注)記事の日付は太陰暦を用いております

2019年01月07日

KHJ(こうみえて・ひきこもり・ジェラシー)

師走二日 晴れ 於いすみ市

 1月14日(月)、成人の日の晴れやかな日に、150人超の人前でパネリストの一人として登壇することになった。


 「自分らしい生き方シンポジウム in 関東」
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 主催団体は、KHJ。「日本で唯一の全国組織の家族会(当事者団体)」で、家族・ひきこもり・ジャパンの頭文字でKHJ。なかなかポップ。
 さて、なぜこんな結構大そうなイベントに、ひきこもり未経験者の私が登壇する羽目になったのか。そもそも経験者でもないのに(しかも私以外の顔触れが、皆さんそうそうたるひきこもりキャリアの方々ばかり)、こんなところで偉そうに語りやがって、という声も聞こえてきそうなので、言い訳代わりに長々と書いてみることにした。(お陰様で当日は満員御礼なので、人集めの肩の荷はないのだ♪)


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(全然関係ないけど、昨日は新月。これは満月。)



 この数年間、茨城県南で、ひきこもり経験者の主催する当事者イベント(ひきこもり大学茨城キャンパス)を微力ながらお手伝いをしてきた(行けないことも多数あり)。その縁で、ひきこもり当事者の方がゆっくり過ごして対話できる居場所「新月カフェ」を開いてみることになり、ほぼ毎月開催し、進行役を務めてきた。

 いわゆる「ひきこもり」という現象が、社会的に何か問題なのか、というのは実は重要ではない。誤解されるのを承知で書くが、いわゆる「ひきこもり」という現象は、例えばLGBT、例えば未婚者、例えば在日外国人の方たち、と同様に、当事者本人が困っているかどうか、という一点に尽きる。本人が困ってない、気にしてない、であれば、それはもう、本当に「問題」ではない。であるから、という理由において、困っている、悩んでいる、のであれば大いに「問題」なのだ。

 あえてややこしく書くのは、理由がある。
 
 それは、数年前の私こそが、「ひきこもりなんて、本人の意思が弱いのが問題だろう」と考えていたからである。その考えが、ひきこもり当事者の生の声を聞いて、180度ひっくり返った。

 「世界中で、一番人生と社会を悩みぬいている人種の一つが、ひきこもりの人たちだ!」

 大学で国際関係という学問に身を寄せ、いわゆる途上国を放浪し、環境問題などに関心を持った流れで、世界の困窮する課題にそれなりに敏感だという自負がある。だからこそ、社会の構造やシステムの狭間で産み出される惨禍で苦しむ世界中の人たちを心苦しく思い、その為に何かできやしないか、この日本で暮らしながら、何か彼らの力になれることはないかと、アリの歩みでありながらも活動してきた。
 
 だからだろう、日本は、裕福で、恵まれた国。何の検討もなしに、そう安易に思い込む自分がいた。戦争や、飢えや、劣悪な環境汚染などによって、命の危険にさらされている人たちに比べて、ひきこもりやニートなんて、ただの甘えじゃないか。多くの周囲に居た人たちと同様に(今でも多くのそうした声を聞く)、大したことじゃない。と切り捨てていた。

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 (勝浦港で見かけた、愛想のない野良猫)

 そんな考えが、一変した。

 日本社会には、基本的な、本当に根本的な、【教育】と【勤労環境】そして【一般常識】という構造(観念?)に、大きな欠陥がある。その事を確信したのは、イベントで聞いたこの言葉だった。

 「自分がひきこもっていたころ、毎日のように考えていたのは、世界の70億人の中で、自分が一番生きている価値がないということでした。」

 いったいぜんたい、私含めて今まで出会った友人知人の中で、自分の価値を『70億分の最下位』と位置づけられる人が一人として居ただろうか。たとえどんなに、悲しい出来事があったとしても。たとえどんなに落ち込むことがあったとしても。世界で最も価値がない人間・・・。私には、そんなことを考える勇気はない。

 でも、目の前で話をされるひきこもり経験者は、平然とそれを告白しているのだ。そしてイベント後の懇親会を機に何名かの経験者と話をすると、皆さん、結構サラリと、「まあそんな感じは普通でしたよね。」と口にする。しかも実は、かなりの深刻さを当時は含んでいたことも付け足しながら。私は思った。「この人ら、悩み方が半端ない。。。で、それ実際あなた悪くないし!んでこのヘビー級の悩みを起こさせてる今の社会(学校とか会社とか行政とか人生観とか)ちょっと変わらんといかんだろ!」。その感覚は、数年たった今でも変わっていない。


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 (冬の野原には、セイタカアワダチソウがよく似合う)

 その後の縁で、「じっくりと数時間、和室に座ってのんびり話す」という企画を話してみたら、皆さんの賛同をいただき、「新月カフェ」が実現する。そこから様々に縁がひろがり、土浦での家族会「スマイルアップ元気会」、「ひきこもり新聞」、「つながる・かんがえる対話交流会(つなかん)」などに顔を出すうちに、今回のKHJさんから声をかけていただくことになった。

 そして今、私は、趣味的な本気のライフワークとして、ひきこもり経験者の友人たちと、月に何度か、楽しく過ごしているのだ。


 ということで結論。
「ひきこもり」という状況は、ひとまずは、本人や周囲が、人生をかけて悩んでいるという点で、問題なんだ、ということ。次に、そのような(辛辣で過酷な)状況を産み出してしまっている日本社会には、まだまだ風穴こじ開ける必要がいっぱいある、ということ。

 だから私は、自分にできる範囲ではあるが、少しでも関わりを持ち続けていきたいなと思っている。

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 (勝浦港の岬にある神社への階段。高いところが好きな我が子ら。)


 余談。

 そういえば誰にも関心を示してもらえないが、ひっそりと、「自然体研究家」を自称している。自然体とは、無理してないのに、バランスが取れている状態のこと。人として、心と体が自然体であること。生命体として、地球と暮らしが自然体であること。それを大切に生きている(つもり)。

