然育児・自然体ライフの充実を追及して、おまけとして、何やら皆さんに繋がる事業を少しずつ少しずつ始めて行きます。

 そうそう、大子に来る前に我々ユニットのできること望むことをリスト化していたのを思い出します。優先順位が変わったり増減したこともあるけど(ていうかほとんど変わってない(笑)!)、もう一度、目の前に挙げてみようかな。雑草屋も、自然体研究所も、四方山の活動は、こういう二人の思いと実践をベースに、これからも続いていきます。大地を愛して、大地に委ねて、大地に感謝して。

 雑草屋、小松家、のベースは、適度なひきこもり&節度のあるひらけた関係(笑)。いつでもだれでもウェルカム!とは、いかないのが雑草屋流自然体。内なる家族の心地よさと、外なる大自然とコミュニティへの感謝を、不器用に今後も続けて行こうと思います。


 
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 住まいの裏の杉林。皮むき間伐始めてます。



 

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 戴いた端材で立てた掘っ建ても活用予定。


 
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 周囲の山にも階段を作っては、探検しやすい森に。



【できること・望むことリスト2021】 

◎自然農を楽しむ時間(手順、楽しみ方)

◎ホームスクール(こぐま学舎)で過ごす子供との体験

◎大地の再生・環境再生で里山を整備する時間

マインドボディヒーリング(心身治癒法)の講義

自然療法を楽しむ視線(本、実践)

◎ベーシックエンカウンター(話す・聴く・気づきのWS)の時間

自宅出産母乳育児家庭保育の楽しさの共有

◎美味しい自然食(味噌づくりや食養)の提供・販売

◎森の力を借りたセラピー・リトリート体験

◎生きづらさを感じている方と遊ぶ会の開催

○古武術的身体操法の初心者的稽古

○ウィパッサナー瞑想会(マインドフルネスでも)

○アメリカインディアン的感覚ワーク

○持続可能な地球経済を願う意識の共有

○ヤギ2頭による通年草刈り・お世話

○シュタイナー思想・教育への少々の思い入れ



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こぐま学舎でのホームスクーリングもスタート。


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ワクワク、フワフワ、ハッピーのトンネル、くぐっていこう!


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2021年01月25日

クリキンディ

師走十四日 晴れ

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 12年前、9年前の想いは結局ずっと残り、
 12年前、9年前はまだ未開発だったエリアも、ほとんど全て開発済みとなりアスファルトに埋め尽くされた。

 12年前の個人Blog記事や9年前のFacebookでの愚痴は、結局自分の中だけの自慰に過ぎず、行動も何もしない(とはいえ、自主上映会とかつくいちとかつくサスとか、自然に寄り添おう、ってメッセージは出してたけど)まま、3年前につくば市を離れ、まだ自然が残ろうとする大子町へと移り住んでいる。

 最近とみに、山火事を目の前にしたハチドリ、クリキンディの選択に心を持って行かれてる。

 大勢はもう、火事であったとしても、「私は、私にできることをしているだけ」。

 自然に対して、環境に対して、社会に対して、ウィルスに対して、心と身体に対して、世界は自ら大火事の種を蒔き、茫然と立ち尽くしている。それでも僕らは、一滴を、落とし続けるしかない。

 これからも、耕さず肥料も農薬も大型機械も使わず田畑に立ち、自家採種して種を繋ぎ、森に手を入れ、水を活かし、エネルギー利用を最小限に、菌やウィルスをしっかり浴びて身体に共生させ、現代教育や経済優先主義に対して、ひとしずくを落とし続ける。


 
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【Facebook 2012年1月26日 の投稿】

Blogに書くほどのことでもないのでここに愚痴ります。

つくば市の研究学園駅周辺エリアの無制限のようにもとれる開発をいい加減見直すような動きや考えをもっている人はいないのでしょうか。いまやイーアス以北の広大な雑木林だった地区は完全に伐採が済み、見渡す限り木一本残らない(一本くらいはさすがにあるかな)荒野と化した。恐らく住宅地や商業施設になるのでしょう。あの森林が樹木雑草として蓄えていたバイオマス(植物資源)がいかほどの年月と自然によって作り上げられたものなのか。そしてそれをいかに膨大に刈り倒して捨ててしまったのか。その天然性は私が生きている間に取り戻すことはないだろう。

今日何気なく自転車で通ったイーアスからつくば駅に向かう途中の開発エリアに残された雑木林の存在を横目に、ここも数年(もしくは数ヶ月以内に)全て刈り倒されるのだろうかと想像すると、もはやつくばはロハスでもつくばスタイルでもなんでもないただのベッドタウンになりかねない、と大げさに言えば絶望的な気持ちになった。 この開発のバブルだけはどうにも共感するかけらもおこらないです。 LOVE つくば。
(友達限定投稿 https://www.facebook.com/manabu.komatsu.9/posts/240401242704682



【毎日が自然農 2009年5月19日 の投稿】

 つくばエキスプレスの研究学園駅から、住まいのある栗原地区へ車を走らせるといつも、鼻の奥のほうから臍の下の辺りまで、深刻な不快な気持ちが染みのように広がる。


 「つくばスタイル」という言葉がある程度定着し、つくばエキスプレスの駅周辺の開発が進められている様子を見るまでもなく、つくばは開発の波に飲まれている。小生が1995年に筑波大学に入学した頃のつくばに比べても、その変化のスピードは驚くべきものである。

