注)記事の日付は太陰暦を用いております

2011年07月07日

ザ・日本

水無月七日 雨のち曇り

 夜明けから田植え、暑くなったら草刈り、家に戻って水風呂に浸かる。 午後に畑で豆を播き、夕暮れ前にまた田んぼ、水シャワーで汗を流し、ビールで酔わせてまた翌日。 そんな毎日がこのところ続く。

20110707keidai.jpg



 家から歩いて5分、畑からは歩いて2分のご近所に鎮座します一ノ矢八坂神社。毎年旧暦六月七日に、由緒正しきニンニク祭が開催される。神輿が出たり、太鼓が鳴ったり、境内にニンニクお守りが並べられたり、とそれ以外にとりたてて見るものがあるわけではないのだが、地元の祭としてはなかなかそれでいてごった煮で、汗臭くて、猥雑で、とりわけ今時珍しく平日だろうがなんだろうが旧暦で開催するあたりが好ましい。着馴れない女子の浴衣、精一杯に背伸びしたカッコつけの少年、ビールと半被姿で完成された神輿衆とそれを見守る茶髪の奥さん連中。洗練されてないクセに値段は張る屋台の軽食、たこ焼きソースとワタ飴のむせるような香り、生活補導の中学校の先生達。ああ、日本の夏祭りは、いわきでも、つくばでも、変わらないのね。ザ・日本。
 いっぱい働いて、毎日ビール飲んで、時々こうやって。 それで日々は回っていく。 頭でなく、生活で。 



20110707shateki.jpg

20110707ganbappe.jpg

20110707mikoshi.jpg



 浴衣姿で一人、ファインダー越しに祭に浸かっていると、なぜかふと、異国に紛れ込んだ異邦人のような気分に襲われた。お前はどう見ても日本人のオヤジだよ、と誰かに言われそうだけど。 ともあれ、神輿のかっこよさってハンパナイっす。
posted by 学 at 23:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月30日

紫陽花日和

皐月廿九日 晴時々雨

 梅雨の明けぬままに気温が30度を越す晴天がこのところ続き、田植え途中の田んぼが、庭の紫陽花が、何より自分が、雨を欲していた。日本各地での局所的な豪雨の報が届くこともあったが、幸か不幸かつくばには、梅雨前線や不穏な雨雲は訪れてくれなかった。日の出から田畑に出て、小学生の登校を眺めて汗を拭き、日が頭上に昇る前に家に引き上げ、昼寝をして、午後遅くに重い腰を上げてまた田畑に戻る。そんなサイクルはもう半月ほど先に延ばしたいと思っていた今日の昼過ぎ、ようやく雨雲から、恵みの雫が降りそそいでくれた。

201106130ajisai.jpg


 田植えして、大豆播いて、草刈りして、紫陽花が咲いて、明日からは水無月の一日(旧暦です。たまたま今年は新暦の7月1日と重なりました)。気まぐれの梅雨が明けぬうちに、早く苗を植えきらなければ。梅雨明けの報が聞こえないうちに作業を進めようと、しばらくはビクビクしながらの日々が続く。

201106127taue.jpg


 あ、雨やんだ。 畑へGO!
posted by 学 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 暦の調べ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月11日

来し方と行く末

皐月十日 雨のち曇り

 恐れていたこと、というよりも起こるべくして起こってしまったことが、ここ数日の報道で明らかになってきた。地震と津波と原発事故が発生した直後からどうしても気になっていた、震災後の廃棄物の行方である。 津波の被害にあった東北地方の太平洋沿岸地域で進められている瓦礫の撤去作業であるが、その想像を超えるほどの津波の後始末は、懸命の作業で除去された後に地域ごと特定の場所に運ばれ、現在一時的に山のように積み上げられている。その集積所の作業員や周囲の住民にこの瓦礫からと思われる健康被害が報告されはじめた。また別の報道では、東京都内や各自治体の下水道処理施設での汚泥の焼却灰から周辺地域の観測値よりも高い数値の放射線量が測定されたのだという。

 現在の自然農生活の前職、小生が勤めていたのは産業廃棄物のリサイクルを主に取り扱う企業であった。今でこそエコやロハスといった言葉のように幾分オシャレ側に寄り気味の環境配慮の姿勢であるが、そもそも現代社会において環境問題に足を突っ込むということはそれほど生易しいことではない。その最も象徴的な分野が、社会の全ての事象の最終的な到着地である「廃棄物」、つまり「ゴミ」である。一般的に生活していてゴミと聞いて思い描くのは、当然家庭から出る「燃やせるゴミ」や「空き缶」などの生活ゴミだろう。しかし現代日本でゴミとして発生するもののほとんどは、企業から発生する「産業廃棄物」である。いわゆる産廃といっても、一般的にイメージしやすい工場などから発生する副産物だけではなく、建築現場からの土砂や木屑、解体現場からの建築廃材、ごみ処理施設からの焼却灰など、ありとあらゆる経済活動の際に発生していることは実態としてあまり認識されていない。そしてその産業廃棄物の多くは、現代のオシャレで快適で便利な生活とはあまりにもかけはなれた、キタナイ、クサイ、アブナイものとして存在している。産廃の現状は語り始めるとキリがないが、つまりは現代生活を送るということは、自分の見えないところで自分の思っているよりも遥かに多くのゴミを産み出しながら生活しているということでもある。