 その上で、学校に左右されないようにホームスクールで子育てをし、医者に左右されないように自己治癒で体を整え、経済に左右されないように無職(自由職)で暮らし、食糧事情に左右されないように自然の中で食べ物を育てようとしている。

 今の日本は、「ひきこもり」という状況が生まれている通り、人間も、社会も、不自然体な面がいっぱいある。ひきこもりを経験されている方は、その不自然さを、人生を賭けて訴えているのだ。私が大切にしている自然体を追い求めて生きていたら、縁あって「ひきこもり」の方たちに出会った。私は、社会の不自然さに対し、自分で、夫婦で、楽しみながら自由になろうとしているが、ひきこもりの方たちは、不自然さに捕まって悩まれていた。

 そんな因果で、きっと「新月カフェ」を開催している。新月カフェは、「参加した人が、社会的な不自然さからできる限り自由になって、安心して過ごすことを目指している場」だ。

 自然体は、単に身体と心の状態ではない。常識と思っている社会の仕組みからも自由になる「選択」でもある。金がないと生きていけない。学校に行かないと生きていけない。そう思い込んでいる常識は、不自然体である。私は、それから自由になった喜びを、存分味わいながら、これからも生きていきたいと思う。ひきこもり経験者の人たちとも時々遊びながら。ついでに、人生の悩みの深遠さを教えてもらいながら。


 こんなことを、当日話してきたいと思っている。


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「自分らしい生き方シンポジウムin関東」

 日時:2019年1月14日(月・祝)12:30〜18:00(受付開始12:00)

 場所:IKE・Bizとしま産業振興プラザ 6F 多目的ホール
   (東京都豊島区西池袋2-37-4)

 参加費:一般・家族・支援者2,000円、学生・本人1,000円
 ※参加には事前申し込みが必要です。

詳しくは、こちらのURLから。
https://www.khj-h.com/event/symposium/1953/


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2019年01月04日

デトックス寝正月

神無月廿九日 晴れ 於いすみ市

 あけましておめでとうございます。

 
 我が家は最高に素敵な正月を過ごしておりました♪
 元旦。9時半に起き、10時半から恒例のおでん&お節&朝ビールで新年を迎え、12時に甘味を食べ終わり、部屋でゴロゴロ。17時頃におでんを暖めなおし、夜お節&ビール。こどもを寝かしつけ、大晦日に断念した昆布巻きを仕込みながらの晩酌&読書。
 二日。9時半に起き、10時半からのおでん&お節&朝ビール(笑)。12時に食べ終わり、部屋でゴロゴロ。17時頃から夕餉の準備をして、夜お節&ビール。こどもを寝かしつけ、3年前の自家栽培の小豆を取り出し、手作りあんこを仕込みながらの晩酌&夫婦の語らい&読書。
 三日。10時に起き(笑)、11時からのおでん&お節&お汁粉&朝ビール。12時半に食べ終わり、お年玉(絵本と簡易なおもちゃ)を渡し、酔いのまわった妻を残して散歩&外遊び。17時以降、以下省略。

 
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 ”高知の義実家から届いた「ぬた」に合わせた、地物のタコの刺身も旨し♪”



 それにしても、冬惰眠、最高。
 子どもたちは、20時就寝、長女だけ7時半起床(一人だけの絵本とか手遊び天国)、下の二人は9時半起床。
 我々は、0時就寝、9時半起床。

 寝正月とはよく言ったもので、とにかく、布団は最高。ついつい家事の鬼になりがちな妻も、この三日間だけは、と引きずり込んで(つまり酒に酔わせて)寝て食って過ごした。そのための、大晦日からの、お節&おでんの十全な仕込みの数々。子供たちも、ぐうの音も出ないほどに、手作り&添加物ゼロ(!)のご馳走でKOさせて、普段の親業からの解放を勝ち取った三日間だった。

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 ”普段市販のおやつなし(つまり白砂糖フリー)の子らにとって衝撃の甘味!”

 自分が会社勤めやバリバリの自営業から遠ざかり、「やりたいこと」だけと時々の副業で生きてるのは、きっとこうした喜びを100%人生で味わいたいなのだからだと思う。リッチな家?リッチな服?リッチな食?<<<好きに寝て食べて健康な暮らしじゃん!
子どもも大人も、朝寒い時間から幼稚園にも学校にも会社にも行く必要なく、でも心は生産的で(もちろん多分に怠惰で)其々に過ごし、父が時々必要な分だけの金融資産を稼ぎに出る。ああ、これだ。

 今のアパートでも出来てるけど、もっとそんな暮らしを追求しよう。

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 ”これもゼロ円で拵えた、適当門松”



 里山で、自然農で、職住一体で、自然育児で、心身同一で。関心ある人(だけ、否、縁のある人)が遊びに来てくれるような、ひっそりとした暮らし。多少わがままな程度に、外とつながる。


 年末年始の情報デトックス中に出会った、面白かった本。
 「症例A(多島斗志之 角川書店)」
 「飼い食い(内澤旬子 岩波書店)」
 「心身症の子どもたち(田中英高 合同出版)」

 PCから離れ、ネット情報、ニュース情報に左右されるよりもやっぱりいいね、地に足がついた思考は。そして何より、夫婦も仲良くなってるし、子どもへの目線も、なんか落ち着いた気がする。こうしてBlog的にPCに向かうのも、もったいないくらい。

 旅にPCはそんなに必要ない。であるなら、
 人生にもPCはそんなに必要ない。


 それでは、今年も、よろしくお願いします。


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 ”正月晴れの日差しに、長男の産毛がパーフェクトに輝く”

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2018年12月29日

歳末ひきこもり&雑草屋アピール

神無月廿三日 晴れ 於いすみ市

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 新暦の大晦日、正月を前に、夫婦でデジタルデトックスを試みることにした。インターネット環境から離れ、もとよりテレビもラジオもなく、ついでに自動車も休み、電気とガス以外はオフグリッドに年末年始を過ごすことにする。