 まだ。まだ具体的な言葉にすることができない。しかし、研究学園駅からイーアスを過ぎて筑波山方面へ向かい、西大通り(国道408号)と交わるまでの新道路の左右に広がる景色を毎度眺めるたび、暗澹とした不安に襲われることだけは記しておく必要があるのだと思った。そこで目に映る区画だけでは決してない、はるかに大規模な面積で、今つくばの森と林が切り倒されている。自然農の田畑などとは比べ物にならない、はるかに大きな生態系が、つくばの地で今まさに、そして明日まさに、消え続けている。伐採、整地、宅地化、開発、まるで一方通行な光景。そして、それに疑問を差し挟む余地がないような、熱と、理屈と、人間の目指すもの。

 おい、日本にそんなに人がいるのか?そんなに無作為に木を切り倒してどれだけの価値があるものが建つんだ? ブルドーザーが均し終えた剥き出しの土の上に降り立つカラスの群れは、今後の棲みかをどこに移せばいいんだ?ロハスって何?

 おしゃれで手軽な田舎暮らしは、まるで無神経に見えてしまう乱開発の上にしか成り立たないのだろうか。果たして。


 今、小生にできることはわからない。自然農を静かに歩みつつ、いったい何ができるのか。これ以上、今以上、無駄に木が切り倒されるのなら、つくばスタイルなんていらないんじゃないのか。適度な、適切な、つくばの生き方は他にないのか。政治では変えられないのか。経済ではもがくだけ無駄なのか。しかしこの「モヤモヤ感」だけは、放っておくわけにはいかないのだ。

 ぜんたいつくばの人は、旧住民は、新住民は、開発業者は、行政は、どんな想いなのだろう。小生は、なにかできるだろうかね。何もわからないまま、書き連ねてみる。希望も絶望も、一歩踏み出すことからしか始まらない。

(「消えゆく前に」 http://104.seesaa.net/article/119298934.html


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※ハチドリのひとしずくについて紹介されているサイト
 https://handsoul.exblog.jp/11572141/
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2021年01月05日

ダンス ウィズ ウィルス

霜月廿二日 晴れ

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 令和三年、西暦2021年。新暦、あけましておめでとうございます。今年も、変わらず、自然農、自然体をベースに活動を続けてまいります。どうぞよろしくお願いします。

 元来働く(人のために身体を動かす)ことがおっくうなたちなので、社会全体が厳かに賑やかにほころぶお正月は、ずっとこのままのんびり春まで布団で過ごしたいなあ、と思い続けて朝酒を楽しむのが常。今年は、どうやら社会全体の空気が、お正月の麗しさの背後に誰かしらからもたらされている不信感不安感がべったりと張り付き、私もついつい、不本意ながら仕事始めを迎えている。(もちろんこれは方便で、いただいている職務を全うしているだけであります♪)


 このBlogを始めて以来、ずっと旧暦(太陽太陰暦)を併記して続けている。文頭にある通り、本日は霜月二十二日。師走も来ない、冬の暮れ。月の巡りに太陽と季節を重ねた旧暦も取り入れてきた私たちは、毎年同じ時期に暦が訪れない「ズレ」を、習慣として、身体感覚として、記憶として、身につけて暮らしてきた。本来、新年、新春、迎春は、立春(2月4日)に近い新月。人間は古来より、目に見えぬものは神の計らいとし、目に見えるものは身近に引き寄せて創意工夫を積み重ねて生きてきたのだ。文化として、技術として。もちろん、新暦の正月も、めでたいし、美味しいし、楽しいんだけどね。もちろん。

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 ところで。私たちは、いったい、いつからウィルスに曝露(※)することを恐れ続けて生きるべき存在に成り下がったのだろうか? 私は今、いったい世の中で何が起きているのかを、心から理解することはできていない。同時多発テロが起きた時も、東日本大震災が起きた時も、一昨年の台風被害が発生した時も、信じられない思いを抱きながらも、そこから始まる人間の行動の一進一退を見聞し、現実世界を理解して、できることをやるしかないと生きてきた。

【※現在、主要メディアが延々と垂れ流しているPCR検査の陽性者人数は、控えめに言って「曝露」であり、決して「感染」数ではありません。】

 果たして今、この世界で起きている、(特に日本社会で起きている、)例年のインフルエンザよりも現実の数字として疾患の恐怖が少ない(正確に言えば社会活動を犠牲にしてまでの行動制限を課すべきか、例年のインフルエンザ流行や他のウィルス性疾患と比較しての明確な根拠が存在しない)新型コロナウィルスへの大混乱は、受け入れるべきパニックなのだろうか?神の計らいとして、甘んじて受け入れるべきものなのだろうか?

 新暦の年末年始をゆるいデジタルデトックスして過ごして改めて実感しているが、俯瞰で見れば、月や地球の運行、季節や大自然は、ウィルスと人間のダンスなんて意も介さずに動き続けている。畑に、森に、ウィルスパニックなど、訪れやしない(もちろん時折の、いち作物へのウィルスによる病気の蔓延などは発生します)。ネットもテレビも喧噪も、一歩離れてみると、実は我々は、現実体験として「ウィルス」に慌てふためいているのではなくて、「与えられた情報」に慌てふためさせられていることがよくわかる。自然農の畑には、コロナウィルスもインフルエンザウィルスも破傷風菌も存在していて、自然農の畑をPCR検査にかければ陽性となって感染畑になる。PCRの技術開発者であるキャリーマリス博士が断言しているようにPCR検査は、ウィルス感染症の感染者判定に使用してはいけない。新型ウィルス騒動におけるPCR検査の理屈は、花粉が洋服に着いている人を花粉症患者だと数字化して慌てているだけだと指摘する声もある。