 この度の津波は、映像で見てもわかるようにありとあらゆるものを差別することなく壊し、押し流していった。そこには、家があり、工場があり、畑があり、つまり人間生活があった。家や建物には、建築資材としてアスベストや防腐処理材などが使われていただろう。工場には、危険物としての石油製品、化学薬品、塗料、金属粉、など通常時に厳重保管が必要な資材がたくさんあっただろう。田畑を営む農家や農協の倉庫には、取り扱いに注意を要する農薬や化成肥料が山積みされていただろう。それらがほとんど何の躊躇もなく津波に襲われ、流出し散乱して地域一帯に広がり、もしくはどこかに溜まっていったことは想像に難くない。そしてそれら全ての混合物は、一部は海や川へ流され、しかし多くの残骸は地面に残され、現在急ピッチで進めれられている瓦礫撤去の先の集積場所に、小山のように積み上げられている。その山には目に見えるゴミとしての木屑やプラスチックや金属が散乱しているだけではなく、危険な化学物質などが付着したり混在しているかもしれないことは、あり得る事態として想像できる。小生が関わってきた限りにおいて、化学物質を扱う製造業が保有する原材料や発生する産廃(液体や固体関わらず)の、人間に対しての危険度はとても高い。だからこそ、厳重な取り扱い方法や適切な産廃処理が執り行われるための管理体制がとられ、コントロールされてきた。それが今、非常に残念なことにどうしようもなく拡散してしまった上に、急ぎで進められている瓦礫の撤去という作業を経て、また新しい問題が生じてしまっている。

 
 原発事故後に放出された放射性物質は、量の多少に関わらず福島周辺に広がり、風や雨によって地面に降りた。その為に起こっている飲料水や農水産物への放射能汚染に対する人それぞれの対応の現状は、日々のニュースによって報じられている通りだ。健康を侵さぬようにと願っての、放射性物質の除去は関東東北在住民の関心ごとの一つでもある。マスクをして、雨合羽を着て、野菜や食品からの除去方法の情報を求め、少しでも放射性物質を自分から遠ざけることを考える。その結果、マスクや雨合羽はゴミ箱へ、野菜屑もゴミ箱へ、野菜を茹でた煮汁は下水道へ、また食品として取り込んだものもやがてはトイレに流され下水道へ、自分の目の前から消えていく。しかし、物質はゴミ集積所に持っていけば消え去るものでもなく、排水口から流れてしまったらどこかに消滅してしまうものではない。全てのものは地球上のどこかに存在し、必ず残り続ける。ゴミは、処理場へ集められて焼却処理され、灰となる。今までは、その灰は一部はセメント原料などに使用され、一部はどこかの埋立地に埋め立て処理されている。下水は、下水処理場に運ばれ、濾過と沈殿と化学処理などが施された後に、水は川や海へ流され、水以外の物質は汚泥として乾燥処理され、通常であれば一部は再利用されたり、また埋め立て処理などされている。このように、ゴミも下水も、365日フル稼働で地域の処理施設へ集積され、濃縮され、処分されている。その灰や汚泥には、日常生活のほとんど全ての原子分子が集められていることになる。(厳密には異なる点もあるが。) 拡散されて地上に降りた放射性物質が、人間による洗浄や選別を経た後に、結局また集められるというのは、皮肉以外の何物でもない。さてどうしたらいいんでしょ、と思ってみても、現在のその先の処理対応について、プロではない我々にできることはほとんどない。適切に、もしくは超法規的にでも、解決策にたどり着いてくれることをまずは応援するしかない。