 長女は本を読み、次女は折り紙とシール遊び、長男はお絵かき。妻は激しくなりつつある胎動に少々押され気味。自分は日課のヤギの餌やりと、小掃除。掃除のおかげで、キッチンと六畳二間のアパートに空きスペースが増える。本棚には、図書館から借りた本が山積み。パソコンエリアには、このBlogがアップされたらしばらくの間お役御免のモバイルWifiが転がっている。

 2018年は、一風変わった年だった。今日娘と話していたら、昨年の出来事が、3年前くらいに思えるねえ、などと話していた。
 「とかいなか(都会+田舎)」を自称しながら乱開発の嵐が吹く、茨城県つくば市からの移動を考え始めた年明け。募集動画を見て、面白さの一点のみでひとまずの転居を決めた、パーマカルチャーと平和道場での研修生活。千葉県いすみ市で、薪での煮炊き、手洗い洗濯、若者4名との9人(+ヤギ二頭)での共同生活は、毎日がNVC(非暴力コミュニケーション)の実践であり、パーマカルチャー生活への入り口であり、遊びでもあった。

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 研修を終えた夏からは、アパートに移り、自然農からは遠のき、パーマカルチャーもそこそこ遠のき、NVCは時々集いがあり、サークル活動としての稲作は続き、月の三分の一を副業アルバイトに充て、子どもとの時間に翻弄され、次への展望も開かれながらも明確さはなく、年が暮れようとしている。3月に雑草屋の休止宣言をして、文化的サバイバルバケーションを楽しむとした言葉の半分は正しく、半分は、少々足踏みしていた気持ちがないわけではない。

 それでも、夫婦でのつくば時代からの継続でもある、新月カフェ(ひきこもりの方たちとの対話交流会)、マインドボディヒーリング(心身相関にアプローチする治癒法)、ホームスクール、自然育児、自然療法などは、低空飛行で活動を続けてこられた。そして何よりも第四子を授かり、来春に自宅出産をベースに自然分娩でのお産を迎えようとしている。

 この数日前、Facebook上にて、我が家のこれからの拠点を考える上での、「コンセプト」と「優先順位」を考えてみた。

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コンセプトは、

「世の中の価値観にとらわれずに、身体と心と大地が自然体で過ごせる家族の暮らし方を探求し、市井の皆さんにおすそ分けする」

優先順位は、

1.田畑がある
2.山がある
3.人が住める(3月予定の第四子を安心して産める)
4.水源(人が飲める)がある
5.安価である
6.福島の実家に近い
7.今まで活動していたつくば(茨城県南)に近い
8.後で返却するリスクが少ない
9.自治体(住民)が移住に好意的

補足的には
10.自宅出産に理解がある助産師さんがいる

も大事かな。

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上↑が自分たちが望む環境とするならば、提供できる資源も書いてみる。

◎自然農を楽しむ時間(手順、楽しみ方)
◎自然療法を楽しむ視線(本、実践)
◎マインドボディヒーリング(心身治癒法)の講義
◎ベーシックエンカウンター(対等な対話)の時間
◎ホームスクールで過ごす子供との体験
◎自宅出産&母乳育児&家庭保育の楽しさの共有
◎美味しい自然食(味噌づくりや食養)

○古武術的身体操法の初心者的稽古
○ウィパッサナー瞑想会(マインドフルネスでも)
○アメリカインディアン的感覚ワーク
○ひきこもり経験者と遊ぶ会の開催
〇パーマカルチャーを始める際の高揚感
○NVC(非暴力コミュニケーション)を味わう心構え
○持続可能な地球経済を願う意識の共有
○ヤギ2頭による通年草刈り
○シュタイナー思想・教育への少々の思い入れ

 こんなことを、近くで提供できます。どう?結構居たら楽しそうじゃない?


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 あと今年のバケーションで気づいた我々夫婦の大事な個性として、「周囲と仲良くなるのがそんなに上手ではない」、というのがある。外面はまあまあ良いので大丈夫だけど、年がら年中ニコニコで誰に対してもいつでも対応上手なわけでも決してないので、どうぞお見知り置きください。


 さて、来春、どこに行くのやら。

 これから数日間、雑草屋としての小松家は、5日ほどひきこもります。ネット系は閉鎖。携帯電話も家族以外不通。徒歩と、手作業と、対話と、極力アナログなお正月を満喫します。きっと夫婦仲も家族仲も、今まで以上に周波数がそろってくるはず。ワクワク。

 それでは皆様。良いお年を。
 
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2018年10月01日

道場とは

葉月廿二日 台風のち晴れ 

 共生革命家のソーヤー海君が主宰する「パーマカルチャーと平和道場」(以下「道場」での研修生活を6月に終え、もう3か月が過ぎようとしている。この半年、いったい我々家族はどんな時間を過ごしてきたのか。備忘録として振り返ってみたい。

 4月から6月までの3ヵ月。パーマカルチャーと平和道場での研修生生活。さて。

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photo by akane


 いわゆる、企業や団体に勤めて働いて給料をもらうというスタイルではない。自営業として、仕事を作って社会貢献して対価をいただいているわけでもない。授業料を払い、学習し、スキルや知識を身につけているのとも違う。楽しいことを求めて趣味や遊びに時間を費やして過ごしているわけでもない。

 道場の母体でもある「東京アーバンパーマカルチャー(TUP)」のHPから言葉を借りるなら、我々家族を含む研修生9人は、「パーマカルチャー(持続可能な暮らしのデザイン)」、「贈与経済(ギフトエコノミー)」、「共感コミュニケーション(NVC)」、「マインドフルネス」「社会変革」の5つテーマを、学び、実践し、暮らすことを海君に誘われ、それに応じて集まり、道場で共に過ごしてきた。

 今の日本社会の成人男女の人生として、「(ただ)過ごす」ことを目的に生きることってあるだろうか。朝起き、ご飯を支度し、洗濯し、竹を切ったり、畑に種を蒔いたり、メールをしたり、対話したり、コンポストトイレを掃除したり、小屋を建てたり、ドライブしたり、笑ったり、田植えしたり、ご飯を食べたりして、夜寝る。そんな風に「過ごして」きた。
 