 テレビやマスメディアからの情報を制限(遮断、選択、批判的思考で判断など)している人にとって、コロナウィルスとは、ちょっと海外で流行ってるらしいウィルス性疾患を引き起こすウィルスである。なので、疾患や通常状態として体内免疫が低下している方において、通常、あるいは少し早い進行の風邪疾患として、健康状態を損ねさせることがある。もちろん、例年のインフルエンザやその他風邪関連疾患の間接的影響による重症者・死者と同様の理由による影響も存在する。自然農、つまり本来の自然界(人間様式と大自然の狭間)の目線で眺めれば、新型も旧型も変異も強弱も、ウィルスと人間の織り成す組曲として、すべてはこれまで何十億年と繰り返されきただけに過ぎない。私たちは、ウィルス曝露を避けるために生きているのではない。ウィルス曝露しても、増殖・感染しないようにできる限り恒常性を保つために衛生学や生理学や栄養学が発展し、恒常性を損なって症状が発生した際の医学であり看護学が発展してきた。いうなれば、ウィルス感染は避けようがない生きる限り存在する必要要素として生命に関わる学問が発達してきた。エボラやエイズでもないウィルスに対して、曝露する(取り入れる)ことにこれまで血眼をかけてきた歴史は存在しない。


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<手作りの門松、注連飾りで、正月を迎えることができました>


 目の前の、微生物はウィルスは敵ですか? これまでも、これからも、地球上に生成されるウィルスは、今後地球消滅まで、存在し続ける。インフルエンザウィルスが、毎年、延々居続けるように。新型コロナウィルスは、私たち人間、動物、植物という多細胞生物を親として派生した、因果関係のある共生者でしかない。これからも一緒に居るし、インフルエンザ同様、それぞれにウィルスの個性を持ちながら、人間の好不調の波をサーフィンしつづける存在である。

 敵でもないモノを恐れることも必要ないし、敵でもないモノが遠ざかることを願うことも必要ない。

 今、この瞬間、2020年の年末も、2021年のお正月も、「ウィルス情報」とダンスする人と、情報とは躍らずに「ウィルス」とダンスしながら共存する人がいただけ。踊りたくもないダンスを踊るために我々は生きるのだろうか? マスクを付け続けて、免疫力を下げる殺菌消毒を繰り返して、会って抱擁して笑顔で会話することを否定されて。
 生きるとは何か? 今この瞬間に手にしていないことを願って望み進むことが生きることではない。神頼みは、天と自分の人生についてするもので、社会にするものではない。社会へするのは、働きかけである。今、この場で、いかに息を吸って歩みを進め泣き笑い語り座り寝ることを、ただやりきることが、生きることだ。

 山羊は、今、その場で、草を食み、座り、寝る。たとえ次の瞬間にウィルスや細菌に体を侵されようとも、その瞬間を生き続ける。自然農の野菜たちは、種を降ろされたその場で、根を伸ばし、草間の中で育つ育たないを選択し、あるものは種を残し、あるものは私たちに提供され、その瞬間までその瞬間を生き続ける。私たちがダンスすべきなのはウィルスとであって、情報ではない。

 毎日、毎日、その場に起きていることに対して、自分の心身のできる範囲で、向き合うだけ。それ以外のことは、ただのおまけ。

 であるなら、この世のすべてのコロナ対策は、おまけのことに過ぎない。おまけに心も体も魂も踊らされることを、私は選ばない。おまけは、遊びだ。遊びなら付き合ってもいい。遊びなら、踊ってもいい。遊びだから、悩む必要はない。

 だから私たち家族は、友人からいただいた孟宗竹と裏庭の南天で門松を作り、2年前の藁でしめ縄飾りを作り、「感染を恐れる」という風習から心を遠く離れて、新暦の正月を楽しむだけなんです。だからこそ、お屠蘇でいただく自然派地酒やビール、家を照らす電気、水道、その他すべての正月休暇を彩ってくれる社会資本により生かされていることを自覚すれば、この風潮からただ遠ざかっていれば済む話ではない。この風潮に否応なしに巻き込まれて、どうしようもなく選択しなければならないことも重々承知している。ただ、ただ、私ができる事は、メディアが報じているようなスタンスではない選択をしている人もたくさんいるよ、と伝える事だけではないだろうか。

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 巷で、見識者や指導的立場の方々からの「この事態が収まっていくことを願う」という言葉に、違和感しか感じない。自粛も、制限も、選択しているのは私たちの判断だ。であるなら、紡ぐ言葉は「このパニック状態から抜け出す方法を、みんなで見つけ出そう」ではないだろうか。襲い掛かった厄災という考え方を捨てて、本当に気をつけるべきことと大事にしなければいけないことを導き出そうよ。

 自然農農家であり、自然体研究家であり、地域おこしに少しだけ関わる者として、おまけも携えながら、今年も田畑に立ち森を歩き身体を観て、探求し続けよう、思いを新たにしている。


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2020年11月29日

What a wonderful day !