 
 しかし、ついつい注目しがちな現在の不安とは別の次元として、今までの我々の快適な生活スタイルが、背後にいかに大量の化学物質、廃棄物のリスクを背負いながら成り立っているかを、今まさに気付かなければならない。地震が起きなければ問題は無かった、津波が来なければ今までどおりでよかった、それで思考停止して果たして良いのだろうか。自分だっていつもこんなこと考えているわけではない。だったら文明生活捨てるのか、なんて思わない。廃棄物や資源の浪費がないから自然農が答えだ、みんなやれ、なんて思わない。ただ、今の生活の環境、身の回りにある便利なモノすべてがどんなプロセスで作られ、途中でどんな廃棄物を産み、どんな原料が用いられ、使用後にどんな経路をたどって捨てられていくのか、少しずつでも気に留めながら過ごしてみることに、意味がないとは思わない。自分の洋服を必要以上にきれいにするために使用する合成洗剤が、目の前の排水口から流れた後に消えて無くならずにどこに向かうのか。カラフルな入浴剤の化学物質がお風呂を捨てた後にどうなってしまうのか。100円ショップで手にした余りにも安くて便利な抗菌グッズは、途上国の工場で塗料や薬品がどんな管理をされながら生産され、手に入れることができるのか。それが商品であれエネルギーであれ食べ物であれ、その「来し方と行く末を思う」という認識と想像が世の中の常識になることができれば、今よりもちょっとだけ世界が変わり、社会が変わり、人生が変わるきっかけになるのではないかと信じている。 自然農が魅力的なのは、ついつい忘れかけてしまうその大切なエッセンスを作業の合間合間にふと思い出させてくれる小宇宙が、田畑の中に展開されているからに他ならないのだ。

 化学物質汚染の恐れがある災害瓦礫、原発事故の末の放射能を帯びた下水汚泥、そのいずれにも「ゴミ」としていかに処分するかという人間の業が濃縮されてしまっている。それをできるだけ上手に解決することは容易ではない。うまくいけば一部は何かの原料としてリサイクルこともできるかもしれないし、しかし恐らく現実として多くは、結局は人間生活から少し離れた地球のどこかに「捨てる」以外に今のところ方法はないのかもしれない。厄介なものをこうして目の前からただ遠ざけることを基盤とした今の生活が、本当に理知的で文明的な社会なのか、考え直すべき時期に差し掛かっている。震災後に発生したこの廃棄物問題は、津波が、東電が、政府が引き起こしたのではない。このライフスタイル自体が本来内在していた問題であるのに、見えないように目を閉ざしていただけに過ぎない。答えはない。しかし、答えを探すことは許されている。変わることは許されている。

 一人では、一瞬だけでは、変われないからまた自然農の田畑に出て、出会いができた方々と、農作業の時間を過ごす。そんな奇麗ごとだけじゃねえんだけどもさ。
posted by 学 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 本質を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

欠けているもの

皐月九日 曇り

 いつだったか学友の家に遊びに行き、庭の片隅のちょっとした畑の中で、これでもか、と生い茂る小松菜と、ぐいぐい背丈を伸ばすエンドウ豆の苗株を見つけて、友人には気付かれないように心の中ですげえなとつぶやいたことがあった。その辺の雑誌にあった通りに肥料やって種まいて良くわからんうちにこんなに育っちゃってさ、と何気なくその小松菜を摘んで、夕飯の味噌汁にぶち込んで食べさせてくれた。

 あれから数ヶ月ほどして、今の家に移って4年目を迎えてようやく、庭の一部を改良して猫の額ほどの畑をこしらえてみた。雑草と土の様子を考えて、草を刈り出してから鍬を入れ、10cmほどの深さで耕起して、適当に余っていた菜花類の種を播き散らかした。かくして、慣行農ではないものの耕起して種を播いては野菜屑を放り込む、半分自然農半分有機農のような適当マイガーデンに今、ミックスベジタブルが繁茂している。 自然農の畑であれほど苦戦しながら、育った育たないと数年も頭を掻き毟っている横で、隠れて羨ましいと嫉妬した友人の適当ベランダ農園を習った庭の畑に、モリモリと葉っぱが育つのだ。

20110610mygarden.jpg


 原発事故以来、世の中では「安全(と思いたい)派」と「心配(をしておきたい)派」との間で、本来あるべきでない分裂がみられはじめている。そうじゃない例が多数だと信じたいが、互いに互いを白眼視しつつ、それぞれの見識の足りなさを嘆き、悲しみ、挙句の果てには罵倒してしまう。 放射能の健康被害に気を配る方たちには、不安な要素を固める情報が集まり、よりその不安な要因を拡大し強固なものにしていく。健康への影響を控えめにみる方たちは、その根拠を求めて手に入れた情報に安堵し、不安要素の声に耳を貸さなくなっていく。 「こんなに心配しているのに、どうしてあの人たちはあんなにノホホンとして無関心でいるのだろう」と、「これくらいじゃ全然心配ないのに、どうしてあの人たちはあんなにビクビクして煽り立てるのだろう」との間には、埋まらない溝が開いてしまっているかのようにみえてしまう。