 外の社会(商店、インフラなど)とも繋がっているので、貨幣も使用する。それと同時に貨幣を使わずに食糧や物品を手に入れることもナチュラルに希求する。反対に自分たちがお礼の代わりに何かを(物でも作業でも)提供することもある。それらの自由さの中に身を置き、様々に実践しながらの生活。かように、多くが、学びの場であった。

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photo by yoshi



 道場で、一所懸命に何かを身につけようとしてきたのかといえば、それもまた違う気もする。もちろん、上記の5つのテーマを学び、実践しようとしてきた。修行という言葉も使われるように、様々にあえてトライして、楽しもうとしてきた。とはいえそれは、身につけようがつけまいが、どちらでも構わない。今、この瞬間に起きていることに耳を傾け、味わう。結果は、問わない。

 いつからか人間は、何かの為に、誰かの為に、目標を設定して人生を捧げるようになってしまった。お金の為の仕事。自分や家族の為のお金の為の仕事。お金の為の仕事の為の勉強。勉強の為の学校。学校の為のお金の為の仕事。国民の幸せの為の事業の為の仕事。そうして、生きること、ただ過ごすことは遠くに追いやられ、目標の為に行動し、そんな無限のループが、続いていく。

 自然は、動物は、植物は、菌類は、宇宙は、誰かの為に存在しようとしていない。存在そのものに意味があり、ただ、存在している。存在を全うしようとしている。存在そのものがすでに誰かの為であり、また、誰かの存在そのものが自分の為にある。


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 私達は、世界の山積した課題の真っただ中に生きている。その一方で個々人はそれぞれ、平和、豊かさ、親愛さに包まれて生きていきたいと願っている。それなのに、今生きているこの世界の事象のほとんどが、その「願い」に直接的にコミットできていない。
 とはいえ、世界が間違っているのではない。経済活動も、政治も、教育も、間違っているわけではない。だけど、幸せになれるかどうか、という問いには、応えられていない。競争や、比較や、評価が、必ずついて回る今の世の中のシステムは、そもそもその「願い」がシステムに組み込まれていないのだ。

 私達人間は、世の中の仕組みやシステムに組み敷かれて生きる存在ではない。仕組みやシステムは、私達が作り共有している存在にすぎない。私たちは、実はシステムからは自由なのだ。経済も政治も教育も、在り方、が「願い」からずれている。あるいは、「願い」にフォーカスしていない。であるなら、世界は、変えられる。


 パーマカルチャーと平和道場は、「願い」にとことんフォーカスした場所であった。NVC(非暴力コミュニケーション)の中で言われる「ニーズ」は、まさにこの「願い」でもある。そして、関わってきたそれぞれの個性が大事にしたい「願い」が奏でられる場所でもあった。そして、それに挑戦(修行、練習、エンジョイ)できる場所であった。

 ただ、「願い」は宿命的な「業(カルマ)」にもリンクしてくるので、個人的には結構きつい時間もあった。自身のネガティブな要素に目を向ける時間も生まれるし、それを乗り越えたいのか越えたくないのかの自問自答、自己否定、などもちょくちょくあったから。それは今も続くし、これからも。ただそれが、「生きる」ことに根本的に繋がっていることも間違いない。


 
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 道場とは。

 地球上で、我々が、子供たちが、これからも楽しく暮らすことを願って生きようとしたら、種を蒔き、火を起こし、糞を還し、対話し、食事をすることだった。存在を満喫し、過ごす。悩みも、喜びも、存在として、味わう。それが許される、ちょっとリッチな場所。そしてそれが広がっていく場所。

 この日本でも、別に不便で不快な暮らしではなく、楽しみとして過ごすことができる。そんなチャレンジャブルな空間が、パーマカルチャーと平和道場での研修生活だった。



 とはいえ、「過ごす」⇒「暮らし続ける」になると大変な部分もたくさんあったけどね(笑)。家族5人だけ(大人2人)での火起こし&煮炊き生活は無理!とか。蚊対策ができてなくて刺され過ぎ!とか。

 
 研修生活を終えて、7月から9月の3か月ほど、古希を超えた我が両親にガチで心配されるくらい本当にボーーーーーッと過ごしてたけど、やっと言葉にできました。(ただ自分に必要な時間として、ぼんやりしたかっただけ。)
 関わってくれたみんなありがとう。愛してます。ここに来れて、良かったよ。


 さて、そろそろバカンスは終わりかなー。

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2018年05月17日

お金を摘みに出る

卯月三日 曇り

 文化的サバイバルバケーション中である「パーマカルチャーと平和道場」を数日間留守にして、貨幣経済畑(世間で言う労働環境)で収穫(世間で言う給与)を手にした。その収穫物を分けて、電車に乗り、帰宅の移動手段を交換することができた。

 これはいったい何を意味しているのか。


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 マインドフルネスに身体操作を練りつつ電車に揺られながら漠然と考えが進んで行く。そうか、お金を稼ぐっていうのは、魚を釣るとか、乳を搾るとか、薪を割るとかと同様の、何かの目的物を手にする為の一手段に過ぎないんだ。生きる=お金を稼ぐ、ではないんだ。


 道場で実践している、「貨幣経済だけの世界で生きていかない」という試み。今までお金がないと生きていけないと思い込んでいた世界は、ただの貨幣経済のみの視点で見ていた世界に過ぎない。世の中のあらゆる資源(物質的な資源から精神的な資源まで)は、お金を介さないとアクセスできない訳ではない。お金がないと生きていけない、というのは自己暗示、あるいは社会暗示とも言える、思い込みだ。

 お金は、ツールだ。今この瞬間にも、貨幣を外した世界は存在している。命も、安心も、喜びも、愛情も、手伝いも、種蒔きも、炊事洗濯も、そしてなにより大地の恵みも、貨幣経済の枠にとらわれずに常に存在している。