神無月十四日 晴れ

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 土曜日。お勤めに出る身であることが理由にはならないが、午前11時まで、布団に入って過ごした。朝方から時折、妻と子どもたちが丁々発止でワイワイやっている声にうしろめたさも感じつつ、ものの5秒で意識は薄れ、また惰眠へ。

 あ、ヤギたちを小屋から出すのって、あいつら出してないだろうなー、そろそろかなー、と思い至り、モゾモゾと、日差しが気持ちよい縁側へ這い出した。

 
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 もうすぐお昼だけど、妻とコーヒーを淹れて、来年何蒔こうかねえ?と、在来種専門の豆屋さんのカタログを眺め、あれもこれも、とメモしていく。日本でずっと育てられてきた在来種の種を譲ってもらって育てて残していけたら最高だねえ、と笑う。そのうち、庭先でベネチアごっこ(絵本がきっかけの、謎の遊び)に飽きた子どもたちが、お腹すいたーとシュプレヒコールをあげてきた。そこで我が家の労働組合長である長女をなだめすかして、うどんを茹でて柚子のぶつ切りをのせた柚子うどんを作ってもらう。

 13時も過ぎ、あー、蕎麦の脱穀いい加減やらないとまずいな、と夫婦共通の懸念事項に合意し、まどろみタイムに終止符を打って、外着に着替えた。あとは、妻は大豆の脱穀、私は蕎麦の脱穀、子どもたちは遊びとお手伝い半分半分で日暮れまでみんなで過ごした。

 あーーーー、楽しい!!


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 森と遊ぶ、畑と遊ぶ、身体と遊ぶ。

 そんな日々を暮らしたい。暮らしているし、これからもそうやって暮らそう。


 今、この瞬間に生きる喜びを最高に感じることは簡単じゃないけど難しいわけでもない。そのヒントはいくらでもある。ヒントは世界中に転がってるし、ヒントを持っている人もたくさんいるし、視点さえ変えれば自分の中にもいっぱいある。

 その遊ぶ時間を、楽しむ時間を、育む時間を、率先して喜び、そしてシェアしたい。

 畑って楽しいよ〜。
 森って楽しいよ〜。
 身体って楽しいよ〜。
 子どもって楽しいよ〜。
 人間って楽しいよ〜。
 世界って楽しいよ〜。

 って、どんどん実践して発信して共有すれば、それで生きていけると思う。世界中でどんなに困難な状況があると見聞していたとしても、世界は自分の中にしか存在しない。自分の楽しさを抑える口実を世界に押し付けるのは、違うと思う。


 ・森に入って、裸足で歩きながら全身を感覚器にして時間を過ごす。そこで感じるフィーリングは、地球上の全ての生命と繋がっていて、生きとし生けるものの悩みや喜びや苦しみや慈しみや憎しみに通じている。
 ・自然農の田畑に立ち、人が口にすることができる植物を愛で、食べ、雑草に包まれながら人間以外の動植物の全循環を知る。地球の全ては、食べることの繋がりを通して成り立っている。
 ・呼吸を穏やかに瞑想し、身体を観察し、思考を眺め、自分の来し方と行く末から離れて今のこの瞬間に目を凝らす。自分がそのものとして生きる奇跡を感じることもあるかもしれない。環境「問題」とか社会「問題」とかは、自分がいなければ存在していない。
 ・火を囲み、座る。沈黙をベースとした時間の先に、会話はコミュ二ケ―ションのいち手段に過ぎないことを知り、だからこそ、口から言葉を紡ぐことの大事さを感じる。
 
 こんな面白いこと、何日もかけて、掛け値なしにやりたい。何やろうかなー♪
 いいと思うこと全部やって、社会はwonderに満ち溢れていることを、恩着せがましくこれでもかって表明してやる(笑)。面白いことは、そりゃあ面白い。だからどんどんやろう。

 そして同時に、だからこそ本来のベースは、妻と家族との毎日の自然農から広がる、本当の意味で地に足のついた、シンプルな暮らしなのだ。

 
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 いやあ、それにしてもいい一日だった。欲張りに聞こえるのか、それとも真逆に聞こえるのかは正直わからないけど、もうずーっとこうやって生きていければいいや(笑)。What a wonderful day!

 脱穀した蕎麦(常陸秋蕎麦)の殻付きの実を、どうやってそば粉にまでするか、なーーんにもめどが立ってないけどね!
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2020年11月21日

どう生きるか

神無月七日 晴れ

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 茨城北部に移住して、季節が一周半した。二回目の秋、サツマイモはまあまあよく育ち、大豆と小豆は妻が奮闘して豊作、大根も良い感じ。

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 ただ、どうしても、言葉が出ない。

 パートの身分とはいえ、公職に関わることでこんなにも言葉が出て来なくなるとは、不惑を越えたおっさんになっても思いもよらなかった。

 畑のこと、田んぼのこと、森のこと、心のこと、身体のこと、食のこと、環境のこと、命のこと。毎日毎日、布団に籠り、後ろ髪を引かれながら着替え、ヤギを小屋から出し、時折畑に出たり出なかったり、職場に行き来し、人と交わり、妻と子と話し、食事し、暮らす。感じること、思うこと、伝えたいこと、が喉の奥から出そうになり、キーボードに指を置くたびに、手が止まる。

 向き不向きで語れるのなら、こんなに向いていないなんて(笑)。

 田畑に向き合い、大自然に向き合い、身体に向き合い、そうして立ったこの足で、人と交わり、言葉を選んできた。人の目、人の思惑、を決して優先せずに、想いを最優先して。だから今、言葉を出すことができない。

 先日の新月カフェで、「小さなことがきっかけでどうしても心が前に進めなくなった時にどうしてますか?」というテーマが話された。私は、この一周半の巡り合わせで体感していた、森や自然から受け取れる、天然のヒーリング作用をお伝えした。フィトンチッドや1/f(えふぶんのいち)ゆらぎや酸素濃度やそれら自然の恵みによる生理学的な機能としての、リラクゼーション効果や健康増進効果は、確かに偉大である。