 しかし一度立ち止まって考えてみる。そこに架かる橋はないか。もしくは本当に溝があるのか。否、そこには両者を繋ぐ、共通の基盤が存在しているはずだ。全く違う価値観を持ってしまって互いを不快にさせるアピールしかできないないのではない。本当はその奥に共通の想いが隠されているはずなのだ。それはシンプルであり、本質でもある。どちらも、心の芯から放射能の恐ろしさにまいってしまっているということで、一致しているのだ。原発事故以降に福島原発から不幸にも放出されてしまった放射性物質に対する影響の受け止め方にこそ差はあれ、結局のところは、放射能の量がとてつもないものであったなら全員一致で「放射能コワイ」になるはずだからである。いざと言うレベルになったら全員まとめて放射能には適わないという認識の元、「今は安全」と「今でも心配」という振れ幅の中にいるのだ。その大前提の恐怖があるからこそ、その不安が妖気のごとく漂う中でどうにかして日常の安心を手にしようと、一方では「安全派」に身を寄せ、一方では「心配派」に足場を固め、少しでも自分の不安を取り払おうと必死になってしまっている。その結果、自分の反対側の人たちの言動や行為はそれぞれの安心を脅かすものとして無意識に認識され、自分の安定を守りたいが故にネガティブな感情を抱いてしまうのではないだろうか。

 どっちが科学的か、どっちが現実的か、どっちが優しいか、なんてなんの意味もない。

 電磁波だってこわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。農薬だってこわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。ダイオキシンだって、化学調味料だって、温暖化だって、デフレだって、少子化だって、不景気だって、貿易自由化だって、こわい人はこわいし、こわくない人はこわくない。全てが、ある振れ幅の中で意見がぶつかり合っているのだ。科学的に絶対の真実などなく、選択としてどっちが現実的かなんて立場でしかなく、倫理的にどっちが優しいかなんて価値観によるだけなのだ。そんな大前提の社会の中で、しかしながら人は選択をして生きなければならないからこそ、難しさを抱えて右往左往してしまう。

 とはいってもこんな「なんだってどっちだってある」みたいな価値相対主義みたいなこと言ってたって仕方がない。どんなものにも相違はある、その違いによっては時折不愉快にもなる、だけども必要なのは、その相違や不愉快の原因が解決しうるものなんだとしたら、それを突破することを創造しなくてはならない。立場や価値観でただ分裂してるんじゃなくて、もっと根本的なところで生きていくほうがいい。その先や現実を、想像し、そして柔軟に変化もしながら。

 大切なのは人であって、イデオロギーではない。大切なのは魂(たましい)であって、価値観ではない。全てが同じ方向性で価値観を共有している方が、むしろ気持ちが悪い。原発反対と有機農業と憲法9条と遺伝子組み換え反対が、なんとなくセットで同じような人が主張しているのは気持ちが悪いでしょ。それよりも、「これはあいつとは意見が合わないけど、一緒にいると話してて面白いなあ」の方が大事じゃないだろうかね。

 自然農をやってる人にも、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
 有機農やってる人にも、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
 原発推進派にだって、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
 安全派にだって心配派にだって、気持ちいい人もいて、気持ち悪い人もいる。
 
 それなのだから、立場とか運動とかイデオロギーで頭を固めずに、どんなことにも一つ一つを別個に考えて、問題解決型の思考で対処していけばいい。放射能についても、思う存分に不安になればいいし、思う存分に安心してもいい。感情と理性を自分自身の根拠としてフル稼働させて辿り着いた姿勢なら、それに自信を持って、その上で互いに優しくなればいい。答えがわからなくても生きるしか術はないのだから、自分が満足できるように選択してさえいれば、他人がどんな価値観を選択しようが犯されることはない。そこを見失うことなく、小さな対立をうまく乗りこなしてサーフィンしていきたいと思う。



20110610mixvege.jpg

 自然農にとらわれずに適当に育つ、庭の野菜たちのように。ついつい凝り固まる自分の脳と体を、酒と友人たちで解きほぐしていけることを願っている。

 一番大事なのは、想像力なんだ。原発の将来だって、放射能汚染での対立だって、教育だって、農業だって、環境だって、つまりは愛ですよ。想像力ですよ。そこなのよ、つまりは。自分にまだまだ欠けているのは、そこなのよね。 
  
posted by 学 at 23:24| Comment(3) | TrackBack(0) | 友と共に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月07日

守り神様

皐月六日 曇り

20110606nawashiro.jpg


 昨日、茹だるような夏日が訪れたつくば。一転して今日は静かな曇り空が広がる。二十四節気は「芒種」を過ぎ、田畑では雑草がモワンとした熱気を帯びて広がり始め、田植えを間近に控えた稲の苗は俄然、葉に力を感じられるようになった。 今朝起きると、なにやら天井裏で明らかに生き物の活動音が聞こえる。前々から、ネズミか、虫か、鳥か、と折に触れ何かがいるような気配を感じてはいたが、聞こえてはそのうち止み、いつのまにかそのことを忘れて日常の暮らしへ戻っていった。それが、今日は少し様子が違う。 ずずずずずうっっ、と這いつくばるような、引きずるような、小動物とは思えぬ物音。心地良くはないもので、板張りの天井裏を傘の柄などでつつくと、気にしたように、もしくは気にもかけないように動いては留まり、またしばらくすると動き始める。 はてさて、と借家の管理会社と電話相談すると、なるほど鳥と蛇かもしれませんねと、薄々予想していた答えが返ってきた。雨を避ける鳥が巣を天井裏の軒下近くに作り、卵や孵った雛を狙って、蛇が入り込むことが時々あるという。常駐するわけではなく死体が残って異臭が発生することなどなければ問題もなく、程なくいなくなると思いますよ、という担当者の話に合点し、ふと訪れた奇妙な共同生活を楽しむことにした。 田舎では、蛇は家の守り神と言われている話も耳にしたこともあるし、我が家の近くにも毎年抜け殻を見かけてはいた。これだけ明らかな足音(移動音)が聞こえたことはなかったが、地震で屋根が一部落ちたり、風呂のタイルが破損した今年の家の様子を振り返れば、守り神様が我が家に訪れたことは吉兆でもあり幸運の記しと思えば良いのだ。