 お金を介さないと交流(交換)できないモノが欲しいなら、お金を使用する必要があるのでときどき収穫に出ればいい。食べたい魚を釣るように。食べたい果物をもぐように。畑で菜花を摘むように。世界には、お金を収穫に出る、という自由が存在する。

 貨幣でしか換算できない経済のなかで暮らす人生から、貨幣に矮小化されない多様な経済の中で暮らす人生へ。それはどこか遠くに存在するものではない。今この瞬間にも存在している。いつか手に入れるかどうか、ではなく、気づけるかどうか。

 肥料や農薬や耕運機がなければ農はできない、という矮小化された農から離れることができるように。近代医療、薬がなければ健康は手に入らないという、制限された医療から自由になれるように。自然農や、自然療法(や心身治癒)などの試みは、机上の空論なのではなく実際に田畑として、治療として続けられているからこそ、力がある。であるなら同様に、貨幣経済に依存しない暮らしも、実践あるのみ。ギフトエコノミー、ギフトエコロジーは、自分がやるか、どうかだ。

 田畑の答えがシンプルで十全な自然の営みの中に存在するように、暮らしも、きっとシンプルで十全だ。試し、戻り、気づき、交わり、続いていく。試さないなんて、もったいない。世界は、ワクワクに満ちている。

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 そう、おもちゃもいらない、赤ん坊のようにね。


参考資料:「独立国家のつくりかた」坂口恭平著
     http://amzn.asia/37xWvjM



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2018年04月24日

ギフトの輪の中に

弥生七日 晴れ

 自分にとって、何年どこに住んだかは、それほど重要ではない。

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 この春につくばを離れることになってから、〇年続けた自然農、とか〇年つくばに暮らしました、と話すことが多かったのだが、今になってもいったい何年だったのか思い出せない。いやもちろんBlogとか辿ればわかるんだけど、調べようという気にもならないし面倒くさいし、それってつまり、興味がないからということである。

 数か月生活&研修させてもらえることになった千葉県いすみ市での滞在がスタートして気づいたのは、種を蒔ける大地、フィールド、土、の有難みだ。どんな小さな面積でも、ジャガイモやニンニクを植え、種まきできる場所を探す自分は、「農」の恵みの中に生きているのだと感じる。雑草の花々が色とりどりに咲き、あちこちが新緑に覆われだすと、自然農の徒として本当にむずむずしてくる。あー種まきたい!と。
 しかし種を蒔くという行為は、生育に手を添えるという行為である。つまり、収穫や種取りの旅路に足を踏み入れるということを意味する。数か月滞在の先が決まっていない自分たちにとって、実は畑作業はジレンマでもある。種は蒔きたいけど、最後まで面倒見られないかも。うーん、やきもき(笑)。

 そのやきもきと同時に、もう一つの想いがわいてくる。ああ、自分に必要なのは、落ち着いて腰を据えることができる田畑に沿った暮らしなのだと。植物は、草は、動けない。植物を、食べ物として、そしてパートナーとして、あるいは癒しとして、寄り添いたいのなら、私に必要なのは、そのサイクルの中に身を落ち着かせること、つまりは定住することなのだ。

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 自然農をするうえでの最も大きな楽しみの一つは、変遷の実感である。一年目、二年目、三年目と過ごし、生えてくる草、育つ作物の移り変わりを眺めていく。少しずつの変化を願い、楽しみ、感じ、喜ぶ。時に落ち込み、離れ、また戻ってくる。そうした暮らしを人生を通して続けられることを、今は望んでいる。自然農の田畑は、続ければ続けるほど、豊かになってくる。取り組む人それぞれの個性・性格も反映されながら(つまり紆余曲折しながら)、結果的には森が豊かになるように経年変化していく。だからこそ、何年もおなじ圃場で続けることがとても大切だと言ってもいい。だから、つくばで10年以上田畑を続けてこれたのは、本当に財産だったのだ。

 大切な大切な、何年も過ごした自然農の田畑という財産を、私は手放した。しかしそこに、実は未練はない。土地を惜しむ心は、執着から生まれる。私が過ごしたおよそ十年は、その瞬間瞬間に楽しんだ。草は、微生物は、大地は、私の所有物では決してない。全ては日本という、地球という、生命の輪の中に存在していて、巡り巡っている。生命の営みはつくばの「つくし農園」にあったのではなく、どこにでもどの瞬間にも存在している。いつでも、どこでも、始めればそこに自然農はある。なぜなら、自然はどこにでもあり、農は種を蒔きさえすれば始まるのだから。

 そうか、であるなら、種を蒔けばいいんだ。手入れや収穫は、誰かがしたいときにすればいいんだ。自然が豊かになる行為に身を置くだけで、それは喜びでもあり、ギフトでもある。次の誰かの為に、もちろん自分の為にでも、土があったら種を蒔いて、鳥にでも、動物にでも、人にでも、微生物にでも、誰かに喜ばれたらそれでいいんだ。



 パーマカルチャーと平和道場での暮らしの中で、研修生(住人)たちは様々なスピリットを学んでいる。その一つがギフトエコロジー。友人の言葉を借りれば、交換関係ではなく見返りを求めない与えあいの関係による生態系。種を蒔く人が、収穫者である必要はない。野草を食べるとき、種を蒔いたのは誰? 木の実を採って食べるとき、種が蒔かれたのはいつ? 私たちは、実はそのサイクルの中に存在する。自分で蒔いて自分で食べる。あるいは誰かが蒔いて誰かが育ててお金を介して自分が食べる。そんな小さな枠組みから少しずつ、離れていこう。

 自然農を始めるなら、ずっと同じ場所で続けられるのが一番いい。確かにその通り。しかしそれは執着を生む。大地はその土地の人のもの、という誤解が生まれる。私はその執着から離れたかった。その執着を離れたうえで、またどこか、落ち着ける場所に導かれたいと願っている。

 その日のためにも、私は種を蒔くことを選ぼうと思う。誰かがずっと続けてきてくれたからこそ今に続く、その循環の輪の中、ギフトの輪の中に。それを確信させてくれるかのように、こちらに移動して間もなく移植したジャガイモは、当たり前のごとく芽を出してくれているのだから。