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 しかしながら、心身相関、心身合一のメカニズムに携わってきた身としては、それらの限界も、一方で明確に感じている。森や大地のもつセラピー効果は偉大であると同時に、人は、「どう生きるか」に心の底で触れていない限り、それは脇役に甘んじることになる。

 例えどんなに森に暮らそうとも、心身に不調は発生するし、例えどんなに自然から離れて暮らそうとも、心身に一点の不安もない生き方も可能なのである。

 だから、それぞれ皆、自分にとって生きやすい場で生きるべきなのだと信じる。畑に立ち、森に入り、布団に入り(笑)、時々人と交わる。それこそが、自分の立ち位置なのだと、自覚は益々高まっていく。
  
 私は、公職に生きるべきではない。生きるべきではないが現実には生きており、であるなら、世の習わしには応じ、バランスをとる。しかし、生きるべきではないので、続けることはすべきではない。であるなら、明確であり、契約期間をもって、次のステップへ移行する。

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 もちろん、縁あって今の仕事につけたことで、無職6人家族が謎の里山暮らしをスタートさせて周囲から好奇の目だけで見られてしまうという、移住前に恐れていたような残念なスタートを切ることは避けられた(笑)。この幸運は計り知れない。この町で活動する様々な分野の方と繋がるきっかけでもあり、すこぶる有意義な仕事にも恵まれた。森の効能を存分に学び体感する機会と、事業に取り組む時間は、今後の糧でしかない。また、空き家や移住に関わる職務は、山間地に暮らす上での課題をまざまざと体感することができたし、今後の最重要課題であることも間違いない。この縁に、感謝しかないことは言を俟たない。そして、繰り返すことにはなるが、自身の方向性も改めて確認することができた。やっぱり私は、自分以外の思惑の中では、十全に根を伸ばす才能がないのだ。


 一周半は過ぎ、二周目はあと半周残っている。皆さんと一緒に、半周を存分に楽しむ。さあ、三周目は、いよいよ、大地に存分に立つ。妻との想い、子らとのワクワク、そして何よりも、自分のムクムク。

 地球のためでも、世界のためでも、日本のためでも、地域のためでもない、ましてや、誰かの思惑のためなんかでない、自分のためからの発進、発信、発震。「どう生きるか」。それこそが、未来の魂と直結する唯一のアクセスコードだ。

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 芋掘って、焚き火して、竹細工して、自然食囲んで団らんする。ああ、これだけで。生きていける。(いや、もっとか。ああ、それこそ、書ききれない(笑)!!)


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2020年10月06日

ぎっくり来たりて、ぎっくり去る

葉月廿日 晴れ

2020年2月の記事で、「ぎっくり腰」にすんでのところでなりかけてならなかったドキュメンタリーをお届けしたが、今回は、残念ながら発症してしまい、その後の回復までの経過の全てをお送りいたします。

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《天高く 馬肥ゆる秋 ですね》



<前兆、そして一日目>

 2020年10月1日、木曜日の夜。腰に違和感を感じて、そのまま何もせず。

 翌日、金曜日。終日仕事(会議、散策、デスクワーク)をこなし、日中は違和感を忘れるほどだった。ただ念のため、デスクワークの合間に、無意識の抑圧感情にフォーカスする「イヤ!チェック(ストレスケアのワーク)」を行ったが、さして効果は感じられなかった。

 それでもその夜は、見て見ぬふりをした過ごした。この痛みに覚えはある。マインドボディヒーリングの勉強会で毎度説明する部位、いつものあそこ、腰の上部10p程の背骨の左側。いつものその場所に、久しぶりに訪れた、鈍くて重い、きりきりとした刺激感。そう、それは明らかに腰痛のサインだった。にもかかわらず、私は行動しなかった。ストレスケアも日中にした、大丈夫、明日になれば消えている、と。過信はしていなかった、と言えば嘘になるだろうか。今思えばここが、引き返せる最後のチャンスだったのに。


<二日目>

 明けて土曜の朝、コトは起きてしまった。絶対に会いたくなかった、久しぶりにやってきた、魔女の一撃。私は数年ぶりに、本格的なぎっくり腰に襲われてしまっていた。立てない、動けない、ただただ、痛い。「朝起きる」という選択肢は、その瞬間に、消え失せてしまっていた。

 そんな時に限って、土曜の午前と日曜の午前には、森の中でのボランティア作業。さらに控えるは、土曜の午後の、マインドボディヒーリング講座(オンライン)。絶対に身体を動かさなければならない用事と、心で身体を治癒する内容を他人に伝える時間のコンボを前に、起き抜けに布団で動けなくなった私は、ただただうずくまるしかなかった。

 すぐさま、塞ぎ込みたい頭を振り動かす。治し方はわかってる。過去の実績を思い出し、布団の中で神にもすがる思いで、心身治癒に取り組む。TMS(心身性症候群)のメカニズムをあらゆる側面から思い出し、「身体(ここでは腰)に異常があるわけではない」「無意識に抑圧されたナマ感情が溜まりに溜まって症状が起きている」。はっきりと、自信をもって、脳に語りかける。

 同時に、いったい無意識に抑圧してしまっていた自分の感情は何だったかに心を向ける。「あれにこれにそれにあれ、これもそう、あれもそう、きっとそれだって違いない、やだやだやだやだ、いやなことばっかりだー」と指折り数えてイヤ!と数え上げていく。紙に書きたいところだが、布団から出るには身体を動かさなければならない。それはできない。痛い! 自分にできることはした、あとは数分、待ってみよう。