 自身の吉兆はさておき、そろそろ震災から3ヶ月。春の訪れを待っていたまだまだ肌寒いあの時期から、季節は休まず足を進め、夏の訪れを待つ梅雨の季節を迎えている。6月11日はもうすぐだ。東日本各地でまだまだ遅れる震災からの復興がすすめられている現状であり、原発事故を受けての原子力行政への関心の高まりはもはや日本人の常識になりつつある。浜岡原発の一時停止の動きもあり、財界政界あげて日本の原子力発電はいったいどこに向かうのか、行く先は、もしくは落としどころはどこなのか、関係者すべての保身と献身、バイアス(先入観)とイマジネーション(創造力)、希望と諦観などの双方の価値観が入り交じり、それらがにさら各人の日常生活に覆い被さって今なお方向性が決まらぬままに議論と駆け引きが続けられている。

 震災以後の自分のBlogをざっと読み返してみて、何か変化したことがあっただろうかと思っていたが、実際はほとんど認識や感覚に変化は訪れていない。小生は、ごく一部地域を除いて、幸いにも今回放出されている放射線量における生物に与える悪影響については、ほとんど不安な思いを持っていない。原子力発電に対しては、事故発生後に人間のコントロール下で被害を急激に抑えることが物理性質上できないのならば(発電停止後も数ヶ月〜数十年単位での低温管理が必要になるなど)、そうしたテクノロジーを利用する発電技術は手にするべきではない。もしくは生物に対する放射線による影響について科学的な判断として断言できるような論証が現在確定できていないために人々に対して許容しがたい不安や恐怖を与える恐れのある発電手段は、採用すべきではない。つまり原発脱却を希望する。原発停止による経済界に与える少なくない規模の影響はあるのは当然だろうが、それは今までも常に存在していた他の様々な社会制約(バブル崩壊、省エネ、円高、自由貿易化などなど)と同様に受け止め、対応するかもしくは別の道を探すかして進めばよい。現在の放射能汚染の影響は個人的に全然心配してはないが、原発はもう止めましょう、という立場。あくまでも、恐怖によるものだけではなく、反対運動だけでなく、対立姿勢だけではなく、変えていくこと変わっていくことを最優先において、垣根を越えて目的に近づけていければいいなと願って。

 6月11日には、全国規模で脱原発を呼びかけるデモが行なわれる。つくば市でも、デモイベントが開催されるといい、知人も参加される。デモはデモであって即効性はないかもしれないが、その先に署名での反対であったり、選挙を通しての政治意思表示に繋がったり、一人一人の行動に火種を起こすきっかけになる可能性がある。 願ってやまないのは、「放射能の恐怖」を煽ることに使命感を帯びた、一種のイデオロギー色の強いものにならないで欲しいという思い。現在の放射線の影響を強く懸念して脱原発への行動をとることは間違っていない。しかし小生のような脱原発のスタンスも、多く存在するはず。「怖いから反対」でなくてもいい。「今は怖くなくても今後が心配だから反対」でもいい。「なんだかわからないけど反対」でもいい。「怖い」側に加勢したくないけど、でも原発はないほうがいいなあという声だってある。そうした声をも無駄にしない、そんな動きが日本に根付き、結果として原発行政からの脱却が図られればという個人的な望みが叶うならばと願う。

 もちろん、目にも見えず影響も確定できておらず因果もはっきりされていない為、予防原則的に最大限の心配をすることがそれぞれの判断のもとでされるべきことに異論はない。その一方で、
「こーんな奇形の植物が育ちました!」「やっぱり原発は怖いねー!」
「最近ちょっと体調悪くてさー」「ああそれ放射能だねー!」
そんな会話を耳にする。本人達にはとても真剣な話である一方で、目の前で大きな声でされてしまうと違和感を感じてしまう人もここにいるんだという想像力も持ってもらえたらなあ。そしてそれは逆に、自分のような安心側にいる者たちが、不安側にいる人たちにも同様の違和感を与えているという事実も自認しながら。ともあれ、不安や不満、対立、軽蔑、確信、などが突き動かす情熱や行動力はとても豊かで、パワーに溢れている。そのうねりに、より多くの人の関心を引けるように、緩やかで静かな中間層にも共感しやすい冷静な感覚もこれからの運動には是非あって欲しい。最終的には結果が全てなのだから。 街中でシュプレヒコールをしながらプラカード持って音楽かけて行進して、ってなんか恥ずかしくて行けねえや、という感覚は、個人的にはとても素朴で信頼できる感覚だと思うんだよね。デモなんか行かなくたって、「署名なら賛成する」、そうした人が少しでも増えるんだったらどんな人だって活動だって自分は応援していきたい。