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 そうだ。今年の旅は、こうした大事なものに気づくためのバケーションなんだ。つくばを離れることはとても大きな決断だったけど、それにふさわしい、沢山の学びにつながっている。種とともに、草とともに、人とともに、今しばらく、この旅を続けてみようと思っている。



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2018年03月08日

動くよ

睦月廿日 晴れ(寒の戻り)

 4月から、千葉県いすみ市へ。移住ではなく、移動。

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 私たち一家は、東京アーバンパーマカルチャー(TUP)が取り組む「パーマカルチャーと平和道場」のトレーニングプログラムへ参加することを決めた。研修でもあり、冒険でもあり、創造でもあり、バケーションでもあり、続きでもある。国際関係を学び、環境問題を憂い、自然農から広がってきたこの十何年間を経ての、人生を賭けた遊びの一環として、また味わっていこうとワクワクしている。

 つくばでの10年以上の「自然農」暮らしを糧に、これまでの取り組みも心に宿し、しばらくの間、パーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、ソーシャルチェンジ(社会変革)などの実践の徒として身をゆだねてみる。3カ月?6カ月?区切りはあってないようなものだとも。そもそも区切り、分析、色分け、線引き、などといった概念はそろそろ緩やかに後退していく。人生は常にフロー(流れ)でもあり、未完成でありながら十全であり、時間も空間も人間も自然もグラデーション的な存在だ。

 何をするのか?何ができるのか?先になにがあるのか?それはわからない。4月からの日々は、パーマカルチャー(永続可能な暮らしのデザイン)をゆるやかな輪の中心に置き、住処を建て、家族と暮らし、種を蒔き、樹を選び、熱を創り、世界を想う。プログラムを準備してくれているTUPの先人の方々、4月からともにプログラムに参加する研修生の方々とともに、試行錯誤錯誤していく旅のようなもの。旅の先は、今は考えない。

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 勤め人だったら。資産に重きを置いていたら。学校教育を受け入れていたら。この選択はできなかった気がする。家族5人(とヤギ2頭)で、住居が用意されていない研修プログラムにワクワクして参加する夫婦であることが嬉しい。TUP主宰のソーヤー海君のメッセージを見て、呼ばれている気がして、応募してみた。3人枠の募集に、5人家族で申し込んだら(笑)、ヤギも含めて、受け入れていただけることになった。

 つくばで毎年毎年種が蒔かれ、育ち、根を張り、花を咲かせ、実をつけて、種を落とす。そうして繰り返してきた営みが、今年はいすみ市に蒔かれることになった。そうか、ただそれだけのことか。関係各者には、本当にご迷惑やご面倒をおかけすることになる。我が家も、大変動の胎動が始まっている。ホームスクーリングしてるくせに(だからこそ?)、長女とは毎日のように一度は対立する。昨日は妻を泣かせてしまった。両親にはあきれられ(というより理解の範疇を超え)、お世話になった方にも不義理ばかり。

 でも、それでいい。金はない(本当に)。でも世界は十全で素晴らしい。これまでの友人も、これからの友人も、みな素晴らしい。憎らしい人も時にいるように映る。それは自分の鏡だ。本当だ。世界は、本当は調和的で永続的だ。その種は何千年も何万年も前から蒔かれ続けている。それを少しでも広げることが、今の自分に課す喜びだ。妻からは、「自然体とか自然農とかやってるくせに、本当に自分勝手でなんにも日常に活かされてない」とよく言われる。そうなんだ、世界と自分は一緒だ。未熟で、まるでずっとこのままダメなように一見思えて、それでいて同時に、すべての可能性に満ちている。

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 「文化的サバイバルバケーション」

 この春からの、期限のない我が家の旅を、そう名付けてみた。この、内実は排他的で利己的で退廃的な夫婦が、平和的冒険的なコミュニティでまなびあそぶ。「育てる」「食べる」「交わる」「建てる」などのダイレクトな「生きる」プログラムと共に。自然農の延長上にピッタリの、特別休暇的挑戦。

 
 雑草屋として、自然体研究所としては、一旦休憩。だってバケーションだから。だって研修生だから。春から、従来の活動内容的には、少し付き合いが悪くなるかもしれませんが、お許しください。数カ月後にどうなるかは全然読めないけど、継続できるもの、再開できるもの、変化するもの、色々あると思う。それも含めて、どうぞお楽しみに。

 さあ、引っ越しじゃーーーーーー!



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東京アーバンパーマカルチャー
 も是非ご覧ください



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2017年11月10日

醸し交わす

神無月廿二日 晴れ

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 午前中の稲刈りのあと、親友が活動する団体に呼ばれ、出張版「話す・聴く・気づきのワークショップ」を行った。ワークショップという名を使うのも段々違和感を感じてきていたので、「醸し交わす場」として、4時間弱の対話の(厳密にはベーシックエンカウンター的な)時間をコーディネートした。動くと汗ばむほどの晩秋の晴天の昼から時間を紡ぎ、つるべ落としの日暮れまで。


 車座に囲み、互いに存在を許しあい、認め合い、否定せず、そして何よりも自分自身の言葉に耳を傾けていく時間。時に沈黙が10分続くこともある。誰かの問いかけに誰も答えないこともある。しかしその時間を経たあとに手にする、参加者同士の心の繋がりは、いつ開催しても不思議な安心感を覚える。

 今日の場でも、とにかく時間を贅沢に使い、導きもせず、時折の投げかけもしつつも、言葉を待った。用意された答えでもなく、想定していた満足感でもなく、今、ここの気持ちと、互い互いの相互反応によるコミュニケーション。本音も、建前も、気持ちよく折交じり、参加者同士の距離がまたひとつ縮まった。そんな気がした。