 そう。いつものように、心のケアが功を奏し、身体の痛みは存在理由を無くし、消えてゆく。



 ・・・はずだった。・・・絶対に、そうでなければ、ならないはずだった。


 しかし今回は、痛みが引いてくれることは、なかった。森に出かける時間が近づいても一向に腰の痛みは消えず、むしろ酷くなってさえいた。私は申し訳なさと、普段公言しているからこその恥ずかしさも加わった無念さを胸に、ボランティア作業への欠席を連絡するしかなかった。

 オンライン講座の休講も考えた。痛みを抱えたまま朝を過ごし何もかもやる気を失ってきていたが、一縷の望みが浮かんできた。そうだ、講義することで、痛みが消えるかもしれない! 過去にもそれは顕著だった。勉強会(講座)を開催する時に、自分に花粉症の症状が出てたり、頭痛が起きていたりすつこともあった。しかし、そうした症状は、講義後にきれいさっぱり治まってしまう。TMS理論を参加者に伝えているうちに、自分の無意識の奥底の理解が深まる上に、一緒にストレスチェックも行うことで、心身治癒が自然に行われるからだ。
 
 であるなら、やるべきことは一つ。なんとしてでも、オンライン講座を開講するのだ。歩けない身体をなんとか動かし、妻に全面的に準備に協力してもらい、ぎっくり腰でもなんとか講義可能な環境を用意した。思いはひとつ、講義後の全快、を一心に願って。


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《自然農の畑の大根 草の中で育ってます》


 少人数ながらも、いつも通り、マインドボディヒーリング講座は楽しく進めることができた。講義中にも腰の痛みは存在感を放っていたが、きっと、良くなる。ほら、参加者の表情も晴れてきた。TMS理論は、みんなの痛み、症状を和らげてくれる。講義後の感想も、嬉しいものだった。よし、終わった。さあ、腰は、どうなってるかな。

 そう。いつものように。自分の脳が心身治癒のメカニズムを再認識して、痛みが消えてゆく。
 
 はずだった。絶対に、そうでなければ、ならないはずだった。



 ・・・しかし、だめだった。晴れやかな心とは逆に、身体は、痛みにうずくまる一方だった。

 笑ってもみた。子どもを寝かしつけ、インターネットで爆笑動画や、オンデマンドのバラエティ番組を見続けてみた。面白かったし、笑いもした。でも。だめだった。笑いに包まれて布団に入って、目覚めを期待した。


<三日目>

 しかし起きた頭へ届く第一報は、腰の激しい痛みだった。こうして日曜のボランティア作業も、無念の欠席を選ばざるをえなかった。

 もう、どうでもよくなってきた。ダンゴムシみたいに床を這いずり回り、子どもたちが、笑ってくれていた。
 土日の身体を動かす用事がすべてキャンセルになって、もう、いろいろ諦めてきた。長女が焼いてくれたパンケーキと妻と一緒に入れたインスタントコーヒーを、縁側で楽しんだ。美味かったし、この時間の緩やかさに、感謝の気持ちが湧いてきた。うん、身体を休めることって、悪くない。

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《今年初めてチャレンジした常陸秋蕎麦が開花中♪》


<四日目>

 月曜日。まだ強く痛むが、仕方なしに通常の仕事に戻る。慎重に車に乗り込み、腰のひねりや足の上げ下ろしに気を付ける。姿勢によって、足の動かし方によって、鈍い痛みが走る。しかし不思議なことに、全快には程遠いのだが、「ああもう、治癒のラインに乗ってる」と実感が湧いてくる。これ以上、強くなる不安がサラサラないし、長続きする予感が完全に消えた。(このあたりは、マインドボディヒーリングの実践者にはわかってもらえる感覚かもしれない。)

 また、日中に明確な変化の一つに気付く。痛みの箇所が、腰骨上右側3pに移動していた(発症当時は、腰骨上左側10p)。構造的な疾患ではなくTMS(心身性症候群)だという根拠がまた一つ上塗りされた。(※腰の骨や神経などの異常や損傷が原因であれば痛みの箇所の移動は説明がつかない。)
 そして夜、さらに気分を一変させようと、車を走らせ、暴飲暴食ツアーに飛び出した。健康とか自然派とかを全く無視して、目についたモノを食べまくる。普段はバカバカしくてもったいなくてやらない行動を、あえてやってみる。気持ち悪くなる直前まで、思考を外して食べまくってみた。

 深夜に帰宅し、繕い物をしている妻に、留守を詫びて買って来たプリンと共にコーヒーを淹れる。互いに読みたい本を読んで、面白い個所を紹介しあって、夜更かしして、睡眠。気付けば、私の左腰から右腰にトレードした痛みは、ほとんど存在感を、消しつつあった。


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《今が旬!の枝豆が神々しい》


<五日目>

 火曜日。存在はある。右腰に、いる。勤務中のデスクワークはもとより、出勤前の畑での草刈りや帰宅後の種まきでの、前かがみ、屈伸、前屈、腰の曲げ伸ばし、動作の度にピリリとした違和感はあるものの、動作中に気にかけることは殆どなくなった。時々患部が、「僕まだいるよー。忘れないで―。」と主張する。しかしそのたびに、「もうだいじょうぶ。忘れてないし、ちゃんと気づいてるから。治っていいよ。」となだめる。

 完全に消えたわけじゃない。

 だけど、腰に違和感を感じてから5日、ぎっくり腰が発症してから3日、私は「腰への恐怖」から完全に抜け出した。動かすことも、走ることも、捻ることも、もう大丈夫。 ・・・いや違う! 三転倒立と鋤のポーズ(ヨガ)はちょっと怖がってることに気付いた(笑)。そうだ、何事もすべてすぐにウマくいくことはない。痛みも、存在はしている。ただ、このままスーッと消えていくことだけは知っている。血を流した傷がかさぶたとなりはがれていくように。風邪をひいて熱を出して、やがて熱が下がっていくように。