悩んで 息抜き 生き抜く 


 あくまでもポジティブに。感性は素直に、発想は先入観の反対側も視野に。常に客観性を持った主観で。そうやって、大自然の懐のもとで、日本人として文明社会を生きていきたい。

 天井裏の守り神様、そして日本の八百万の神様、日本人に、我に、どうか勇気を。

posted by 学 at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月25日

どうでも

卯月廿三日 晴れ

 雨が二日続き、久しぶりにぐっと晴れた。 先週土曜日の21日、暦では「小満」を迎え、夏の気が、辺りに充満し始めてきた。その週末に山に入り、裸足で踏み分け、闇に座し、火をおこし、動物と人間の関係性に想いをめぐらせた。書物も、思考も、会話も、段々とどうでもよくなっていくような気分が充填されてきている。言葉よりも大事なもの、認識よりも大事なもの、存在。頭をできるだけ小さくして、感覚を。
 外に発することも、中に満たすことも、大事だと思い込んできただけで実はどうでもいいのかもしれないということを、火を熾(おこ)し、裸足で山に踏み分け入りながら、感知されていくのだった。知識は人格を制しない。

 苗代の籾が発芽して田んぼの雑草は生い茂り、畑の草も覆いはじめ、鳥ともモグラとも戦いながら作付けをすすめる。言葉よりも行動。それのみ。


 
20110518ninniku.jpg
にんにく

20110518oomugi.jpg
おおむぎ

20110518komatsuna.jpg
なっぱ

20110518kikuimo.jpg
きくいも

20110518tentou.jpg
天道虫



※コメントへの返信をちょっと休憩中。お許しあれ。
posted by 学 at 22:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月28日

あらら

弥生廿六日 晴れ時々雨

 朝、自宅のパソコンのモニター(ディスプレイ)が故障。急に何も映らなくなってしまった。親友に借りているノートパソコンでなんとか急場をしのいでいる。先日から車を廃車して自転車中心の生活になり、少しずつ慣れてきたかなと思っていたら、今度はパソコン。マイカーの無い生活は、可能性としてありえるかもしれないが、パソコンの無い生活は、今のところ想定していなかった。連絡も、事務関係も、趣味も、仕事も、ほとんど毎日何かしらの形で関わり、内容としてもかなり依存している。名簿もパソコン、記録もパソコン、予定もパソコン、あらあらら。

 マイカーを少し手放して、あらためて必要性と不必要性に気づきつつあるように、パソコンもそういうことは可能なのだろうか。知人の自然農法家には、インターネットも携帯電話も手放している猛者もいる。小生はそこは目指してはいないが、どこかしら淡い憧れを抱くような軽やかさを感じることもある。震災後、あらためて身の周りの用不要を問いかけられてきている。諸事情で通常よりも高く支払っていた電気代の基本料金をあらためて見直したら、月額2500円もカットできることになった。車の代わりに購入を検討している単車も、時を経るごとに買わなくてもいいか?と思うようになってきた。便利さを手に入れて失うことがあることを、今までの日本人は見なおす機会を失い、見ることも忘れていたが、そこを改めて問い直してみる好機を手にしている。思考を止めず、あるレベルの不自由さと不便さを身に着けることで、逆に驚くほどの自由と快適を手に入れることができることもある。慣れと思考停止が、全ての停滞を生む。体内細胞は常に傷つきながらも、しかしそれを永続的に修復と新陳代謝を繰り返しているからこそ生命は維持されている。低量の放射線などで人体は犯されすぎはしない。怯えて目を凝らしているつもりでいたら袋小路に追い詰められるだけかもしれず、無防備に楽観ばかりしていたら自分の足元をすくわれるかもしれず、どちらか一方サイドの判断、価値に身を預けることは一時の楽を手に入れて結局は自身を追い込んでいく。放射線こそが、人類を滅ぼすのではない。電力会社こそが、日本人を滅ぼすのではない。慣れと思考停止こそが、その人自身を滅ぼしていく。いったりきたりでも、間違いに気づいて戻っても、試行錯誤してもなんでもいいから、前向きに生きていきましょう。