 世間での、ファシリテーターという肩書や、エンカウンターカフェという名称もピンと来ない。常識的な「会話」や「交流」の枠を外して過ごす場は、人間という活動体が共鳴しあう「醸造」だ。我々は、誰かしらと出会い、交わり、反応し、変化し、存続する。互いに醸しあい、共鳴していく。そこに仮に進行役のような者がいたとしても、ファシリテーションをする、という考えは自分にはなじまない。自分は、その場に、醸造菌の一人として存在しているのに過ぎない。だとしたらそれはやはり、「醸し交わす」という言葉が一番しっくりくるのだ。

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 効率的な時間や、効果的なコミュニケーションという目的意識を取っ払って、仲間との「醸し交わす時間」に興味関心のある方がいましたら、お気軽にお問合せ下さい。職場でも、サークルでも、家族でも、最低4時間からの開催で、どんな場でも赴きたいと思います。

 
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2017年08月18日

病フリーという生き方

水無月廿七日 曇り

 新しい試みをスタートして8ヶ月が過ぎた。

 さあ、また同じ道をたどるのか。いちから自然農を始めたように、何もないところから始めるのか。既定路線を進むことの心地よさと安心。生じ始めている心の根っこへの気づきと不安。人生のバランス、舵をどう切りたいのか。だから人生は面白い。

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 この8月。あれから三年が過ぎた。2014年の夏、人生二度目のぎっくり腰に倒れ、初めて心身治癒のメカニズムに触れたあの日。あの日から、私自身の、「病気」という言葉への概念が、180度回転した。病い、症状、痛み、苦しみは、ほとんど全てが「心」が原因で発生しており、心にアプローチするだけで、身体現象としての病状は消える。その日からの三年間、薬、病院、医者、外的治療、これらに全くと言っていいほど頼ることのない人生へ生まれ変わることになってしまった。

 病院的治療はもちろんのこと、食事も、運動も、呼吸も、姿勢も、気をかける必要はない。従来の医学的常識はほぼ必要としない。症状の原因は身体ではない。心が原因なのだ。健康という概念が、根本からひっくりかえってしまった。関節の痛み、部位の痛み、痒み、不快感、苦しみ、全て、身体に現れる症状は、心が原因で発症している。現代人は暮らしの中で、自分で気づくことができない無意識的な心の中にストレスをためてしまっている。心の奥底に溜まってしまったストレスが行き場を失い身体へ向かう結果、症状が生まれる。ゆえに、心に今どれだけ負担がかかっているか認識するだけで、症状は消える。

 スピリチュアルでも、民間療法でも、奇跡でもなんでもない。誰かに頼る必要もない。先生もいらない。心身相関のメカニズムを正しく理解し、自分の心との対話を(すっごいシンプルに)日常的にしていくだけ。実際自分は、サーノ博士(John E. sarno,M.D)の本を一冊、図書館から借りてきただけでぎっくり腰が治った。もっと理解を進めたくて、サーノ博士の本をもう一冊、関連している別の方の本を二冊買い、数千円の出費をしただけ。以降この三年、夫婦の医療費はほとんどゼロである。

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(これは1年前だね)


 ・ ・ ・ ・ ・

 2002年8月に、生まれて初めて自然農の畑に出会い、実践者に話を聞いたことを思い出す。それまで環境問題の鬼のように地球環境を意識して会社勤めしていた自分が、自然農の畑で草の中に育つカボチャやトマトを見た瞬間、今までの環境問題意識が180度変わった。人間は、自然環境を管理することはできない。自然の営みの中に、人間が居場所を分けてもらっているのに過ぎないのだと。それからの私は、自然農の田畑に腰を降ろして暮らすこと以外を選ぶことはできなかった。「草の中でこそ持続可能的に野菜は育てられる。」という事実に触れた私は、興奮と喜びで、10年以上を走り抜けてきた。

 そして今。
 「身体に現れるほとんど全ての症状は、心へのアプローチで治癒される。」
 私はもう一つの、コペルニクス的転回を迎えている。概念180度ヘアピンコーナーを抜け、もう後戻りはできない。

 昨年の12月に、心身相関のメカニズムを伝える勉強会「マインドボディヒーリング」を初めてから八ヵ月。医療従事者の友人知人が多くいるのでこっそり続けているが、ぶっちゃけて言ってしまえば、救急治療の処置以外、医療行為は必要ない。現代社会の症状は全て心へのアプローチで対処できる。

 毎日、あるいは不定期に何かしらに悩まされているあなた。
 腰痛?頭痛?肩こり?胃痛?皮膚炎?持病?
 その症状から、ホントに自由になれるよ。

 心身治癒を実践し続けて発見したことがある。我々は、病気、痛み、症状そのものに苦しんでいるのではない。もちろん苦しいのだけど、実はそれよりも不幸な状態に陥ってしまうことがある。それは、病気、痛み、症状を恐れて、自由に行動することができなくなってしまうことなのだ。医学的治療(東洋医学、西洋医学問わず)は、身体にアプローチし続ける以上、その根本的治癒に至ることはない。治療しても、必ず再発する。軽減、遅延、縮小、はできるが、消すことはできない。

 このことは、医学関係者からお叱りを受けるかもしれない。現在闘病されている方にも、怒られるかもしれない。自然農でも同じことが起こる。現代農法、有機農法の方たち、農家さん、農業関係者、様々な方から、否定される。でも実際に、畑は、田んぼは、幸せに育つ。上手くいかないこともたくさんあるけど、でも自然農が育む幸福感は、事実でしかない。だから怒られようと否定されようと、関係なしにやるし、薦める。
 心身治癒もそうだ。実際に、身体への諸症状に対して、心へアプローチするだけで状況が変化していく。スムーズにいくいかないはある。人によって、そりゃあある。でもそこに、真実も存在している。

 農学界は、作物を育てることだけは研究、発展させることはできたが、「持続可能な農のありかた」という問題に、ほとんど応えてこれなかった。同様に医学界も、病状に対処することの研究、発展は十分に進めてきたが、「病状がなぜ発生するのか」という問題には、やはり応えられていない。決して否定ではない。現代医学の否定でなく、現代農法の否定でなく。新たな発見であり、すゝめであり、実践であるだけなのだ。