 6年前は、5日経ってもやっとのことで車の座席に座る程度で、畑になんて全く出られなかった。腰にサポーターを巻き、恐る恐る立ち、座り、過ごしていた。
 それが今や、腰のサポーターも、痛み止めも、整体も、マッサージも、なーーーーんにもしてない。妻と子どもが、寝っ転がっている自分に、モミモミしてくれたくらい♪ 

 このまま、きっと、あと数日は、存在は残る。でも、怖くない。自分の腰は、どこも悪くない。心が、自分を休ませるために起こしてくれた、最善のサインだったのだから。
 
 きっとまた、どこかで再会することもあるだろう。いや、もしかしたら今回が、最後の別れかもしれない。そう、どっちでもいいのだ。病は心から、なんだから。常に心にフォーカスして、暮らしていけばそれでいい。

 このことに気付かせてくれて、ありがとう。
 

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《大地に、天に、心身に、感謝》
 


<まとめ>

 ぎっくり腰になる直前に回避した2月のレポートとはまた違い、今回は、実践として役に立つような内容にはならなかった。ただ、ぎっくり腰に代表されるような身体に起こる急性の疾患(そういえば9月末には、全身に激しい蕁麻疹が発生して、それも4日で寛解しました♪)に襲われても、マインドボディヒーリングを体得していれば恐れることはない、ということの一端が伝えられたのではないかな。


 オンラインでも、オフラインでも、畑でも、森でも、いつでもどこでも話せるから、いつでもご連絡くださいませ。


★マインドボディヒーリング(心身治癒法)は、『身体と心の自然体研究所』の中で詳しく解説しています。

★妻も、色々な持病に対処してきたので、こちらも合わせてご覧ください。⇒『雑草屋の嫁日記』



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《裏山で木登り この眺めが好き》


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2020年07月17日

笑う門には

閏皐月廿六日 曇り

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 なんだか不思議と言えば不思議な一日だった。

 あれはもう、2年も前のことだ。

 マインドボディヒーリング、心身治癒法という名で、「潜在意識のストレスに注意を寄せることで身体の症状を変化させる」活動を行っていた身でありながら、そのころの2週間ほどは、腰痛に苦しんでいた。アメリカのジョン・E・サーノ博士の理論は、実際私のぎっくり腰を何度も治癒し、花粉症、片頭痛、など片手では収まりきらない諸症状を劇的に改善させてくれた。その身でありながらの、なかなかしぶとい、ここ数日の強めの腰痛に心身は結構な悲鳴を上げていた。「なんで治らんの?今までの取り組みは間違ってたの?なぜ消えないの?」と。

 腰痛があらわれたのは、2018年春、長年住み慣れたつくば市からの移動(文化的サバイバルバケーション。詳細は「動くよ」を参照)を決定するかしないかの時期である。当然、慣れ親しんだ町からの移動、引っ越しに伴う荷物の整理、諸業務の調整、タイトなスケジュールに、意識的にも無意識的にもストレスは顕在していた。さらに日々の家族とのやり取り(上手くいくことも上手くいかないことも当然あるわけで)、そして一向に上向かない身体の状態もプラスされたネガティブ感情は、習慣化したストレスマネジメントでは太刀打ちできないほど膨らんでおり、私の腰は、治る気配が見当たらなかった。

 腰を痛めた期間中、自然体研究所のイベントとして人様に「マインドボディヒーリング」の講義をしたのも2回。そこではどちらも正直に自分の現況を伝え、苦笑いしながら、参加者とともに改善を心から願ったりもした。結果、話すことで自分の認識が深まり、わずかに快方に向かうのだが、しかし翌日にはさらに痛みをますのであった。それでも引っ越し準備は続き、妻とも腰への対処を相談しながら、はてさてどうしたものかという数日が続いたのだった。

 
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 <大子町の清流で、川遊び@昨年>


 そんな中の、とある日の、外出した帰宅後の夕飯前。 
 腰痛は、ほぼほぼ、きれいさっぱり、姿を消していたのだった。

 「あれ?この姿勢は? お?この前かがみも? どこまで大丈夫なんだ? え?痛くないの?」

 ほんの数時間前まで、「痛いなー。これいつまで続くんだー、昨日より痛み増してないか?」と嘆き悲しんでいた感覚が、気づけば嘘のように消えている。
 
 帰宅して、着替え、やっぱり痛みがないことを確信した私は、「あれだけ自分でマインドボディヒーリングしてたのにダメで、今回のストレスには参ったと思ってたのに、驚きの展開!」と、感動と共に、少々興奮気味で妻に話しかけていた。と同時に、自称「自然体研究家」として今回のこの変化を、冷静に考えてみることにした。

 なぜ、私の腰は、痛みを収めたのか。別の言い方をすれば、心はなぜ、もう痛みを出さなくていいと、判断したのか。おのずと答えは、痛みが治まる前と後の間の、私の過ごし方に隠れている。

 その日の午後。土浦保健所で開催されていた、「ひきこもり当事者を家族にもつ親御さんの会」に参加。ひきこもり大学茨城の末端スタッフとして、あるいは、ひきこもり当事者限定の対話イベント「新月カフェ」の進行役としとして、縁があってちょくちょく顔を出させてもらっている会。そこで私は、自分はひきこもり歴なしの素人のくせに、悩めるお母さまたちと、悩み、笑い、雑談した。自分でもこれはなかなか的を得てそうだなと自画自賛できそうな提案もできたりしたことや、最初は眉間に皺をよせてテーブルを囲んでいた方々が終わりのころは表情がほぐれて笑顔も見られたことで、なんだかとても嬉しかった。数週間ぶりにお会いした元当事者の友達の顔も元気そうで、それも嬉しかったことをよく覚えている。

 会が終了し、いつものごとく、懇親タイムとしてファミレスに場所を移した。その日は珍しいことに、会の代表のお母さんであるご婦人も参加してくださった。話好きのお母さんのハートフルな雰囲気もあって、私はいつものように軽口を叩き、レベルの数段落ちる毒蝮三太夫のような振る舞いで冗談を言ったり自虐を言ったりして、和やかな時間が過ぎていった。自意識過剰ではあるが、皆の笑いもとった自信もあった。

 この出来事の中に、いったい何が私の腰痛が消える要素があるだろうか。

 それは、親の会で感じた、「手ごたえ感」だろうか。普段、自営業ではなかなか他人に価値を提供できているかどうか自覚しにくいという、無意識的な自己否定のストレスが、その日の手ごたえ感で消えたのだろうか。
 あるいはファミレスでの、軽妙に笑いをとれた会話での、他人を喜ばせることができたかもしれないという達成感が、自分の中の微妙な劣等感を払拭してくれたのだろうか。
 はたまた、雑談中にでた、私自身の中学時代にいじめを受けたことの軽い告白が、無意識のトラウマを解きほぐしてくれたのだろうか。

 そこまで考えて、妻が、助け舟をだしてくれた。
 「いっぱい笑えたからじゃない?」

 え? 笑い?

 そう、そうか!それだ! 

 保健所での親の会でも、そしてなによりファミレスでの、皆さんとの会話で、私は遠慮なしによく笑っていた。自分の話が的を得た気がしたのも確かに嬉しかったが、なによりも、くだらない妄想話やふとこぼれた本音話などで、皆さんと、不謹慎なくらい良く笑った。自分のイベントなどでの、難しい顔して話す、ストレスとは〜とか、自然体とは〜とか、心と体の相関関係とは〜とかいった(それはそれで大好きなんだけど)真面目に探究する時間ではなく、くっだらない馬鹿話をして、屈託なく笑った。子どもみたいに。両手を叩いたりして。

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<長女5歳の時。大人はなかなかこうは笑えない。>


 そしてそれが、確かに、私の腰の痛みを取り払ったのだった。きれいさっぱり、何事もなかったかのように。自分がいつも他人に提案してるストレスチェックでは届かなかった、その奥に手が届いたかのように。見事に、効果的に。

 馬鹿笑いした時間を過ごした後、私の腰痛はもう役目を果たし、元の通りの傷める前の腰に、あきれるほどの短時間で戻ったいた。近代医学的な処方、投薬、治療に、一切頼ることなく。あれほどまでに、苦しんでいた腰の痛みが、かげろうのように消える、この事実。

 「笑う」ことの効能。笑いが、心だけでなく体に直接好影響を及ぼす。子供みたいに笑う。馬鹿話を楽しむ。そのことは、講義の中で、余談として、あるいは副次的なサポートとして扱うことが多かった。なぜなら、それは、個人的な実感を得る機会が無かったからでもある。

 しかしこの体験を振り返って、心身治癒法の、さらなる進化を確信しつつある。

 「笑い」という行動は、人間という生物が、「安心感」や「充足感」や「幸福感」を脳に直接知らせる行動である。表情筋が笑顔になる時、ポジティブなバイブレーションで腹筋が鼓動する時、身体の中の様々な感覚器官が、「今は最高に安全で喜びに満ち溢れていて大丈夫な、時と場所にいる」と認識することは、脳にとっては何事にも代えが効かない、ストレスフリー状態なのではないだろうか。これは、身体側からのアプローチが心に作用を及ぼすという、心身相関のメカニズムに沿って考えれば極めてスムーズな理解も可能だ。

 深層心理のストレスへの自己認識(イヤチェック)だけでは拭いきれなかった、心の奥の詰まりを、「笑い」が、晴らしてくれた。そして同時に、治癒しきれなかった腰痛も、見事に晴らしてくれた。きっと、「ナマ感情の抑圧への気づき(イヤ!チェック)」と「思いっきり笑うこと」は、並立なんじゃないかな。どちらだけでも治癒するときは治癒する。でもどちらか一方ではダメな時、もう一方を実践してあげる。そんなアプローチが、現時点での到達点だ。
 
 だから、笑えないとダメ!とかではないから大丈夫。笑えなくてもいいんだけど、どうも治らんなーと思ったら、どっかの馬鹿笑いできる環境に身を置いて、心置きなく爆笑してみてください。そしたらその詰まりが、すこーんと抜けるときもきっとあるから。 

 いまだからこそ言っていいと思う。笑いは、マインドボディヒーリングの最強のパートナーなんだと。文字通り、笑う門には、福が来るのだ。

 症状や痛みに困ったら、無意識ストレスを見つめる習慣を身に着け、身体の芯から笑い転げよう。そんな単純なことで、病院フリー、症状フリーの人生が、手に入るかもよ。

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 ※実は心の底から泣くことも、症状改善と関係がある予測もあるし恐らくそうなのだが、実体験をもとにしてないので記事にするのはまたいつか。
posted by 学 at 21:07| Comment(2) | 身体を見つめる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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