 あー、中古のディスプレイ、どこかに落ちてやしねえかなあ。今のところこればかりは、必要リストに入れるしか仕方ないのよね。車も持ってると便利よね。自転車に乗って電気店にモニター背負っていったのは、さすがに嫌になったわ。こんなことパソコン使って書いてないで、はよ畑に出んかい、俺。


 不便さを着こなし、科学を見つめ続ける。それくらいのスタンスでいきたいものだ。


★追記(5/1):思いもよらず、ディスプレイを譲ってくださるというご連絡をたくさんの皆様からいただきました! 1番にお声かけくださった方からお譲りいただき、早速使わせてもらっています。皆様からのご好意に本当に感謝いたします。 なにごとも言っているもんですな。
posted by 学 at 23:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月27日

つくばの放射線について

弥生廿五日 晴れ時々曇り (強風)

 先日一通のメールを、A様(仮名)からいただいた。 雑草屋として、とても大切なご質問をいただけたので、回答と共にBlogに掲載させていただくことにした。


> HPを拝見させていただき、メールさしあげました。
> (中略)
> それと、放射性物質について教えてください。
> つくばは、原発事故から0.4μSv/hから0.1μSv/hの間で放射能物質が飛んできました。
> 今までの積算が140μSvくらいなので、大地にも降り注いでいると
> 思います。野菜に降り注いだヨウソはあまり気になりませんが、大地に降り注いだ
> セシウムが気になります。つくばはそれほど、多くないのでたくさんは降り注いで
> いませんが、そちらでは、大地の除染等はなさっていらっしゃいますか?
> はじめての放射能のこと、あまりよくわからないのですが、よかったら、
> 放射能が大地および野菜に与える影響について(つくばで)教えてください。
> (後略)


以下、回答した内容をQ&Aとして掲載する。

---転用----------------

質問1: 放射能が大地および野菜に与える影響について(つくばで)教えてください。

回答1:つくば市では、おっしゃるように大気中放射線の観測積算値が140μSv程度になっているかもしれませんが、この値は外部被曝としての積算値になりますので、地上に(=土壌に)積算値の放射性物質があるわけではありません。先日知人のカウンターで筑波大学敷地内の芝生地の表面(地上数cm)の放射線量を測りましたら、0.2μSv/h程度でした。これは地上に降下したセシウムなどの放射線によるものと思われます。(ヨウ素は半減期を過ぎてだいぶ低減しているはずです。)よって、現在つくば市の農地で観測できる放射線量は同様に0.2μSv/h程度と考えてよいかと思います。つまり140μSv程度と言われるような放射性物質は存在しておりません。

ここからは私見ですが、現在土壌に沈降して放射線を出しているのは、上にも述べたようにおそらくセシウム137でしょうが、現在の0.2μSv/hから自然放射線としての約0.09μSv/hを差し引いた、約0.1μSv/hが今回の原発事故による放射線と考えられます。この値は野菜などの摂取基準で考えますと、仮に全量が野菜に付着していたとしても僅かに10Bq(ベクレル)/kgを観測される程度の量であり、セシウム137の野菜摂取基準500Bq/kgの50分の1という数値です。また現在は福島原発からの降下性のある放射性物質の大気への放出は確認されておりませんので、このところの風雨によって野菜類に直接付着している放射性物質は地面に洗い落とされているはずです。一方土壌から野菜が吸収する可能性もありますが、植物がセシウム137を吸収する仕組みは、カリウムと間違えて吸収してしまうものであり、植物がカリウムを必要とする量以上には吸収されません。例えばホウレンソウが体内に含むカリウムは約0.7%ですが、仮にホウレンソウの全てのカリウムがセシウム137に置き換わっていたとしても(実際には絶対に起こりえませんが)、葉物野菜などの体内に入るセシウム137は=僅か0.1Bq/kgにも至りません。この値がどの程度の影響があるかと考えてみますと、自然に存在する放射性物質で人間の体内に常に存在する放射性物質カリウム40は、体内で毎秒およそ4000Bqの放射線を放出しています。このことからも、つくばでの現在の土壌から育つ野菜に対する放射線への心配をする必要はほとんどないと考えております。

質問2: そちらでは、大地の除染等はなさっていらっしゃいますか?