 小難しいことはいい。例えば自然農の田畑で過ごしているとなんか幸せな気持ちになる。それに理由はいらない。例えばヨガを実践すると、身体の調子が良くなる。それだけでいい。心身治癒法を身につけると、症状への恐怖から解放される。「病(やまい)フリーという生き方」。それがどんなに価値があることか。みんな想像してみて。

 メカニズムを理解して、あとは自分で実践するだけ。セミナー費、受講料、テキスト代も、怪しいグッズも、難しいエクササイズも、お高い健康食品も、いっさいいらない。私自身は、あくまでも研究のために本を購入した。心身治癒法とかなんとかは、勝手に命名した。横文字のほうが広がりやすいかもと思って、マインドボディヒーリングとも名付けてみた。サーノ博士の理論を自分なりに解釈して伝えられる機会として、勉強会を始めてみた。
 自然体研究所として、今はドネーションスタイル、500円(からの寄付金方式)の参加費で、こじんまりと続けている。それをビジネスにする気はない。生きていければいいし、自然農できればさらに嬉しい。

 誰でも、今すぐに、苦しんでいる症状からの自由の切符を手にすることができる。この事を、誰かに伝えたくて仕方がない。大げさでもなく、毎日でも話せる。現に、会う人会う人に、こっそり伝えてきた。
 実はそのせいで自然農の畑がおろそかになってる。草ぼうぼうで、農園プレーヤーさんから怒られてる。何なら休んでもいい。一年くらい休んでもいいくらい、自然農は楽しんできた。やばい、もっと怒られる!

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 きっとみんな、自分のこだわりの治し方がある。自分が関わってきた治し方がある。だから、こんなの全然興味ないかもしれない。医者でも治療者でもないクセに適当言っちゃだめよと諭されるかもしれない。あーあ小松学とうとうあっち側に行っちゃったかと、笑われてるのかもしれない(笑)。

 でもさ、もう40代。会う人みんな、何かしら身体に困ってる。それ、すぐに良くなるのよ。目の前に何かしらの症状を抱えた人がいて、その治り方がここにある。みんながそれに気づけば、世の中が少し変わる。霞がすっと晴れていく。きっとそれは、自然農と同じ道。

 だから思い切ってこうやって書いちゃって、今よりももう少しマインドボディヒーリング、心身治癒法に、力を注ごうかなと思う。そんなに喜ばれなかったら、自分ら家族や伝えられた人たちだけで、そうっと医学的呪縛から自由になって暮らすだけでもいいしね。そんでまた畑に帰ればいい。

 いや、そんなことはないよね。すでに、心身相関のメカニズムへの理解は実はすでに広がり始めている。世界のこの産声は止めることはできない。

 さあ乗り出そう。心身治癒の船へ。誰でも乗れて、定員もなくて、身体と心のダイナミズムにワクワクしっぱなしの世界へ。もちろん、自然農の小舟も並走してるけど(笑)。

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 ※心身治癒(マインドボディヒーリング)についての詳細は、
 「心と体の自然体研究所」をご覧ください。

 ★第一回 MBH(心身治癒)アドバンストコース 開催決定! ★

posted by 学 at 23:45| Comment(0) | 身体を見つめる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

上手くいってもいかなくても

閏皐月十二日 晴れのち雨

 台風一過。昨日まで、とにかく乾いて、渇いて、仕方のない田んぼだった。

 雨降れど溜まらず。苗を植えても、あるものは根付く前に枯れ、あるものはモグラに掘り起こされ、雨量の少なさを恨めしく思った。水田にモグラ、という半分冗談みたいな事情も、天水田の雨水だよりのこの田んぼならではの出来事。乾く田んぼを憂い、毎年工夫してきた刈草の敷き方も変えた。大地が乾かぬように、植えた苗が乾燥しないように。

 明けて今日。降った雨を蓄えた田んぼは、満ちていた。今季初の冠水。畦道を越えて水が張っている。蛙が鳴いている。雲が水面に写っている。そして苗は、この冠水で浮かび上がった刈草に埋もれて、水面下に溺れていた(笑)。

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 降ってほしい!と願い、降ったら降ったでまた一苦労。

 雨降らなくとも悩み、雨降っても悩む。思い通りであってほしいと願うのは、人のサガ。しかし思い通りなどになった試しはない。上手くいっても上手くいかなくても、結局は大自然と自分(そして繋がりある全ての人)との狭間にある。

 こんな気分のときに必ずと言っていいほど思い出すフレーズがある。
映画「地球交響曲第三番」に出演している、自然保護活動家シリア・ハンターの言葉が私は大好きだ。

 「人生とは何かを計画しているときに起こってしまう別の出来事」
 "Life is what happens to you while you are making other plans. "

 たいそうなことが起きたわけじゃない。思っていた通りには事が進んでいない。田植えは予定の半分どまり。大豆は例年の十分の一も蒔いてない。里芋も生姜も草刈りしてないし、苗づくりしたナスは移植が終わってない。家は片付かない。ビールはやめられない。妻とデートなんてまるで無理。毎日、七転八倒して終わっていく。なんだか書いてるうちに段々楽しくなってきたな(笑)。

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 それでも、明日もまた田んぼに出て、子供らとのスケジューリングに悩み、笑ってご飯を食べて、ちょっとだけ本も読み、寝るんだね。まあそれでいいんだね。


 脈絡はないけど、ここ数日、急に俳句に目覚めた長女の句を紹介。

 〜 うめ(梅)のみが ぽろっとおちたら いいかおり 〜

 〜 は(葉)のしたに かくれているよ かえるくん 〜

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 そんな長女との、夕方の田んぼからの帰り道に、自分も久しぶりに詠んでみた。

 〜 水たまり 空から降りて 来たんだね 〜

 〜 乾田に 忍びて溺れる モグラかな 〜


 ・・・季語もない。長女の初々しい感性が欲しい(笑)。


posted by 学 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 徒然なる日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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