回答2:以上の理由から、つくばでの土壌の除染の必要性はまったく考えておりません。自然農でもっとも重要なことは田畑の生物多様性であり、今まで積み重ねてきた微生物の営みを侵してまで放射能をおそれるほどの放射性物質の降下は発生していないと判断しております。

---転用ここまで----------------

以上、文系の小生が不勉強ながらもたどり着いている今の理解です。間違いがありましたらご指摘ください。


参考URL:茨城県内農産物・畜産物への影響について


★上記、一部内容についてコメント欄でご指摘をいただきましたので、下記の「コメントへのご返答」の中で訂正、返答させていただきました。ご参照ください。

20110413endou.jpg


コメントへのご返答
posted by 学 at 23:48| Comment(8) | TrackBack(0) | 筑波を想う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

できること

弥生十七日 雨時々曇り

 東日本大震災による様々な被害が、各地で爪あとを残しています。今なお、そしてこれからも復興にむけてありとあらゆるサポートが必要とされています。

 幣Blog「毎日が自然農」では、スタンスとして基本的には「自然農に関わる生活」を綴ることを目的としております。しかし一方で、震災後に自分ができることを考えた時に、少ないながらも200名近い方が毎日アクセスしてくださっているこのBlogを通して、一人でも多くの方に震災復興に関する情報を自分なりに発信していけないかと感じていました。

 そこで「自然農」に関わるこのBlogの中では震災や原発に関わる内容を記載することはなるべく控え、別のBlogを開設して、少しずつでも情報を集めて公開していくことにしました。皆さんも自分発信の情報や応援したい活動などがありましたら、ご連絡お待ちしております。なんでもかんでもという情報ではなく、個人的に繋がりのある地方や取り組みなど、ある程度の取捨選択をしながら取り組んでいければと思います。
 
 個人的復興支援情報Blog
 『青い空 碧い海 蒼い大地』


Blogの左側に、新着情報が載るようにしました。どこまで続けられるかは分かりませんが、何事もできることからやればいいだけですので、気楽に続けていきたいと思います。
posted by 学 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月18日

垣根をこえ

弥生十六日 (望月) 晴れ 

20110418tampopo.jpg

 「茨城県」の「民主党議員」が、「福島県」の「自民党議員」に優しいパスを送り、安全が確認されたものの正規価格で取引されずにいる茨城産、福島産の野菜を救うためのプロジェクトが動き始めている。五十嵐つくば市議を中心とした方たちによって、震災後の茨城県の野菜農家の原発による被害を受けている現状を乗り越えようと、「イバベジ」の愛称の下に茨城県産野菜の野菜ボックスの販売が今月初めにまずスタートした。曰く、「安全認定を満たした農産物に限った野菜の詰め合せ『野菜ボックス』 を販売することでこの危機をみなさまと一緒に乗り越えるべく活動をしています」のビジネス支援プロジェクト。第二の故郷つくばでスタートしたこの素晴らしい取り組みを、第一の故郷いわきでもどうにかつなげて欲しいと、とるもとりあえず実家の母と近しい斉藤福島県議に電話をしてみた。電話をしてから、五十嵐氏の政党と斉藤氏の政党を思い出し、これはまずかったかと思案したが、五十嵐氏は「イバベジをフクベジ、ミヤベジ、どんどん広がってもらえたらいい」と歯牙にもかけず、一方斉藤氏も、「いわきの農家を助けるプロジェクトに是非とも」とあっという間に連携が進み、明日19日にはフクベジの、第一弾が動き始める運びとなったそうだ。

 不思議なものだが、「自然農」の百姓が、「慣行農」の農家の野菜の流通を心から応援してしまっている。体の健康、自然の摂理などを大きな指針においた自然農に身を寄せるイチつくば民が、低量とはいっても健康への影響の評価はまだまだ不明瞭であり、自然の摂理に大きく反してしまった、放射線被曝の可能性がゼロではない野菜、また普通の化学肥料や農薬も使用されているであろう慣行農法の農家さんたちの生活を、どうしてか支援できることはないかと考えている。もちろん自分の自然農を日々続けることは変わらずに。
 
 自民党も民主党も、原発推進派も反対派も、やりたいならとことんやればいい。ただし、今このどうしようもなく先行きが見えにくい世の中で必要なのは、決して従来から引きずりきって腐りかけている対立型の思考回路ではなく、反対も賛成も飲み込んで推し進めていく解決型の思考回路でしかない。 喫緊の課題から最優先して選択して手をつけながら既存の垣根をぶっこわして四方八方に視野を飛ばして進んでいくことが、政府、非政府組織問わずに求められている。対立軸に寄ってしか発想できない人は、どうぞ眠っていてください。
 
 震災前も震災後も変わらない、個人的な、あるいは周辺的な悩み、不安はいくらでもある。現在進行形で真っ最中でもあるし、見通しだってよくわからん。それでも、前に進むしか、というか生きるしか道はない。「内閣外ですが責任ある立場を用意しますので協力してください」と何かを出し惜しんで政局に注視する民主党国会議員。ここぞとばかりにニヤついて、「そんな都合よく民主党さんに協力できませんよ」とTVで話す自民党国会議員。もうどっちでもええわ。我々は国政を追い抜いて、垣根をこえて、自分達でできる復興支援を、路傍の石からでも始められる。被災地は、今日も生きて生活してるもんね。

『茨城・福島農産物サポートプロジェクト』
どうか皆さん、応援してください!
全国に散ばるいわきの皆さん、一箱からでも注文できますよ!
posted by 学 at 07:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 友と共に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする